杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

時の合間に棲まう鬼

2021-02-02 10:27:49 | 本と雑誌

 今年は、明治30年以来124年ぶりに2月2日が節分ですね。国立天文台暦計算室による”暦のずれ”の影響だそうで、来年は再び2月3日に戻り、2025年から4年ごとに再び2月2日になり、2057年と2058年は2年連続で2月2日になる計算とか。どうしてこういうことになるのか、不思議と言えば不思議です。

 そもそも暦とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるもの。そして時間とは14世紀にヨーロッパで機械的な時計によって律せられるようになるまで、昼と夜の交代だけが尺度でした。

 今、読んでいる『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著)によると、昼夜の日周リズムは生命体が共通して持つもので、アリストテレスは時間を“昼夜という変化の連続を計測したもの”と考えた。すなわち、変化が無ければ時間は存在しないと。これに対し、ニュートンは、どんな場合にも経過するホンモノの時間は存在するとし、近代物理学を確立させ、さらにアインシュタインが、アリストテレスとニュートンの時間論を統合させたといわれます。しかしこれも量子力学の登場で不確実性の沼に陥っていく…。理論物理学者が書いたこの本は、理系が苦手の門外漢にはちんぷんかんぷんなのですが冒頭で、

「時間の流れは山では速く、低地では遅い(=低地のほうが地球の重心に近いため)」

「みなさんの姉が地球から約4光年離れた恒星にいるとしよう。お姉さんは今何をしていますか?わかるのは4年前にしたことであって、わたしたちの現在は宇宙全体には広がらない」

「遠くにあるのは、わたしたちの過去(今観ることが出来る事柄の前に起きた出来事)だ。そしてまた、わたしたちの未来(「今、ここ」を見ることができるこの瞬間の後に起きた出来事)もある。この二つの間には幅のある「合間」があって、それは過去でも未来でもない。拡張された現在なのだ」

という事実を突きつけられ、観測技術のない時代に地球が丸く自転していることを知った哲学者や冒険家のように、時間に対しても、常識を疑い、先入観を捨てて思索する世界があることを知りました。

 自分の理解レベルを超えた物理学の本なのに、こういう記述に惹かれて何度も読み返しています。

「自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが、そして速く動いたほうが遅くなる。二つの出来事をつなぐ時間は一つではなく、さまざまであり得る。」

「わたしたちは物語なのだ。両眼の後ろにある直径20センチメートルの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合い(と再度の混じり合い)によって遺された痕跡が描いた線。」

「記憶と呼ばれるこの広がりとわたしたちの連続的な予測の過程が組み合わさったとき、わたしたちは時間を時間と感じ、自分を自分だと感じる。どうか考えてみていただきたい。わたしたちが内省する際に、空間や物がないところにいる自分は簡単に想像できても、時間のないところにいる自分を想像できるものなのかを。」

「時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。」

 

 

 節分の話から逸れてしまいましたが、季節の分け目に邪気が入らないよう鬼払いをする風習は、平安時代の宮中行事「追儺」に由来し、豆(魔滅)をまく風習は室町時代から、といわれます。

 もともと病気を起こす死霊や悪霊を 鬼(キ)といい、日本では“おに”と呼びました。目に見えないので 隠(おん)が“おに”になったとも。現代の法医学でも死後、人体が腐敗する過程を「青鬼現象」、腐敗ガスによる膨張過程を「赤鬼現象」、乾燥状態を「黒鬼現象」、白骨化したのを「白鬼現象」と言うそうです。

 私は高校生の頃愛読した井上靖のこの詩がなぜか無性に好きで、「鬼は外」というかけ声に多少の違和感を持ち続けていました。変換できない難字ばかりなので手書きしてみました。読みづらいと思いますがご容赦ください。

 

 鬼を忌むべき存在に仕立てたのは日本人の脳に刷り込まれた物語でしょうが、一方で、漢字を作った中国では星に鬼の名を与え、井上靖が両者を同族と謳った感性を、とても美しいと思う。

 カルロ・ロヴェッリは巻末で

「この世界そのものと自分たちがそこに見ているものとのほんとうの関係は、じつはほとんどわかっていない。自分たちに見えているのがほんのわずかであることはわかっている。物質の原子の構造も空間が曲がっている様子も見えない。わたしたちは矛盾のない世界を見ているが、それは自分たちと宇宙との相互作用をもとに推定したものであって、わたしたちは途方もなく愚かな脳にも処理できるように、過度に単純化した言葉でまとめられたものなのだ」

と締めくくっています。この本には聖書の言葉や古代詩が数多く引用されており、数式をいじるだけではなく哲学や文学や脳科学の言葉も駆使し、時間の根源に迫ろうとしている物理学者の姿勢もまた、とても美しく感じます。

 暦や時計の数字に気を揉む日常の中、節分とは何か、鬼とは何者か…混沌とした思索の藪にさまうこの時間を、今は大切にしようと思っています。