杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

能楽史年表を読む

2015-08-31 16:06:20 | アート・文化

 前回の駿府城薪能鑑賞記顛末の続きです。先日、東京大学史料編纂所にお勤めだった歴史家・鈴木正人氏の『能楽史年表近世編(上巻)』という本を県立図書館で見つけました。1601年から1687年までの能楽関連の出来事を年表にまとめたもの。この本で、駿府城での催能記録を拾ってみました。

 

 

 

慶長13年(1608) 

8月5日 駿府城で参勤の諸大名をもてなし、徳川頼宣(7歳)、能を舞ってみせる。高砂・田村・楊貴妃・皇帝・船弁慶(舜奮記)(台徳院殿御実記)

8月10日 駿府城本丸で徳川頼宣、秀忠饗応のため稽古能をする。能三番と狂言二番(古之御能組)

8月22日 徳川家康の駿府城二の丸で秀忠饗応の能あり。能六番はすべて7歳の頼宣が舞う(古之御能組)

 

 

慶長14年(1609)

3月29日 徳川家康、駿府城で藤堂高虎を饗し、徳川頼宣の能を見せる。また太閤秀吉のとき、大坂で勤番していた四座の猿楽どもに再度駿府勤番を命じる(当代記)(慶長見聞録案紙)(台徳院殿御実記)

4月28日 徳川家康、駿府城三の丸で能を催す。1日目。水戸城主徳川頼宣、岡山城主池田忠継らも演じる(当代記)(慶長年録)(台徳院殿御実記)(古之御能組)

4月29日 駿府城三の丸で四座の猿楽あり。2日目。金春大夫父子、観世・宝生・金剛が担当する(慶長見聞録案紙)(台徳院殿御実記)(当代記)(古之御能組)

5月1日 駿府城で猿楽あり。3日目。金春大夫親子、金剛亀千代・宝生・大蔵・梅若・日吉らが演じる(当代記)(古之御能組)(公室年譜略)

 

 

慶長15年(1610)

3月19日 駿府城で徳川頼宣、能を舞って見せる(当代記)(台徳院殿御実記)

3月21日 駿府城で徳川家康、上杉景勝、伊達政宗に自身の能を見せる(南紀徳川史)*4月23日の誤か

3月26日 徳川家康、駿府城で能を催し、熊本城主加藤清正を饗する(義演准后日記)

4月19日 駿府城で遠山利景(東美濃出身で家康の旧知)75歳、鈴木伊直(元三河足助の人)66歳、池田重信(秀頼公衆)46歳、水無瀬入道一斎に能を舞わせ、家康の慰みとする。世俗、これを「駿河の下手揃」と言って談訥とする。この輩、老年までその技をたしなむが極めて拙技なりという(慶長年録)(創業記)(当代記)(台徳院殿御実記)

5月23日 駿府城で上杉景勝、伊達政宗を饗する猿楽あり。徳川頼宣も舞う。翁を演じる予定だった観世左近身愛は前夜に逐電し、家康から勘当される。高野山に隠居し、「服部慰安斎暮閑」と署名(当代記)(慶長年録)。「世に伝うる所は駿府近来梅若を寵遇厚かりしば観世左近大夫に猜み恨むゆへなりと風説す(当代記)(台徳院殿御実記)

8月18日 徳川家康、駿府城で島津家久。中山王尚寧を饗し、猿楽を催す。加茂・八島・鞍馬天狗・源氏供養・老松。梅若大夫、徳川頼宣・頼房が舞う(家忠日記)(当代記)(台徳院殿御実記)(旧記雑録追録)(南紀徳川史)

 

 

慶長16年(1611)

9月15日 駿府城三の丸で勝姫君(秀忠三女、松平忠直に嫁す)を饗する能三番あり。二番は紀伊頼宣が舞う。尾張義直は小鼓を打つ。その他は下間少進・金春安照。狂言は大蔵弥右衛門・鷲仁右衛門・長命甚六郎が勤める。姫君、銭一万疋や被物二領を金春に纒頭する。在府の諸大名に見せる(台徳院殿御実記)(能之留帳)(駿府記)(古之御能組)(家忠日記追加)

 

 

慶長17年(1612)

3月25日 駿府城三の丸で徳川秀忠を饗する猿楽あり。紀伊頼宣、八島・唐船・鞍馬天狗を舞う。尾張義直は杜若の小鼓を打つ。松風・安達原は下間少進、その他弓八幡・杜若・鵜飼・呉服を金春が舞う。遠山利景・池田重信・鈴木伊直も一番ずつ所作し、この三人「世で名高き拙技なれば、見る者貴賎どよみ笑わざる者なく君臣歓をきわむ」という。また観世大夫暮閑も参加する(当代記)(駿府記)(慶長年録)(能之留帳)(高野春秋))(台徳院殿御実記)(南紀徳川史)

3月26日 駿府城三の丸で猿楽あり(当代記)

4月8日 徳川家康、駿府城三の丸で秀忠の江戸還御餞別の御宴に猿楽九番を催す。下間少進、金春、梅若が舞う(能之留帳)(当代記)(駿府記)

4月9日 駿府城での江戸還御餞別の御宴に猿楽が催される。紀伊頼宣、下間少進、金春が舞う。果てて秀忠より金春はじめ役者に銀子・時服を給う(台徳院殿御実記)(当代記)

4月16日 駿府城で下間少進、金春八郎の立合い能八番あり(能之留帳)

4月22日 駿府城三の丸で紀伊頼宣が催した猿楽を家康が見物する。式三番の役者が拙技で家康は気色を損じ、還御になる(駿府政事録)(台徳院殿御実記)(当代記)(駿府記)

10月25日 駿府城で紀伊頼宣、下間少進、金春の猿楽あり。果てて、拙技として名高い遠山利景・池田重信・鈴木伊直も舞う。大御所はじめ万座の輩どもどよみ笑い一興を催す(慶長年録)(慶長見聞書)(台徳院殿御実記)

 

 

慶長18年(1613)

3月5日 駿府城三の丸で慰みの猿楽九番あり。紀伊頼宣が田村・安宅・鵺・三輪・鞍馬天狗を、11歳の水戸頼房が江口・柏崎を舞い、尾張義直は江口の小鼓を打つ。三人の母、日野唯心、山名禅高、藤堂高虎その他天台の僧に見物を許す。金春二番と脇能・祝言は観世が勤める。観世は慶長15年の勘当が昨年解け、駿府に同候していた(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(時慶卿記)(駿府政事録)(公室年譜略)(高山公実録)(舜奮記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

3月11日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽あり。水無瀬一斎、池田重信、鈴木伊直、浅井喜之助、その他は観世・金春・梅若が演じる。今日も天台・真言の僧に見せる(駿府記)(台徳院殿御実記)(本光国師日記)(公室年譜略)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

3月28日 駿府城で猿楽あり。紀伊頼宣も四番を舞う。観世・金春・下間少進・梅若が演じる (台徳院殿御実記)(当代記)(天正慶長元和御能組)

3月29日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽九番あり。水戸頼房が山姥・船弁慶を舞い、下間少進・金春・観世が演じる。日野唯心、西洞院時慶、神龍院梵舜、金地院崇伝、南光坊天海らが見物する(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月5日 駿府城三の丸で家康主催の慰み猿楽五番あり。初日。下間少進・金春の立合(当代記)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月6日 駿府城三の丸で家康主催の慰み猿楽五番あり。二日目。金春の子2人、梅若大夫や藤堂高虎の小姓花崎左京が舞う(本光国師日記)(創業記)(台徳院殿御実記)(当代記)(駿府記)(天正慶長元和御能組)(江戸初期能組控)

4月18日 駿府城三の丸で猿楽九番あり。三日目。紀伊頼宣、皇帝・通小町を舞う。下間少進・金春・観世も演じ、伊達政宗を召して見せる(駿府記)(台徳院殿御実記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(伊達治家記録)(斎藤報恩会蔵記録抜書)

 

 

慶長19年(1614)

4月14日 駿府城三の丸で家康主催の猿楽九番あり。初日。冷泉為満、五山長老らに見せる。白楽天・春栄・井筒・鞍馬天狗・通小町・芦刈・柏崎・葵上・養老。徳川頼宣は春栄を舞い、徳川義直は井筒の小鼓を打つ。金春・下間少進・梅若が演じる。金春八郎は煩いのため他の者で二番ずつ勤める(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)

4月15日 駿府城三の丸で能九番あり。二日日。竹生島・頼政・千手・谷行・芭蕉・花月・阿漕・善知鳥・老松。金春・同七郎・下間少進が舞う(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)

4月21日 駿府城三の丸で公卿饗応の猿楽あり。高砂・経政・三輪・鵺・野々宮・皇帝・御裳洗の七番。三輪・鵺・皇帝は紀伊頼宣が舞う。その他は金春・同七郎・下間少進が演じる(駿府記)(台徳院殿御実記)(当代記)(能之留帳)(天正慶長元和御能組)(綿考輯録)

5月1日 駿府城で拝賀ののち囃子五番を観世・金春が舞う。老松・当麻・松風・錦木・江口(駿府記)(台徳院殿御実記)

6月7日 駿府城三の丸で能九番あり。観世三郎重成(のちの十世)、駿府城での能に初出勤し「夕顔」を舞う。その他は金春八郎・同七郎・下間少進・大蔵大夫が演じる(駿府記)(能之留帳)(当代記)

7月10日 徳川家康、駿府城で幸若舞を見る(駿府記)

8月15日 徳川家康、駿府城で天台論議聞き召し、囃子を催す。小督・三井寺・老松・姥捨など。観世大夫、駿府で最後の囃子五番を勤める(駿府記)(台徳院殿御実記)

8月26日 駿府城広間で観世三十郎が能五番(呉服・経政・佛原・大仏供養・猩々)を舞い、父観世大夫(暮閑)は米百俵・鳥目三千疋を拝領する(駿府記)(台徳院殿御実記)

9月3日 駿府城三の丸で観世三十郎が能五番(老松・江口・大会・小塩・西王母)を舞い、家康、これを見る。太鼓方金春左吉と宝生座狂言方鷲仁右衛門が観世座付きを命じられる(駿府記)(当代記)*家康による観世座強化策の一環

10月1日 徳川家康、駿府城で観世大夫の猿楽を見る。家康から水戸頼房へ「その芸を習得すべき旨」の仰せあり(水戸紀年)

 

 

元和2年(1616)

3月29日 駿府城で勅使饗応の猿楽あり。高砂・呉服・是界を観世が演じる(台徳院殿御実記)

4月17日 徳川家康、駿府城で没する。75歳。以後、能役者は江戸詰めとなる。

 

 

 ざっと見ると、駿府城では頻繁に能楽が催されています。前回のブログで恥をさらしたとおり、幻?の駿府城薪能プログラム&関連資料をもとに「駿府城で15回催能」と書いたナゾは解けてはいませんが、家康公の十男頼宣が幼い頃から能楽に親しんでいたり、戦場で苦楽を共にしてきた遠山利景70歳・鈴木伊直66歳・池田重信46歳が「駿河の下手揃」と嘲笑されながら、そのパフォーマンスに家康公が心底癒され、満座の笑いを誘ったというエピソード、大御所の人間味を感じさせ、ホロリとさせられました。観世が、家康の寵愛を受ける梅若に嫉妬して職場放棄し、勘当され、後に許されたなんて、能役者の世界もドロドロしてるんですねえ・・・。

 編者の鈴木氏は出典先をちゃんと示してくださっているので、原本を紐解いて「15回催能」の裏付けを究明していこうと思います。引き続き、駿府城薪能のプログラムか関連資料をお持ちの方がいらっしゃったら、ご連絡お待ちしております!

 

 


駿府城薪能鑑賞&混乱記

2015-08-29 08:40:12 | アート・文化

 サッカーW杯ロシア大会のアジア2次予選が近づいています。ハリルJAPANになって公式戦でスカッとした勝ちがないのでヤキモキしちゃう・・・な~んて書き出すと、いかにもサッカー通みたいだけど、ツウでも何でもなく、最近は選手の名前が全然覚えられなかったり、試合中継を最初から最後まできちんと観る忍耐力すらないレベル(苦笑)。とにかく勝ってくれないと盛り上がらないのは確かですね。

 思えば日韓W杯が開かれたのは13年前。今の代表選手たちは小~中学生ぐらいかな。きっとモノ凄い感動と刺激を受けて「自分も日本代表になるんだ!」と目を輝かせたことでしょう。ちょうど日韓大会開催中、私は(財)静岡県文化財団発行の季刊誌【静岡の文化70号/特集・静岡県の能と狂言】で、駿府城薪能鑑賞レポートを書かせてもらいました。エコパで生観戦した直後だったせいか、能楽師とサッカープレイヤーを無理やりこじつけた文章になってて我ながら笑えた。文化財団の格調高い雑誌によく採用されたなあと、今読むと冷や汗モノです(苦笑)。

 

 この記事のことを思い出したのは、先日、郷土史家の黒澤脩先生からお問合せをいただいたからです。冒頭のリードコピーは「駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ・・・」と開催の由来から書き出したのですが、この「駿府城内で15回の催能」という記述はどの文献を参考にしたのか?というおたずね。駿府史の生き字引のような先生も未確認の情報を、なんで私が!?・・・と混乱し、アホな私でも、何の裏付けもなくそんな具体的なことを書くはずがないし、主催者から提供されたプログラムか資料があるはずだと、あわてて取材用の資料箱をひっくり返してみたものの、残念ながら当時の資料は残っておらず。

 いそいで主催者の静岡市文化振興協会と静岡市文化振興課を訪ねて、当時の資料が残っているか確認してもらったところ、駿府城薪能は静岡市と清水市の合併を機に、三保で毎年開催されていた羽衣薪能を駿府城公園でもやろうと平成9年(1997)から始まり、平成15年(2003)に終了。10年以上経過した行政資料は廃棄されるそうで、駿府城薪能関連の資料はゼロ。当時の担当者は定年退職してしまい、分かる人もゼロ。手がかりはあっけなく途切れてしまいました。

 このままではライターとしてあまりにも面目ないと、静岡市立図書館を2ヵ所回り、お盆開けには松崎晴雄さん主催の日本酒の会へ行くついでに江戸東京博物館で開催中の【徳川と城~天守と御殿】を観て、館内図書館で資料をあさり、ついでに国立国会図書館に回って「駿府城」「家康」「能楽」など想定できるあらゆるキーワードで検索してみたものの、「15回催能した」という具体的な記述にはたどり着けませんでした。

 目下、鋭意、調査中。とりあえず件の記事を再掲しますので、駿府城薪能関連の資料をお持ちの方がいらしたら、ご連絡お待ちしております

 

 

駿府城薪能鑑賞記 ~イマジネーションを循環させるプレイヤーたち (文・イラスト 鈴木真弓)

<掲載/静岡の文化70号(2002年8月15日発行) 発行/財団法人静岡県文化財団>

 

 駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ、平成9年から静岡市の文化イベントとして開催されている。イベント野外薪能は、初心者にとって能の高い敷居を少し下げてくれる。しかし雰囲気だけで満腹になる可能性もある。鑑賞者としてのモチベーションに自信がないまま会場に向かった私だが、にわかサポーターがホンモノのサポーターになれるような希望が、そこにあった。

 

 私が初めて能を観たのは20年ほど前(=1982年頃)で、興福寺の薪能だった。興福寺は薪能発祥の地で、修二会に使われた薪を焚いて行なった薪猿楽がルーツらしい。今も記憶に残るのは、黒衣に白の袈裟頭巾の僧兵が薪に点火する姿と、妖しく輝く篝火の背後に黒く浮き立つ南円堂の姿である。能を鑑賞したというよりも、宗教儀式のような風景を味わっただけだった。

 次に観たのは10年ぐらい前(=1992年頃)で、三保の羽衣の松の薪能だった。こちらも絵になる舞台設定だったが、能そのものの価値は解らず、雰囲気鑑賞で終わった。サッカーのルールや選手の名前は判らないけど代表ユニフォームを着てW杯気分に浸る、にわかサポーターのようなレベルだ。それからまた10年経て、3度目の薪能である。

 今年の駿府城薪能の演目は、能『百万』『小鍛冶』と狂言『文荷(ふみにない)』だった。『百万』は夫と死別し子と生き別れた狂女が、嵯峨野清涼寺の大念仏で一心に舞う。仏の功徳か、念仏堂に集まった群集の中で子と再会を果たす。『小鍛冶』は帝の御剣を作るよう命じられた刀匠が、腕のいい助手がいなくて困っていたところ、神の使いの助けで見事な御剣を打つというお話。ストーリーだけでも把握していれば少しは理解できるかと思い、解説書に目を通してきたが、今回も駿府城巽櫓を借景にした、実に絵になる舞台。雰囲気だけで満腹になる可能性は十分にある…。

 そもそも能ほどイマジネーションを働かせて観る舞台はない。仮面で覆われた役者の表情、むきだしの舞台上に最低限の小道具、どれも同じように見える装束と単調なお囃子。想像を楽しむゆとりがなければ、これほどつまらない舞台はないだろう。貴重なチケットを三たび無駄にすまいと思った私は、上演前に開催された鑑賞者のためのワークショップに参加した。そこで装束や小道具のひとつひとつに意味があり、役柄を説明する記号であるということを学び、出演者自身から興味深い話をいろいろ聞くこともできた。

 

 サッカーの試合だってオフサイドのルールひとつ解れば、その分確実に見方は変わる。プレイヤーの人間的な魅力に触れれば、興味はさらに深まる。ワークショップでとりわけ印象に残ったのは「後見役」の話だ。舞台の後方に着座している紋付き袴姿の人たちのことである。

 能には衣装係や道具係といった裏方はいなくて、装束は演者自身がコーディネートし、他の能楽師が着付けをする。演者の体型に合わせて紐と糸で縫いつけたり、カツラも演者の頭に合わせて毎回結い整えるという。「頭を押さえつけられ、耳もカツラで覆われて自分の声も聞けないんですよ」とシテ(主役)の観世芳宏さんは苦笑する。「後見」を務める能楽師は、舞台上で視野や動作が限られたシテの目や手となる。揚幕の上げ下げ、道具の運び出し、シテの着付け直し、はたまた不測の事態になれば代役を務めるなどマルチな能力を求められるのだ。観世さんは「能楽師は後見が務まるようになって、初めて一人前と認められるのです」と強調する。

 役者と裏方の能力を兼ね備えた、つまりディフェンスも出来るフォワードのようなプレイヤーたちが、流儀という名の制約を遵守しながらひとつの舞台を創り上げる。互いの力量を知り尽くしている者同士、信頼や競争力も働くだろう。仮面や装束の裏に秘められた人間性に少し近づけたことで、私のイマジネーションが循環し始めた。

 

 さて本番である。月夜にライトアップされた駿府城巽櫓。19時をまわって薪に火が入った後に演じられた『小鍛冶』は、神の化身に扮したシテの神々しいいでたちと、剣を打つ鍛冶壇や相槌を打つ動作の華やかさが、薪能の舞台によく映えた。自分が戦国時代の人間だったら、こういう舞台にグッと来て、ストレス解消できるだろうなあと思った。

 日没前に演じられた『百万』は薪の点火前だったこともあって、薪能らしさを味わうものではなかったが、その分、演目に集中し、感情移入できた。生き別れた子を群集の中から必死に探そうとする女・百万(シテ)。深緑の上衣と手に持つ笹の枝は、女の深い悲しみを表現している。背後に広がる駿府公園の内堀の木立が深緑の上衣と同化し、能面だけが浮き上がって見える。やつれた中年女性を表す『深井』という女面。日暮れ時の時間帯にこの演目を設定した出演者は見事だ。途中で烏帽子が風に飛ばされるハプニングが生じたが、後見がすばやく拾い、シテはそのまま舞い続けた。子への恋しさが激しく募る場面ではお囃子のテンポが速くなり、子との再会では深緑の上衣を脱ぎ、悲しみを脱却したことを表した。大勢の群集の中で百万が念仏を舞うという設定なので、我々鑑賞者は自らをその群集に置き換えることもできる。想像力を発揮しやすい演目だと思った。

 主人に使いを頼まれ、その中身が恋文と知って盗み読む太郎冠者の騒動を演じた狂言『文担』、薪能にふさわしい幽玄な『小鍛冶』と演目は進み、3時間はあっという間に終わった。能を観てあっという間だと感じたのは初めてだった。舞台上から得る情報量が過去2回とは比較にならないほど多く、情報を整理し、想像力を肉付けするのに必死だったからだ。もう少しゆとりを持って観られたら・・・と次から次に欲が湧く。エコパでW杯を生観戦した後もそんな気分だった。これは、プレイヤーの人間性を感じる舞台の醍醐味を知ったときの、共通した感覚かもしれない。(了)

 

 


マインドフルと禅語究明

2015-08-24 14:41:03 | 駿河茶禅の会

 処暑を過ぎたというのに相変わらず蒸し暑い日が続きます。それでも早朝、お寺の仕事で門や窓を開けるとき、吹き込んだ風にほんの少し秋を感じます。季節は着実に進み、変化しているんですね。

 

 6月に開いた駿河茶禅の会で、参加者にお気に入りの禅語を持ち寄って発表してもらいました。私が選んだのは「滴水滴凍」。落ちるごとに凍る水滴。寒い冬の朝、懸樋(筧)を伝ってポトリポトリと落ちる滴を見ていると、一滴ごとに凍てついていく。そのように人間も一瞬一瞬を、引き締めつつ生きなければならない・・・そんな意味だそうです。

 季節はずれですみません、とお茶の先生に詫びたところ、茶道では「紅炉上一点雪」のような禅語をあえて夏の茶席に飾り、涼を感じてもらう、そんな趣向もあると教えていただきました。言葉で涼む感性を持っていたとは、日本人が創り出す文化とは、やはり四季の変化に富んだこの国の〈無常=常にあらず〉の風土が成すものだなあと感じ入りました。

 

 「滴水滴凍」を見つけた西村惠信著『禅語に学ぶ 生き方死に方』(禅文化研究所刊)には、この言葉の解説として

『どんなに長い人生も、一歩一歩の連続であって、ひとときも切れ目はない。白隠は「独り按摩」という健康法を説いているが、その「最後の一訣」でずばり、「長生きとは長い息なり」と書いている。九十七の長寿を生きた妙心寺の古川大航管長は人から長生きの秘訣を聞かれて、「ただ息をし続けてきただけだ」と言われた。まことに人生の根本は、この一息から始まるということだ。だから一息一息が決して疎かな一息であってはならないのだ。ベトナムの禅僧でノーベル平和賞候補のティクナット・ハーン師は、人々に「マインドフルネス」という瞑想法をさかんに勧めている。この瞑想法は二千年の昔からタイやベトナム、あるいはスリランカなどの仏僧院で実践されてきたもの。日常動作の一瞬一瞬に心を集中させる瞑想法で、いま認知療法の有効な手段として、盛んに応用されているという。』

とあり、妹がアメリカで研究しているマインドフルネス(こちらを参照)を思い出しました。2年前に知ったときは、ネットで調べてもよくわからなかったのですが、この2年ほどでずいぶん普及したみたいですね。日経サイエンスでもこんな特集を組むくらい。

 

 

 同誌でマイアミ大学のトレーニングディレクターが簡単な実践法を紹介しており、私も坐禅をするとき参考にします。

 

① 背筋を伸ばした安定した姿勢で坐り、両手を太ももの上に御気か、掌をウエにして身体の前で重ねる。

② 視線を落とすか、目を閉じる。

③ 自分の呼吸に注意をはらい、身体全体をめぐる呼吸の動きを追う。

④ 空気が鼻・口を出入りする際、腹部のあたりの感覚を意識する。

⑤ 呼吸の影響を受ける身体の部分を一つ選び、注意をそこに集中する。呼吸そのものではなく集中をコントロールする。

⑥ 注意が逸れるのに気づいたら(そうなるのが普通)、注意を自分の呼吸に戻す。

⑦ 5~10分後、フォーカスアテンション(注意集中)からオープンモニタリングに切り替える。自分の心を「大空」とみなし、思考・感情・感覚を「流れる雲」とみなす。

⑧ 呼吸とともに全身の動きを感じる。自分の感覚を受け止め、いまおきていることに気をつけ、経験の質の変化に注意を払う。音、匂い、そよ風の愛撫・・・思考。

⑨ 約5分後、視線を上げるか目を開く。

 

 フォーカスアテンション&オープンモニタリングとは、茶を点てるとき、坐禅を組むときの心の動作そのものじゃないか・・・とも思います。日本の様々な伝統文化が表層ではなく内面的にも海外の人々に理解され始めている・・・そんなことを、この2冊の読み物から実感します。

 

 

 さて、今週また駿河茶禅の会で禅語の発表を行なう予定で、現在、参加者から集まってきた禅語をレジメに編集しているところ。ここでは前回6月のレジメをご紹介します。言葉で感じる自然と心・・・いつまでも大切にしていきたいですね。

 

 

「松無古今色」
■作者/夢窓疎石  ■出典/禅林句集

■意味/『禅林句集』の五言対句に「松無古今色、竹有上下節」(松に古今の色なく、竹に上下の節あり。)とある。鎌倉・南北朝の臨済宗の禅僧、夢窓疎石の『夢窗國師語録』に「便向他道、竹有上下節、松無古今色。」(すなわち他に向っていう、竹に上下の節あり、松に古今の色なし。)とあるのが元ではないかといわれる。

■選んだ理由/今の自宅を建てたとき、茶室(もどき部屋)に掛けるために、実家から父が選んでくれて持ってきたもの。いつも忙しい日々なので、「松」という言葉で花を飾る代わりとし、普遍的なので、時季も問わないし、自分を見つめリセットするための空間にぴったりの言葉と思って掛けています。


「得意淡然 失意泰然」
■作者/崔後渠  ■出典/六然
■意味/明末の儒者、崔後渠の六然(自處超然、處人藹然、有事斬然、無事澄然、得意澹然、失意泰然)のうちの2つで、得意の時でも驕り高ぶることなく、失意の時でも悠然と構えて取り乱さないことが大切であるという意味の格言。会社の事務所に貼ってあります。

 


「放下著」

■作者/圜悟克勤    ■出典/五家正宗贊

■意味/なかなか人は、無になろうとしてもなれない生き物。しかし人生、精神的な幸せとは何か? いろいろな物、お金、人間関係に執着することではなく、自由な心を持つことではないか。しかしながら、いろいろと捨て去ることは難しい。だからこそ「すべての執着を捨て去れ!!」が大事である。

■選んだ理由/潔さを美徳としている私のひとつのあこがれです。

 

 

 「看脚下(照顧脚下)」

■作者/圜悟克勤    ■出典/五家正宗贊

■意味/ 妙心寺のHPより抜粋します。

中国の禅僧法演(ほうえん)がある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る暗い夜道、一陣の風が吹いてきて手元の灯が吹き消され、真っ暗になった。法演は弟子達に向かって質問をした。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。

まず弟子の仏鑑(ぶっかん)が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えた。次に仏眼が「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。

最後に、圜悟(えんご)が「看脚下」(かんきゃっか)と答えた。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのである。この言葉が師匠の心にかなった。

暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということだ。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しい。未熟である自分に気づく、発見する。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味がある。

 ■選んだ理由/我が家のお寺「臨済寺」の玄関にも掛札があり、高校生の頃、法事の際に何だろうと思い、お坊さんに尋ねた記憶があります。以来、ピンチの時もチャンスの時も自分の置かれているポジションを冷静に認識しようという自戒の念として心掛けています。勿論、我が家の玄関の靴の整頓にも役立っています!?

 

 

「萬法帰一」

■作者(編者)/圜悟禅師(雪竇重顕)  ■出典/碧巌録

■意味/「天地と我と同根、万物と我と一体」という禅語がある。この世の森羅万象は究極において「一」に帰るのだ。「一」とは限りなく豊かな世界、そこはすべての境界線を取り除いた妙境涯だ。あなたが今まで蓄積してきた知識、執着は「一」を見えなくしてしまうかもしれない。しかしひとたびそれらをさっぱりと捨て去れば「一」を実感できることだろう。しかもあなたが「一」を会得しても、あなたは禅の師匠から「一」にとどまってはいけない、と強く戒められる。さあ、あなたはその後どうする?

 

 

「桃李不言 下自成蹊」
■作者/司馬遷  ■出典/史記
■意味/桃も李もものを言うわけでもなく、人に訴えかけず沈黙を守っている。だが花や果実にひかれてたえず人が集まってきて、木の下にはいつの間にか小道が出来てしまう。人間も同じである。徳がそなわっている人はおのずから人が集まり、人が進むべき道というものができるのである。
■選んだ理由/ひとつは言葉(文字)の持つ意味に引かれた。桃李の動(変化・成長)と不言の静。蹊は人工的に造られた道ではなく、自然の流れの造形。競争社会を生き抜くため、各々は自己顕示欲をあらわにするが、無欲無心の感動を覚えるような、行動や振る舞いが自分にはできるだろうか。いつか足元を見て振り返った時に、そんな世界が見えたら素晴らしい。関連の語句/論語「無可無不可」

 

  

「夢」

■出典/金剛経(金剛般若波羅蜜経)

■意味/一切有為法〈いっさいのういのほう〉如夢幻泡影〈むげんほうようのごとし〉

    如露亦如電〈つゆのごとくかみなりのごとし〉 応作如是観〈まさにかくのごときかんをなすべし〉

禅では、私たちが今生きているこの現実の経験こそが‘夢’である・・とのこと。この世は諸行無常で、すべては夢、まぼろしに過ぎない。実態がない空である。とすれば、執着することのなんと虚しいことか。

■選んだ理由/亡き人を偲ぶ際によく見かける‘夢’の一字。調べてみたら・・・禅語では戒めのごとく 奥深さにガツーンときます。信長が好んだという敦盛(あつもり)「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり・・・」、豊臣秀吉の辞世の句「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速(なにわ)のことは夢のまた夢」、沢庵禅師の遺偈「夢」等。ある時代日本を動かしていたのは、 茶の湯と同じく禅や能の素養を身に着けた人々たちだったことに、改めて感じ入りました。

 

 

「本来無一物」 

■作者/慧能禅師  ■出典/六祖壇経

■意味/事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ。禅の端的を見事に言い当てたこの語は、中国禅宗の第六祖となった慧能禅師の言葉。これは慧能が師の第五祖・弘忍(ぐにん)禅師から法を継ぐ契機となった詩偈(しいげ)に由来しており、禅の古典『六祖壇経』にある。慧能(えのう)(638~713)中国禅宗の第六祖、六祖大師ともいう。諡(おくりな)は大鑑禅師。

■選んだ理由/以前から気になる「禅語」の一つだったので、もう少し詳しく知りたいと思い選んだ。

 

 

「両忘」   

■作者/程明道(中国宋代の儒者)  ■出典/定性書

■意味/物事を二つに分けることを忘れてしまえという意味。生と死、貧と富、楽と苦、愛と憎、勝と負、好きと嫌い、大と小、高と低、明と暗、美と醜、善と悪、左と右、内と外など、この世界は二つの相対しているものであふれています。私たち、人間は物事の白黒をつけたがる傾向があります。自分は、世間でいうところのお金持ちなのか貧乏なのか、頭がいいのか悪いのかなど、どちらかに分類しようとするから、不安になるのかもしれません。花畑にはいろいろの花がたくさん咲いています。どれが美しくて、どれが醜いなんてだれが決められるでしょう?

■選んだ理由/今読んでいる本(感情的にならない本 和田秀樹著)に、偶然同じ内容の事が書いてあり、私の心にすんなり入ってきました。私の欠点、私を苦しめている生き方はこれだと思ったのです。このような人は幼稚で人が去ってゆき孤独になると書いてあり、豊かな人生を歩むためには自分を変えていかなくてはいけない、と思いました。また、執着やとらわれ、思い込みなどをすべて忘れることで、心が放たれ新しい道が開けるとありました。心癖なので変えるには時間が掛かりますが、心に静寂が得られるよう日々努力するつもりです。

 

 

「己事究明」

■意味/まず自分自身を知り、生かされていることに気付き、自分を活かすように行動する。ということ。他人の事は気になるが、自分自身のことには意外と疎いのが現代の私たちです。まず、「自分自身を知れ」という教えは自分探しの修行が大切であるということ。

 


70年目の爪牙窟

2015-08-16 23:55:18 | 歴史

 熱風の如く8月のお盆ウィークが過ぎ去りました。今年もお寺のバイトで汗を流し、空いた時間は図書館や映画館で涼んでいます。

 4月に国立公文書館で終戦詔書(原文)を、靖国神社で阿南惟幾陸軍大臣の「一死 以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の血染めの遺書を観て以来、昭和史を真剣に勉強してこなかったことを恥じ、この夏はとりあえず、原田眞人監督の映画『日本のいちばん長い日』をまず観て、原作者半藤一利氏の『日本のいちばん長い日(決定版)』、『聖断~昭和天皇と鈴木貫太郎』、『あの戦争と日本人』をたてつづけに読んで、BSで8月15日に放送された岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年製作)で復習し、70年前の8月を“脳内・追取材”してみました。

 

 岡本版では昭和天皇がまだご存命だったこともあってか後姿と声のみの登場(松本幸四郎さんが演じていたらしい)でした。イギリスのエリザベス女王はご存命にもかかわらず堂々と映画化されてますが、日本ではそうはいかないのでしょうね。原田版では本木雅弘さんが血の通った人間として演じきっていて、時代が変わったというか、昭和天皇がある意味、歴史上の人物になられたのだなあと感慨深くなりました。モッくんの昭和天皇、品があってよかったですね。

 半藤作品の登場人物で最も惹かれたのは鈴木貫太郎首相です。原作を読む限りでは「山崎努ではなく笠智衆だなあ」と漠然とイメージしていたのが、岡本版で本当に笠さんが演じておられたのでビックリ。笠さんらしい魅力的な“棒演技”(失礼!)でしたが、作品が全編通して実録ドキュメントタッチゆえ、登場人物の人間性に触れる描写が少なく、半藤氏が綿密に取材され、私自身も深く感じ入った「日本史上最難局の内閣総理大臣がこの人でよかった!」と思える鈴木像が今ひとつ伝わらなかったのが残念でした。

 岡本版で三船敏郎さん、原田版で役所広司さんが演じた阿南陸軍大臣も、日本史上初めて戦争で負けを認める国軍トップ、という最難局に文字通り命を捧げた人。看板役者が堂々と演じたことで、画面を通してその功績を伝えようとされたのでしょうけど、原作を読んでみて初めて、阿南陸相の置かれた立場の本当の難しさ、鈴木首相との絆の深さが理解できました。

 これだけの原作を2時間ちょっとの映画にするって、脚本に書き起こすときや映像を編集する時点でどうしても取捨選択せざるをえないでしょう。丁寧に描きたくても商業映画ではそうはいかない制作者の苦しさはよく理解できます。2時間だと要点だけをつなげただけって感じになっちゃうんですよね・・・。原作を読み込んだ人ならまだしも、まったくの初見者が1回観ただけでは十分咀嚼しきれません。なにしろ登場人物がみんな軍服か背広姿だし、舞台は基本、宮城(皇居)とその周辺だけだから、区別が付きにくい。イマドキのテレビのように丁寧に文字テロップで解説、なんてこともないから、宮城(きゅうじょう)が皇居のことだということも最初は分かりませんでした(苦笑)。

 素晴らしい原作なので、できたら日本のいちばん長い日=昭和20年8月14日昼の「聖断」から15日昼の玉音放送オンエアまでの24時間を、ジャック・バウワーの「24」みたいに時間通り(原作も1時間ごとに章立てされているので)1話1時間×24回の連続ドラマか、NHKの『坂の上の雲』みたいなスペシャルドラマで丁寧に描いてもらいたいなあ、と思います。

 

 ちなみに半藤氏は「日露戦争後の日本はそれまでの日本とは違う国家になった」と述べておられ、勝っても負けても、国の将来をしっかりと見据えた戦後処理がいかに大事かを考えさせてくれます。日露戦争は膨大な軍事費を捻出するために国民が辛酸を舐め、戦死8万4千人、戦傷14万人を出す〈惨勝〉だった。しかしながら幕末のペリー来航による開国以来、臥薪嘗胆の末に近代国家を築いた日本人にしてみれば、「勝った」という一点にすべてが上書きされ、まっとうな判断力が断絶してしまった。日露戦争後の日本には①出世主義・学歴偏重主義、②金権主義、③享楽主義、④社会主義が出現し、国のために命がけで働いた幕末の志士や近代国家を育てるために我慢強く努力してきた日本人とは別の人種になってしまったという。「太平洋戦争敗戦の遠因は日露戦争にあり」と半藤氏。その意味で、『坂の上の雲』から『日本のいちばん長い日』までを一つの流れとして観てみたい気もします。

 

 鈴木貫太郎は1867年、大政奉還の年に旧幕臣の家に生まれ、海軍に入っても薩長軍閥の壁を実力で突き破り、日清・日露戦争で軍功を挙げ、海軍大将にまで昇りつめ、昭和天皇の侍従長となり、二・二六事件で襲撃されて九死に一生を得、一貫して「軍人は政治に関わってはならない」という信念で政治とは距離を置きながらも、昭和天皇から強く依願されて昭和20年4月、最年長の77歳で内閣総理大臣に就任しました。玉音放送の後、内閣総辞職をし、「国賊」として命を追われ、故郷の千葉・関宿に落ちついてからは畑仕事をしながら農業青年たちを集めて勉強会を催し、農事改良と酪農による地域活性化を説き、80年の生涯を終えたそうです。鈴木首相の秘書を務めた長男の一(はじめ)氏あたりを〈語り部役〉にすれば、日本の近現代史を走り抜けた人間ドラマになるんじゃないかなあ・・・。

 

 私が惹かれたのは、鈴木貫太郎がことあるごとに、徳川家康が武田軍に敗れた三方原の戦いや小牧・長久手の戦い(秀吉軍に勝ったのに臣下に下った)を教訓にしていたこと。また、こういう奉公十則を海軍兵学校卒業生たちに指導していたそうです。

 一、窮達を以て節を更うべからず

 一、常に徳を修め智を磨き日常のことを学問と心得よ

 一、公正無私を旨とし名利の心を脱却すべし

 一、共諧を旨とし常に愛敬の念を有すべし

 一、言動一致を旨とし議論より実践を先とすべし

 一、常に身体を健全に保つ事に注意すべし

 一、法例を明知し誠実に之を守るべし、自己の職分は厳に守り他人の職分は之を尊重すべし

 一、自己の力を知れ、驕慢なるべからず

 一、易き事は人に譲り難き事はみずから之に当たるべし

 一、常に心を静謐に保ち、危急に臨みては尚沈着なる態度を維持するに注意すべし

 

 半藤氏の『聖断』には、鈴木貫太郎がこの奉公十則をのちに首相として戦争終結の懸命な努力のうちに実践したと紹介されていました。彼は軍人ながら大変な読書家で、『老子』を愛読していたようです。この十則を眺めていると、今、茶道や禅で勉強している〈吾唯知足〉〈得意淡念・失意泰然〉といった言葉を思い起こします。白隠さんの〈動中工夫勝静中〉は知っていたのかなあ・・・。

 

 私がバイトをしているお寺の本堂には、白隠禅師が書かれた『爪牙窟』という扁額が掛けられています。爪牙(そうが)とは文字通り、相手を攻撃する武器という意味と、主君を守り手足となって働くというダブルミーイングを含んでおり、寺の扁額に書いたとなれば、釈迦の教えを守る場所、あるいは仏道のために身を粉にする者たちの修行の場、ということになりましょう。この扁額、昭和20年の空襲で寺が全焼したとき、他の落下物に覆われ、唯一、焼失を免れました。「牙」の字の上部が白く逆三角形になっていますが、ここだけ焦げずに残ったんですね。なんとも不思議なデザインになったものです。

 

 

 ・・・昭和20年8月14日午後、戦争続行!と血気走る陸軍青年将校を前に阿南陸相が「聖断は下った。不服のものは自分の屍を越えてゆけ」と言い放ってからちょうど70年後の同日同時間、戦火をくぐり抜けたこの扁額の前にいた私は、しばし見上げてため息をつくしかありませんでした。鈴木貫太郎も阿南惟幾も、昭和天皇の意志を守る爪牙となった。この白隠さんの扁額が奇跡的に生き残ったのも、何かを守るためでしょう。何を、なぜ、どうやって守るべきなのか、平和ボケしてる私にはとてつもない難題です。

 今の政治家は爪牙という言葉をどう解釈するのでしょう。いや、今の政治をあれこれ評価する以前に、奉公十則を実践したという70年前の爪牙たちに恥じない生き方を自分はしているのだろうか。15日正午の黙祷は、そんなことをつらつら考える時間になりました。

 『日本のいちばん長い日』は何度かリピートして観る価値のある映画だと思います。できたら原作本を読んで脳内補填されることをお勧めします。


白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額

2015-08-02 17:27:13 | 白隠禅師

 国際白隠フォーラムの余韻に浸る間、7月26~27日と京都へ坐禅に行き、30日には静岡県朝鮮通信使研究会に参加するなど、この夏は改めて歴史や禅の勉強で汗しています。何度も思うことですが、こういった向学精神をどうして10代20代の頃に持てなかったかなあと反省しきり。疲れ眼で長時間本が読めず、記憶力も衰えはじめ、最近ではパソコンで長文入力すると右腕がツルようになってきた(苦笑)。体力があって脳が柔らかい若い時期に、生涯取り組める勉強を始められたって人が途方もなく羨ましく思えます。

 

 それはさておき、30日の静岡県朝鮮通信使研究会は、北村欽哉先生が、静岡市内の寺に遺された朝鮮通信使の揮毫書が扁額(看板)になった年月の意味を読み解き、白隠さんの“暗躍ぶり”を示唆する絶妙のテーマでした。

 4年前の研究会で、北村先生は小島藩惣百姓一揆と白隠禅師と朝鮮通信使の関係性について試論をお話になりました。詳細はこちらこちらにまとめてありますが、かいつまんで紹介すると、小島藩というのは駿河国3郡(有渡・庵原・安倍)―今の清水区興津から駿河区下島あたりまでを治めていた小藩で、財政難に苦しんでいて、白隠さんが殿様に「民百姓を労われ、贅沢を戒めろ」とキツイ忠言(夜船閑話に書かれた手紙)をした。藩政改革に取り組むもうまくいかず、ますます年貢増徴となって、堪忍袋の緒が切れたお百姓さんたちは、殿様の親戚筋にあたる亀山藩主松平紀伊守のもとへ駆け込み訴訟を起こし、年貢を元に戻した。このときの訴状を書くのに白隠さんが「“朝鮮通信使の通行に協力しないぞ”と脅してみろ」とアドバイスしたというのが北村説。今ならさしずめ、新国立競技場の建設現場で「無駄遣いをやめないとボイコットするぞと脅してみろ」と言うようなものでしょうか(笑)? 

 ちなみに白隠学の芳澤先生がよくおっしゃるには「百姓」とは、古い大和言葉では“はくせい”と読み、天皇が慈しむべき天下の宝である万民という意味。民が身に着けた100通りの生業、という意味もあり、本来、差別用語ではないとのことです。

 

 北村先生が小島藩惣百姓一揆と白隠さんの関わりを、時間軸でまとめてくださいました。

 

1755年 白隠、龍津寺(りょうしんじ=興津の小島陣屋南)維摩会に呼ばれる。小島藩主松平昌信が聴法し感銘を受ける。このとき、蔵珠寺、養田寺も訪問。藩主に夜船閑話を呈上。

 

1759年 小島藩で新役人が登用されたが、白隠が「追従の佞臣」と批判した無能役人ばかりで、重税政策に拍車が掛かる。

 

1760年 徳川家治が10代将軍になる。

 

1762年4月 一揆の訴状が駿河西島村の光増寺で作成される。同時期、白隠が光増寺にいた。*沼津・大聖寺所蔵の白隠筆『竜杖』の賛「宝暦壬午夏佛誕生日駿府城南西嶋 光増寺従義杲上座」による。

 

1764年9月 第11回朝鮮通信使が駿河を通過。

 

1765年 小島藩で役員が罷免。徴税方法も元に戻され、百姓側が勝利。

 

1767年 白隠83歳、光増寺に招かれ法会を行なう。「中寶山折床會拙語」を記す。翌年、亡くなる。 

 

 

 白隠さんが生きておられた間、朝鮮通信使は1711年、1719年、1748年、1764年と、計4回も東海道原宿を通っています。国際白隠フォーラムでもふれたように、大衆芸能に精通しておられた白隠さんのこと、朝鮮通信使にも興味シンシンで、朝鮮の馬上才(馬乗り曲芸)を数点描いています(私が白隠さんに関心を持ったのは、この馬上才の画を酒のラベルにした白隠正宗がきっかけ。昔は大吟醸、今は純米代吟醸に使っています。)。

 

 

 その白隠さんが、1764年明和宝暦の第11回朝鮮通信使が通過し、その翌年に小島藩で無能役人が追放されて年貢取立てが元通りになった後、光増寺の涅槃会に招かれた。御齢83歳。沼津から静岡まで歩かれたのか駕籠に乗られたのかはわかりませんが、とにかく肉体的負担は大きかったはず(かなりのメタボ体型だったよう)。それだけに、ただの涅槃会ではなかったのでは、と北村先生は推察します。

 光増寺に残る「中寶山折床會拙語」には次のようなことが書かれています。中寶山とは光増寺の山号です。

 

  明和第四丁亥春 應請駿陽西嶋邑 光増梵刹之純信 依遠近緇素懇望

  講妙大師語録 開筵仲春涅槃日 聴聞男女如蟻聚 就中三月第五日

  彌満方丈立庭上 堂上内外俄騒動 何計蹈折上段床 昔伝明住東寺時

  多衆鬧熱床脚折 貴賎喜言折床會 誰計今五百年後 聴徒多見此盛事

  昔有金口所説法 施撤充三界樂具 似施與世間一切 一句法施徳遥勝

  豈謂寶山譫語中 有斯希代大盛事 汝等誓不顧軀命 須見性如見掌上

  見性莫得小為足 偏捜索内典外典 集大法財達故実 広行法施利群生

  法四抑言故為事 言救三途地獄苦 若無三途地獄苦 仏像祖像将何用

  西国四国誰進歩 現世如何暮夢内 勤勉須助未来世 若人欲免未来苦

  只無越聞隻手聲 直是向上玄関鎖 

  明和第四丁亥上巳日 十七世遠孫沙羅樹下八十三歳 老衲白隠叟書

 

 明和4年の春、駿河西島村の光増寺と近在の僧侶や在家の人々から強く望まれ、白隠さんは妙超大師の語録を講義されました。開催中の2月25日は男女が蟻が群がるように集まり、3月5日には本堂が満員となり、入れない人は庭で立ち聞きしていた。そのとき、本堂の中と外が俄かに騒がしくなる。なんと、本堂の床が抜けてしまったのです。当代随一の高僧で、庶民の味方で人気者の白隠さんといえども、法会中に寺の本堂の床が抜けるなんて滅多にないことでしょう。白隠さんは「昔、中国の伝明大師が東寺に居られた頃、多くの民衆が押しかけて床を支える柱が折れてしまったことがある。しかし皆はそのことを喜び「折床会」と呼んだそうだ」と書いておられます。

 白隠さんが「500年来の折床会」と喜んだ、この明和4年の光増寺涅槃会は、弟子の東嶺がまとめた「白隠禅師年賦」にはなぜか書かれていないそうです。「百姓一揆に関する事だから避けたのでは?」と北村先生。この涅槃会はただの涅槃会ではなく、一揆に勝利した民衆が白隠さんへのお礼の意味で招聘し、白隠さんもそれに応えようと老体に鞭打って来られたのではないかと。さしずめ、民意を貫き通した市民革命の祝勝会?

 

 ところで光増寺の山号「中寶山」の扁額は、1711年にやってきた第8回朝鮮通信使の写字官・李爾芳(花菴)に書いてもらった文字。扁額といったら横長長方形のすっきりした板に書くことが多いのに、光増寺の山号はゴツゴツとした板木に彫られています。白隠さんが1768年亡くなる直前に訪ねたとされる由比の常円寺には、1748年第10回朝鮮通信使写字官・玄文亀(東厳)に書いてもらった山号「法城山」が。こちらもゴツゴツの板木です。

 実は朝鮮通信使扁額の宝庫・清水の清見寺にも、1枚だけ、ゴツゴツした板木に彫られた戌辰(1748年)使行三使詩板というのがあります。1764年の第11回朝鮮通信使使行録(随行員日記)に「戌辰年の三使が、丙午年(1636年)の三使の詩の韻をふまえて作ったもの」と報告されています。ちょっとややこしいですが、とにかくこのゴツゴツ詩板が作られたのは白隠さん存命時のこと。北村先生は、光増寺、常円寺と合わせた3つのゴツゴツ扁額は、いかにも白隠さんらしい個性的なデザインで、朝鮮通信使に強い関心を持っていた白隠さんが各寺に扁額を作るよう助言したのではないかと推察されます。先生は実証をつかむべく調査継続中。・・・白隠研究にも朝鮮通信使研究にも光をもたらす一石二鳥の成果に期待が膨らみます。

 写真は北村先生のレジメより。モノクロコピーで見辛いかもしれませんが、上から常円寺の山号「法城山」、光増寺の山号「中寶山」、清見寺の戌辰使行三使詩板です。

 

 

 私は7月27日、京都の花園大学国際禅学研究所を訪問し、その足で相国寺承天閣美術館を回り、相国寺塔頭である慈照院(銀閣)の朝鮮通信使関連資料が京都市文化財指定を受けたことを知りました。朝鮮通信使には京都五山の高僧が外交接待役として江戸まで随行しており、今回指定を受けたのは第8回(1711)通信使に随行した相国寺第103世・慈照院第9世の別宗祖縁(べっしゅうそえん)禅師関連のもの。道中、信使たちと詩文や書画を交換し合う等、当代一の教養人同士の文化交流が行なわれたんですね。清水の清見寺に残る扁額の数々も、その一端。こういうものに文化財としての光をあて、現在は平成29年ユネスコ世界記憶遺産の登録を目指しています。

 一方、白隠さんは東海道とその周辺で生活に苦しむ庶民を救おうと、村々を歩き、藩主に忠言し、朝鮮通信使の通行を社会改革に生かそうとされた。こんな宗教家が他にいただろうかと、改めて眼からウロコの連続です。白隠さんの年表からも外された「中寶山折床會拙語」などは、ユネスコの世界遺産とは縁がないかもしれないけれど、駿河3郡の市井の人々にとって確かな記憶遺産になった・・・駿河3郡の市井の子孫である自分はそう信じたい、と思います。

 

 相国寺を後にした私は、平成28年に臨済禅師没後1150年、平成29年白隠禅師没後250年の節目を前に「百萬人写経運動」を展開中の妙心寺に向かい、白隠禅師坐禅和讃を写経しました。そして夜は、朝鮮通信使が縁で8年前から通う興聖寺の坐禅会。京都でも静岡でも、偉大すぎる白隠さんの影を一人で追いかけるのは辛い修行のように思えますが、本をかじったり講演を聴くだけでは申し訳ない、じっとしていられない・・・この夏は時間があればお寺のアルバイトで汗を流し、「don't think, look」「動中工夫勝静中」に努める毎日。そんな気持ちになるのも、やはり、白隠さんご自身がつねに行動し、実践を積み重ねてきた方だからでしょうか。

 大本山妙心寺の百萬人写経は、事前予約不要で、誰でも参加OK。「般若心経」「延命十句観音経」「白隠禅師坐禅和讃」「四弘誓願」の中から選べます。一経につき1000円。京都に行かれる方はお時間があったらぜひ。ただし、写経道場の大方丈西の間は冷房設備がありませんので、この時期、タオルや手拭い必携です。写経セットを1000円で購入し、自宅で書いて後で郵送、でもOKみたいですよ。