杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

吟醸王国しずおか専用ブログ『杯が満ちるまで』開設

2010-02-26 22:32:12 | 吟醸王国しずおか

 今日(26日)はあいにくのお天気でしたが、『吟醸王国しずおか』の撮影で、正雪の醸造元・神沢川酒造場(静岡市清水区由比)と、富士錦酒造(富士郡芝川町)に行ってきました。

 

 

 正雪では、杜氏の山影純悦さんから若い蔵人たちへの<技の継承>を、富士錦では3月の蔵開きで1万5千人を集める<地域に在るべき酒蔵の価値>をテーマに映像を構成してみようかな、と思っています。

 

 

 

 今日のロケのお話を含め、今後、『吟醸王国しずおか』に関する記事は、新たに立ち上げた吟醸王国しずおか映像製作委員会公式ブログ『杯が満ちるまでon web』で紹介していきます。『杯が満ちるまで』というタイトルは、以前ご紹2008061815130000 介した製作委員会の会報誌から命名しました。

 

 

 まだ立ち上げたばかりで、記事が少なくて見栄えはイマイチですが、記事を書くのは私だけじゃなくて、吟醸王国しずおか映像製作委員会のボランティアスタッフが手分けして担当してくれます。

 

 本ブログ『杯が乾くまで』は鈴木真弓個人が絞り出すネタだけなので、いつ杯がカラカラに乾いてしまうかわかりませんが(苦笑)、『杯が満ちるまで』は、いろんな人がいろんな味や香りの一滴を代わる代わる注いでくれて、杯が満ち溢れるような、そんな魅力あるサイトにできれば…と思っています。

 

 

 そして、『杯が満ちるまでon web』は、3月1日開設予定の『吟醸王国しずおかオフィシャルサイト』と連動します。現在、無事の開通を目指して、映像製作委員会メンバーのオフィストイボックスさんが徹夜仕事をしてくれています。

 

 吟醸王国しずおかの製作スタート時からの3年近い情報&写真ストック、さらに鈴木真弓が地酒の取材を始めた1989年から20年以上に及ぶ間、貯めに貯め込んだ写真や原稿や、しずおか地酒研究会の14年に及ぶ活動記録を、この際、きちんとまとめて公表しようと、トイボックスさんには無理難題をお願いしました。大変な労力をおかけしてしまっていますが、おかげさまで、地酒サイトとしてはそこそこの見応え感やボリューム感を打ち出すことができそうです。

 

 お金がなくて、資金集めの目的で作る広報物に、お金や時間をかけるのはどうなの?という声もあります。確かに新しい商品を売り出すのに、パッケージや広報にカネをかけるぐらいなら中身に投資せよという考えと、中身に自信があるならそれ相応のパッケージや広報が必要だという考えがありますね。

 

 私は、『吟醸王国しずおか』を作ることで、多くの人に、モノを作って伝えることの喜びを味わってほしいと願っています。

 

 私(ライター)やカメラマンやデザイナーは、実際にモノを作れる・売れるわけではありません。人さまが作ったり売ったりしているモノの価値を伝える立場にすぎませんが、この職業のプロとして、作り手や売り手に恥ずかしくない仕事をしたい。カメラマンやデザイナーにも、吟醸造りの杜氏たちに恥じない仕事をしようとハッパをかけています。

 

 彼らが実際のところ、たいした実入りが期待できそうにないこの仕事を、どんな気持ちで受けているのかはわかりませんが、上がってきた映像やサイトのテスト版を見ると、「こんなに手をかけてくれたのか・・・!」と鳥肌が立つぐらいの出来栄えで、おつきあい感覚じゃないんだってわかります。

 

 

 この熱意の源は、まぎれもなく、吟醸王国の主役たちである酒造家たちです。彼らは、出来上がった酒だけでなく、いい酒を醸そうとする過程が素晴らしい。彼らはよく、「酒は結果的に消費者のうまい・まずいがすべてですよ」と言いますが、造り手が思いを込めて必死に努力する過程が、けっして無駄だとは思わない。

 例えて言うなら、今日、金メダルを逃した浅田真央選手のこれまでの努力や、トリプルアクセルに何度も果敢に挑む姿を見れば、金じゃなくても誰もが「よくやった!」と称賛するでしょう。高みを目指して必死に自分を磨こうとする人は、どんな職業の人も美しいし、人を感動させます・・・。

 

 

 そんなわけで、一足先に開通した専用ブログ『杯が満ちるまでon web』を、軽いアペリティフ感覚で読んでいただいて、オフィシャルサイトのほうは、じっくり味わっていただこうと、クリエーターが一丸となって制作中です。ぜひ3月1日の開通日をお楽しみに!

 


東大寺法華堂によせて(その2)

2010-02-24 08:51:47 | 仏教

東大寺法華堂(三月堂) (つづき)

 

 

 法華堂には、東大寺の創建に由来する秘仏もある。毎年十二月十六日(良弁忌)の一日だけ公開される執金剛神立像で、ふだんは不空羂索観音像の背後に置かれた厨子に納まっている。金剛杵を持つその姿は仏教の守護神にふさわしく、荒々しさと威厳に満ちあふれ、筋肉や血管の写実描写も生々しい。秘仏であったため、鮮やかな色彩もよく残っている。造られたのは天平期で、戒壇院の増長天立像とよく似ており、同じ工房で造られたのではともいわれる。

 

 

 

 秘仏にふさわしい逸話が残っている。この像は東大寺が建立される前、この地にあった金鐘山寺で修行していた良弁僧正の念持仏で、あるとき像の足から光が放たれ、聖武天皇の宮殿まで届いたことから、天皇は良弁に帰依するようになった。良弁はのちに東大寺初代別当となる。

さらに二百年ほど後に起きた平将門の乱では、像の元結から蜂が飛び出して賊軍をおびやかし、乱を治めたという。厨子の柱に、蜂の彫り物が施された灯籠があるのは、この伝説に基づいたものだ。

 

 

何より“特別”なのは、この像だけが北(二月堂側)を向いていること。北方に位置する天皇のお住まいをお守りするためと伝えられるが、唯一人、北方から攻めてくる敵から本尊と諸仏を守るような体勢にも見える。背丈は一七〇センチと人間の大人とほぼ同じ。良弁にとっては、同じ眼の高さで寄り添ってくれるボディガードのような存在だったのかもしれない。

開扉日は秘仏との対面を待ちわびた信者や仏像ファンで大いに賑わう。

 

 

太平洋戦争末期の昭和二十年四月二十日。米軍の空襲から文化財を保護するため、国の命で大仏殿袖廻廊と二月堂登廊が解体された。法華堂も解体が決まり、七月十三日に揆遣(ばっけん)法要が行われ、まず乾漆像の四天王のうち二体が円成寺に、残り二体と木造の地蔵菩薩・不動明王が正暦寺に疎開した。

 

塑像で造られた日光・月光像は移動に耐えうるかどうか懸念されたが、解体に向けて屋根瓦をはがす作業も始まったため、両菩薩を箱に収め、運び出す直前の八月九日、朝日新聞の記者から「まもなく終戦」との極秘情報がもたらされた。

清水公俊管長が県知事に解体作業を一週間延期したいと申し出た際、理由を問われ、やむなく事情を打ち明けたところ、知事は「憲兵隊にバレたら役人も僧侶も皆やられる」と青くなったという。しかしこの命がけの決断によって法華堂解体は寸前でまぬがれた。当時の様子は筒井寛秀長老の近著『誰も知らない東大寺』に詳しく紹介されている。

 

 

疎開していた四天王像が戻ってきた十一月十七日、偶然その場に居合わせたのが入江泰吉氏だ。

 

 

 

ふと二月堂裏参道のあたりに目をやると、こちらに向ってくる異様な行列がある。青い詰襟服をまとった一団がいくつかの担架をかついでくるのだが、近づいてきた一行の顔には生気がなく、疲れきった足どりだった。

担架の数は四つで、それぞれに積まれているのは白布にくるまれた人間のように見えた。私はそれを目にして、一瞬息をのんだ。が、さらに目をこらしてよく見ると、四つとも人間の姿ではあったが、それよりはるかに大きく、やっと、仏像だとわかった。(中略)はるばる担いできた人夫たちは、囚人だったのである。私は、うす暗い礼堂の床に白布にくるまったまま寝かされた四体の像を目にして、複雑な気持ちに引き込まれ、心のなかで合掌した。(大和路のこころ)

 

 

入江氏はそのとき、アメリカが戦争の賠償として接収するという噂を耳にして愕然とし、これらを写真に記録しておかなければと思い立った。結局噂はデマだったのだが、のちの氏の功績を思うと、法華堂のみほとけのお導きだったのかもしれない。

 

 

法華堂を訪れるたび、国の至宝である彫像を、天平の香りを残す御堂で、自由に拝観できる幸せを思う。しかも内部には畳一枚幅の腰掛も用意され、みほとけとじっくり対面できる。

 

早朝の法華堂で、人が少ないのをいいことに、足を投げ出して転寝をすることもある。静謐な御堂に響くのは、裏山の龍神の滝の水音だけ。行儀が悪いと叱られそうだが、これほどぜいたくな癒しの空間がほかにあるだろうか。(文・鈴木真弓 『あかい奈良34号 2006年冬より』)

 

 

 

東大寺法華堂(三月堂)

住所 奈良市雑司町406―1

電話 0742―22―5511

交通 近鉄奈良駅よりバス「大仏殿春日大社前」下車(所要時間約10分)、南大門より徒歩約10

拝観時間 4~9月/7時30分~1730分、10月/7時30分~17時、11月~2月/8時~1630分、3月/8時~17

拝観料 大人500円

執金剛神立像の開扉日/1216

9時30分~16

 

 

 

(参考文献)

東大寺法華堂の研究(近畿日本鉄道編纂室・編/吉川弘文館)

大和古寺風物誌(亀井勝一郎・著/新潮文庫)

大和路のこころ(入江泰吉・著/講談社文庫)

東大寺(東大寺・編/学生社)

新・日本仏像一〇〇編(町田甲一・入江泰吉・編/秋田書店)

大仏開眼1250年東大寺のすべて(奈良国立博物館・東大寺・朝日新聞社・編/朝日新聞社)

仏教発見!(西山厚・著/講談社現代新書)

誰も知らない東大寺(筒井寛秀・著/小学館)


東大寺法華堂によせて(その1)

2010-02-23 17:05:44 | 仏教

 今朝の新聞に、私が一番好きな奈良・東大寺法華堂が、内部修復されるというニュースが載っていました。5月から、国宝や重文の仏像16体の舞台である木製の須弥壇の耐震修理と、仏像の修復が始まるそうです。

 天平仏の至宝・日光・月光菩薩さまはその後、建設中の免震装置付き「東大寺総合文化センター」(2011年10月オープン)に移されるそうで、法華堂で諸仏を拝めるのは今年5月17日が最後とのこと。・・・記事を見て、こころにポッカリ穴が空いてしまった気分です。

 

 

 4年前、奈良の文化情報誌『あかい奈良』に、法華堂について記事を書かせていただきました。天平の御堂で、国宝の諸仏と同じ空間に居られる幸福感を強調するあまり(苦笑)、草稿の監修をお願いした奈良国立博物館の西山厚先生に細かく直していただいたことが、昨日のことのように思い返されます。

 

 1300年もの間、保たれていた法華堂の原型が、まさか自分が生きている時代に失われることになるとは、4年前には想像もできませんでした。『あかい奈良』で書かせていただけたこと、今はその“仏縁”がただただありがたく、合掌の気持ちでいっぱいです。

 拙文を2回にわたって再掲いたしますので、もし関心を持たれましたら、ぜひ修理前の法華堂を訪ね、その原型をしかと眼に焼きつけておいてください。

 

 

 

 

東大寺法華堂(三月堂)   文・鈴木真弓 『あかい奈良 34号 2006年冬より』

 

 

 東大寺は朝八時から(四月~十月は七時半から)拝観できる。早朝の境内で見かけるのは、犬の散歩かランニングに汗を流すご近所らしき人の姿ばかりで、嵐の前の静けさといった風情だ。伽藍や仏像をゆったり鑑賞するには、最適の時間なのである。

 大仏殿の東廻廊の脇から「ねこ段」と呼ばれる石段を上がり、鐘楼を経て、さらに切石の階段を登ると、法華堂の側面が目の前に現れる。

一見、ひと棟に見える建物だが、屋根の色が左右で異なり、欄干にも段差がある。向って左側は、東大寺の伽藍の中では最も古い七七〇~七七七年頃の創建といわれる正堂。右側は、その約四百年後、重源上人が再建した礼堂で、現在の法華堂は、天平と鎌倉の二棟を合体させたものだ。礼堂は大仏殿と同じ中国様式の土間床だが、正堂は神社に見られるような日本の伝統的な板敷床。法華堂は、古代と中世の異なる様式が見事に調和した稀有な仏堂なのである。

 四百年の時空をひとまたぎして正堂に入ると、国宝十二体、重要文化財四体、計十六体の仏像が隙間なく立ち並ぶ。

 本尊は高さ三六二センチの不空羂索(ふくうけんざく)観音像。そもそも法華堂は毎年三月に法華会が行われたことから法華堂あるいは三月堂と呼ばれるようになったが、古くは羂索堂と呼ばれていた。

 

 

羂索とは鳥獣や魚を捕獲するときに使う大縄のことで、仏教では煩悩を縛り上げ、どんな人もとりこぼすことなく救うとされる。これを左第三手に持ち、頭上には二万数千個の翡翠や水晶で飾られた宝冠をいただき、威厳たっぷりの姿でいらっしゃる。頭部はほの暗く、裸眼ではよく見えないが、眼のあたりだけ鍍金が残り、顔から上半身は金がはだけた肌が、鋼鉄のように逞しい。

 

 

このご本尊は、昭和十二年、宝冠が盗まれ、時効寸前に盗品ブローカーの手から戻ったという災難に見舞われた。当時を知る写真家・小川晴暘氏は、のちに「事件を担当した奈良署の刑事は“羂索は刑事の守り本尊でもあるのに、この事件が解決できなかったら刑事生命にかかわる”と必死のようだった」と述懐している。

 

 

 

両脇の日光・月光菩薩像は、入江泰吉氏の写真作品などで知られ、多くの文人や美術家を魅了し続ける天平期の傑作塑像である。

この両像には謎も多い。本尊の不空羂索観音像が三六二センチであるのに対し、両像はニ〇〇センチ余と小柄で、脇侍にしては不釣合いだ。また、菩薩像は素足が鉄則なのだが、よく見ると靴を履いていらっしゃる。両像は羂索堂本尊の脇侍菩薩ではなく、他寺の梵天・帝釈天として造られ、何らかの事情で法華堂に移された客仏、というのが現在の定説だ。

とはいえ、日光像の陽だまりのように柔和な表情や、月光像のまさに月の光を人格化したような肢体を目の前にすると、天平人が本尊の両脇に置き、後世の人が「日光・月光」と呼ぶようになった気持ちも解る気がする。

 

亀井勝一郎氏は名著『大和古寺風物誌』にこう綴る。

 

 

渾身の力をこめた本尊の合掌は、日光月光に余韻し、両菩薩は更にその合掌に対して合掌するといったような内面の交流がみられないだろうか。(中略)私は三像を拝しつつ、合掌による対話を思った。この対話はそのまま天平人の信仰の音階を示しているのかもしれない。

 

須彌壇の右手から月光菩薩を斜め左方向に眺めると、本尊の右第三手が月光に手かざしするように見える。その美しいしぐさに、“内面の交流”を想像せずにはいられない。(つづく)

 

 


ふりーらフルーラ県内発表会

2010-02-22 22:09:41 | 社会・経済

 今日(22日)は、静岡県商工会連合会のしずおかうまいもの創生事業・デザートふりかけ『ふりーらフルーラ(通称・ふりフラ)』の県内発表会&商談会が、静岡県産業経済会館で開かれました。

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 発表会の前に開いた実行委員会では、今月初頭に東京ビッグサイトのグルメ&ダイニングスタイルショー2010春に出展した際のアンケート調査の集計結果が報告されました。

 

 出展ブースでの直接の反応も、かなりよかったので、これは期待できるかなと思っていましたが、やはりアンケート結果で味については7~8割がプラス評価し、容器やパッケージデザインも「よい」「まあまあ」が6~7割と及第点をもらえたみたいです。

 

 さらに力強かったのは、大きな展示会場の中の小さなブースでささっと店頭試食しただけなのに、その場で名刺交換して「商談希望」「商品説明希望」のオファーをくれた業者さんが50社近くあったこと。企画が斬新だったこと、実際に美味しかったことが数字でちゃんと証明されたわけですね。

 

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 さて、今日の県内発表会では、テレビ静岡さんが取材して夕方のニュースで流してくれたほか、新聞各社やネットメディア数社に取材していただき、スーパーや量販店・観光施設のバイヤーさんたちに試食してもらいました。東京の展示会に比べ、地元なのに参加者が少なかったのは残念でしたが、来てくださった業者さんは上得意さまになっていただけるものと信じ、急に頼まれた司会役にも力が入りました。

 

 

 東京で試食に使ったアイスクリームとヨーグルトに加え、静岡では日本茶インストラクターの土屋裕子さん、ベジタブル&フルーツマイスターの松島章恵さんがセッティングをしてくれて、松島さん考案のふりフラdeおやつ・・・マシュマロボール、パスタ、チーズクリームパンに『ふりフラ』をトッピング。実行委員会のメンバーで地産地消レストランで名高いハーモニー(磐田市)の足立シェフが用意してくれた「海老イモ団子」にもふりかけて、オール静岡のこだわりおやつをImgp1931 楽しみました。

 

 

 海老イモ団子は、海老イモ自体があまりにも美味しくて、「何もふりかけなくても・・・」と言いそうになりましたが(苦笑)、苦手な野菜をゆでたり蒸したりペースト状にして、ふりフラをかけたら、子どもたちが給食やおやつで食べてくれるんじゃないかと思いました。

 

 パスタは、ふりフラをかけることで、おやつパスタに変身。これはファミレスの子ども向けメニューにぴったりです!

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 アイスやヨーグルト、クリームサンドは、喫茶レストランでの女性向け軽食デザートはもちろん、高速道路のサービスエリアや道の駅、アミューズメント施設などクレープやソフトクリームを買い食いする人が多い場所で業務用に使えるだろうし、おしゃれなホテルやペンションの朝食のお伴に使ってもらえるかも。

 

 とにかく新しい食スタイルを提案する、新企画商品だけに、用途はさまざまに広がっていってほしいですね。

 

 

 『ふりーらフルーラ』は4月からの販売を予定しています。ふりかけ加工業者の三角屋水産さん(西伊豆)でのネット販売からスタートする予定ですので、価格や注文方法が決まりましたら、またお知らせします!


竹島さんへの誓い

2010-02-19 22:13:55 | 吟醸王国しずおか

 元・入船鮨ターミナル店の看板鮨職人で、静岡県の大吟醸を客に初めて呑ませた男こと竹島義高さん(69)の葬儀告別式に参列しました。竹島さんの功績にふさわしく、大勢の方々がお見送りをされました。

 

 入船鮨ターミナル店のころから、竹島さんのお店の壁や暖簾を飾ってきた染色画家松井妙子先生とご一緒し、先生がご自分の“分身”でもあるフクロウの絵ハガキを花と一緒に納棺されるのを傍で見てきました。

 はじめ、先生が遠慮して竹島さんの足元に置こうとされたのを、奥さまや妹さん方が「松井先生、胸元へぜひ」とお声かけされていて、竹島さんが大好きな松井先生のフクロウに守られて旅立たれることに心癒されました。

 

 私も、手前味噌ですが、昨年3月に『吟醸王国しずおか』で撮影させてもらい、亡くなる前に息子さんに託した映像を、受付の横に置かれたテレビモニターで流していただいて、カウンターに立つお元気な竹島さんのお姿をみなさんに観ていただくことができました。

 「本当に撮っておいてよかったわね」と松井先生にも褒めていただき、この映像は静岡の地酒の伝承と発展を目指し・・・な~んて大上段に構えるばかりでなく、ご縁をいただいたお一人おひとりに喜んでもらえることこそ本望だなぁ・・・と感じました。

 

 

 

 このところ、映画制作の話をブログに書いていないので、どうなっているのかと思われているかもしれません。

 

 まだ撮影はこの桜の季節ぐらいまで続ける予定ですが、資金調達が思うように進まず、いつフィニッシュできるのかはっきりメドが立ちません。このご時世に自主映画を作るという暴挙?に出たツケかもしれません(苦笑)。

 とはいっても、カメラマンをはじめ実働スタッフには正当な労働対価を払わなければなりませんし、何より映画の完成を心待ちにされながら旅立たれてしまわれた竹島さんはじめ、これまで支えてくださった多くの方々のご恩に応えなければなりません。

 

 現在、吟醸王国しずおか映像製作委員会で、とくに熱い応援を寄せてくれる10人ほどのメンバーに助けてもらって、資金調達や広報戦略を考えてもらっています。今まで独りで抱え、悩んでいたことを、わがことのように考えて、活発に意見交換してくれる仲間の存在―。公私ともに一人ぽっちの自分に、まるで新しい家族が出来たようで、なんだかとても不思議で、くすぐったい心境です。  

 

 仲間の協力と励ましのおかげで、来月には『吟醸王国しずおか』のオフィシャルサイトが開設できる運びとなりました。専用ブログも付随しますので、これから映画や酒のネタはそちらで披露させていただくことになります。決定次第、お知らせいたしますので、よろしくお願いします!。

 

 

 ところで、仲間といろいろ意見交換していく中で、なぜこの映画を作るのかという根源的な議論にもなりました。

 ・・・そもそも自分は、20数年見つめ続けてきた酒の世界で得た感動を、映像という形でより多くの人に伝えられたら、そのチャンスが自分にあるならぜひ活かしたいという単純明快な理由で始めたわけですが、まさか波瀬さんや竹島さんの生前最後の動画になるなんて思いもしなかったし、映像を見たテレビ局が1時間番組を作ってくれるなんて想像もしてなかったし、「この映画作りを通して地域活性のモデルを考えたい」「モノづくりの価値を伝えるためにも、子どもや学生に見せたい」といった感想をもらうことも、まったくの想定外。もはや、個人の単純な夢ではくくれない段階に来ています。

 

 

 資金面での裏付けがない中で、夢や理想を膨らませても・・・と心にブレーキを踏みつつ、この膨張ぶりは何だろうと思えます。膨張というとなんだか実態のないバブルみたいですが、ようは、人と人が不思議に次々とつながっていくんです。

 たとえば20数年の集大成として本を書くとか単にホームページを立ち上げるというのであれば、個人の夢の範疇で収まっていたでしょう。映画を作るという無謀な目標たればこそ、の、膨張ぶり=つながりの拡張なのかもしれません。

 

 

 仲間を得たこと、そして竹島さんの旅立ちをきっかけに、映画作りも新たな段階に移っていきます。

 竹島さん、どうか天国で映画の完成まで温かく見守ってくださいね。