杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その2)佐香神社どぶろく祭と出雲の酒

2018-11-08 14:42:42 | 地酒

  10月12日~14日の駿河茶禅の会「出雲との茶文化交流と酒造起源探訪」レポートの続きです。

 

●松江藩の維新秘話を伝える「玄丹おかよ弁当」

 13日は午前中に出雲焼樂山窯、茶室明々庵での茶文化交流の後、明々庵のある塩見縄手の風情ある街並みを散策し、武家屋敷や田部美術館を見学。お昼時でしたが17名まとまって入れる食事処が近くになく、時間もタイトだったので、バス車中でお弁当を食べてもらいました。

 そういうことなら、ぜひ松江の歴史にちなんだ特別なお弁当をと、明々庵の森山支配人がわざわざ手配してくださったのが『玄丹おかよ弁当』です。

 お加代さんというのは元松江藩士で鍼医・錦織玄丹の娘。明治維新の慶応4年(1868)、新政府側は徳川親藩の松江藩に不信を抱き、3か条の難問題を突き付け、家老大橋茂右衛門を切腹寸前に追い込むのですが、この時、新政府側との酒席で白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受け、幹部に迫って家老の命を助け、出雲女の義侠心を発揮という勇ましい女性です。その武勇伝にちなんだ特製弁当で、紅い実をかんざしのように楊枝で刺した「赤板かまぼこ」が入っています。千鳥城と謳われた松江城にちなんだ「千鳥長芋」、日本海で獲れた「スズキの酒蒸し」、島根和牛そぼろを添えた「赤貝飯」など、手の込んだ上品な味付け。出雲の食といえばシジミか蕎麦ぐらいしかピンとこなかったので、事前に現地の有識者に教えてもらって本当に良かったと思いました。

 

●出雲の酒造起源探訪―佐香神社(松尾神社)秋季大祭

 前々回のブログ記事で紹介したとおり、今回、偶然参拝できた佐香神社(松尾神社)秋季大祭。茶禅研修としては想定していなかったプログラムながら、アドバイスをいただいた山陰中央新報社文化事業局の担当者より、神話の国出雲で体験できる唯一無二の酒の神事であり、年に1度の大祭日に出雲に来る偶然を活かしてほしいと勧められたものです。

 

 出雲の酒といえばヤマタノオロチ伝説。弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。私は2009年に東京で備中神楽のヤマタノオロチ退治を取材しこちらを)、東京新聞タブロイド紙『暮らすめいと』で紹介したことがあるので、そのときの軽妙な演舞が懐かしく甦って来ました。

 

 以下は前々回記事と重複しますが、日本醸造協会機関誌『醸協(1987)』に掲載された速水保孝氏(元島根県立図書館長)の論文によると、スサノオの八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 

 『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 そんな、日本酒発祥の聖地といえる佐香神社、素朴な村の鎮守のお社といった風情ですが、日本の神社でどぶろく醸造を行っているのは現在ここだけ。地元出雲市小境地区で収穫された米と水を使い、氏子を務める出雲杜氏経験者がこの日のために1石だけ醸造し、神社内にてこの日一日限定で飲み切る(酒造免許の規定で神社外持ち出し禁止)。新米で造られる新酒のどぶろくは今年の米の出来を推し量るものとされていました。

 

 予定よりも早く14時すぎに到着し、どぶろくの振る舞い開始時間(15時30分)までどうしようかと思っていたら、どぶろく配布の氏子さんが機転を利かせてフライングサービス。今回の参加者の一人・青島孝さん(青島酒造蔵元杜氏)に即興でどぶろく解説をしてもらいました。

 15時30分からは奉納舞踊の神楽が始まり、我々は楽殿の前に敷かれたブルーシートに座り、笛や太鼓の音色に身をゆだねながら、どぶろくを味わいました。三々五々集まった人々はお花見宴会のように酒肴を詰めた重箱弁当を広げ、楽しそうに歓談しています。

 どぶろくを配っていた氏子のおやっさんは地元でネギの栽培をしていると言い、「ネギ栽培で成功している浜松の農業法人を視察してきたばかりだ、いやあ遠くからよく来てくれたなあ」と大盤振る舞いしてくれました。他の参拝者からも「こんな片田舎の祭りに飛行機で来てくれるなんて、こんなに嬉しいことはない」と声を掛けられ、つい「来年も来ますよ!」と返事。青島さんは「想像以上に出来の良いどぶろくだった」と言い、他の参加者からも「祭礼といっても形式ばることなく、ゆるくて心地よい。それがある意味、出雲大社よりも神を身近に感じさせた」という声が上がりました。

 どぶろく祭は日が落ちてからが本格的に盛り上がるそうなので、次回は夜通し飲む覚悟で来なければ・・・!

 

●国宝松江城の天守閣茶会

 夕刻、松江市内に戻って不昧公200年祭の一環で開催された国宝松江城水燈路(ライトアップ)を観賞。天守閣に登り、国宝の城内で初めて催された茶会に参加しました。狭い天守閣に茶道各流派のボランティアや一般観光客が押し合い圧し合いの賑やかなイベント茶席でしたが、不昧公がこの光景を見たら何とおっしゃるのか、想像すると楽しくなりました。「国宝をこういう形で利用できるのは、これが最初で最後かもしれません」という関係者。どぶろく酔いが回る中で天守閣まで必死に登って、そんな貴重な茶席を体験できて感激でした。

 この後、しまね地酒マイスター福島将美さんが経営する居酒屋『朔屋』にて、神代からの出雲の酒文化についてたっぷりご教授いただきました。

 

●歴史を拓いた島根の酒造技術

 島根では東部で出雲杜氏、西部で石見杜氏が活躍していました。出雲杜氏は組合結成100年余の歴史を持ち、今の杜氏国家試験が出来る前から独自に資格試験や研修制度を設けて優秀な技能者を輩出してきました。それもこれも指導機関に日本酒造史に残る逸材がいたからです。

 

 明治37年、滝野川(東京都北区)に大蔵省醸造試験所が開設されたとき、技士として赴任したのが松江税務署鑑定科長の嘉儀(かぎ)金一郎氏。氏は松江税務署時代、松江局の清酒の大半が腐敗した苦い経験を経て、「山卸廃止試験」に挑戦し、滝野川に赴任した後、試験報告書を発表。これが「山廃酛」の誕生でした。嘉儀氏は40歳で会津若松の「末廣」に技術者として招かれ、末廣を山廃造りの銘醸に育て上げます。

 

 さらに特筆すべきは、協会9号酵母生みの親の野白金一氏が松江市出身だということ。醤油醸造家に生まれた野白氏は明治34年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を首席で卒業し、松江税務署鑑定部へ着任。2年後に熊本税務監督局へ転任し、当時「赤酒」から脱皮しようとしていた熊本の酒造業界を指導。明治42年に熊本県酒造研究所を設立し、熊本酵母を開発したのでした。これが協会9号として吟醸酒酵母のスタンダードになり、静岡酵母もこれをベースに開発されたのです。

  

 東広島の全国新酒鑑評会前日に行なわれる(独)酒類総合研究所研究発表会に行くと、毎回会場から鋭い質問を浴びせる聴講者がいて、発表者の若手研究員とのやり取りを毎回楽しく拝聴します。その質問者とは元島根県立工業技術センター食品科長で酒類技術コンサルタントの堀江修二先生でした。以前、会場にいた青島さんに先生を紹介してもらい、きちんと取材にうかがおうと思いつつ日が経ってしまいましたが、島根の酒を呑むと、真っ先に「出雲にも河村傳兵衛先生みたいな人がいたなあ」と思い起こします。

 

 現地で購入した地酒ガイドムック『さんいんキラリ~神々を魅了した出雲の酒』の巻頭に、堀江先生の寄稿文が掲載されていました。その中の一節を紹介させていただきます。

「佐香神社での酒造りは奈良天平20年(748)頃から始まったとされ、その造りは長屋王遺跡から出土した天平元年(729)の木簡の酒造りにきわめてよく似ており、天平の頃奈良から伝わった酒造りではないかと思われる。出雲地伝酒は木灰添加による微アルカリ性にした酒で、日本では熊本、宮崎、鹿児島、出雲地方だけに見られる「灰持酒」と云われる珍しい酒である。この酒は古墳時代、筑紫国の熊本から海の道を通って石墓文化とともに直接出雲に伝わった酒と考えられ、ルーツは中国浙江省地域である」

  

 前掲の速水氏の論文と併せて出雲の酒のルーツを考えようと思ったら、日本の古代史学習が必須だ・・・!と頭を抱えてしまいます。登呂遺跡が残るわが静岡では当時、どんな酒を造っていたんでしょうね。

 それにしても、古代は熊本と出雲が酒のルーツで結びつき、近代以降、松江では山廃造の嘉儀先生と熊本酵母の野白先生を輩出し、現代の堀江先生や河村先生に連なる。出雲、熊本、静岡は、茶道三斎流で不思議なつながりがあると前回記事で紹介しましたが、酒においても酒造技術を切り拓いた指導者の不思議な縁を感じます。

・・・自分がこの地に呼ばれたのも、何かの縁に違いないと、ますます妄想が膨らみます。(つづく)

 

 

 

 

 


出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その1)不昧流を満喫

2018-11-06 12:44:49 | 駿河茶禅の会

  駿河茶禅の会で10月12日(金)から14日(日)まで催行した2018年秋の研修旅行『出雲との茶文化交流と酒造起源探訪』について、数回に分けてレポートします。 

 12日は富士山静岡空港16時15分発のFDA185便に17名の参加者で搭乗し、出雲縁結び空港には17時35分着。宿泊先の送迎バスで約30分、玉造温泉松乃湯に18時過ぎに到着し、まずは温泉に浸かって懇親会。前日が誕生日だった私に、参加者の皆さんが勾玉のアクセサリーをプレゼントしてくれました。

 

 改めてご紹介すると、駿河茶禅の会は一般社団法人静岡県ニュービジネス協議会の専門研究部会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』の活動(20119月~20153月)を引き継ぎ、20154月設立。望月静雄氏(茶道家・裏千家インターナショナルアソシエーション准教授(元運営理事)・日本秘書協会元理事)を座長に、茶道の奥義や禅の教えについてさらに研賛を積んでいます。会員は茶道経験の有無にかかわらず茶禅文化に関心を持つ社会人(企業経営者、会社員、自営業者等)。毎月1回、駿府城公園紅葉山庭園茶室と会員企業のオフィスを借りて、座学と実技を交互に開催中。登録会員25名。毎回15名前後参加しています。

・・・と書くと、なんだかクソ真面目で堅苦しい会のように思えますが、静岡でこれほど茶禅に造詣の深い茶道家はいないと断言できる望月先生のもと、今更聞けない和の伝統やマナーを復習できるし、会員にはしずおか地酒研究会からも(蔵元を含め)何人か流れてきているので、酒の話もばっちり。一級建築士や作庭家や環境専門家の会員さんは、茶室や寺社巡りをするとき専門家解説をしてくれるし、ふだん異分野との接点が多い編集者や地域交流事業の担い手は、時代や場所の異なる文化への関心や理解がとても深い。歴史好きで酒好きの大人が知的好奇心を刺激し合える楽しい会です。興味のある方はぜひご連絡ください。

 

 翌10月13日(土)は小型バスを借り、終日、研修プログラムをこなしました。

 まずは、望月先生の訪問希望先だった松平不昧御用窯の一つ・出雲焼「樂山窯」の12代長岡空郷氏を表敬訪問。

 出雲焼は萩・京都・備前のほぼ等距離にあり、3つの特色が混在して独自の発展をなした稀な歴史を持ち、一時衰退したものの、不昧の支援で復興し、多種多様な技法を探求した焼物です。不昧の時代に御用窯だった窯元で、現在残っているのは、ここ長岡さんの樂山窯と、布志名焼雲善窯の2つ。明治維新で松江藩が消滅した後、苦難の時代を迎えましたが、もともと量産タイプの窯元だった雲善窯はバーナード・リーチや柳宗悦の民藝運動に結びついて日用陶器として復活。一方、不昧個人の御用達窯だった樂山窯はひたすら陶工の技量を追求し続け、江戸時代に築かれた登り窯を今も稼働させながら、13代へと継承しています。

 

 今年刊行された『今に生きる不昧―没後200年記念』(山陰中央新報社刊)によると、「不昧は雲善窯には大きさ・形・色を細かく指定し、樂山窯には自身の和歌を引き合いに「花入れを作れ」など大ざっぱだった」そう。不昧公は2つの窯元を「普及系」「革新系」に使い分けていたんですね。

 当日は樂山窯の長岡家の客間で歴代窯元の名品をじっくり鑑賞しながら、12代・13代の作品で抹茶をいただきました。茶道初心者の私には茶器の良し悪しはトンと解りませんが、不昧公にお題だけ示され、さあ作ってみろ、とプレッシャーを受け、応えてきた5代長岡住右衛門の陶工としての矜持を継いだ器であるならば、器を通して不昧公と対話ができるんじゃないか、なんて妄想を巡らせました。

 茶器はさすがに素人には触手しづらい高価格でしたが、せっかくなので、お小遣いで買えそうな三島柄のぐい吞みを一つ購入しました。これで出雲の地酒をじっくり味わいながら、私なりに不昧公との語らいを楽しんでみたいと思います。

 

 

 次いで、松江城下の茶室『明々庵』敷地内の百草亭に於いて、松江市内に拠点を置く「不昧流大円会」の山﨑清幹事長と会員3名、明々庵支配人で島根県茶道連盟の森山俊男事務局長との交流茶会に臨みました。山崎氏より不昧流の作法の解説と呈茶、松平不昧の茶道との関わりについて、森山氏より明々庵の構造並びに意匠についての解説をいただきました。以下は富士山静岡空港利用促進協議会へ提出した事業報告書に若干加筆したものです。

 

不昧流大円会(ふまいりゅうだいえんかい)について

 同会は松平不昧公の茶道精神に則り、茶の湯の本旨を体得すると共に、不昧流の作法の修練によって人格の形成を図り、併せて茶道文化の普及に寄与することを目的に昭和8年(1933)に設立。会員324名。島根県を代表する茶道流派です。毎年開催される松江城大茶会をはじめ、各季節の茶会や各種イベントボランティア等を通じ、不昧流茶道の普及に努めています。

 不昧流とは松江藩松平第7代藩主松平治郷(不昧)によって確立された武家茶道の一派。地元松江では「お流儀」「お国流」と呼ばれ、家老の有澤能登、茶頭の藤井長古に伝えられ、地元での流儀は初代~2代の藤井長古によって広く武士町人に伝えられました。藤井長古の流れをベースに、昭和8年、5名の先達によって不昧流大円会(当初の名称は「雲州大円会」、昭和63年に現在名に変更)として統一されたということです。

 ちなみに今回の交流茶会に参加された大円会会員に、奇遇にも松江出身の漆畑多恵子さんの高校の同窓生‶じゅんこちゃん″がいて、数十年ぶりの再会に感激の環が広がりました。

 

松平治郷(不昧)の茶道

 山崎幹事長により、不昧の茶道について懇切丁寧な解説をいただきました。

 松平治郷は明和4年(1767)、先代の急死を受け、17歳で松江藩7代藩主となりました。少年時代は豪放磊落な性格だったそうですが、18歳頃から本格的に茶道に取り組みます。徳川将軍家の茶道だった石州流をベースに、利休伝来の「侘び・寂び」、優雅さを伝える遠州流等を独自に取り入れるほか、19歳のとき、江戸天真寺の大巓和尚に禅学を学び、21歳で「不昧」の号を授かりました。

 不昧自身の茶道観は「江戸後期の遊芸化した茶道に対し利休の茶に還ることを唱え、茶禅一味(禅の教えと一体となった茶の境地)を究めようとしたもの」とのこと。駿河茶禅の会では昨年、利休の故郷・大阪堺に研修旅行へ出かけたので、利休が禅の修行をした堺の南宗寺の風情が甦って来ました。

 

 不昧流の所作で最も印象的だったのが、お辞儀でした。両手を広げず、握りこぶしでお辞儀をするのです。手のひらを畳に付けるのは不浄であり、親指を保護するため握りこぶしで隠すというのが不昧流。袱紗さばきに始まる一連の所作も、簡素で合理的な動きです。一般にイメージするお茶会の雅やかな雰囲気とは、あきらかに一線を画すものでした。明治以降、お茶は婦女子の習いごとの代名詞みたいになっていますが、そもそもは武家の社交あるいは精神修養の目的だということを想起させてくれました。

 

「会の習いは、客の心に叶うように叶いたるは悪し、夏はすずしく、冬は暖かに、炭は湯の沸くように、花はその花のようにと利休伝来にて候」

「茶の湯は雨にしおれたる竹の如く、雪をかかげたる松の如し」

「稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲けるなでしこのやうにありたく候」

というのが不昧の教え。侘び寂びを恣意的につくろうのではなく、亭主の心の働きを第一に、自然に客の心に叶うのを良しということだろうと思います。これは広義のホスピタリティをとらえる上で学ぶべき視座ではないかと実感しました。

 

 

茶室明々庵の意匠

 明々庵支配人の森山俊男氏より明々庵について詳細にご案内いただきました。安永8年(1779)に松江市殿町の家老有澤家本邸に建てられた茅葺入母屋造りの茶室。松江市殿町から赤山下、東京の原宿、四谷と移築が繰り返され、昭和3年に松江に里帰り。戦時中に荒廃したものの、戦後、不昧流茶道振興に尽力した人々の手によって昭和41年(1966)の不昧公没後150年記念事業として現在地に移築されたということです。昭和44年(1969)には島根県指定有形文化財に指定されました。

 まず目を引いたのは待合に敷設された砂雪隠(トイレ)。飾雪隠ともいわれ、実際には使用しないようですが、客が最初に足を踏み入れる待合に雪隠を置くことで、東司(トイレ)の清浄を重んじる禅の修行を想起させます。まさに茶禅一味の世界に迎えられた、と感じます。

 茶室内は中柱のない二畳台目で点前畳に炉を切る「向切」、床の間は五枚半の杉柾の小幅板を削ぎ合わせた浅床にするなど、常識にとらわれない不昧スタイルが表現されています。『明々庵』の額は不昧の直筆によるものです。

 

 

利休直伝、白隠禅師ゆかりの三斎流

 森山支配人のお勧めにより、明々庵に隣接する赤山茶道会館で開催中の不昧公200年祭記念の三斎流九曜会茶会に、当会を代表し、座長の望月静雄先生と幹事の漆畑多恵子さんが参加しました。

 三斎流とは肥後熊本の藩主であった細川忠興(三斎)を祖とする流派です。三斎は"千利休七哲"と称される利休直弟子の一人で、ご存知明智光秀の娘(洗礼名ガラシャ)を妻とした戦国武将。三斎は利休の教えに一切手を加えず、現在の点前にもその原点が残るといわれます。江戸中期、三斎流を継承した江戸の茶人荒井一掌に松江藩士(侍医)林久嘉が茶を学び、不昧は林を通じて荒井一掌に心酔し、三斎流を重用したということです。紆余曲折の後、一掌以来の三斎流は出雲の地に根を下ろすことになりました。

 

 茶会の後、望月先生と漆畑さんが感動を抑えきれない、といった表情で、ことこまかに説明してくれました。

 まず三斎流の茶席では、喜寿近くかと思しき品のあるご婦人が席主として出座されたとのこと。ご挨拶の言葉の端々に、今日では耳にすることの少ない美しい日本語の響きがあって、床に掛けた一行書『独坐大雄峰』について、多弁を費やさず「今、ここにお座りのお客様方こそが大雄峰」と説かれました。

 用意された道具類にも「名品のお道具は博物館でご覧頂くこととして」とご謙遜。ちなみに主茶碗は十字の文様が施された古八代焼で、茶道とキリスト教との接点を暗示するもの。"利休七哲"(利休の7人の高弟)には三斎をはじめ、蒲生氏郷、古田織部、高山右近等キリシタン大名が名を連ねることから、歴史を知っている者にとっては「なるほど」「さすが」と手応えのあるご用意だったそうです。茶席で濃茶を一つの椀で回し飲むのは、キリスト教のワインの回し飲みに由来しているのでは、とも言われているんですね。

 

 望月先生が絶賛された品格ある席主とは、ほかならぬ、三斎流前家元の森山宗育宗匠でした。正客との絶妙のやりとりの後、「小規模の流派ではあるが、伝統を守り続けてゆきたい。皆様お流儀は様々なれど〝独坐大雄峰″で」と淡淡と語られ、二服目を供されたその佇まいには、茶道歴50年超の望月先生をして「これぞ茶道の神髄」と目頭を熱くさせたそうです。

 お話を聞いて、とかく道具自慢や華美なしつらえに偏りがちな昨今の茶道とは一線を画すこのような流派が、京都でも熊本でもなくこの地で「家元」を置いて細々と継承されているのは、出雲に茶禅一味の精神が浸透した証なんだな、と感じました。

 

茶禅がつむぐ地域間交流

 不昧流大円会ならびに三斎流九曜会との交流を通して実感したのは、茶禅の道には道を伝え継承した人々の歴史があり、人の歴史には、その人が生きた地域の歴史があるということ。地域の歴史を知ることは、他の地域とのつながりを発掘することになります。

 もともと松江藩は初代堀尾吉晴が家康の命で遠江国浜松からこの地に入国し、後に家康の孫松平直政が藩主を継ぐ等、静岡とは浅からぬ縁があります。東海道島田宿の名物清水屋の小饅頭は、参勤交代のときに島田宿に立ち寄った不昧公が「一口サイズにするといいよ」と進言されたものです。このことを、今回の研修を企画するまで知らず、山陰中央新報社文化事業局の方から教えてもらい、ビックリでした。清水屋の小饅頭は賞味期限は製造日当日限定なので手土産には黒奴にし、小饅頭は別途冷凍パックをクール便でお送りしました。

 

 さらに嬉しい驚きは、三斎流を出雲に根付かせた功労者である荒井一掌は、白隠禅師に禅の教えを受けており、「一掌」という名も白隠さんから賜ったとのこと。出雲の茶禅文化に白隠禅が投影されていたのです。

 三斎流九曜会HPによると、三斎流は細川忠興(三斎) ─ 一尾一庵 ─ 稲葉正喬 ─ 中井祐甫 ─ 志村三休 ─ 荒井一掌と継承され、宝歴年間に松江藩士林久嘉(医師)・高井長太夫・矢島半兵衛の3人が荒井一掌に師事し、 出雲地方に伝来。荒井一掌はもともと江戸で味噌屋を営む商人で、麹町に閑市庵を営み、古帆宗音と号した当時の超一級茶人。武士の血筋を持ち、武道修行後、 原の白隠禅師のもとで禅を9年間にわたって修養し、「一掌」の号を授かったそうです。

 一掌に師事した3人の松江藩士のうち、林久嘉は宝歴13年(1764)、13歳の不昧公の侍医となります。不昧公は藩主になった翌年、18歳で石州流に入門して茶道を始めた、と言われていますが、それ以前から林久嘉を通じて三斎流に親しんでいたようです。久嘉から紹介された荒井一掌のことを不昧公は大先生と尊敬したと、公の書簡等によって確認できるようです。

 

 出雲地方の寺院には白隠さんの書画がかなり残っていて、以前、花園大学国際禅学研究所でも出雲で白隠フォーラムを開催したことは知っていましたが、茶道とこのような関わりがあったことは、今回、三斎流のことを調べて初めて知りました。明治時代、白隠禅師の書画を発掘・収集した細川護立が三斎の末裔であることを顧みると、駿河と出雲と肥後(熊本)の不思議なつながりも見えてきます。まずは、白隠さんの下で修行していた荒井一掌のことをきちんと調べなきゃ、と思いました。

 

 

出雲松江の人々を静岡へ招聘するとしたら

 茶道文化が発達した出雲松江では、お茶をどれくらい消費しているのか、平成27~29年の総務省家計調査を調べてみたら、県庁所在地および政令都市における一世帯あたりの緑茶購入額は松江市が年間3,820円で全国33位。静岡市は9,491円で堂々第1位。全国平均は4,118円でした。松江出身の漆畑さんによると「松江の人にとって、茶葉をたっぷり使う煎茶は小さな茶器で丁寧に淹れて飲むぜいたくな味わい方。静岡へ嫁いできて急須でガブガブ淹れて飲むのにビックリした」そうです。これも静岡が家康公以来の御用茶産地だっだという利点でしょうか。

 松江藩では茶の生産について政策として他藩からの移入を厳しく制限し、藩内での生産を奨励していたようですが、他藩へ輸出し外貨を稼ぐほどの量は取れなかったよう。その代わり、不昧によって茶道文化が浸透し、生活の中で抹茶を気軽に点てたり客人に振る舞う喫茶習慣が今も残っているそうです。とくに農村部では今でも農作業の合間に縁側でお抹茶を点てて味わっているそうですが、こういう習慣って若い世代に継がれているのかなあ・・・。出雲松江の人々を静岡へ招くとしたら、まずは生産地静岡ならではの茶畑風景を堪能していただき、縁側カフェで急須の煎茶を味わっていただいて、地域の宝である喫茶習慣をどうやって次世代につなげるか、語り合いたいなと思いました。(つづく)