14日夜、興聖寺の織部四百年忌行事の後、鞍馬口通りを船岡山方面にブラブラ歩き。京都在住の知人に教えてもらった『さらさ西陣』というカフェでビールと腹ごしらえをしました。このカフェ、築80年の銭湯・藤の森温泉をリノベーションした“銭湯カフェ”で、『千と千尋の神隠し』のお風呂屋さんを思わせる唐破風の屋根、高い格天井、和製マジョリカタイル全面張りと、びっくりするような造り。さすが京都です。
メニューは若者向けのカフェごはんや軽アルコール類が中心。お客さんも20代カップルや女子グループばかりです。明らかに平均年齢を押し上げる異端者の我々、とりあえずビールをかたっぱしからオーダーし、気がついたら店のビールの在庫を空っぽにしてしまいました(笑)。
鞍馬口通りをさらに西に進むと、伝説の銭湯『船岡温泉』があります。せっかくだからと足を伸ばし、入浴NGのメンバーは目の前にあったビールバーでさらに飲み増し。入浴後に飲み直したいというメンバーを強引に連れ帰り(笑)、合宿先の京町家・相国寺庵へ戻りました。
翌15日は朝4時50分に興聖寺の早朝坐禅に参加しました。坐禅体験は初めてというメンバーばかりなので、和尚さんに手ほどきをしていただきながら、1時間余り、精神統一に努めました。忙しい現代人にとって、静かにただ座る、無心で読経するという時間はなかなか経験できないと思います。メンバーがどんな感想を持ったのかわかりませんが、私自身は久々の朝の坐禅で実に清々しい気分でした。
夜の坐禅は、それこそ、その日に経験した失敗、後悔、反省の気持ちが次々と湧き上がってきて、リセットするのに精一杯という感じですが、朝は、起きた時にすでにいったんリセットされた状態なので、新しい一日を真っ白な状態で始めることができます。興聖寺の坐禅会は毎晩19時からで、日曜日だけ朝、行っていますが、なるほど効果的だなと実感しました。
毎日の坐禅会、誰でも自由に、アポなしで参加できますので、京都に行く機会がありましたらぜひ体験してみてください。
堀川通りから今出川通りを東に折れ、蹴鞠で知られる京都白峯神社を参拝してW杯日本初戦の必勝を祈りました。この神社、サッカーだけでなく、バレーやバスケ等ボールゲーム全般の関係者がお参りに来るみたいですね。
…結果は残念でしたが、2014年W杯ブラジル大会日本初戦の朝、ここでお参りしたことは、ずっと記憶に残るでしょう。2018年ロシア大会で再現・リベンジしたいものです。
15日は宇治方面を歩きました。まず日本三禅宗のひとつ・黄檗宗本山の萬福寺 。インゲン豆を伝えたとされる隠元禅師が徳川4代将軍家綱の時代、明から渡来し、創建した中国様式のお寺です。今でもお経は明の時代の“黄檗唐韻”という発音方法で読まれ、本堂の伽藍もどことなく中国風。日本では唯一最大のチーク材を使った建物だそうです。
萬福寺といえば、普茶料理(茶礼で饗される中国風精進料理)が有名ですね。この日はいただきませんでしたが、静岡清水の十七夜山荘普茶堂で味わうことができます。
次いで、源氏物語ミュージアム、宇治茶を育てた名水のひとつ桐原水、平等院、朝日焼窯元、上林春松茶舗記念館とお茶にゆかりのある観光スポットを巡りました。
宇治川はビックリするくらい水量が豊富でした。晴天の日曜日、観光客でごった返しで、平等院の門前商店街でお昼をとろうと思っても、どの店も満員札止め状態。東南アジア系と思われるツアー客の多さにもビックリでした。
朝日焼は遠州七窯の一つに数えられる茶器の窯元。器の展示即売をする売店と接待用の茶室がありました。
もっとも一般の観光客でにぎわっていたのは、朝日焼窯元の真向かいにある福寿園宇治工房。お茶スイーツが味わえたり抹茶づくり体験ができる完全な観光スポットです。サントリーとコラボして作ったペットボトル茶「伊右衛門」でおなじみですね。
上林春松茶舗は徳川将軍家の御茶師として庇護を受けた老舗茶商。こちらは日本コカコーラとのコラボ茶「綾鷹」でおなじみですね。
“ずいずいずっころばし♪ 茶壺に追われてどっぴんしゃん 抜けたらどんどこしょ♪ "で知られるお茶壺道中って、上林家が宇治から江戸の将軍家までお茶を運ぶ「茶頭取」を務めていたとか。東海道を進むお茶壺行列を、庶民は直視NGだったため、茶壺が通り過ぎるまで玄関をピシャッと閉め、行列が通り抜けたらやれやれ・・・と歌ったんですね。
我々は、老舗の風格たっぷりの長屋門を活かした上林記念館を訪ね、宇治茶の歴史と上林家秘蔵のお宝を見学しました。こちらは一般の観光客はほとんど来ない、宇治の隠れスポットみたいです。おかげで秀吉や織部直筆の書など貴重な文献をじっくり見ることが出来ました。
最後の視察は京田辺の一休寺 。一休さんが愛した『諸悪莫作 衆善奉行(悪いことするな、善いことをせよ)』という単純かつ究極の禅語が石碑となって迎えてくれました。
もともとの名前は妙勝寺。静岡の井宮出身の大応国師(南浦紹明)が鎌倉時代に創建した禅道場です。その後、戦火で焼け落ち、再建もままならなかったところを一休宗純禅師が再興し、後生のほとんどをここで過ごしました。紫野にある大徳寺住職に請われたのは81歳のときで、京田辺から紫野まで通ったとか。破天荒なお坊さんだと伝えられますが、心身ともに強靭な方だったんですね。
大応国師も一休禅師も、茶道の歴史には欠かせない重要人物であると、望月先生の講座で再三教えていただきました。
大応国師は1267年、中国浙江省の径山寺から台子(茶道具を置く棚)等を持ち帰っています。この径山寺、古くから「茶宴」と呼ばれる僧侶の茶道会が開催され、名人の書画や花を生け、茶を仏像にささげた後、“きき茶”を楽しんだとか。大応国師が持ち帰ったこの茶宴文化の要素が、日本の茶道の基礎となっていったのです。ちなみに栄西が茶の種を持ち帰ったのが1191年、聖一国師が茶の樹を持ち帰ったのが1241年です。
大応国師は日本で初めて、天皇から「国師」の称号を授かった僧でした。“先輩”の聖一国師は亡くなってから30年余後に授かりました。禅宗の偉大な国師2人が静岡出身だなんて、静岡市民にどれほど知られているでしょうか(かく言う自分も、大応国師のことは京都興聖寺の和尚さんから教えてもらいました・・・)。
大応国師と、その弟子で大徳寺を開いた大燈国師、さらにその弟子で妙心寺を開いた関山慧元の3人が、禅宗(臨済宗)を確立させた法系“応燈関(おうとうかん)”と称されています。禅に興味のある人は覚えておくとタメになるキーワードです。
一休禅師は、侘び茶の創始者として知られる茶人・村田珠光の、禅の師匠にあたります。能や連歌、そして一休から禅を学んだ珠光は、茶禅一味の精神を追究していきます。1450年頃のことです。
当時の茶の湯は、足利将軍や有力大名たちが財力にモノを言わせ、御殿の書院で唐物(輸入品)を珍重して飾り立てる、いわば特権階級の“Tea ceremony”だったようですが、珠光が目指したのは、“The way of Tea”―茶の道。
好んだ茶室は四畳半の草庵で、床の間には高僧の墨蹟。連歌に謳われるような、「月は(パーフェクトムーンではなく)雲が少しかかったぐらいの、不完全な風情がよい」というような美意識が、侘び茶という新しい喫茶文化を生み出し、武野紹鴎を経て、千利休によって完成された・・・つまり、茶道の原点に一休禅師の存在も欠かせなかったと言えるわけです。
一休寺方丈は加賀城主前田利常が大坂の陣の時、木津川に陣をしいてこの寺をお参りしたとき、荒廃していたのを歎いて慶安3年(1650)に再建。方丈を囲む名勝庭園は、松花堂昭乗の作といわれています。松花堂弁当の起源となった江戸初期の僧ですね(こちらを参照)。
後世に造られた、調和の取れた庭や方丈を眺めても、破天荒だった一休さんの面影は浮かんでこなかったのですが、宝物殿に収められていた一休さんの直筆を見たら、常人ではない人となりが伝わってきました。
大応国師が最初に創建した頃の禅堂、一休禅師が再興した頃の仏殿は、どんな風情だったでしょうか・・・。
旅の締めくくりは、東山通り沿い、泉涌寺や新熊野神社近くにある望月先生御用達の魚食堂『魚市』で、夏の風物詩・はも料理を堪能しました。
この店はなんと、一年中、はもが食べられるそうです。店構えは商店街の大衆的な食堂で、店頭にお惣菜なんかも売られていて、一人でも気軽に入れる雰囲気。望月先生がオーダーしてくれた「はもの落とし御膳」は、はものうざく、揚げはも等、珍しいはも料理が松花堂弁当のように盛られています。おなじみ・はも落としは、梅肉ではなくワサビ+甘酢でさっぱりいただきます。
これは冷酒がなければ!と注文した京都の純米酒は、静岡酒に飲みなれている者にとっては甘めでくどい・・・。常温(たぶん日本酒度の高い普通酒か本醸造)のほうが食中酒としてピッタリでした。
あ~あ、日本酒選びって難しいなあ~。ってか、それが旅の最後の感想か(笑)。
とにもかくにも望月先生、参加してくれたみなさん、ありがとうございました&おつかれさまでした。
この会は毎月第2・第4水曜夜、静岡県男女共同参画センターあざれあで活動中で、茶道の心得がなくても、どなたでも参加できます。我々もほとんど、未だ、袱紗さばきも満足にできないレベルです(苦笑)が、日本人、とりわけ茶どころ静岡の人間が身につけてしかるべき和の文化の教養や精神を学ぶことが出来ます。望月先生は外国人や学生に茶道を指導されるので、英語を交え、合理的で解り易く教えてくださいます。
楽しい課外授業も定期的に開催しますので、興味のある方はご一報くださいね。