杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

一縷、千鈞を繋ぐ

2021-08-09 09:22:46 | 白隠禅師

 8月7日(土)、長野県飯山市で開催された正受老人三百年遠諱記念展と、記念講演会『正受老人を想う』に参加しました。講演会の講師は臨済宗円覚寺派管長・花園大学総長の横田南嶺老大師です。

 横田老大師のご講演は何度か拝聴していますが、禅の深い話でも一般人にも解りやすく、落語を聴くように親しみやすく、“深い話を軽やかに、でも後からジワジワ染み入ってくる” という、私が物書きとして理想とする表現を話術で実践されている方。記念事業は没後300年にあたる昨年開催予定だったのがコロナ禍で一年延期。今回も感染拡大状況下で県外から参加することに躊躇しましたが、開催ならば横田老大師のお話は何度でもうかがいたいとの思いで、車で往復8時間、ひとっ走りしてきました。

 

 正受老人(1642~1721)は2017年のこちらの記事で紹介したとおり、白隠さんを厳しく指導し、大悟に導いた禅僧。真田信之を実父、飯山藩主松平忠倶を養父に持つ人で、13歳のとき「そなたには観音様が憑いている」と言われ、16歳のとき、階段から転げ落ちたのがきっかけで悟りを得て仏道へ。江戸で修行の後、故郷の飯山に戻って藩主が建てた正受庵の住持となり、80歳で亡くなるまで生涯を過ごしました。67歳のとき、当時24歳の白隠慧鶴がやってきて、わずか8カ月の修行期間ながら、のちに「此の人なくして白隠なし」と言わしめたのでした。

 2017年の白隠禅師遠諱250年記念『正受老人と白隠禅師』展を鑑賞した際、ひととおりのことは学んだつもりでしたが、今回、横田老大師のお話をうかがって老人のお人柄が一層深く理解でき、また「一縷、千鈞を繋ぐ」という言葉を知って、この師弟の存在価値を改めて噛み締めました。

 

 まずは、正受老人の呼び方。講演会主催者の飯山市教育委員会は、地元で昔から定着している「しょうじゅろうじん」呼称で、私自身も何の疑いもなく、ずーっと老人を「ろうじん」と呼んでいましたが、横田老大師は「ろうにん」とおっしゃいました。仏門では、教団組織から離れ、一庵主として生涯を送った人のことを老人=ろうにんと呼ぶということを、今回初めて教わりました。

 「正受」は、楞厳経という経典にある「正受三昧」という言葉から。老人の正式なお名前は「道鏡慧端禅師」です。今回の三百年遠諱事業で臨済宗大本山妙心寺(京都)では、達磨大師(禅宗初祖)、百丈禅師(禅院体制を確立)、臨済禅師(臨済宗開祖)、大燈国師(大徳寺開山)、無相大師(妙心寺開山)等の歴代祖師の位牌を祀る祖師堂に、道鏡慧端禅師の位牌も安置することになり、入牌祖堂法要が厳かに執り行われました。

 信州飯山の一庵主にすぎない正受老人が、禅宗の歴史に名を刻む祖師の扱いを受けたのは、正受老人が育てた白隠禅師が、江戸期に衰退していた臨済禅の教えを復興させ、禅宗中興の祖となったからに他なりません。ところが、白隠さんが正受老人のもとで修行したのはわずか8カ月。この間、松本の別のお寺にも修行に行っていたので、実質6カ月ぐらいだそう。正受老人から「もう一度修行に来なさい」と念を押されても、白隠さんは正受老人が生きている間は一度も訪ねませんでした。・・・改めて考えてみると、24歳の白隠慧鶴が8カ月で一体何を経験したのか、がぜん関心が湧いてきます。

 

 正受庵を訪問する前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然悟りを得た慧鶴は「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。初対面で慧鶴が自作の漢詩を見せたところ、押し問答となり、老人は慧鶴の鼻頭をおさえつけて「鬼窟裏死和(穴蔵禅坊め)」と罵倒します。

 老人からさまざまな公案(禅問答)を出され、答えに窮すると「鬼窟裏死和」と罵られ、論戦問答の徹底抗戦に挑んだときも拳で何度も殴られ、堂外の階段から蹴落とされてしまった慧鶴。苦悶の日々を送る中、飯山の城下へ托鉢に出かけ、町の老婆から「あっちへ行け」と追い払われても恍惚として立ち続けます。怒った老婆に竹箒で殴られたところ、気を失ってダウン。目が覚めたとき、公案の真意が理解できたと直感し、正受庵に戻ると、その表情を見た老人が「お前さん、解ったな」とひと言、声を掛けたそうです。・・・なんだか昭和のスポ根漫画の一コマみたいですね!

 

 その後、正受老人から「私の後を継いでこの庵に住しなさい」「お前が私と同じ年齢になったとき禅を盛んにしている姿を見たい」と言われる師弟関係になったのですが、越後の修行仲間が慧鶴を追って正受庵にやってきて、托鉢修行もせずに食を貪る様子に「このままでは清貧な老人の行道の妨げになる」と考え、慧鶴は仲間を引き連れて駿河に帰ることにしました。

 別れの日、老人は慧鶴に「全力を尽くして優れた弟子を2人育てなさい。ホンモノの法嗣が出来れば禅は甦る」と激励したそう。師弟は再会することなく、13年後、白隠慧鶴37歳のとき、正受老人は80年の生涯を閉じました。晩年、老人は慧鶴が再訪しなかったことについて「そんなもんだ」と答えたそうです。素っ気ない言い方ですが、なんだか禅っぽいなぁ。

 白隠慧鶴は42歳のとき、法華経を訓読中、コオロギの鳴き声を聞いて真の悟りを得たといわれますが、このときの心境は「正受老人の平生受用を徹見」。老人が日頃、実践していたことの意味にようやく気づいた、と横田大老師は解説されました。

 

 

 最古の仏典の一つで、釈迦の論語集とも言われる『法句経』に、

〈愚かな者は生涯賢者に仕えても真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることがないように。〉

〈聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。〉

という教えがあります。

 また雲外雲岫禅師(1242~1324)が弟子に伝えた『宗門嗣法論』に、

〈法を嗣ぐ者には三有り。怨みに嗣ぐ者は道に在り。恩に嗣ぐ者は人に在り。勢いに嗣ぐ者は己に在り。〉

と書かれています。

 横田大老師は「仇のように怨みに思う関係にこそ真の教えが伝わる。厳しい世の不条理に耐えるためにも」と解説されました。現代風の「褒めて伸ばす」というような指導方法とは真逆で、師が弟子に怨まれるくらい徹底して厳しく鍛えなければ、江戸当時、形骸化し衰退していた禅の真の教えは伝わらない・・・そんな覚悟が正受老人にあり、慧鶴には瞬時に真理を知る舌が備わっていると見抜いたのですね。

 

 鎌倉期に栄西禅師や聖一国師をはじめ、中国大陸からやってきた多くの優れた渡来僧によって確立された禅は、室町~戦国の時代、朝廷や武士階級の手厚い保護で守られてきました。禅の教えの厳しさが、厳しい時代を担う人々の琴線に触れ、生きるよすがとされたのでしょう。泰平の世となった江戸時代に必要とされなくなったというのも自然の道理だったのかもしれません。そんな時代に在っても、心ある修行者は「一縷」の望みを「千鈞を繋ぐ」ような思いで、法嗣の灯を守り続けていたのです。

 

 そして幕末。日本が再び、厳しい変革の時代を迎えたとき、朽ちかけた正受庵の再興に力を尽くしたのが、かの山岡鉄舟でした。ご存知のとおり、徳川慶喜の江戸城無血開城の意を命がけで駿河の地で西郷隆盛に伝え、日本の行く末を、まさに「一縷、千鈞を繋ぐ」思いで実践した人。維新後は旧幕臣でありながら西郷の推薦で明治天皇の侍従となりました。

 清水の鉄舟寺を訪ねると解るように、山岡鉄舟は白隠禅師に「正宗国師」の称号を与えるよう明治天皇に進言したほど禅の道に精通した人でもあります。当然、「此の人なくして白隠なし」と言わしめた正受老人の顕彰にも尽力し、明治初期当時、廃仏毀釈のあおりで廃寺となっていた正受庵の再興を長野県令に直談判し、庵は明治17年(1884)に再興が認められました。

 飯山市美術館で開催中の正受老人三百年遠諱記念展で、ひときわ印象に残ったのが、正受庵の襖に揮毫されていたという鉄舟の計8幅の墨蹟。鉄舟の同志である高橋泥舟の書も多数展示されていました。2人は再興の費用を捻出するために熱心に募金活動も行ったということです。

 

 振り返れば、正受庵を建てたのは遠州掛川から信州飯山へ移封した松平忠倶公であり、再建したのは駿府ゆかりの山岡鉄舟であり、正受老人の名を禅宗史に刻んだのは駿河生まれの白隠慧鶴禅師。飯山市美術館で展示物に見入っていたとき、声を掛けてくれた係の男性に「静岡から来ました」と話すと、その男性はパッと明るい表情になり、大本山妙心寺で執り行われた入牌祖堂法要の内部資料まで見せてくれました。・・・飯山まで来て本当に良かった、と胸をなで下ろしました。

 

 正受老人三百年遠諱記念展は飯山市美術館で9月12日(日)まで開催中です。詳しくはこちらを参照してください。

 

 

 

 

 

 

 

 


白隠演談とトークの夕べ@禅叢寺ご案内

2019-11-11 20:28:33 | 白隠禅師

 私が数年前からお世話になっている静岡市清水区上清水の禅叢寺(ぜんそうじ)で、11月17日(日)18時から、『白隠演談とトークの夕べ』というイベントが開催されます。

 第一部では静岡県舞台芸術センターSPACの看板俳優・奥野晃士さんが、白隠禅師の逸話を動読(動きを取り入れた朗読)し、第二部では奥野さんと私とで白隠さんや禅叢寺の歴史についてトークします。トークといっても、奥野さんも私も白隠禅の専門家ではないので、禅叢寺の和尚さんや歴史に詳しい檀家さんにも加わっていただき、みんなで白隠さんや禅叢寺について理解や認識を共有できたらと考えています。

 どなたでも参加できますので、お時間のある方はぜひお越しください!

 

 禅叢寺は一般拝観できる観光寺ではないので清水区以外の人はご存知ないかもしれませんが、清水では清見寺や梅蔭寺に次ぐ格式を持ち、白隠さんが出家後、初めて修行したお寺。創建は平安時代で、現在、本堂にお祀りする御本尊釈迦如来は、調査の結果、10世紀(創建当時か)の作と判明しました。修復の手が加わっているので文化財指定にはならないそうですが、国立博物館蔵品並の価値はあると思います。

 寺は一時衰退しましたが、戦国時代に今川家の配下にあった岡部美濃守が再興し、鎌倉建長寺より雪心和尚を開山に招きました。岡部氏に仕えていた軍師山本勘助の武具も伝わっていたそうです(太平洋戦争で焼失)。雪心和尚の弟子で2代住職となったのが九岩和尚。この方、織田信長のひ孫にあたる御仁です。幕末には幼い清水次郎長が寺子屋修行に来て、やんちゃが過ぎて退塾させられたりと興味深いエピソードもたくさん。お寺の沿革については私が執筆させていただいた禅叢寺のHP(こちら)をぜひご一読ください。

 

 さて沼津・原の裕福な商家に育った慧鶴(白隠)は、幼いころに見た地獄絵図がトラウマになって、どうしたら地獄の苦しみを克服できるだろうかと思い詰め、原の松蔭寺で出家し、19歳から23歳まで全国各地で雲水修行をします。その最初の修行先が禅叢寺でした。

 慧鶴19歳の元禄16年(1703)当時、禅叢寺は千英祚円(せんえいそえん)和尚が住持を務めており、衆寮(しゅりょう=禅寺の研修場)に多くの修行僧が掛塔(かた=僧堂に籍を置く)していました。

 千英和尚がどういう方だったのかは、当日、禅叢寺の和尚さんに直接教えていただくとして、多くの修行僧が書物を読んで文字で理解しようとしていた中、慧鶴だけはひたすら礼拝誦経していたそう。ある日、千英和尚が講義で『江湖風月集』という中国宋代の著名な禅僧の詩偈(しげ=仏教の詩)を提唱し、その中に登場する唐の時代の巌頭(がんとう)という高僧に関心を抱いた慧鶴は、『五家正宗賛』という禅僧列伝書で巌頭和尚のことを調べてみたら、なんと巌頭の末期は盗賊に首を斬られ、その断末魔の叫びが数十里にわたって響いたことを知ります。「禅門の鶯鳳と誉れ高い巌頭和尚が、盗賊の難を避けられなかったのなら、自分のような若輩者が地獄の苦しみから逃れられるはずもない」と絶望感に陥り、修行を続けるべきか否か大いに悩んでしまいます。

 『白隠禅師年譜』によると、慧鶴は修行なんか意味ない、やりたいことをやって毎日愉快に過ごすがいいと開き直ってしまい、「詩文に耽り、筆墨を事とし、大いに外道の考えを起こし、時には魔群の業を習った。経や仏像を見るごとにはなはだしく厭悪感を生じた」とのこと。外道、魔群ってどんなヤンチャをしたんだろうとついつい想像してしまいますが、とにかくこの年、禅叢寺に逗留して漢詩文や書道を習い、後世に華開いた文才・画才の芽を育てたのだろうと思います。

 ちなみに1702年12月14日に赤穂浪士の討ち入りがあり、慧鶴は清水湊で『赤穂廼錦東枝雪』というお芝居を観て、このとき橘屋佐兵衛の娘と出逢い、恋に落ちた云々という逸話があるそうです。赤穂事件の翌年に清水で早くも舞台化されていたなんて眉唾モノですが、慧鶴が修行に行き詰まって横道に逸れたことを連想させるお話ですね。

 

 慧鶴は翌年の春、詩文の大家と噂の美濃・瑞雲寺の馬翁宗竹和尚を訪ね、掛塔します。当時の瑞雲寺はたいそうな貧寺で、おまけに馬翁和尚は“美濃の荒馬”と呼ばれるほどのパワハラ和尚。弟子がなかなか居着かなかったそうですが、進路に悩んでいた慧鶴は馬翁和尚のもとでしばらく詩文の修業を続けます。

 ちょうど土用の虫干しの季節になり、本堂には数多くの書物がうずたかく積まれていました。それを見た慧鶴は「儒学、仏経、老荘、あるいは諸家の道、自分はどれを師としたらよいか、正路を示したまえ」と目を閉じて手にした一冊が『禅関策道』という明の禅僧の書物。そこに、慈明楚円という高僧が坐禅中に眠くなったらキリで股を突き刺したという故事を見つけ、慧鶴はハッと目が醒めて猛省し、ふたたび禅道一筋に生きる決意をしたということです。

 

 白隠さんがもし生きていたら、禅叢寺と聞けば「若い頃の恥ずかしい思い出」にされるかもしれません。確かに瑞雲寺や、24歳のときに最初に悟りを得たとされる越後高田の英巌寺、正受老人に慢心を見透かされ打ちのめされて修行のやり直しをした信州飯山の正受庵等と比べると、白隠さんにとってどういう修行先だったのか、年譜を読んだだけでは判断できませんが、この寺で若き慧鶴が禅僧としての生き方に悩み、苦しみ、書や文学に没頭したのかと思うと、なんとも愛おしい思いが湧いてきます。白隠さんは最初から『駿河に過ぎたる白隠』じゃなくて、一生懸命悩んで苦しんで修行して、あの白隠さんになったのです。

 

 今回の白隠演談では、故郷の松蔭寺住職となってからの白隠慧鶴の逸話を、24歳のときの信州飯山での正受老人とのエピソードを挟みながら、奥野さん&禅叢寺の奥様&新命和尚&スタッフの計4人による動読でお楽しみいただきます。

 休憩時間には日本茶インストラクターの大川雅代さんによる呈茶サービスも。水は「清水」の地名の由縁となった禅叢寺の井戸水と、沼津在住の大川さんが白隠正宗の蔵元・高嶋酒造の仕込み水を汲んで来てくださる予定です。

 私が関わる会でお茶だけじゃ物足りないと言われるかもしれませんので(笑)、飲酒OKの人には地酒『白隠正宗』と、禅叢寺開基の岡部美濃守の出身地である藤枝市岡部の地酒『初亀』も用意しようかと思っています。

 事前申し込みは不要ですので、当日時間までに直接お越しください。なお駐車場は台数に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用ください。静鉄電車『入江岡』より徒歩6~7分。アクセス方法は禅叢寺HPのこちらを参照してください。お待ちしています!

 

 

 


Tabi tabi 4号 ~白隠が白隠になったまち

2018-09-21 13:57:03 | 白隠禅師

 静岡新聞社から春と秋に発行される旅の文化情報誌『Tabi tabi』第4号~しずおか温泉三昧が本日(9月21日)発売となりました。

 私は毎号、しずおか今昔物語というコーナーで静岡の歴史について書かせていただいており、今回は、当ブログの前記事でも触れた白隠禅師を取り上げ、白隠さんが生涯を過ごした沼津・原というまちについて紹介しました。

 

 執筆にあたっては、過去参加した白隠さん関連の講座・セミナーでの知識、その備忘録としてまとめてきた当ブログ記事が役に立ったのはもちろんのこと、駿河白隠塾でご一緒させていただく原の郷土史家・望月宏充先生、ご存知『白隠正宗』蔵元杜氏の高嶋一孝さんに、原というまちとの関係性について貴重な助言をいただきました。私レベルの書き手の原稿に、白隠禅画の画像使用は(予算的に)無理だったため、望月先生には大正時代の松蔭寺写真絵葉書を、高嶋さんには白隠画を使用したお酒のラベルをお借りするなど、お2人がいなければ誌面が成り立ちませんでした。好きで始めた白隠学習と地酒取材での人脈がこういう形で役に立つとは、ほんとうに、人生に無駄な道はないなあとしみじみ思います。

 ネタ元となったのがこちらのブログ記事です。興味がありましたらぜひご覧ください。

 〇「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師(こちら

 〇白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額(こちら

 〇普賢象と白幽子(こちら

 

 

 なお、9月27日(水)から10月13日(土)まで白隠展2018inぬまづ(沼津市主催)が沼津市立図書館4階展示ホールで開催されます。松蔭寺所蔵の白隠禅画を沼津市内の施設では初めて展示するそうですので、お見逃しなく! 私は10月2日(火)、10月10日(水)13時から18時30分まで受付ボランティアをやります。平日ですが、お時間の許せる方はぜひ遊びにいらしてくださいね。

 

 さらに9月29日(土)10時30分から沼津市立図書館4階視聴覚ホールで、芳澤勝弘先生の講演会『駿河白隠塾フォーラム/白隠下の師承について』(一般2000円)が開催されます。おなじく12時45分から15時まで特別講演会『松蔭寺の歴史と文化財』『西洋における白隠禅師の理解』(参加無料)も開催されますので、興味のある方はぜひ。詳しくは駿河白隠塾フェイスブックページ(こちら)を。

 


沼津と飯山の白隠熱

2017-09-16 17:34:38 | 白隠禅師

 今年は白隠禅師がお亡くなりになって250年の遠忌にあたるということで、全国各地で白隠さんの顕彰事業が開催されています。地元の沼津市立図書館では『白隠展2017inぬまづ』が9月21日(木)まで開催中。私も昨日(15日)、受付のお手伝いに行ってきました。

 図書館のパブリックスペースで誰でも無料で鑑賞できるとあって、図書館利用者や買い物帰りの市民の方がフラッと立ち寄ってこられました。「沼津市民として白隠さんのことを知らなきゃ恥ずかしいと思って」という方も多く、高齢の男性から「意味がわからんから解説してくりょ」と言われて四苦八苦しながら、芳澤先生の本や講座で聞きかじった乏しい知識をフル稼働。賛は読めてもどういう意図で描かれたのか素人には皆目わからず(すらすらわかったらお坊さんか学者先生になれますよね)、そのおじいちゃんと一緒に「どんな深い意味があるんでしょうねえ…」と頭をウニウニさせちゃいました(笑)。

 事情通と思われる白隠ファンの男性からは、展示品が誰の所蔵かと鋭く突っ込まれ、「個人が所蔵している白隠画はごまんとある。自分の家にも5枚ある。でもそれを(相続の関係で)公にしにくい事情がある。地元沼津で、個人蔵の白隠画が気軽に展示できる場所や機会がないものか」と真摯な意見をいただきました。

「自分もそうだが、沼津では寺も市民も“わたしの白隠さん”という思いが強い。思いが強すぎて軋轢を生むこともある」と男性。研究者がロジカルに解析・分析する世界とは違う、白隠さんを身近に感じて暮らしてきた地域の人々のマインド(こころ)の世界の話、ですね。現代人にもそれほどまでに影響力を残す白隠さんってやっぱりすごい存在感です。

 私のように外から入り、まずロジカルに理解しようとしている人間も、“わたしの白隠さん”に誇りを持つ地元の人々と、同化はできなくてもマインドを尊重し、誠実に寄り添わねば、当然、軋轢は生まれるでしょう。白隠さんに限らず、私が関わる酒の世界でも、愛好者同士で「マインド」と「ロジカル」がぶつかることは多々あり、知識があってもひけらかさず、どんな相手とも心地よく酔っぱらうことができるバランス感覚って大事だなあとつくづく思います。

 沼津には白隠さんと直接接点を持たない市民、ロジカルな理解を必要とする市民も大勢います。「マインド」と「ロジカル」それぞれ得意な人たちが相互に補完し合えるようになれば理想的でしょう。取材を生業にしている自分に出来ることといえば、地元の人々が知らない国内外の白隠さんの偉大な足跡を丁寧に紹介することくらいかな。その上で沼津の人々と「だから白隠さんって素晴らしいんですね」と共に顕彰しあえる環境を作れたら、と願います。

 

 そんなこんなで、沼津展が始まる直前の9月10日、長野県飯山市の飯山市美術館で開催された『この人なくして白隠なしー正受老人と白隠禅師』の最終日にギリギリ間に合い、念願の正受庵を訪問しました。

 

 

  正受老人(1642~1721)は、白隠さんが24歳のときに師事した信州の高僧です。父は、真田幸村の兄にして松代初代藩主真田信之。大河ドラマ『真田丸』では大泉洋さんが演じ、正妻稲姫(吉田羊さん)に頭の上がらない恐妻家として描かれましたね。稲姫が亡くなった後、側室を迎えてもうけた子で、飯山城内で生まれ、城中で真田家の血を引く武士として厳しく育てられましたが、13歳のときに出合った禅僧に「貴方の身体には観世音菩薩がいる」と言われ、仏門を志すことに。藩主の参勤交代に同行して江戸入りし、江戸の至道庵で出家して25歳のときに飯山へ戻りました。

 かの徳川光圀公から「水戸へ来てくれ」とスカウトされたこともあったそうですが、初代飯山藩主松平忠俱が正受庵を建てて実母・李雪と暮らせるようにし、80歳で亡くなるまでこの地でひたすら禅道に生きました。ちなみに松平忠俱は遠州掛川藩主から飯山藩主に移封された人物です。

 正受庵(長野県史跡)は、江戸の至道庵、犬山の輝東庵とともに“日本三大庵”に数えられる素朴で美しい草庵。映画「阿弥陀堂だより」のロケにも使われたそうです。真田家の六文銭マークがさい銭箱にしっかり刻印されていました。

 

 白隠さんは24歳のとき、正受庵を訪ねます。訪問前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然大悟を得て、「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。その天狗面に“大喝”を食らわせたのが正受老人で、「ど盲坊主め」とか「あぶないあぶない、子どもが井戸をのぞいているようだ」とかコテンコテンに罵倒します。

 ある時、真剣問答に挑もうと近づいた白隠さんの気配を察した正受老人は、白隠さんがひと言発する前に三十棒を打ち食らわせ、石段から突き落としたそうな。泥まみれで起き上がることもできない白隠さんの天狗の鼻っ柱は見事にくじかれ、8か月間、正受庵でみっちり修行しました。正受老人のスパルタ教育によって性根を入れ替えた白隠さんは坐禅にますます没頭し、とうとう禅病(うつ病)を患い、京都の仙人白幽子に内観の秘法(道教の教えをベースにした瞑想・イメージトレーニング)を授かって気力を取り戻し、真の悟りを得た。白隠さんにとってまさに「この人なくして・・・」という存在だったのですね。

 

 飯山市美術館の展覧会は、出品点数40点あまりと、さほど多くはありませんが、長野県内の寺院が所蔵する白隠書画の傑作がズラリ並びました。持ち帰り自由の正受老人の解説資料も充実。売店コーナーでは正受庵所蔵の白隠さんの『おふじさんの初夢』が紙本となって売られていました。1部1000円。額に入れて飾れば、立派な“わたしの白隠さん”です。

 

 正受老人は山奥の草庵で、実母と二人、ひっそりと仏法に生きた人。白隠さんのように鼻っ柱の強い修行僧や剣豪がたびたび訪れては挑戦しかけるも、あるときは団扇1本で竹刀をはらうなどさすが真田家の血を引いた御仁、ただならぬ雰囲気をお持ちだったのでしょう。一方、白隠さんは東海道の宿場町の問屋で生まれ、ガヤガヤと人が行き交う街道の寺にあって多くの衆生に伝道し続けた。膨大な書画や書物が残っているのも、「動中工夫勝静中」をまさに地で生きたからですね。

 お二人を比べると、生まれ育った環境というものが禅僧としての生き方に少なからず影響を与えていることが、なんとなくわかります。

 白隠さんの顕彰の仕方も、沼津と飯山ではやはり違う。当然だろうと思います。私がこれまで訪ねた京都、宮城、広島福山、美濃とも違う。自分のこれからの視座は、白隠さんを通してそれぞれの地域がどういう地域社会だったのか、白隠さんが生きた時代の日本がどうだったのか、そこから現代の我々が読み取れるものがあれば探っていきたい・・・そんなふうに思います。

 

 間際のご案内で恐縮ですが、白隠展2017 in ぬまづ開催中の9月18日(月・祝)には、13時30分から芳澤勝弘先生の記念セミナーがあります。沼津市立図書館4階視聴覚ホールにて。事前申し込み不要・入場無料です。

 10月1日には、駿河茶禅の会を通して親しくさせていただいているSPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優の奥野晃士さんが、清水の但沼・東壽院で「白隠演談とトークの夕べ」を開催されます。郷土の歴史を題材にした動読(演技や音楽を付けた朗読)パフォーマンスで活躍中の奥野さんから、いよいよ白隠さんを取り上げるとうかがい、出来る限りのアドバイスもさせていただきました。白隠さんのことをよく知らない人にとってはこの上ない学びの機会になりますし、奥野さんは今後も白隠さんとご縁のある寺院で動読活動を広げていきたいとおっしゃっていますので、ぜひ協力していただければと思います。

 10月1日白隠演談はこちらへメールでお問い合わせを。街援隊アートムーブ gaientai.am@gmail.com

 奥野さんの活動はブログ(こちら)をご参照ください。


直虎の国に橋を架けた白隠さん

2017-08-29 19:29:47 | 白隠禅師

 今年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、過去のドラマや映画ではあまり取り上げられなかった桶狭間以降の今川家を取り上げ、ヒール役ながら寿桂尼や今川氏真が存在感をもって描かれています。8月10日には静岡音楽館AOIで、氏真を演じる尾上松也さんが司馬遼の「龍馬がゆく」を朗読された舞台を観に行きました(松也さんの本名は龍一さんで、ご両親が龍馬の舞台に出演されていたご縁で命名されたとか)。ドラマでは今川館が焼かれてしまって氏真も散々な目に遭っていますが、「撮影はまだ残っているので楽しみにしてください」とおっしゃっていました。

 

 今川家初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。

 西尾市は現在、抹茶生産量日本一。〈宇治抹茶〉が冠につく菓子商品の大半は、実は西尾の抹茶を使っているそうです。この地には13世紀に実相寺(吉良家の菩提寺)に茶種が持ち込まれ、江戸時代に紅樹院住職の足立順道が本格的に抹茶栽培を始め、矢作川沿岸の台地に茶園を開拓し、茶の文化も醸成されたようです。茶どころ&今川つながりで静岡市と交流があってもいいような気がしますが、あまり聞いたことないな・・・。

 

 井伊家の初代共保は平安時代の西暦1010年、井伊谷にある龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる伝説的な人物で、大河ドラマでも初代を弁天小僧と親しく呼び掛ける井戸のシーンがたびたび登場しましたね。

 井伊家は遠江の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を庇護するなど一大勢力を誇りましたが、徐々に今川氏の圧力を受け、支配下に。22代当主直盛が桶狭間で戦死し、23代直親も今川氏に討たれた後は、ドラマのとおり出家していた直盛の一人娘が次郎法師直虎を名乗って井伊家を切り盛りします。今川氏との徳政令を巡る攻防や家老小野政次の(ドラマでは直虎愛に殉じた)謀反で再三お家断絶の危機に遭うも、直親の遺児・虎松を三河鳳来寺にかくまい、元服後は徳川家に仕えさせ、虎松は直政となって井伊家を再興しました。

 井伊谷は“井の国の大王”が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心に位置し、井伊谷川、神宮寺川の清流が浜名湖に注がれ、周辺には縄文・弥生の古墳遺跡や水にまつわる伝承も数多く残されています。7月末に龍潭寺を訪ねたとき、森の木立の中にひっそりたたずんでいるとばかり思っていた弁天小僧・共保の伝説の井戸が、寺にほど近い田んぼの真ん中に堂々と整備されていたのに驚きました。

 

 

 ところでこの夏、一番頭を悩ませたのは、地下水利用団体の機関誌に3年前から年に1本ずつ依頼されている「水」についての原稿執筆でした。1本目は静岡県の酒造りについて、2本目は静岡県のわさび栽培について書かせてもらいましたが、得意分野を書き尽くしてしまって3回目はどうしようかと水に関する書籍を乱読したものの、今一つ“降りてこない”。大河ドラマで、一族の始祖が井戸から生まれたという伝説を知ってピンと来たものの、井伊家の話を延々と書いても仕方ないし、何か違う角度から考察できないかとネットサーフィンしていたら、ミツカン水の文化センターが発行している文化情報誌『水と文化』に出合いました。

 

 取り寄せたバックナンバー水の文化11号「洗うを洗う」の、宗教学者山折哲雄氏のインタビュー記事〈涙はなぜ美しいのか~風土、宗教、文明から見る水の浄化力と浄めの文化〉が目に留まりました。

 氏がイスラエルのキリスト巡礼地を訪ねたところ、イエスが洗礼を受けたヨルダン川は水がちょろちょろと流れる小川で、伝道活動も水が極端に乏しい砂漠地域。エルサレムはまるで砂漠の廃墟の上に建つ楼閣に見えたそうです。

「水が欠乏している風土、つまり砂漠に生きる人々にとって、唯一価値のある源泉は地上にはない。地上には何もない砂漠だからこそ、天上の彼方に唯一の絶対価値を求めるようになる。一神教の風土的背景はまさにここにあると思う。これは理屈ではない。行ってみたら実感として分かる」

「水の有無というのは、そこに住んでいる人間の信仰から死生観、自然観から美意識まで、何から何まで方向づけている決定的なもの。水は人類の文化や文明のもっとも根底に横たわっているものではないか」

 

 仏陀もインドとネパールの半砂漠地帯で伝道し、マホメットも砂漠地帯で預言者になりました。「今から2千年~2千5百年前は地球が急速に砂漠化した時代。人類を救済する優れた宗教はそのような厳しい風土の中から生まれた」と山折氏。それに引き換え、山川草木に恵まれ、砂漠化することもなかった日本では、天上の彼方を仰ぎみなくとも地上の至る処に命が宿り、神や仏の声を感じることができたでしょう。仏陀やイエスが生まれる前のはるか縄文時代から、一木一草に神が宿るという原始神道が存在した。それら万物の命の源が「水」なんだな、と改めて深く感じ入りました。

 

 井伊家の伝説を口切に〈人類の文化や文明の根底に横たわる水〉という途方もないテーマに突っ込んでしまいましたが、できるだけ自分自身が見聞した具体例で考察したいと思い、実際に訪ね歩いた京都の名水スポットや、駿河茶禅の会で拝見した名水点前をピックアップ。草稿を仕上げたところで、8月27日に引佐奥山方広寺の夏期講座に参加し、安永祖堂大師による白隠禅師坐禅和讃の解説で、またまたピンと来ました。

 

 

 禅宗の法事では必ず唱和する有名な『白隠禅師坐禅和讃』は、こういう一節から始まります。

 

 衆生本来仏なり 水と氷の如くして 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 

 衆生本来仏なり(生きとし生けるものすべて、本来、己の中に仏を備えている)とは、一木一草に神が宿るという原始神道にも通じる意味だと思います。

 水は形のないもの=仏(悟り)、氷は水が器(決まった環境や条件)に入って固形化したもの=人間(煩悩)を指します。つまり人間はもともと素晴らしいのに、自分自身で囲いを作って固めてしまい、がんじがらめになる。それでも水と氷は本来同じものだから、氷(煩悩)が大きければ大きいほど融けたときには大量の水(大いなる悟り)となるんだよ、という白隠さんの深い呼びかけなんですね。

 「ほとけ」という言葉は、とける(ほどける)が語源ともいわれるそうです。氷が融けて水(ほとけ)になるんだ・・・何やら心にスーッと入ってきました。

 

 

 続く芳澤勝弘先生の白隠禅画解説で、先生が方広寺のしおりを忘れずに読んでくださいとおっしゃるので、休憩時間にしおりをもらったら、「井伊谷に新橋二つを架けた白隠禅師」という巨島泰雄氏(方広寺派宗務総長)の記事を見つけました。

 れによると、白隠禅師は寛保2年(1742)、井伊家初代共保の650年遠忌法要のため、井伊谷を訪ねています。龍潭寺そばの川は再三の大雨で橋が流され、白隠の輿は修行僧たちが肩まで水につかりながら必死に担いだ。法要の後、白隠は寺が用意した施入銭(謝金)40両全額を募金に回し、「みなが力を合わせ、日をかけて浄財を募れば必ず橋はできる」と発願。2年のうちに新橋が2本完成し、人々は昭和の太平洋戦争の頃まで「白隠橋」と呼んでいたそうです。

 

 芳澤先生訳注の『白隠禅師年譜』で確認したら、こう書かれていました。

「寛保二年の秋、遠州井伊谷、万松山龍潭寺の招きに応じて出かけた。矢畠川というのが東南に流れていた。七八人の人夫が左右に分かれて籠を護りながら、この川を渡る。迎えに来た僧俗も、みな裾をからげてこれに随う。水は股半ばに達している。みな緊張して、恐る恐る渡ったのだが、『この川にはどうして板橋もないのであろうか』と思ったのである。三四日後、東隣の実相寺に行くことがあって、またこの川を越えた。駕籠かきの話では、この川はひと月に二度も三度も溢れることがあり、溺れる者がしばしあり、時には死者も出るという。そこで、重ねて思ったのである。『道路を直したり橋をかけることは、善縁徳行の最たるもの。皆で力をあわせれば、難しいことではない。少しずつであっても、歳月を累ねるならば、必ず大きな力になり落成しよう。新橋を発起するのも利済の方便となるであろう』と。そこで化縁簿を作り、今回いただいたお布施四貫文をつけ、偈を作って、大通、自耕、元海、円通の四庵主に渡した。ささやかながら、これが端緒となれば幸いである」

 

 恵みの水が時には人の命を奪うこともある・・・そんな井の国の川に、命の橋を架けた白隠さん。浄土では共保や直虎にさぞかし感謝されたことでしょう。今回の「水」の原稿執筆では、白隠さんは想定外でしたが、知ってしまった以上、書かずにはいられません。融けた氷の水の量が思いのほか多かった・・・そんな感じでしょうか。