杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国書偽造事件と白隠禅画

2018-09-17 13:17:39 | 朝鮮通信使

 久しぶりに朝鮮通信使と白隠禅師にまつわるトリビア報告です。

 度々ご紹介しているとおり、私がここ10年ぐらい追いかけているこの2つの歴史テーマを結びつけたのは、地酒『白隠正宗』のラベルに使われた白隠禅師画「朝鮮通信使曲馬図」。思い入れの深いこの画の意味について、去る7月30日に開催された静岡県朝鮮通信使研究会例会で、北村欽哉先生が新しい解釈を発表されました。白隠研究者がこれまで誰も指摘していなかった斬り口で、自分に歴史小説を書くスキルがあったら絶対に書きたい!と思えるほどワクワクする内容でした。

 

 例会の演題は『国書偽造事件と馬上才の派遣』。国書偽造事件はNHKの『歴史秘話ヒストリア』や『英雄たちの選択』等々で取り上げているので、ご存知の方もいると思いますが、おおまかに説明すると、室町時代から日朝外交の橋渡しを担ってきた対馬の島主・宗氏は、交渉を円滑に進めるため、日本の為政者(足利将軍、豊臣秀吉、徳川家康)から朝鮮王に送る国書の文言をところどころ書き換え、ニセの国印まで作ったりしていた。江戸時代に入って対馬藩主となった宗義成と家臣柳川調興の間で争いが生じ、徳川3代将軍家光の時代、柳川が幕府に長年の偽造をリーク。幕閣内で喧々諤々の騒動となり、結果、宗義成はおとがめなし、柳川調興は津軽に流刑となったという事件です。

 国書という最も重要な公文書の改ざんを内部リークしたほうが重く処罰されたのですから、今の感覚ならアカンやろう~と言いたくなりますが、その裏には朝鮮貿易利権をめぐる、自民党も真っ青!の権力闘争があり、白隠さんが描いた「朝鮮通信使曲馬図」にはその皮肉が込められていたというのが今回のお話。

 これまでこの絵を解説した本や図録では、巷で話題沸騰していた朝鮮通信使の馬の曲芸「馬上才」をモチーフに、布袋が瓢箪から曲馬を吹き出す構図で移ろいやすい人の心=意馬心猿を制御したという禅的解釈が大半でしたが、しばしば幕藩体制にするどいツッコミをしていたリベラル派の白隠さんが朝鮮通信使を画題にする際、あえて馬上才を取り上げた真意を裏読みすると、北村先生の❝皮肉説❞も大いにアリだと思えてきます。

 

 先に結論を書いてしまって恐縮ですが、今回のお話の主な登場人物は以下の面々です。

 ①宗義智(そう よしとし)1568~1615/対馬の島主。初代対馬藩主。秀吉朝鮮出兵から家康の和平交渉~朝鮮通信使招聘まで激動の時代に島を支えた。

 ②宗義成(そう よしなり)1604~1657/義智の子。国書偽造事件当事者の一人。

 ③柳川調興(やなぎがわ しげおき)1603~1684/宗氏の家臣。祖父・父とも足利将軍時代より朝鮮貿易貨物管理者として暗躍。10歳のとき徳川家康に気に入られ駿府城で小姓となり、土井利勝ら幕閣実力者と強い人脈を持つ。宗義成の妹を妻に迎えていたが後に離縁。国書偽造事件では津軽藩に流刑となる。

 ④規伯玄方(きはく げんぽう)1588~1661/福岡宗像出身の禅僧。対馬の外交僧として宗義智・義成親子を支え、日本人では初めて秀吉出兵後に漢城(ソウル)訪問。国書偽造事件関与者として岩手南部藩に流刑に。この地に酒や味噌の醸造法、作庭技術、製薬技法等を伝え、方長老と呼ばれて藩主はじめ多くの庶民に親しまれる。晩年許され、大坂で亡くなる。

 

 ご覧いただくと、③柳川調興と④規伯玄方のプロフィールに興味が湧いてきませんか? 調興は駿府城で暮らしていた過去があり、玄方に関しては、南部杜氏のふるさとであるこの地に酒造技術を伝えたのは私のこれまでの取材では、近江商人が南部盛岡藩城下の商業や産業を興し、南部杜氏は近江商人村井権兵衛が池田流を導入したのが始まりだと承知していたので、玄方の存在や関与を知ってビックリしました。

 

 南部杜氏の話は別の機会に回すとして、今回のキモとなるのは、単純な主従関係ではなさそうな藩主宗家と家臣柳川家の間柄です。

 日朝関係史専門の田代和生氏が著した『書き替えられた国書』(中公新書)によると、宗氏はもともと古代末期の律令官人で、武士になって対馬を支配するようになり、14世紀以降、倭寇が朝鮮半島を荒らすようになると李朝政府から倭寇の取り締まりを依頼され、見返りに貿易上の特権を得ます。

 以降、日朝交渉は宗氏の専売特許となり、当時最高の知識人であった禅僧を雇って外交交渉をさせました。宗義智の時代には景轍玄蘇という僧が対馬に以酊庵という庵を建てて、ここをいわば外務省に見立てて国書偽造という禁じ手も使い、日朝修好を円滑に進めたのです。規伯玄方は玄蘇の同郷の弟子にあたり、24歳という若さで以酊庵二代目に。対馬激動の時代を支えた宗義智は48歳で急逝し、その子義成は12歳で家督を継承。玄方は若い当主を全身全霊で支えます。

 

 一方、柳川氏は出自がハッキリせず、出身地の筑紫国柳川にちなんで姓を名乗ったそう。宗氏14代島主に仕えて朝鮮貿易で功績を上げ、対馬郡内で勢力を伸ばします。秀吉が九州を平定したころには、朝鮮の珍品を石田三成に献上して秀吉にも取り入り、秀吉からは冠位を、家康からは本土に領地まで与えられました。国書偽造は、朝鮮事情に精通した柳川氏とGOサインを出した宗氏のいわば共犯作業。朝鮮側から絶大な信頼を得ていた柳川氏は「自分なしには朝鮮貿易は立ち行かないだろう」と次第に増長し、主君宗氏をおしのけて「徳川の直臣として朝鮮外交を担う」という野心を持つように。11歳で家督を継いだ調興は家康に気に入られて駿府城で小姓となり、家康亡き後は江戸に出て秀忠に仕え、神田に屋敷まで拝領したそうです。

 

 ともに若くして家督を継いだ宗義成と1歳上の柳川調興。親世代からの国書偽造という負の遺産を共有する2人でしたが、性格は正反対のようで、朝鮮通信使が2人の印象を「調興はすこぶる怜利(賢い)、義成は癡騃(愚か)」と記録しています。

 家督を継いだ当初、調興は「対馬みたいな僻地には興味ない、オレは江戸で出世するんだ!」と思っていたようですが、義成の母に「息子を支えてくれ」と頼まれ、しぶしぶ忠誠を誓い、義成の妹宮姫を妻に迎えます。その代り、徳川仕込みの世渡り術を身に着けていた調興は、対馬藩内で自分の意にそぐわない重臣を次々と失脚させていきます。義成が最も信頼していた重臣吉田蔵人に横領の罪をかぶせる際は、幕府老中の威光まで利用し、吉田は切腹に追い込まれます。さすがの義成も堪忍袋の緒が切れて、藩内は主君義成派と柳川派に二分対決する状況となりました。

 

 朝鮮通信使から癡騃と言われてしまった義成ですが、若くして以酊庵二代目となった当代随一の碩学・玄方から教育を受け、まっとうな政治力も備えていました。朝鮮半島に大陸北方から後金(のちの清王朝)が侵略してきたときは、義成が率先して徳川幕府に援軍派遣交渉を行い、当時日本人は釜山までしか許されなかった不文律を越え、玄方を首都漢城(ソウル)まで派遣させたのでした。

 柳川家が代々果たせなかった首都入城を玄方が成し得たというニュースに衝撃を受けた調興は、大胆な行動に出ます。義成から受けていた知行の返上を申し出て、義成に却下されると、幕府老中土井利勝に「パワハラを受けた」と訴え、義成も負けずに「不忠者」と申告。告げ口合戦の挙句、とうとう調興は「宗家は朝鮮外交担当者として不適格」と国書偽造を暴露してしまったのです。偽造の共犯だった柳川も火の粉をかぶるリスクはあったものの、幕閣に強いコネを持つ調興には勝算があったんですね。

 

 国書偽造が明るみとなった1633年、幕閣(老中土井利勝、老中酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱、柳生宗矩、林羅山)による事情聴取が始まり、翌年まで続き、朝鮮王朝にも知られるところとなりました。偽造国書を交わされてきたという国辱に対し、朝鮮側がどう反撃してくるか、宗義成は生きた心地がしなかったと思いますが、ここで玄方は「朝鮮側に天下一と評判の馬上才の招聘を打診してみてはいかがでしょうか?もし朝鮮側が応じれば、この問題は不問に帰すと判断できるでしょう」とアドバイス。1634年暮れ、義成の特命を帯びた側用人有田杢兵衛が釜山に渡って「家光公がぜひ観たいとおっしゃっているので」と馬上才招聘を願い出ます。無事、馬上才団を伴って1635年1月に帰国し、一団は対馬に滞在して❝裁判❞の成り行きを見守ります。

 

 1635年3月11日、徳川家光はすべての大名を江戸城に集め、公開評定で両者の主張を直接聴取します。ドラマや映画にするならまさにクライマックス!といったところでしょうか。江戸城内も義成派、調興派に二分され、大名たちは、単なる対馬のお家騒動がこんな大事件になるとは!と興奮気味。義成派の伊達政宗などは事前に「我々は朝鮮の役のとき、父君義智公に救われた恩義がある。もし柳川が勝ったら調興を屋敷に帰さず、切り捨てるよう家臣に申し付けてあります」と義成に耳打ちしていたそうです。

 調興を幼少の頃より可愛がっていた土井利勝らの反応が気になるところでしたが、翌12日、土井邸に呼ばれた義成は「今年か来年のうちに朝鮮通信使を招聘せよ」と事実上の勝訴を、松平邸に呼ばれた調興は、国書偽造の首謀者として津軽への流刑を言い渡されました。

 

 勝算があった調興がなぜ負けたのかー。田代氏は『書き替えられた国書』の中で、宗氏は中世以来、朝鮮国王へ使者を送る時は恭順の意を示すため、釜山の殿牌(国王を象徴する牌)を使者が拝む習慣があり、それで長年修好関係が続いてきた。幕府の直臣を自認する調興が義成にとって代わって使者を送った時、同じようなことをしたら❝徳川が朝鮮王に朝貢したスタイル❞になってしまう。宗氏の実績を採った方が後々問題ないという判断だった、と指摘されています。なにより、土井利勝や林羅山ら調興支持派を抑え込んで義成を擁護していたのは、ほかならぬ家光だった。彼には、家臣が主君を貶める先例を作っては絶対にならないという信念があったのです。

 とはいえ、処分は双方に及び、調興の家臣松尾七右衛門と宗家の祐筆島川内匠が死罪、玄方と宗智順(義成のいとこ)が偽造の事実を知っていながら報告しなかった罪で流刑となりました。玄方を奪われた義成は勝訴に浮かれるどころか「四分六分で敗けたような気がする」と側近に吐露したと伝わります。


 判決1か月後の4月20日、家光は江戸城で馬上才を観賞し、大いに喜び、翌1636年の朝鮮通信使招聘から馬上才が正式メンバーとなりました。この年、通信使は初めて日光まで足を延ばしたのですが、これは土井利勝と林羅山が宗義成に圧力をかけ、日光行きを嫌がる通信使を無理やり説き伏せさせたとか。通信使は「義成は血の気がなく慌てふためき、鼻血を3度も4度も出していた」と記録しています。通信使を巻き込んだなんとも陰険な意趣返しですね・・・。

 

 主を失った対馬以酊庵には、京都五山から交替で高僧が派遣されることになりました。私はこれまで、今回のことで幕府が対馬に外交を任せきりではまずいと判断したからと、理解していましたが、玄方ほどの優秀な僧が処罰されてしまったことから、後任の引き受け手がいなかったというのが実情のようです。

 

 48歳で南部藩に送られた玄方は、71歳までこの地で過ごします。私は北村先生のお話をうかがった後、どうしても玄方の足跡を知りたくて、南部杜氏の取材を兼ねて9月8~9日に盛岡へ行ってきました。盛岡城址の北東に位置する榊山稲荷神社(もりおかかいうん神社)には方長老と呼ばれて親しまれた玄方が作庭した旧桜山庭園緑風苑があります。観光パンフレットにはなぜか紹介されていないのですが、ご覧の通りの見ごたえある美しい庭園。境内には南部藩時代に「斗米稲荷」として崇敬された金殖神社があり、しっかりお詣りしてきました。

 神社の隣には、南部藩主歴代当主の墓がある聖寿禅寺があります。玄方が蟄居暮しをしていた寺で、南部家歴代藩主の中でも名君の誉れ高い29代南部重信は、青年時代に先祖墓参りのたびに玄方のもとを訪ね、多くを学んだと伝わります。

 

 盛岡市中心部を流れる中津川与の字橋たもとには、南部家重臣毛馬内三左衛門邸の庭を作庭した玄方の手による『方長老のつくばい』が。大通り二丁目には、玄方を慕って京都木津村から移住した商人池野藤兵衛の『木津屋』の屋敷と土蔵(岩手県有形文化財)が。

 

 もりおか歴史文化館では、玄方木像の写真を拝見できました。ホントはどんなお顔だったのかな・・・。

 

 1658年、72歳で放免となった玄方は、いったん江戸に立ち寄って林春斎(林羅山の子)の調べに応じ、その内容は『方長老朝鮮物語付柳川始末』という書物にまとめられました。こののち玄方は京都の南禅寺塔頭語心院の住職を1年務め、最期は大坂城そばの九昌院の庵で亡くなります。享年74歳。対馬の地を踏むことは二度とありませんでした。

 白隠さんが生まれたのは玄方が亡くなってからですから、2人に直接の接点はあり得ませんが、禅僧の大先輩である玄方の『方長老朝鮮物語付柳川始末』を読んでいたのかもしれませんね。

 今回、北村先生のレジメには興津の東勝院に伝わる朝鮮通信使曲馬図が紹介されており、上記の白隠正宗ラベルと同じような構図ながら、布袋さんの脇に〈抑是 朝鮮國 客僧 彼張華老 伯坊主〉と画賛が入っています。

 張果老とは中国唐代の仙人で、白い驢馬に後ろ向きに乗って一日数万里移動し、休む時は驢馬を紙のように折りたたんで箱に入れ、乗る時は水を吹きかけて元に戻したという伝説の人物。北村先生は「朝鮮通信使一行に僧侶はいなかったので、これは朝鮮国へ渡った日本の僧のことではないか」「張果老の果を華と書いたのは、わざと間違えたのではないか」と読み解きます。・・・となると、朝鮮通信使曲馬図の布袋さんとされているのは、規伯玄方のことではないかという仮説も。なにせ〈伯坊主〉ってズバリ書かれていますし、馬上才を日本に招聘したきっかけはほかならぬ玄方であり、その後の国書偽造事件を巡る顛末を見れば、白隠さんが「意馬心猿だ」と皮肉る気持ちも理解できますよね。

 

 歴史教科書では「国書偽造事件」とひと言で片付けられるお話ですが、現代の政治の世界にも、企業経営の世界にも置き換えられそうな話だなあとしみじみ・・・。映像化するなら宗義成は三浦春馬、柳川調興は高橋一生、規伯玄方は堺雅人なんてどうでしょうか(笑)。

 


静岡県の朝鮮通信使研究を継ぐ者

2018-04-04 19:46:18 | 朝鮮通信使

 今朝(4月4日)の静岡新聞朝刊の訃報記事で、静岡県立大学元教授で比較文化学者の金両基(キム・ヤンキ)先生がお亡くなりになったことを知りました。朝鮮通信使の世界記憶遺産登録を日韓共同で実現させた功労者で、私にとっても朝鮮通信使学の偉大な師匠。長く闘病されておられたのは知っていましたが、2月に清見寺で開かれた世界遺産登録記念式典ではお元気な姿を拝見したばかりだったので、記事を見て思わずエッ!と声を上げてしまいました。世界遺産登録をしかと見届けての旅立ち、さすが金先生、とあえて言わせていただきます。

 

 今日は偶然、金先生も発起人のお一人として尽力された静岡県朝鮮通信使研究会の10周年記念講座レジメ集成『静岡県の朝鮮通信使』が完成し、印刷所より見本を入手しました。研究会の天野一会長が発行人となり、座長の北村欽哉先生が制作された10年分のレジメを約170頁の冊子にまとめたものです。私は編集のお手伝いをし、北村講座の受講後にこのブログで報告した内容を〈ブログ解説〉として掲載させていただきました。

 好き勝手に書いたブログ記事を、北村先生の貴重な研究録と一緒に掲載させていただくのは大変おこがましいのですが、「スズキさんのブログは侮れないですよ」と北村先生に苦笑いされました。というのも、本誌のあとがきに、静岡市美術館で開催された『駿河の白隠さん』で〈龍杖図〉と〈中寶山折床會拙語〉が並んで展示されたのは、北村講座の小島藩惣百姓一揆の解説を参考にしたようで、美術館の展示や図録で解説者がそのことに触れていないのはさびしい、と。どうやら私が北村講座の内容を聞き書きして〈駿河史秘話~小島藩と白隠禅師と朝鮮通信使〉と題してブログ(こちらこちら)で発信したのを解説者が読んだのがきっかけらしいのです。事実であれば、白隠さんの展覧会で参考にしてもらったなんて実に光栄な話ですが、利用されっぱなしの北村先生には申し訳ないかぎり…。

 

 天野会長はそんな北村先生の地道な朝鮮通信使研究を、会員のみならず出来るだけ多くの静岡県民に広報したいと願っておられました。私も同様で、知り合いの出版関係者に先生の本を出してもらえないかとお願いしたことがありましたが、時機に至らず、だったよう。昨年、北村先生は羽衣出版から『寺子屋で学んだ朝鮮通信使』を上梓されましたが、内容は先生の膨大な研究の一部に過ぎません。そんなときに白隠展の一件があって、先生が、まずは県朝鮮通信使研究会の活動記録をちゃんと作らねば、と本腰を入れられたのもうなづけます。

 

 基本的に講座で使用したレジメを講座開催順に掲載したものですから、受講していない人が読んでもわかりにくいと思いますが、江戸の庶民が政治や外交に対してどのような感覚を持っていたのか、朝鮮通信使を通して時代や地域性がじわじわ見えてくる、そんな面白さがぎっしり詰まった内容です。そう遠くないうちに北村先生がしっかりとした研究書をまとめられると思いますので、とにかく今は、せっかく世界記憶遺産に登録された朝鮮通信使について、多くの人に関心を持ち続けていただくよう、このレジメ集成を活かす方法を考えたいと思います。

 本誌を入手希望のかたは、静岡県朝鮮通信使研究会事務局(天野一事務所 TEL054-266-3343)までお問い合わせください。

 

 最後にひとつ、ぜひご紹介したいのが、本誌にも掲載された世界記憶遺産の一つ・清見寺に残る朝鮮通信使従事官・南龍翼(南壷谷)の詩〈夜過清見寺〉。このブログでも再三紹介(こちら)させてもらいました。


夜過清見寺

 日落諸天路  風翻大海波  法縁憐始結  詩句記曾過  瀑布燈光乱

 蒲圑睡味多  客行留不得  其奈月明何

(鈴木真弓の意訳)天上人が舞い降りる道に、日が落ち、風が立ち、大海原が波立っている。ここで詩を詠むことは、みほとけの縁(えにし)だろうか。滝のしぶきに灯光がきらめくのを眺めていると、心地よい眠りに誘われる。旅はまだ終わらないが、こんな月明かりの夜は、このまま留まっていられたら・・・と思わずにいられない


 この意訳を2007年制作の映画「朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録」の脚本で書いて、主演の林隆三さんに朗読していただき、痺れるような感動を得た思い出の詩。2月、金先生と最後にお会いした清見寺での世界遺産登録記念式典で久しぶりにこの詩の扁額と再会し、フェイスブックで紹介したら、金先生から「私は南壷谷の子孫」と驚きのコメントをいただきました。


 今までそうとは知らなかったので、びっくりしたと同時に、やはり先生が朝鮮通信使の研究をこの世に残されたのは天命だったんだなあとしみじみ。これから清見寺でこの扁額を見るたびに、金先生の笑顔や歯に衣着せぬ物言いを思い出すことでしょう。先生の遺志をささやかでもしっかりつなげていきたい、と噛み締めます。・・・先生、ご先祖の南壷谷さんにお会いできたでしょうか?


阿部正弘と朝鮮通信使

2017-07-17 20:14:50 | 朝鮮通信使

 先日、ふじのくに地球環境史ミュージアムで開催中の企画展『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』に行ってきました。阿部正直伯爵は明治時代、富士山に発生する山雲の観測に生涯をささげた理学博士。会場では約100点の写真や撮影機器が並び、戦前に撮影された富士山の見事な写真芸術が堪能できました。

 展示会に足を運んだきっかけは、6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生から、阿部正直が幕末の老中阿部正弘の子孫だと聞いたからです。

 福山藩主阿部正弘(1819~1857)は26歳で老中首座(今の総理大臣)に抜擢され、開明派といわれる外様大名(松平春嶽島津斉彬、伊達宗城、山内容堂徳川斉昭等)を重用。黒船来航という日本始まって以来の安保・通商危機や安政大地震に見舞われつつも、約200年続いた鎖国政策を大転換させました。長崎に海軍伝習所を設け西洋砲術の推進し、「大船建造の禁」を緩和して軍備の西洋化や洋学所を作らせ、慣習や身分に関わらず人材を登用するなど幕政改革を断行。勝海舟や江川英龍らが活躍の場を得ました。

 徳川13代・14代の軟弱な将軍に仕え、老中職のまま38歳で病死しますが、間違いなく近代日本の礎を築いた人物。幕末史の中ではあまり取り上げられませんが、彼がこのとき老中首座にいなかったら日本はどうなっていたんだろう、もし長生きしてたら確実に幕末史は変わっていただろうと思います。

 

 そんな阿部正弘が、実は「朝鮮通信使」という表現を初めてした人物だと北村先生からうかがって、ビックリしました。それまで徳川幕府は「朝鮮信使」「韓使」と呼んでいたそうで、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結ぶ際、朝鮮国との長い友好関係について通商(ビジネス)ではなく通信(よしみをかわす)であると明確にしたため。最後の朝鮮通信使がやってきたのが、阿部正弘が生まれる前の文化8年(1811)ですから、彼には通信使を接待した経験はないわけですが、徳川政権にとって特別な存在だったことは政権中枢に在る者ならばよく理解していたことでしょう。

 彼の出身地である福山藩には、朝鮮通信使が「日東第一景勝」と呼んで最も愛した鞆の浦があり、鞆の浦の名産である保命酒(薬草酒)を接待に使って喜ばれた。そのことをよく知っている阿部は、ペリーが下田にやってきた時、故郷から保命酒を取り寄せて接待に使いました。下田の土屋酒店ではその故事にちなんで、ペリーラベルの保命酒を販売しています。私はこれを今のような暑い時期には炭酸水で割って風呂上りによく飲みます。

 

 6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会では新規受講者が増えたため、北村先生が朝鮮通信使が何人で、どんなスケジュールで漢城(ソウル)から江戸まで往復したかをおさらいしてくれました。


第1回 慶長12年(1607) 1月12日~7月19日 (6か月と7日) 467人

第2回 元和3年(1617) *京都まで 478人

第3回 寛永元年(1624) 8月20日~3月23日 (7か月と3日)*日光まで。300人

第4回 寛永13年(1636) 8月11日~3月9日  (6か月と28日)*日光まで。475人

第5回 寛永20年(1643) 2月20日~11月21日 (9か月と1日)*日光まで。462人

第6回 明暦元年(1655) 4月20日~2月20日 (10か月) 488人

第7回 天和2年(1682) 5月8日~11月16日 (6か月と8日) 475人

第8回 正徳元年(1711) 5月15日~3月9日 (9か月と24日) 500人

第9回 享保4年(1719) 4月11日~1月24日 (9か月と13日) 479人

第10回 寛延元年(1748) 11月28日~7月30日 (9か月と2日) 475人

第11回 宝暦13年(1763) 8月3日~7月8日 (11か月と5日) 462人

第12回 文化8年(1811) *対馬まで 336人


 こうして数字だけ見ると、日本の随行員を合わせると500人をゆうに超える外交使節団が半年以上、ヘタをすると丸1年近く対馬から江戸までを往復していたわけです。最初の1~2回は回答兼刷還使(秀吉の朝鮮侵攻に対する謝罪の回答と被虜の返還を目的にした使者)で、3回以降は友好使節団として主に徳川将軍の交替時にやってきました。

 3回~5回はわりと短期間に、しかも日光まで行っていますが、いずれも3代将軍徳川家光の治世です。家光が通信使招聘を実現させた祖父家康をいかに尊敬し、通信使に自慢したかったかが分かるし、3度も招聘するだけの力がこの時代の徳川政権にあったということですね。

 

 ちなみに最もロングステイとなった第11回(宝暦13年)、静岡県内の日程を見ると、行きは2月6日に新居→浜松(泊)、2月7日に見附→掛川(泊)、2月8日は大井川増水のため掛川にもう一泊、2月9日は金谷→藤枝(泊)、2月10日は府中(宝泰寺でお昼休憩)→江尻(泊)、2月11日は吉原(悪天候のため泊り)2月12日は吉原→三島(泊)という7泊の行程。帰りは富士川増水のため3月14日~16日まで三島泊、17~19日まで吉原泊、3月22日~24日は大井川増水のため藤枝泊と計13泊したもよう。500人もの外交使節団が静岡県内に20泊もしたのですから、さぞ大騒ぎだっただろうと想像します。


 庶民にとっても、限られた港とその周辺でしか接点のない西洋人とは違い、朝鮮通信使と出合う機会や噂話を聞く機会は膨大な数だったでしょう。各地域を舞台に、本当に豊かな国際交流が花開いていたと思います。

 幕末、文化の異なる西洋列強から通商条約を強いられたとき、朝鮮とは「通信」で結ばれてきたのだと明言した阿部正弘。彼は福山藩主として代々接待役を務めていた家に生まれ、老中在職時には詳細な接待記録を目にしていたでしょう。実際、幕府は嘉永5年(1865)に第13回目を実現すべく対馬藩に交渉させていたのですが、時代がその実現を許してくれませんでした。

 阿部正弘本人も、自らの手で接待してみたかっただろうなあ・・・保命酒を味わうたびに、彼の早逝がどうにも悔やまれてなりません。

 

 なお『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』は8月13日(日)まで開催中。8月12日(土)夜には19時・20時に「ジャズと楽しむ雲の科学」というナイトミュージアムイベントがあるそうです。詳しくはふじのくに地球環境史ミュージアム(こちら)まで。


アカデミズムのアマチュアリズム

2017-04-17 10:02:13 | 朝鮮通信使

 私は未だに遠足の日の子どもみたいに、仕事のない日に限って早起きで、日曜は早朝からNHKラジオ第一の『マイあさラジオ』を聴くのが習慣になっています。日曜日の放送では〈サエキけんぞうの素晴らしき80'S(80年代音楽の解説)〉、〈著者からの手紙(話題本の紹介)〉が楽しみで、4月16日の放送では勢古浩爾氏の『ウソつきの国』が紹介されていました。『まれに見るバカ』は面白かったなあーと懐かしく思い返し、勢古さんの本を探しに行き、図書館で見つけたのが『アマチュア論。』。2007年ミシマ社発行の本です。文字が逆さになってますがこういう装丁です。

 

 

 2007年といえば、徳川家康が駿府城に入城した1607年から400年目、そして家康が朝鮮通信使を最初に招聘した年ということで、映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作にかかわったことは当ブログでも再三ご紹介してきました。

 思えば、私が朝鮮通信使の勉強を始めたのはこの年から。専門知識があって脚本を書いたのではなく、脚本を書いた後からまともに勉強し始めたのです。日朝関係史という難しいテーマにもかかわらず製作期間が3~4か月しかないというトンデモ条件に、プロの脚本家や構成作家が匙を投げ、資料リサーチャーとして臨時雇いされていた私が書く羽目になったわけで、朝鮮通信使研究家からみれば憤懣遣る方ない話だと思いますが、監修役の仲尾宏先生、金両基先生、北村欣哉先生は辛抱強く指導・監修してくださいました。

 トンデモ条件の超ブラック業務の見返りとして、私は先生方との出合いを実りあるものにしようと本格的に勉強を始め、レポート提出気分でブログに書き続けました。幸いなことに、地方で朝鮮通信使について地道に研究されている郷土史家の先生方に目を留めていただき、「スズキさんのブログは励みになります」と嬉しいお声かけをいただくことも。私のような素人の付け焼刃でも役に立つとは、朝鮮通信使研究はまだまだ発展途上のジャンルなんだと痛感し、この分野が一人でも多くの人の目にとまって関心を持つ機会になれば、との思いで書き続けています。  

 

 さて、2007年には朝鮮通信使研究の第一人者で、通信使史料の世界記録遺産登録を目指す日本側学術委員会会長を務める仲尾宏先生(京都造形芸術大学客員教授)が、岩波新書から『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』を上梓されました。新書版だけにとてもわかりやすく、スラスラ読める内容です。映画完成は5月、仲尾先生の本は9月の発行でしたから、先生の本がもう少し早く出版されていれば脚本を書くのもずいぶん楽だっただろうと臍を噛む思いをしたものでした。

 同書のあとがきに、「通信使一行の遺した足跡や交流の実像が、日本各地にはまだまだ埋もれていることはまちがいない。その理由の一端は明治維新以後の日本の近代では朝鮮と朝鮮人に対する偏見と蔑視感情が高まり、学校教育においてもすぐ前の時代にあった朝鮮との豊かな交流のことが意図的にかき消されてしまったからである」とあります。朝鮮通信使研究になかなか注目が集まらないのは、歴史教科書にまともに取り上げられない、いや明治以降は意図的に取り上げてこなかったせいだろうと、私自身そう思い込んでいました。

 ところが10年経た今年の3月11日、福山市鞆の浦で開催された朝鮮通信使関係地方史研究部会(仲尾宏会長)で、北村欣哉先生が「明治以降~戦前の小学校国定教科書すべてに朝鮮通信使の記述は載っている」と発表。4月13日の静岡県朝鮮通信使研究会例会でも詳細に解説されました。要約するとー

 

◆明治11年(1878)『新編日本略史』・・・まだ教科書が自由出版・自由選択だった時代でしたが、「家康、対馬守宗義智ニ請テ曰ク・・・」と家康が朝鮮王朝との国交回復に乗り出し、江戸後期の文化8年まで計12回の通信使来聘を時系列に紹介。とくに正徳元年は新井白石の対通信使接遇と詩の交換について詳しく記述。

◆明治20年(1887)『日本小史』・・・初めての文部省検定済教科用書。「我ト汝ト、固ヨリ宿怨無シ、若シ好ミヲ修メムトセバ、コレヲ許スベシト、朝鮮喜ビテ、使臣ヲ送リ来聘ス、是ニ於テ、両国ノ事平ギ・・・」と紹介。ちょっと上から目線ではありますが家康が国交回復を望んで和平を実現したとあります。

◆明治36年(1903)~昭和18年(1943)の国定教科書にはすべて掲載。明治36年版では通信使行列図の挿絵入りで詳細に記述。挿絵の先頭には「巡視」「令」と書かれた旗が。これは王が属国を視察して廻るという意味があるため、明治43年(1911)版ではこれをカット。

◆大正10年(1921)版では「はじめ家康朝鮮と交を修めてより、将軍の代がはり毎に、朝鮮より使を我が国に送る定めなりき。然るに幕府の之をもてなすこと、勅使よりも厚き様なれば、白石は之が為にわが国の體面を損ずるを論じ、将軍にすすめて其のもてなし方を改めしめたり」。通信使の接待が我が国の天皇の勅使よりも盛大なのは問題だとして新井白石が接遇を簡素化したことを紹介しています。

◆昭和18年(1943)版ではさらに詳細に記述。ただし挿絵はカット。この年から「鎖国」という言葉が使われるようになりました。

◆昭和21年(1946)『くにのあゆみ』・・・戦後初めての小学生向け教科書では記述なし。

◆昭和27年(1952)山川出版の高校教科書には「1609年には日鮮修好条約が成立し、朝鮮の使の来朝となった」と表記。昭和35年(1960)版から挿絵入りで文字数も激増。

◆昭和47年(1972)東京書籍の中学教科書に42文字で登場。昭和62年には挿絵が加わりました。

◆昭和52年(1986)大阪書籍の小学生向け教科書に「朝鮮との国交もひらかれました」と紹介。東京書籍版には琉球王朝は登場するも朝鮮通信使の記述はなし。

◆平成以降は小学生、中学生、高校生向け教科書に記述が増えています。

 

 

 北村先生はもともと高校で日本史の教鞭をとっておられたので、朝鮮通信使の研究は、学校教科書でどのように書かれたかを調べることからスタートされたそうです。2001年2月、清水の興津・清見寺に、日本の朝鮮通信使研究の先駆者である辛基秀氏をお招きし、高校の同僚の中川浩一先生を交えて3人で興津駅前の居酒屋で酒を酌み交わしたとき、辛氏が「学校教科書には朝鮮通信使のことは一切載っていない」、中川先生は「いや自分が使っていた教科書には載っていた」と大激論になったとか。

 

 辛氏は著書『朝鮮通信使』(1999)でも「明治の教育は、この善隣友好の時代を黙殺し無視し、日本帝国主義による朝鮮支配を正当化するため、秀吉の朝鮮侵略は日本の国威を海外に宣揚したものであると強化し、秀吉を国民的英雄として美化し、虚偽の歴史を教えることを目的とした」と断言するほど戦前の教科書を批判し、金両基先生も「朝鮮王朝は江戸幕府が国書を交わして交流した唯一の国であるという歴史的事実が、長い間閉じ込められていた。かくしきれないほどのこの大きな歴史的事実が1910年の日韓併合条約以降消されていった」(日韓の比較文化研究2005年)と述べています。仲尾宏先生もこの論調に準じられたようです。

 中川先生は北村先生に「教科書からかき消されていたという誤解を、必ず正してくれ」と言い残して亡くなり、北村先生はその意を継ぐかのように丁寧に綿密に調査され、第一人者といわれる研究家の説を覆したのでした。

 先入観のない立場から見ると、第一人者の先生方は、戦前の教科書が朝鮮通信使をどう扱っていたのか、ちゃんと調べればわかるのに、なぜ“裏取り”をしなかったんだろうと不思議に思えます。江戸時代の日本と朝鮮半島の善隣友好の歴史を、江戸徳川時代を否定することから始まった近代日本が肯定するはずがない、その後日本が朝鮮半島にしてきたことを見れば自明だ・・・そんな思い込みがあったのでしょうか。

 

 4月15日には静岡駅前サールナートホールで開催された京都学講座を受講し、花園大学文化遺産学科の福島恒徳教授から文化財の真贋について興味深いお話をうかがいました。専門家が文化財指定のお墨付きを与えた後で、偽物コピーだったと判明する事件が時々起きる。偽物コピーだと薄々わかっていても骨董市場で平然と流通されるのは、最初にお墨付きを与えたのが第一人者といわれる高名な大学教授だったりするから・・・というきわどいお話。「〇〇先生の鑑定に異論を唱えることはできない」―そんな空気に支配されるのは、アカデミズムに限ったことではないかもしれませんが、真実を究明する精神を曇らせた歴史家はプロといえるのでしょうか。

 

 そんな、奥歯にものが挟まったような心境で巡り合った『アマチュア論。』。勢古氏は轡田隆史氏の『考える力をつける本』の一節を引用しています。

「考える力とは、実は、ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力なのだろう。僭越にもつけ加えるなら、考える力とは、結局は、一個の人間として恥ずかしくない生き方を、どう選んだらいいのかという問題にゆきつくものであるらしい」。

 この、「ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力」を、北村先生は発揮されたのだろうと腑に落ちました。

 

 勢古氏のアマチュア論は26の格言に集約されています。いくつか紹介するとー

「一流のプロフェショナルはかならず見事なアマチュア精神を持っている」

「お題目ばかり立派で実体の不明な「プロ」を目指すより、人間としてのより良き「アマチュア」を目指す方がいい」

「目前のことに反射的に反応する前に、一拍おいて目前の意味を考えること」

「世間の言葉に従って安心を手に入れるよりも、自分で考えて間違うほうがいい」

 

 歴史研究においては、アマチュアのさらに下の「素人」同然の自分が、モノカキとしては「プロ」を自認する矛盾と葛藤にどう向き合うべきか、そもそもこうやって一銭にもならないブログ書きに時間を費やす自分はプロのライターなんだろうか、良きアマチュアとはどうあるべきか・・・途方もなく大きな宿題を突き付けられた気分です。


縁地がつなぐ朝鮮通信使研究

2016-04-11 13:31:47 | 朝鮮通信使

 先日、滋賀県長浜市高月の『芳洲会』から、2015年10月17日に開催されたシンポジウム【雨森芳洲と朝鮮通信使~未来を照らす交流の遺産】の記念誌が送られてきました。「ブログ楽しみにしています」のメモが添えてあったので、そうだ!シンポジウムの話を書いてなかった!とヒヤリハット。ちゃんとシンポジウムに参加し、会場で記念誌を購入していたにもかかわらず、この時期、自分の地酒本の出版でバタバタしていたせいかまったく触れず終いでした。遅きに失した感はありますが、久しぶりに朝鮮通信使についてガッツリ書きたいと思います。

 

 

【雨森芳洲と朝鮮通信使~未来を照らす交流の遺産】は、朝鮮通信使のユネスコ記憶遺産登録を目指し、日韓国交正常化50周年の2015年に滋賀県長浜市が開催したシンポジウム&企画展。長浜市は過去ブログでも再三紹介しているとおり、朝鮮通信使の接待役として活躍した雨森芳洲の出身地で、芳洲が築いた「誠信」という善隣友好の精神を今に伝えようと、地域を挙げて顕彰事業を行っています。私は2007年に静岡市が製作した映画【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】のシナリオ制作で同市の『高月観音の里歴史民俗資料館』でお世話になって以来、学芸員の佐々木悦也先生はじめ、顕彰団体・芳洲会の皆さまとご縁を持たせていただいています。

 

 シンポジウムでは朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本学術委員会委員長の仲尾宏先生が「朝鮮通信使から学ぶこと」として、日本での朝鮮通信使研究を遅らせた一国主義の歴史教育の問題点、在日の研究者たちが差別され荒れている在日の子どもたちに誇りと自信を与えようと1980年代から活動を始め、90年代にようやく教科書に登場したことなどを紹介し、雨森芳洲を〝相手の立場、歴史や文化の理解に努める”〝自国の立場、自国の歴史や文化を相対的に見る”〝東アジアの中の日本という立ち位置を認識する”ことのできた多文化共生の先駆者と説きました。

 講演の後は三重県分部町に伝わる、朝鮮通信使一行を模したとされる民俗芸能「唐人踊」、長浜市立富永小学校の全校児童と地域住民による「雨森芳洲子どもミュージカル」が披露され、最後のパネルディスカッションではユネスコ記憶遺産韓国学術委員会委員長の姜南周氏、対馬歴史民俗資料館の山口華代先生、草津宿街道交流館の八杉淳館長、佐々木悦也先生、長浜城歴史博物館の太田浩司館長が活発な討論をされました。一つのテーマでこれだけの地域間交流が成立するのは本当に素晴らしいこと。と同時に、そもそも朝鮮通信使を誕生させた徳川家康ゆかりの静岡でこういった顕彰事業ができないのは、やっぱり学術研究の拠点となる歴史博物館がないせいかなあと、パネリストの肩書を見てため息をついてしまいました・・・。

 

 

 会場では、この日に間に合わせて発行となった論文集『朝鮮通信使地域史研究』も購入しました。先月亡くなられた歴史学者上田正昭先生の序文に始まり、「縁地連朝鮮通信使関係地域史研究会」所属の研究者がたが各地域にまつわる読み応えのある論文7編、研究ノート2編、資料報告2編が収められています。買っておいたはいいが、先述の記念誌同様、いつか読もうと思って資料箱に入れっぱなしにしてあったところ、先月開催の静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生(朝鮮通信使研究家)がこの論文集のことに触れ、こちらもあわてて読み直した次第です。

 

 3月18日に開催された静岡県朝鮮通信使研究会では北村先生が【徳源寺(沼津・原)の一行書をめぐって】と題し、徳源寺が所蔵する「玉葉永茂萬古春 朝鮮聾窩書」の筆者〝朝鮮聾窩”を探るトリビアを披露されました。この書の蓋の裏書に帯笑園珍蔵印が残ることから、もともとは帯笑園の植松家が所有していたものらしく、宝暦1764年の朝鮮通信使使行録「海槎日記」に、一行が休憩のために帯笑園に立ち寄ったことも記されています。

 朝鮮通信使学界のレジェンドである故・辛基秀氏が、第10回(1748)、第11回(1764)に朴徳源という小通事がいたことを書き残しています。「朝鮮朴徳源」と署名された墨蹟は各地に多数残されており、件の一行書には「悳源」という落款が残されていますが、悳はトクと読むので朝鮮聾窩=朴徳源で間違いないだろうと北村先生。

 

 ところが先生は昨年秋、件の論文集『朝鮮通信使地域史研究』に収められた岡部良一氏の研究ノート「小通事・朴徳源の再検討」を読んで驚愕します。朴徳源の書は多数残っているが、小通事というのはわりと下っ端の身分で現場で走り回っていて、のんびり墨書する時間はないはず。ちなみに全国に残る朝鮮通信使関連の墨書は朴徳源を除けば、残りはすべて高官である写字官の揮毫だそうです。それよりなにより、第10回(1748)、第11回(1764)、第12回(1811)の朝鮮通信使随行員リストに、彼の名前は見当たらないというのです。

 岡部氏は謎めいた小通事・朴徳源を探るうちに、全12回の朝鮮通信使とは別に、釜山と対馬を56回も往来した「朝鮮渡海訳官使」の存在に着目します。朴徳源は安永9年(1780)から寛政8年(1796)まで4回対馬に渡ったと推察され、対馬滞在は約2か月ぐらい。この間に日本人から頼まれて多くの書や軸物を書いて報酬を得ていたのではないかと岡部氏。対馬には「以酊庵」という外交施設が設けられ、朝鮮人と筆談ができ、文化的素養の高い京都五山の禅僧が当番制で詰めていました。禅僧のいわば人的ネットワークのもと、対馬滞在中の朴徳源の書が全国のゆかりの寺や名家に伝わったのではないかということです。

 北村先生は「帯笑園の植松家も白隠禅師の松蔭寺や徳源寺など臨済宗妙心寺派の寺院とつながりが深く、植松家には、京都の文化サロン的存在だった妙心寺塔頭海福院やそこに集う池大雅、円山応挙、皆川淇園に付届けをしていた記録が残っていることから、件の一行書は京都人脈を駆使して対馬にいる朴徳源に依頼したものではないか」と結論付けられました。

 

 朝鮮人が書いたとされる一つの軸物から、これだけのことが解明できるとは、本当にワクワクしてきます。当時、朝鮮人の墨書がいかに珍重されていたか、文化の力がいかに外交を担っていたかが手に取るように伝わってくる。上田先生や辛先生のような、それこそ教科書に載る著名な研究者のみならず、地方で地道に調査研究している市井の歴史家たちが掘り起こし、ときには定説を覆す事実を究明する。そこから見えてくる当時の人々のリアルな暮らしは、今の私たちの暮らしと時間軸でつながっている・・・このような学びの機会を、遠く離れた縁地の皆さんと共有できる幸せを実感します。

 4月29日にはしずおか地酒研究会の20周年企画第2弾として【ZEN to SAKE~白隠禅師の松蔭寺と白隠正宗酒蔵訪問】を開催予定です。この日、松蔭寺と徳源寺で所蔵する書や軸物を一般公開する寺宝展があるため、朴徳源の一行書も見られるかも・・・と今からワクワク×2!しています。

 

 目下、『朝鮮通信使地域史研究』にあった、雨森芳洲の思想の基層に白隠禅との共通項があったという信原修先生(同志社女子大学名誉教授)の論文を読み深めようと、先生の著書に挑戦中。概略を語れるレベルまで読解できたら、またここで紹介します。