杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その5)~民族交差のサマルカンド

2018-01-08 15:31:41 | 旅行記

 ウズベキスタン3日目の10月15日は、タシケントを朝8時出発の超特急『アフラシャブ号』に乗ってサマルカンドに向かいました。アフラシャブというのは紀元前8世紀ころ、イラン系ソグド人がサマルカンドの町を築いた丘の名前で、もともとは伝説の初代ソグド王の名前でした。

 いにしえの名を冠した超特急は、タシケント~サマルカンド約300㎞を2時間で結ぶスペイン製の新幹線。特等席を予約してもらっいたようで、キャビンアテンダントの美女が飲み物や軽食を配るサービス付き。私は成田空港の免税店で購入した純米吟醸『浦霞・禅』を取り出して、車窓に広がるシルクロードのオアシスの街並みやポプラ並木の台地、広大な綿花畑の景観を酒肴に朝から一杯。日本の新幹線では経験できないぜいたくな列車の旅を満喫しました。

 

 サマルカンドはいにしえの時代、「マラカンダ」と呼ばれ、アケメネス朝ペルシャの支配下で、商才と工芸技術に長けたソグド人が、豊かな文化生活を営んでいました。

 紀元前329年、父王の悲願だったペルシャ東征を継承したアレクサンドロス大王は、ギリシャ・マケドニア軍を率いてこの地を征服。このとき、ペルシャ軍のソグド人武将スピタメネスが、敗走しようとした上司ベッソスを捕らえて敵に引き渡し、自らは徹底抗戦。スピタメネスの美貌の妻ザーラは家族のために降伏してくれと懇願しましたが、彼は妻が美貌を武器に敵に寝返るのではと疑心暗鬼になり、傷ついたザーラは泥酔したスピタメネスを刺し殺し、その首をアレキサンドロス大王に引き渡しました。大王はザーラの所業を不快に思い、彼女を追放した・・・1世紀にローマの歴史学者クルチウスが書いた『アレキサンドロス大王伝』にはそんな悲劇が紹介されています

 アレキサンドロスが紀元前323年に遠征先で亡くなると、後継者セレウコスの支配下に置かれ、次いで、マケドニア軍人と現地支配層によるギリシャ・バクトリア帝国に支配され、紀元前2世紀には遊牧民スキタイ、匈奴の侵攻により分裂。紀元1世紀にはインドのクシャン王朝に支配され、クシャン王国滅亡後は数多くの公国に分裂し、6世紀にはテュルク系民族の統一国家・突厥がビサンチン帝国の後ろ盾を得て中央アジアを治めます。その支配下で、サマルカンドはソグド人がアフラシブの丘に営々と町を再建し、シルクロードの繁栄を象徴する存在となりました。

 

 7世紀、この地を訪ねた玄奘三蔵は西域記で「周囲が1600~1700里あり、東西が長く、南北が狭い。国の大都城は周囲20里あまり。非常に堅固で住民は多く、諸国の貴重な産物がこの国にたくさん集まる。土地は肥沃で農業が十分に行き届き、木立はこんもりとし、花や果物はよく茂っている。良馬を多く産出し機織りの技は特に諸国より優れている。すべての胡国の中心であり、進退礼儀は遠近の諸国とともに、ここにその手本をとるのである。王は剛勇の人で兵馬は豪勢。性質は勇烈で死を視ること帰するがごとく、戦って前に敵がないほどである」と紹介しています。王はソグド固有のゾロアスター教を信仰し、謁見した玄奘も最初は冷遇されましたが、王のために仏教の功徳を粘り強く説き、布教が許されます。

 ちょうどこのころ、アラビア半島で誕生した新たな一神教=イスラム教を布教させるべく、アラブ人勢力が急拡大します。712年、サマルカンドはアラブの総督クタイバに攻略されて陥落。必死に抵抗していたサマルカンドのグレク王は多額の賠償金を支払い、市内にモスク建設を許可し、ソグド兵は置かないことで和睦を結びます。その後、中央アジア民族の抵抗がしばらく続きますが、やがてイスラム勢力に掃討され、それまでのゾロアスター教、仏教、マニ教、キリスト教、その他現地信仰が守ってきた人物や動物の像は「偶像崇拝」として一掃され、貴重な書物も焼かれてしまいました。


 8~12世紀、中央アジアを支配したアラブのサーマーン朝、カラハン朝、セルジューク朝の時代、サマルカンドやブハラには多くのイスラム寺院や神学校が建設され、シルクロードに数多くのキャラバンサライ(隊商宿)や貯水池が作られました。ソグド人もしたたかに町を繁栄させてきたのですが、13世紀、チンギス・ハーンのモンゴル帝国登場によって、ソグドが築いたサマルカンドの栄光は風前の灯火に。

 1220年、モンゴル軍はサマルカンドに侵攻。12万人のソグド人が殺戮され、アフラシャブの丘は無人の廃墟と化しました。13世紀後半から14世紀前半、中央アジアはチンギス・ハーンの長男ジュチと二男チャガタイ、その子らの支配下に。チャガタイの子孫はイスラムに親和的となり、遊牧系のモンゴル貴族との軋轢を生んで内部分裂を引き起こし、モンゴル一強の時代は後退していきます。


 サマルカンドを蘇らせたのは、1336年、サマルカンド近郊に生を受けた英雄ティムールです。父親はモンゴル系部族バルラス一族出身。少年の頃からテュルク語とタジク語を自由に話し、一族の中で頭角を現し、無政府状態のもと各部族をとりまとめ、34歳のとき権力を掌握。イスラム聖職者の支持を得てチャガタイ・ハン国の後継者を宣言しました。

 彼は1405年に病死するまで中央アジア各地で破壊や殺戮を繰り返し、首都サマルカンドに各地から連れ帰った職人、芸術家、学者を住まわせ、町の建設に従事させます。ウズベキスタンでは「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」が定説。今回、私たちが見学したモスクや霊廟も、ほとんどがこの時代に建造されたものでした。

 ソグド、ギリシャ、ペルシャ、アラブ、モンゴル・・・さまざまな民族が生き残りをかけて戦い、混じり合ったサマルカンドは、他民族との接点が極少だった日本人には想像のつかない歴史を背負った町。最後に権力を掌握した者が過去を一掃してしまうのは歴史の常かもしれませんが、できうれば、ソグド人のような、したたかに生き延び、シルクロードを繁栄させ、時空の彼方に消え去った民族の足跡に触れてみたかったな、と思います。

 中央アジア史研究の大家・加藤久祚氏の名著『中央アジア歴史群像』には、こんな諺が紹介されていました。

「思い出が残るように生きよ、お前がこの世から去るときに、この世がお前から解放されるのではなくて、お前がこの世から解放されるように生きよ」



 さて、我々が最初に訪れたのは、ティムールとその一族が眠るアミール・ティムール(グル・アミール)廟。グル・アミールとはタジク語で支配者の墓という意味です。もともとティムールが若くして戦死した孫ムハンマド・スルタンのために建てた廟で、建造して1年後にティムール自身も亡くなり、ともに葬られました。右下の写真、真ん中の黒い棺がティムールの墓石です。

 

 次いで訪れたレギスタン広場は、チンギス・ハーンの侵攻でアフラシャブから移転を余儀なくされたサマルカンドの公営広場。「ウルグベク・メドレセ」「シェルドル・メドレセ」「ティラカリ・メドレセ」という3つの神学校がコの字に並んでいます。1420年に建てられた最も古いウルグベク・メドレセ(写真左側)は、ティムールの孫で天文学者ウルグベクが建てたもの。聡明で人格者だった彼は、ここに100名以上の学生を寄宿させて自ら教鞭を取り、貧しい子どもたちにも数学や天文学を教えたそうです。

 アーチの両サイドに建つミナレット(尖塔)に有料で登れると聞いて、お上りさん気分で挑戦。ビックリするような急階段で縄に捕まらなければ進めず、翌日はしっかり筋肉痛になってしまいました。

 京都や奈良の仏教寺院の大伽藍で、時々、岩登りでもさせられるような急階段を見かけますが、宗教施設に共通した“修行スポット”なのかもしれませんね。(つづく) 

 

 

<参考文献>

〇エドヴァルド・ルトヴェラゼ著『アレクサンドロス大王東征を掘る』

〇加藤九祚著『中央アジア歴史群像』

〇安田暎胤著『玄奘三蔵のシルクロード』

〇ジュリボイ・エルタザロフ著『ソヴィエト後の中央アジア』

〇地球の歩き方・中央アジア~サマルカンドとシルクロードの国々編


 


ウズベキスタン視察記(その4)~日本大使館訪問

2018-01-05 20:54:52 | 旅行記

 私たち一行は10月14日夜、タシケント郊外にある日本大使公邸を訪問し、伊藤信彰大使の歓待を受けました。公邸の建物は欧州風ですが、床には箱根の寄せ木細工が施され、雛人形や東山魁夷・平山郁夫の絵画がディスプレイ。くつろいだ雰囲気の中、大使からウズベキスタンの国情についてレクチャーをしていただき、大使館付きの日本人シェフが用意してくださった和食をありがたく戴きました。大使からは直接、ウォッカの味わい方のご指南も。ウォッカは、大使館で提供するような高級品はロシア産。ウズベキスタン産は庶民向けの「地酒」だそうです。

 

 

 ウズベキスタン国内には140人の邦人が暮らしており、うち35人がJICA関係者、20人が大使館関係者。残りが民間人ということで、現在、27の民間企業が法人登録しています。主なところでは三菱商事、伊藤忠、丸紅の各商社、日立や日立造船、三菱重工、川崎重工、三菱東京UFJ等。日本政府のODAによってナボイ発電所の近代化、トゥラクルガン発電所の新設、アムブハラ灌漑施設リハビリ計画等が進み、JICAの技術協力では医療器材の供与、弘前大学等が高品質のリンゴ(ふじ)の技術指導を行っています。本格的な民間投資はこれからのようで、ウズベキスタンにとっては陸続きのロシアと中国が「象」、韓国が「馬」並みの存在ならば、日本はまだまだ「蟻」に過ぎないそう。あらら。

 ウズベキスタン経済は2015年の数字でGDPは660億ドル、経済成長率は6,8%、物価上昇率は9,8%。貿易輸出額は129億ドルで、ガス30億ドル、サービス30億ドル、農産・食料品13億ドル、綿花・糸・布7億ドル、自動車2億ドルという内訳です。一方、輸入額は124億ドルで機械設備50億ドル、化学品等が21億ドル他。貿易相手国は①中国、②ロシア、③カザフスタン、④韓国という順番です。日本はウズベキスタンから1億ドルの輸入がありますが、99%が「金」だそうです。

 

 独立後のウズベキスタンを指揮したカリモフ前大統領(2016年9月死去)は、経済パートナーとして中国に建築土木、ロシアに交通インフラ、電力&ITを韓国と日本、というように上手に棲み分けをしました。

 韓国が「馬」で日本が「蟻」なのは、第二次大戦中、朝鮮半島から30万人が日本の支配を逃れて内陸のこの地までやってきて定住し、市民権を得たため。タシケントには韓国料理の店はたくさんありますが、日本料理の店は皆無です。もちろん日本酒が飲める店もゼロ。ありゃ~ですが、今後は日本食や日本酒が進出する余地は十分ありそうです。ウズベク人は緑茶や紅茶を好むそうで、静岡茶を提供する機会があったら、大いに人気を集めるだろうと思いました。

 電力インフラでは三菱や日立が頑張って発電所を続々建設し、いすゞ自動車と伊藤忠が現地企業と設立した合弁会社サムオートは乗り合いバスや小型トラックを年間4000~5000台造っています。IT関連ではNECとオガワ精機等が地デジTVプロジェクトの契約を獲得し、ユニ・チャームはウズベキスタン最大のスーパーマーケットチェーン「カルジンカ」にロシア商社を通しておむつを輸出、島津製作所は約120の病院にX線設備を輸出し高い評価を受けています。2017年9月に為替交換・外貨送金の自由化が実現したため、投資環境は徐々に改善されていくだろうと大使も期待を寄せています。

 乗用車に関してはGMウズベキスタンが大きなシェアを持っていますが、トヨタもレクサスのディーラーをタシケントに開店準備中。200%という高額な関税がネックながら、中央アジアの人口の40%を占め、出生率は日本の3倍、若年層が年に50万人も増加している国ですから、市場はもちろん、日本への理解や関心の広がりも大いに期待できると思います。

 伊藤大使は「ウズベキスタン人の対日感情は、どの国よりも良い。日本製品にも絶大な信頼を寄せている」と明言されました。要因の一つは、1945年から46年にかけ、この地でインフラ整備に従事した日本人抑留兵812人の功績。厳しい労働環境の下でも与えられた仕事に全力を尽くす姿に、当時のウズベク市民も感銘を受けたとされています。その代表例が『国立ナヴォイ劇場』(後に詳しく紹介します)。カリモフ前大統領も幼い頃に日本人の真摯な姿を目にしていたそうです。この地で永眠した日本人を慰霊する墓地は国内に13カ所。いずれも現地の人々が大切に維持管理してくれています。

 軍事はロシアの影響下に置かれています。プーチン大統領は一時、アメリカの接近を許したものの、カリモフが反政府勢力に武力行使したことを欧米が批判し、アメリカとの関係も悪化。今はふたたびロシア寄りに戻っているようです。

 国際ジャーナリスト伊藤千尋氏の『凛とした小国』には、カリモフのことを欧米メディアが「最も残酷な独裁者」と呼ぶ、と書かれていました。野党が許されない独裁国家で警官の数が樹木の数よりも多く、つい最近までイスラム原理主義運動のテロが何度も起きて大統領が暗殺される寸前だったと。

 中央アジアは基本的にイスラムの国ですが、岩崎一郎氏他編の『現代中央アジア論』によると、ソ連は20世紀初頭までこの地に反イスラムと共産主義を徹底させ、第二次大戦後は逆にイスラムに寛容な姿勢を取って「ソ連が欧米よりも信頼できる友邦である」と誇示。ソ連崩壊後、イスラム教は各民族の伝統文化の一部と位置づけし、ソ連時代は断絶していたスーフィズム(イスラム神秘主義)の墓廟等も整備されましたが、カリモフ政権はイスラム原理主義の台頭を強く警戒しました。とくにカリモフ政権に対してジハード宣言をしたウズベキスタン・イスラム運動(IMU)の動きは過激で、指導者ヨルダシュとナマンガニーは1999年、隣国キルギスでJICAから派遣された日本人鉱山技師らを拉致する事件を起こします。タジキスタン政府が仲介に入って約2か月間の交渉の末、人質は無事救出されました。

 

 このような環境下で経済を立て直し、社会を安定させなければならないカリモフ前大統領が強権をふるうのも無理からぬように思えます。今回の旅でも、現地の人々から彼が独裁者だったという声はほとんど聞かれず、強力なリーダーシップを発揮して国を立て直したカリスマ、という印象を受けました。

 「ウズベク人は周辺諸国に比べて勤勉で真面目。一度言われたことはきちんと覚えようとします」と伊藤大使。いすゞ自動車が出資したサムオートでは、日本とインドネシアのいすゞ工場から取り寄せる部品を組み立てる作業が中心ですが、勤勉で真面目な国民性が大いに発揮され、丁寧な仕事が評価されているそう。同社には4日目に直接訪問しましたので、追ってご報告します。(つづく)

 

 

 

 

 


ウズベキスタン視察記(その3)~タシケントの独立広場

2018-01-04 22:36:54 | 旅行記

 10月14日、タシケント2日目は日中は市内観光、夜は在ウズベキスタン日本大使館訪問&晩餐会というスケジュールでした。

 前回記事でご紹介したように、〈石の都〉という意味のタシケント。最初に足を踏み入れるシルクロードの都市だけに、石畳のそれっぽい伝統的な街並みをイメージしていたのですが、豈図はからんや、アスファルトの道路が広くまっすぐに整備され、シボレーが行き交い、街路樹が整然と立ち並んだ近代都市でした。私たちが泊まったホテルも日本の永田町みたいな首都中枢エリアにあったせいか、交差点の要所要所には警官が立ち、写真撮影を厳しく取り締まっていて、早朝から街路樹の落ち葉を清掃する市民を数多く見かけました。・・・そうか、旧ソ連の国だったんだなとカメラを引っ込めて目にしっかりとその光景を焼き付けました。

 タシケントは19世紀に帝政ロシアの支配下になってロシア人が大量入植した後、整然と区画整理が行われ、街を流れるアンホール運河を境にロシア人街とウズベク人街に分割統治されました。さらに第二次世界大戦後の1966年4月26日、タシケントを直下型大地震が襲い、街の建物の大半が崩壊すると、ソ連邦から投入された3万人の労働者がわずか数年で近代都市に造り替えたのです。この頃から急激に人口が増加し、タシケントは、ソ連邦の中ではモスクワ、キエフ、サントペテルブルグに次ぐ4番目の都市になりました。

 サマルカンド大学ジュリボイ・エルタザロフ氏の『ソビエト後の中央アジア』によると、ウズベキスタンは旧ソ連内では生活水準が最も低く、人口の45%は貧困レベル以下。持ち家を持つ人は44%、就学率は57%、人口の半分以上が幼児・児童・学生・年金受給者で、トータルでは人口の3分の2が国家の援助を必要としていたのです。社会主義体制の足枷をしっかり抱える国だったのですね。

 ペレストロイカと民主化運動によってソ連の弱体化が始まると、連邦崩壊を食い止めようとモスクワ指導部が主権国家連合として刷新を打ち出します。宇山智彦氏の『中央アジアの歴史と現在』によると、このとき中央アジア各国は連邦維持の下で権限拡大を考えていたそう。バルト三国やウクライナのような剥き出しの民族運動は起きなかったのです。しかし時代の流れは止められず、91年8月、ソ連保守派のクーデターが失敗してソ連解体が決定的となり、8月31日以降、各共和国が続々と独立を宣言。ウズベキスタンも9月1日に独立共和国となり、ウズベキスタン共産党第一書記だったイスラム・カリモフが大統領に就任しました。彼は旧ソ連の負の遺産ともいえる深刻な社会保障問題に直面します。

 

 タシケント市内観光の1カ所目は、その、独立建国の象徴となったムスタキリク(独立)広場。広々とした緑地公園になっていて、朝6時から市民が清掃活動をしていました。広場の一角には戦没者慰霊碑と母子像、そして戦没者・行方不明者の名前を記したおびただしい銅板の記録。ウズベキスタンは第二次世界大戦で100万人がソ連軍に徴兵されたのです。戦争慰霊碑は全国144カ所に置かれていますが、ここは首都だけあって戦没者・行方不明者の全名簿を記録。独立から7年後の1998年に設置されました。

 ソ連時代には造れるはずもなかったであろう、ウズベキスタン国民のための慰霊碑。これを設置したカリモフ大統領には、ソ連の社会主義体制に依存していた国民の意識を改革する意図もあったのでしょう。シンボルとなった像が、戦争や独立の英雄ではなく母の像だというところに、独立後の困難な道のりに臨むリーダーの思いと覚悟のほどが汲み取れます。

 

 今もウズベキスタンでは国家予算の多くを防衛費に充てていて、ロシアの影響下に置かれています。ウズベキスタン軍には4万6千人の兵士が所属しており、国民は18歳から27歳までの間に2年・1年半・1年と3種類の徴兵制が課せられていますが、軍隊から戻ってきて大学を受験するときは試験時にプラス20%の得点が与えられるとか。また1000ドルを払えば1か月で戻ってこられるという裏技も。ただし、運悪く戦争が勃発すれば真っ先に最前線に送られる、とガイドさんは苦笑いしながら教えてくれました。

 

 次いで訪ねたのは、16世紀のシャイバニ朝時代に建てられたバラク・ハン・メドレセ。イスラム教の神学校です。ソ連時代には中央アジアのイスラム本庁が置かれていましたが今では土産物店(苦笑)。向かいにはタシケントの金曜モスクといわれるハズラティ・イマーム・モスク。隣接するコーラン博物館には、7世紀、鹿皮に書かれた世界最古のコーランが展示されています。預言者ムハンマドや玄奘三蔵が生きていた頃か・・・時空を一気に飛び越えた気分です。

 このメドレセやモスクは、私にとって最初にふれるイスラム建造物ですから、アーチやミナレット(尖塔)、アラビアのモザイク模様の幾何学的な美しさに歓声を上げ、すっかりおのぼり観光客になってしまいました。

 ご承知の通りイスラム教徒は一日5回=日の出(BOMDOD)・午後1時(PESHIN)・午後3時50分(ASR)・日没)(SHOM)・夜7時40分(MUFTON)、メッカに向かってお祈りします。5回という回数は義務ではないそうですが、金曜日の13時は必須。会社勤めの人も金曜日は12時から14時まで休憩時間になるそうです。

 

 昼食は初めてのウズベキスタン料理。牛や羊の肉食をイメージしていましたが、意外にもお野菜たっぷり。トマトはどのレストランでも必ず使われていて、お豆類も豊富。ダイエットしていた頃にカロリー制限レシピでよく使っていた食材が多く、ありがたかったです。でも油も結構使われていて、毎食では胃が疲れるかな。中央アジアの主食はナン。サマルカンド・ナンというパイのような厚みのあるナンがウズベキスタン風のようです。

 ホテルに戻って小休止した後、日本大使館を表敬訪問しました。ここで2016年8月から駐ウズベキスタン日本国特命全権大使を務める伊藤伸彰氏より、ウズベキスタンの国情についてレクチャーを受けました。続きはまた。


ウズベキスタン視察記(その2)シルクロードの空を飛ぶ

2017-12-28 22:10:02 | 旅行記

 前回記事でウズベキスタンが親日国だと紹介した確たる証拠が、成田―タシケント間の直行便運航です。私自身シルクロードの国に長い間憧れを持ちつつ、今まで渡航の機会を持てなかったのは、一介のフリーライターにとっては高額な渡航費や乗り継ぎの煩雑さもハードルだったんですが、今回、週に2便ながら直行便が飛んでいることを知ってビックリ。ウズベキスタンが国策として日本との交流促進を目的に、ウズベキスタン航空直行便を支援していたのです。

 行きの成田発タシケント行きには私たちのような日本人ツアー団体が6~7割、帰りのタシケント発成田行は、ウズベク人の若者を中心にぎっしり満席でした。隣に座った20代のウズベク男性に訪日目的を聞くと「短期日本語留学」とのこと。上川陽子さんがおっしゃっていたウズベクの日本語熱のリアルを目の当たりにしたのです。

 

 10月13日、11時過ぎに成田を発ったウズベキスタン航空HY528便は、朝鮮半島から中国内陸に入り、ゴビ砂漠、天山山脈、タクラマカン砂漠をひとっ飛び。約9時間でウズベキスタンの首都タシケントに到着しました。まさにシルクロードの頭上を東から西へ。シベリア上空を飛ぶヨーロッパ便では味わえない眼下の圧倒的な景観に、終始カメラが手放せず、9時間がまったく苦ではありませんでした。

 

 

 思えば、自分がシルクロードにはまったきっかけは高校生の時に観たNHKのシルクロード。喜多郎の音楽と石坂浩二さんのナレーションが鮮やかによみがえって来ます。ラクダや馬しか移動手段のなかった時代に、広大なユーラシア大陸を行交う民族と文化・・・とりわけインドから中国~日本へと伝来した仏教がシルクロードの道程でさまざまな時代、さまざまな地域の影響を受け、多種多様な仏教芸術を生み出した現象に強く惹かれ、大学の卒論では西域千仏洞の一つキジル石窟をテーマにしました。

 キジルはバーミヤンから敦煌に至る仏教伝播のプロセスで中間に位置し、バーミヤンをしのぐ規模で、制作年代も中央アジアの他の石窟よりもはるかに早く、中央アジアの混淆雑糅文化を象徴するような石窟寺院。この地と縁が深い、インドの経典を中国語に翻訳した鳩摩羅什(344~413)や玄奘三蔵(602~664)の伝記も深く読み込んだものでした。

 キジル石窟が築かれた亀茲国(現在のクチャ)の王子として生まれた鳩摩羅什は、大乗仏教に目覚め、出家してカシュガルの高僧のもとで修行し、中国(前秦国)の侵攻を受けて捕虜となって無理やり還俗させられたものの、後秦国の時代になって国師として厚遇され、長安で大乗経典300余巻の翻訳に従事。約200年後に玄奘の訳経が登場するまで鳩摩羅什訳の経典が最も権威あるものとして中国全土に広がりました。

 クチャから長安へ東進した鳩摩羅什とは反対に、玄奘は長安から西進し、クチャを通過し、タシケントやサマルカンドにまで足を踏み入れました。『西域記』にはタシケントは「赭時(石)国」、サマルカンドは「康国」と記されています。赭時とは石のこと。シャシと発音します。ケントは都市という意味。シャシケント(石の都)がタシケントの語源となったんですね。玄奘は「赭時国は周囲千余里で、西は葉河(シル・ダリヤ)に臨んでいる。東西は狭く南北が長い。城や邑は数十あるが、それぞれ主君を別にいただいている。赭時国全体の君主もなく、突厥(とっけつ)に隷属している」と紹介しています。

東洋美術史要説下 吉川弘文館より

 

 玄奘がタシケントを訪れた7世紀前半、中央アジアはトルコ民族の大帝国突厥が支配していました。ササン朝ペルシャと対立していたため、ペルシャの敵であるビザンチン帝国(東ローマ帝国)と同盟を結び、これによってシルクロードの東西交流が促進。突厥に従属していたソグド人の隊商が交易キャラバンを活発化し、各地に植民都市を築きました。17年間で3万キロにも及んだ玄奘のインド・西域求法の旅が、困難に遭いつつも完遂できたのは、このソグド人の経済力と突厥の軍事力によって安定していた時代背景もあったでしょう。玄奘はソグド人のことを「財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている」と記録しています。

 宗教はソグド人が信仰していたゾロアスター教が浸透していました。火を拝み、鳥葬や風葬で死者を弔うペルシャ人の宗教・・・って世界史の授業で習いましたっけ。今回の旅で、ゾロアスター教の遺跡や玄奘時代の仏教の足跡を楽しみにしていたのですが、残念ながら、突厥に代わって中央アジアを征服したアラブ民族のウマイア朝やサーマーン朝王国がイスラム教を広め、モスクや廟など目玉となる史跡はすべてイスラム文化のもの。それ以前の宗教の面影を垣間見ることはできませんでした。 

 

 13日は現地時間16時30分過ぎ(日本時間20時30分)にタシケント国際空港に到着しました。

 

 私にとっては初めてのイスラム圏の入国。しかも26年前までソビエト連邦下の社会主義国ということで、入国審査にどれだけ手間取るのか心配でしたが、あっけないほどスムーズにパス。空港ビルが手狭なせいか、屋外に送迎者ゾーンがあり、多くの人々が鈴なりになって家族や友人の到着を待ちわびていました。2017年4月現在でタシケント空港の国際線はソウル週8便、モスクワとイスタンブール便は毎日、北京と成田から週2便ほか中央アジア圏内からも5路線、国内線6~7路線あるようです。ラクダと馬でしか移動できなかった時代とはまさに隔世の感・・・!ですね。

 

 この日はタシケント市中心部にあるホテルに直行し、荷ほどきをした後、ホテルで夕食をとりました。さあ最初のウズベキスタン料理!・・・といっても日本時間でいえば22時を過ぎており、食欲よりも眠気が先。ビュッフェで目に付いたのは鮮やかなフルーツの山とナッツ類でした。ガイド本には「水には注意、生野菜や生フルーツも用心」とありましたが、今回の旅で想定外だったのが、この生野菜と生フルーツとナッツの美味しさです。水も、ガイドさんがペットボトルのミネラルウォーターをこまめに用意してくれたので、参加者でお腹をやられた人は一人も出ませんでした。 

 もっとも初日夜はやはり加熱処理した飲み物をと、触手したのが黒ビールかと思いきや、小麦のジュース。ノンアルビールを少し甘くしたような、なんとも微妙な味でした(笑)。(つづく)

 

 

 

 

 

 


ウズベキスタン視察記(その1)温厚で親日の国

2017-12-26 18:33:54 | 旅行記

 だいぶ報告が遅くなってしまいましたが、今年10月13日から20日まで(一社)静岡県ニュービジネス協議会の2017年度海外視察事業で中央アジアのウズベキスタンに行ってきましたので、何回かに分けてレポートします。

 

 ウズベキスタン。サッカー日本代表が戦ったことがある国かなぁと記憶する程度で、世界地図で迷わず位置を示せる日本人、そうは多くないんじゃないかなと思います。

Google mapより

 かくいう私も、シルクロードのオアシス都市「サマルカンド」や「ブハラ」の名は知っていたものの、今のウズベキスタンがどういう国なのかまったくわからず。興味を持ったのは、2014年2月にFM‐Hi『かみかわ陽子ラジオシェイク』で、当時、総務副大臣だった上川陽子さんが政務三役としては初めて14年1月に訪問された話をうかがってからでした。トークの内容を一部ご紹介します。

 

 

(鈴木)ウズベキスタンというと歴女の自分にとっては中央アジア、シルクロードのオアシスというイメージが強いのですが、多民族国家で、かつてはモンゴル帝国やソビエト連邦に支配され、カザフスタンとかアフガニスタンなどと国境を接し、日本からは想像もできない歴史を背負った国なんですよね。

 (上川) そうですね。地政学的に言えば中央アジアの真ん中に位置する、海のない内陸の砂漠の国。しかも海に出るまで国境を2つ越えなければならない二重内陸国です。世界にはリヒテンシュタインとウズベキスタンの2カ国しかありません。おっしゃるとおり日本とはまったく違う風土を持つ国で、旧ソ連崩壊によって1991年に共和国として独立し、カリモフ大統領が91年の建国以来、政権をとっています。

 石油、石炭、天然ガス、金など豊富な資源を持つ国で、外貨を得るため積極的に外交に力を入れています。92年に国連に加盟したほか、欧州・大西洋パートナーシップ理事会 (EAPC)、平和のためのパートナーシップ (PfP)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)、イスラム協力機構 (OIC)、中央アジア5カ国の経済協力機構 (EC)、上海協力機構(SCO)、ユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟しています。ヨーロッパやアジア各国ともバランスをもって全方位外交に取り組んでいるようですね。とくにドイツやトルコとの関係が強いようです。一方で隣接するアフガニスタンの過激派が国に入ってこないよう神経を遣っています。

鈴木)日本とのかかわりというと、あまりピンとこないのですが。

(上川) 実は安倍政権は、ウズベキスタンを中央アジアのフロントランナーとして重視していまして、私が先駆けとなって政務三役として訪問し、この後、岸田外務大臣や麻生財務大臣も現地を訪問する予定です。

(鈴木)地政学的にはヨーロッパに近いようですが、ウズベキスタンの人々は日本にどんな印象を持っているのでしょうか。

 (上川) 資源エネルギー保有国としては未開拓の国ですから日本にとって魅力的であることは言うまでもありませんが、ウズベキスタンの方々は、実は非常に親日的なんです。

(鈴木)そうなんですか! 

 (上川) 年配の方はご存知かもしれませんが、第二次世界大戦後、シベリアに抑留された日本人捕虜は首都タシケントにも送られ、学校や劇場など首都の主だった公共建造物の建設工事に従事しました。中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場であるナヴォイ劇場もそのひとつで、設計者はボリショイバレエ劇場を設計した人です。この劇場は、1966年のタシケント地震で、他の多くの建造物が倒壊した中、全くの無傷だったそうです。日本人捕虜が過酷な強制労働にも関わらず、見事な仕事をしたということで、現在も、ウズベキスタンでは親日感情が非常に高いんですよ。

(鈴木)そうだったんですか、知りませんでした。

 (上川) 日本人墓地を訪問したときは、なんともいえない熱い思いがこみ上げてきました。亡くなられた方々の出身地が墓標に刻まれており、静岡県出身の方もお2人いらっしゃいました。タシケント市役所の方々にご案内いただいたんですが、国を挙げて墓地を整備されたようです。戦争捕虜という過酷な状況下でも、日本人としての矜持を決して失わず、手抜きをせず、与えられた仕事をきちんとこなし、後の世の友好関係の礎となった方々に対し、自分もこれから恥ずかしくない仕事をしなければ、と痛切に思いました。

 (鈴木)そういう地に、政務三役として初めて陽子さんが足を踏み入れたということですか・・・非常に重いミッションだったんですね。

 (上川) 大変タイトな日程で公式行事は1日しかありませんでしたが、有意義な会談ができました。カリモフ大統領は2020年までにICT分野で各省庁にミッションを与えており、各省庁のICT事業を統括するセクションのトップと覚書を交わしてまいりました。気象衛星を活用し、アラル海の灌漑用水を管理するプロジェクトを提案しました。

 ウズベキスタンは、かつて、ソ連の経済政策で綿花の栽培に力を入れ、大地から水をどんどん汲み上げていきました。しかしこの地域は元来、降水量が少なく、綿花の栽培には向いていない土地ですので、近年とくに砂漠化が進み、灌漑元であるアラル海の縮小や塩害などに悩まされています。また、綿花栽培に農地の大半を割いているため、食料自給率は半分以下という状況です。

 このことは、開発と自然保護のあり方、農業政策のこれからを考える上で、非常に大きな課題で、日本でも、世界でも、どの地域でも抱えている問題といえるでしょう。ICTの導入によって環境の変化をしっかりと分析し、アセスメントを行い、この地域で自然環境と人間の暮らしが共生できるあるべき姿を示していくことが、日本にできる大きな国際援助のひとつではないかと実感しています。

 さらに医療分野では周産期医療システムについて、日本でも過疎地で運用が始まっていますが、その分野でのICT活用を提案してまいりました。

 (鈴木)ウズベキスタン政府側の期待も大きいのでは?

 (上川) あちらからみれば、どれもこれもやってもらいたいというものです。人材を養成しながら具体的なプロジェクトを動かしていけるよう、力を尽くしてまいりたいと思います。

(鈴木)今まで縁のないと思っていた遠い外国の国が、とても身近に感じられるようになりました。写真で見ると、ウズベキスタンの人ってアジア系で、日本人にも似ていますね。

 (上川) 日本への憧れが強く、タシケント市には日本語センターがあり、語学やビジネスを学ぶ市民が多くいます。たまたま夜間コースを見学させてもらったんですが、20人ほどのクラスがチームになり、日本に行きたい、日本の企業で働きたいと熱心に学んでいました。非常に心強かったですね。

 実はJICAの技術研修制度を利用し、ウズベキスタンから日本へ研修にやってきて、母国に戻って活躍中、というビジネスマンがいます。ちょうど彼らとランチをともにする機会に恵まれまして、日本語や英語を交えて交流を図りました。日本で大変いい経験ができたと喜んでいました。

<かみかわ陽子ラジオシェイク 2014年2月18日オンエアより>

 

 

 このラジオトーク以来、ウズベキスタンという国名が頭に焼き付いて、静岡県ニュービジネス協議会の海外視察先を検討する会議があったとき、いち早くビジネスの芽を発掘に行ってみてはどうかと提案したのですが時期尚早だったよう。その後、外務大臣や財務大臣、そして2015年に安倍首相が公式訪問したことで日本―ウズベキスタンの国際交流がグッと促進され、2016年8月まで駐ウズベキスタン特命全権大使をお務めだった加藤文彦氏が静岡県ニュービジネス協議会の鴇田勝彦会長の経産省時代の後輩というご縁、協議会会員の矢崎総業が日本ウズベキスタン・シルクロード財団の法人会員だったというメリットが働いて、今年の視察先に決まったのでした。

 出発前には加藤前大使と日本ウズベキスタン・シルクロード財団のマンスール代表理事がわざわざ静岡へお越しになり、ウズベキスタンの国情や視察ポイントを解説してくださいました。

 加藤氏が挙げたポイントは7つ。

①人口が多く、若い。・・・1991年に旧ソ連から独立した中央アジア5カ国 “カトウタキ~カザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギス” のうち、人口は最大の3200万人。うち30歳以下が過半数。面積は日本の1.2倍。

②緑豊かな土地・・・昔から農耕定住民族が暮らすシルクロードオアシス。2つの大河アムダリア・シルダリアがあり、農産物が豊富。主要作物は綿花とスイカ。

③豊かな地下資源・・・ガス、金、ウラン、レアメタルが豊富。天然ガスは世界7~8位の産出量。中国がガスパイプラインを敷設。

④安定した政治・治安・・・カリモフ前大統領(2016年9月逝去)が91年の独立以降、25年間統治。治安秩序を最優先し、国による強力なインフラ開発を進める。経済自由化は徐々に進展。GDP1人当たり2100ドル(ベトナム、ミャンマー並み)。

⑤温厚・親切な国民性・・・マハラ(町内会組織)が地域の共同体として機能し、失業者やホームレスがほとんどいない。マハラの清掃活動によって町にゴミはほとんど落ちていない。イスラム教国だが信仰の自由が保障されている。酒も豚肉もOK。

⑥親日的・・・国立ナヴォイ劇場の建設等で日本人抑留者の業績を高く評価。若者の日本語習得熱も高い。

⑦日本の技術への強い憧れ・・・日本企業や日本製品の高い技術に尊敬の気持ちを持つ。

 

 この7ポイントだけでもウズベキスタンに興味が湧いてきませんか? 個人的には10代の頃から憧れていたシルクロードの歴史都市に初めて足を踏み入れるワクワク感も相まって、10月13日、20名の参加者とともに成田発のウズベキスタン航空直行便に搭乗しました。(つづく)