歌う介護士

看取りをしたご入居者から「あなたの声は癒される」と。お一人一人を思い浮かべながら、ずっと歌い続けています。

あれから一週間

2011-03-18 08:18:09 | Weblog
歩道に咲くクロッカス、春は来ています。

被災した方々には比べることができないのですが、周りの人達の考え方が変わろうとしています。

まめに電気を消し、車通勤をやめ買い物だけに使うとか。

通勤経路は、遅れても動いています。車内の暖房も電灯も日中は必要なかったですね。
夏だって窓を開けて走ってましたが、開けられない車輌ばかりになりました。

まわりの人の会社が、原発の影響を懸念して東京から当分の間、撤退するかもしれません。アメリカ本社なので、放射能避難基準が日本より幅広いらしい。

こんな形で一人暮らしになるとは…、

まわりの人が自宅待機で仕事をしているため、携帯から更新をしています。


KUNITORAさま、私も精神力がもっとあるかと思ってましたが、脆いものです。
立ち直るには、もうしばらく掛かりそうです。

〓megu

自宅待機4日目

2011-03-16 21:29:40 | Weblog
11日の深夜移動の疲れが残っているのか、何をする気にもならずの4日間。
休みを楽しむには、休む理由がないと単なる時間を費やすだけになるようです。

起床時間も普段どおりで、6時半には起きてテレビをつけているが・・・。

あまりの惨状に・・・。
おまけに、ひどいおまけがあったものだが、福島第一原発のあってはならない事故。
チェルノイブリとは違うと識者はいっているが、
このまま治まらなければ、どうなるのか・・・?

唯一の被爆国で、放射性物質の恐ろしさは充分すぎるほど知っていなければならないのに。

考えてみれば、国内に何箇所も可能性のあるところがある。

そしていつも言われることは「想定外の・・・」という言葉。

あまりに広い被災地と被災者。
映像で、呆然とたたずむ人たちを見ると何がわたしたちに出来るのか?
出来ることはあるのか?と、考えてしまう。

せめて、生活物資を買い込まないで被災地に送れる様に協力することからはじめたい。
地震から5日たち、スーパーやデパ地下も短時間ながら開きだしている。

蝋燭も懐中電灯もないけれど、
その時間だけ過ぎれば明かりはつくのだから。
手持ちの道具を活用するのも頭の体操になる。

と、こんなことを考えながら毎日停電のための準備をしている。

ちょっとした移動の時は携帯の画面や時計の明かりを使う。
オリーブオイルを使っての火皿は、意外と使える。
子よりより、麻紐や綿のより紐を使うとグッド。
細いワイヤーでしっかりさせると火皿の中に落ちずに固定できます。


周りに燃えやすいもの、紙などには気をつけて。油ですので。
江戸時代は、菜種油で行灯を点していたんですよねエ。
蝋燭を買えるのはお金持ちだったんだなあ。
でも、この明かりで夜なべ仕事をしたら、目が悪くなって当たり前か。

電車も通勤時間は動き出したので明日は出勤します。

計画停電…?

2011-03-14 21:42:20 | Weblog
通勤手段がなくて(T-T)、まわりの人と一緒に一日過ごす。

まあ、何年ぶりでしょう?数日、顔を逢わせないこともあるというのに、ね。

こういう時は、やっぱり心強い。
いつも一人が当たり前の生活になっていますが、11日のストレス解消はまだ出来ていません。

停電を予期し、買い物に。
なんと、一緒に行くから待ってて、という。
一人より二人、で買い物に出かける。

が、みんな欲しい物は同じですね。
ローソク類は、売切れ。

テレビで見た、灯心を作って見ました。油は、オリーブ油ですが、写真のように灯ります。

被災した方々を思えば些細なことですが、こちらの停電は、ありませんでした。


原発事故は、私の生まれたところの近くです。これ以上悪化しませんように…。

〓megu

地震から3日

2011-03-13 22:05:36 | Weblog
まわりの人たちは、幸いケガをしなかったようだ。
子供たちとは、11日の17時半には電話が繋がった。
それぞれ今いるところで夜を明かす覚悟だという。
最初の長い揺れが来たとき「あ、とうとう来たか!」と頭をよぎったそう。
高い建物にいたので船酔い状態だったらしい。

都内では、勤務先で徹夜したり地震難民化する人たちもいたようだ。
私の通勤経路でさえ、駅やホテルのロビーでしゃがみこむ人たちが多数あったし、線路沿いの道路を足早に歩く人も多数あった。

ホテルはもちろん、ネットカフエなども既に満員。
行き先のない人たちは線路を歩くか、街を歩くか・・・。

暖めてくれるようなビルの多くはシャッターを下ろして外部進入を出来なくしてしまっただろう。
コンビ二も売り切れ、補充もない。
普段の便利さに慣れている私たちの日常は夢だった・・・。

交通手段は震度4になると全て止まるので、今回の経験で学んだこと。
・移動する前に必ずトイレは済ませておく。
・食べるもの、カロリーの取れる携帯食と水は持ち歩く。
・常に現金を持ち合わせる。
・安否確認方法を決めておく。


明けて12日は、私は出勤。
電車は間引きながら動いていた。
自分ではあまり気付いていなかったが、かなりなストレスになったらしく、
胃腸の具合はなんとなく悪いし、体も仕事モードにならない。

ご入居者もお忘れになる方でも、なんとなく異変を覚えているのか一人になるのを嫌がっている。
動いていると、フワ~フワ~ッと、めまいのように揺れを感じてしまう。

しかし、年齢より体力があるのを証明しちゃったかな。
てっきり休むと思われていたようです。


山形のいとこに電話する。
12日まで停電していたので、寒くて真っ暗で、電話も何も通じなかったとのこと。
向こうは交通手段が車なのに、ガソリンが10Lしか買えないと嘆いていた。
ご飯も鍋で炊いたらしい。(ストーブです!)
とても役に立ったのは、蝋燭と手回し充電のラジオ。
手回し充電のラジオは優れものだそうですよ!

いとこの静子さんいわく。
「これを機会に少し昔のアナログ生活に戻ればいいと思う。」
それも言えてるかも。


テレビの画面は被災地の映像が次々と。
感情が不安定になっているのかもしれないが、見ていると涙が流れてしまう。
どうか、我が身になって、少しでも早い対応をして欲しいと心から願っている。
政治政党のしがらみをひきづっている場合ではあるまい。
なぜこんな時にいち早く「超党」という声が上がらないのか?不思議に思います。
海外からのすばやい支援に頭が下がります。



怖くて、寒くて、長い夜

2011-03-12 21:47:38 | Weblog
3月11日14時45分。
私は「歌遊び」というテーマで音楽療法をしていました。

「そろそろお茶にしましょうか~」と、いった途端!
グラッと揺れだしました。横揺れです。

だんだん強くなり揺れが大きくなる。
ホールのテレビが前後に揺れる。
輪になっているご入居者たちが慌てだす。

かがめる人にはテーブルの下へ、動けない人の傍に行き落ち着くように宥めながら、
内心、恐怖でいっぱいでした。
(壁が崩れないか、天井が落ちてこないか・・・)
玄関ドアのロックを外し、非常口も開けてもらう。
エレベーターが止まる。

何度かの大きな余震が来て、船酔いのような気分になりました。
不安になった人からのナースコール。
ホールへこられる人は降りてきてもらう。
車椅子の人は車椅子ごと運びました。

若い男性の勤務している日でよかった!

震度も震源も何もわからず、なんとなく5くらいかと思いました。
この時点で電車は全て停止。
(わっ、帰りどうしよう)
    施設に泊まる気にはなれない私。
11日の勤務者で一番遠いのが、私。

19時、夕食の介助を終え、相模大野まで送ってくれるというスタッフに甘えて帰宅の長い道のりに出る。


道路も渋滞、相模大野まで7キロくらいだが、1時間以上かかって気分が悪くなる。
駅前のホテルに泊まろうと安易に考えていたのだが、
こんな時、誰でも考えることは同じ。
既にロビーは、難民テント状態。
一緒に付き合ってくれた同僚が、
「相模原までバスがありますよ。」と教えてくれた。

20時半くらいにバスに乗れる。
「心配だから」と乗り込むまで見送ってくれた同僚。
ありがとう!うれしかった・・・。
16号線は渋滞なく目的地まで着くが、停電で真っ暗。
タクシー乗り場は、何人待ってる?

でも、待ってるしか帰りようもないし・・・。
待つ身は長し、デ、10分間に1台くらいしかタクシーが来ないし、
見ていると乗車拒否もありそう(こんな時に乗車拒否なの!)

とにかく寒い!寒い!寒い!
勝手に体がこわばって震えだす。
これはまずい、足踏み、つま先の上げ下げを繰り返す。
施設の夕食の残りでお結びを1個作って持ってきたのを食べ、
キャラメルをなめ、トイレが困るので水分は飲まない。

あまりにつらくなり友人に泣き言のメール。
とどかないかもしれないと思いながら流した。電話は通じない。
もしかしたら、ウンがよければコッチの方にいるかな?と。

待つこと3時間、
両となりで並ぶ若い女性と話すようになり、
ようやく番が来たとき片方の女性と相乗りして帰ってきた。
彼女は小田急の電車内で地震に会い、車内で3時間閉じ込められたという。

タクシーの運転手さんにもいろいろあり、
「相乗りはダメ!」と、誘いかけた人を強硬に止めた運転手。
行き先によっての乗車拒否はけっこうザラ。
運転手さんに聞いたら「帰りが困るんで」と少し恐縮していたが・・・。
私たちの車の人は良心的で、深夜の割増料金も取らなかった。
右となりの彼女はいそこまで帰るといっていたっけ。

「袖すりあうも他生の縁」


つくづく実体験になったのは、携帯電話が緊急時は役に立たないこと。

日を跨いで、ようやく到着し、一番にしたのはお風呂を入れること。

2時半、心の中でちょっとだけ頼ってしまった友人から返事が届く。
かわいそうに思ってくれたのかな?
全く逆方向に5時間かかっていったそうだった。


まわりの人たちとの安否確認も出来たので、ひと安心。

私たちは無事でしたが、あまりの被害の大きさ、酷さに愕然としてます。