評価点:65点/2012年/アメリカ/135分
監督・脚本:トニー・ギルロイ
シリーズの同工異曲だが、スパイ性に物足りなさを感じる。
CIA上層部は、ベテラン記者のサイモン・ロス()によって、アメリカCIAの秘密作戦「ブラックローズ」「トレッドストーン」計画についての記事が発表されるという情報を入手する。
CIAの計画の全貌が明るみに出ることを避けるため、作戦実行中だったエージェント(被験者)を全員消去することにする。
訓練中だったアーロン(ジェレミー・レナー)は、投与されていた薬を紛失したので、指示にない行動をとっていた。
薬を求めて訓練中継地点を訪れたアーロンは、無人爆撃機によってその小屋が爆撃されるのを目撃する。
身の危険を感じたアーロンは、すぐに山を降りる決心をするのだが……。
人気の「ボーン」シリーズの、新たなシリーズとして立ち上がったのが、「レガシー」である。
「ボーン・アルティメイタム」と同じ時期に起こった事件を取り上げている。
主人公は、マット・デイモンからジェレミー・レナーを抜擢。
「ハートロッカー」「アベンジャーズ」「ミッション・イポッシブル/ゴーストプロトコル」でも活躍する注目のアクション・スターである。
(彼の作品は、順を追って見直しても良い、それくらいの作品に出ている。「SWAT」「ザ・タウン」もよい)
「ボーン」シリーズはあまり好きではないのだが、ジェレミー・レナーが出るなら見に行かねばなるまい。
公開してずいぶんたつが、ヤフーのレビューの評価は一向にあがらない。
まあ、それくらいのお手軽な作品だと思えば見に行く価値はあるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
巨大な国家の陰謀が育て上げたスパイのエキスパート。
アメリカがこの手の作品が好きなのは、一つの典型を描いているからだ。
巨大な組織(権威)と、矮小な個人。
この対立はアメリカが最も得意とする対立項のパターンだ。
彼らは潜在的に知っている。
巨大な何かは、それが何であったとしても、私たち弱い個人を蹂躙している――。
その対比は、訴訟なんかでもよくあるものだ。
だから、一人が肥満になり大病を患った責任を、巨大ファスト・フード会社がとらされる(賠償金を払わされる)。
そんな裁判が後を絶たないのだ。
国家が自分自身で育てたエージェントに、足元を揺るがされるという設定はアメリカ人にとって非常に興味をそそるものなのだろう。
だからこのシリーズの構図はずっと変わらない。
追うものと追われるものとのやりとりを交互に描いていくことになる。
追うものは、人海戦術と最先端技術を駆使し、標的となる主人公を執拗に、そして確実に追い詰める。
追われるものは、身の回りにある細かい道具を組み合わせて、武器や逃避アイテムにしあげて、追跡をかわす。
このシリーズはすべて同工異曲であり、そのやりとりを楽しむことが醍醐味となっている。
速すぎて何をしているかわからないアクションよりも、いかに巧みに人ごみにまぎれて敵を交わすか、というところに面白さがある。
それが世界中を舞台に繰り広げられるので、より楽しめるというものだ。
観客はそのスパイぶりに胸をわくわくさせられるのである。
ここで重要なのは、エージェントとなるジェイソン・ボーンやアーロン・クロスに感情移入することはできない、という点だ。
彼らは巧みに身の回りの小道具で工夫しながら手際よく逃げ切るが、そんな特殊能力を持っていない僕たちは、彼らに感情移入しにくい。
だからこのシリーズは、強大な組織と矮小な個人の間に、もう一人第三者を置くことになる。
それが、「アルティメイタム」でいうところのサイモン・ロスであり、「レガシー」のマルタ博士(レイチェル・ワイズ)である。
僕たちは、第三者のスパイ素人の視点にたって、物語を体験することになる。
だから、この映画が俄然おもしろくなるのは、マルタが自宅を臨床心理士と名乗る人間に襲われるところからである。
それまでは、何が起こっているのかわかりにくいだけではなく、僕たちはどこに感情移入するべきなのか、基点が見えない。
同僚がいきなり銃乱射事件を起こし、さらに命からがら逃げてきた彼女のもとへ、なぞの男女が襲いに来る。
その間に割ってはいるのが、アーロンなのである。
それまでの展開は、次回作と、「ボーン」シリーズとの橋渡しのための描写に過ぎない。
僕はあまりの物語のつまらなさにうとうとしはじめていたところなので、ちょうど良かった。
全体の評価は、「それなり」である。
とくに致命的だったのは、彼の行動動機がいまいちなことだ。
ジェイソン・ボーンは自分の記憶という自身の根幹に関わる部分をめぐる物語だった。
その意味で、彼が恋人が殺されようと殺されまいと、やはり記憶を戻すために全世界を奔走するのは納得できる。
だが、それに比して今回のアーロンの場合、自分の知力体力を超人に維持するため、というモティベーションによって行動する。
もちろん、それは納得はできるのだけれど、どこか切実さに欠ける。
しかも、先ほども触れたように、このシリーズの面白さは、「巨大な権威」と「矮小な個人」という対比があるからだ。
その「矮小な個人」がクスリの力で増強されていたとしたら、やはりそこに「応援したくなる要素」は弱くなる。
数日で死んでしまう、数日で致命的な病気を発症してしまう、というようなもっと切実な動機にしてほしかった。
だから、絶対的な安心感のようなものがある。
僕がこの映画のクライマックスのマニラでのカーチェイスでうとうとしてしまったのは、日ごろの疲れがあるからだけではあるまい。
出てくる敵にしても、どんどん「常人離れ」しているため、その前にあった「007/スカイフォール」と同工異曲になりそうである。
ボーンシリーズの生きる道は、日常性だと思う。
日常にある景色の中で、日常にある道具を使って、非日常的な危機を脱していく。
そういう流れにしていかないと、世界観だけが壮大になるだけで、観客は置いてけぼりになる。
とはいえ、ようやくCIAの計画の全貌について見えてきた。
何度も顔写真で登場する「ジェイソン・ボーン」なる人物との邂逅も楽しみである。
シリーズのよさをしっかりと見つめながら、良作を作っていただきたい。
……次も、見に行こうかな。
監督・脚本:トニー・ギルロイ
シリーズの同工異曲だが、スパイ性に物足りなさを感じる。
CIA上層部は、ベテラン記者のサイモン・ロス()によって、アメリカCIAの秘密作戦「ブラックローズ」「トレッドストーン」計画についての記事が発表されるという情報を入手する。
CIAの計画の全貌が明るみに出ることを避けるため、作戦実行中だったエージェント(被験者)を全員消去することにする。
訓練中だったアーロン(ジェレミー・レナー)は、投与されていた薬を紛失したので、指示にない行動をとっていた。
薬を求めて訓練中継地点を訪れたアーロンは、無人爆撃機によってその小屋が爆撃されるのを目撃する。
身の危険を感じたアーロンは、すぐに山を降りる決心をするのだが……。
人気の「ボーン」シリーズの、新たなシリーズとして立ち上がったのが、「レガシー」である。
「ボーン・アルティメイタム」と同じ時期に起こった事件を取り上げている。
主人公は、マット・デイモンからジェレミー・レナーを抜擢。
「ハートロッカー」「アベンジャーズ」「ミッション・イポッシブル/ゴーストプロトコル」でも活躍する注目のアクション・スターである。
(彼の作品は、順を追って見直しても良い、それくらいの作品に出ている。「SWAT」「ザ・タウン」もよい)
「ボーン」シリーズはあまり好きではないのだが、ジェレミー・レナーが出るなら見に行かねばなるまい。
公開してずいぶんたつが、ヤフーのレビューの評価は一向にあがらない。
まあ、それくらいのお手軽な作品だと思えば見に行く価値はあるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
巨大な国家の陰謀が育て上げたスパイのエキスパート。
アメリカがこの手の作品が好きなのは、一つの典型を描いているからだ。
巨大な組織(権威)と、矮小な個人。
この対立はアメリカが最も得意とする対立項のパターンだ。
彼らは潜在的に知っている。
巨大な何かは、それが何であったとしても、私たち弱い個人を蹂躙している――。
その対比は、訴訟なんかでもよくあるものだ。
だから、一人が肥満になり大病を患った責任を、巨大ファスト・フード会社がとらされる(賠償金を払わされる)。
そんな裁判が後を絶たないのだ。
国家が自分自身で育てたエージェントに、足元を揺るがされるという設定はアメリカ人にとって非常に興味をそそるものなのだろう。
だからこのシリーズの構図はずっと変わらない。
追うものと追われるものとのやりとりを交互に描いていくことになる。
追うものは、人海戦術と最先端技術を駆使し、標的となる主人公を執拗に、そして確実に追い詰める。
追われるものは、身の回りにある細かい道具を組み合わせて、武器や逃避アイテムにしあげて、追跡をかわす。
このシリーズはすべて同工異曲であり、そのやりとりを楽しむことが醍醐味となっている。
速すぎて何をしているかわからないアクションよりも、いかに巧みに人ごみにまぎれて敵を交わすか、というところに面白さがある。
それが世界中を舞台に繰り広げられるので、より楽しめるというものだ。
観客はそのスパイぶりに胸をわくわくさせられるのである。
ここで重要なのは、エージェントとなるジェイソン・ボーンやアーロン・クロスに感情移入することはできない、という点だ。
彼らは巧みに身の回りの小道具で工夫しながら手際よく逃げ切るが、そんな特殊能力を持っていない僕たちは、彼らに感情移入しにくい。
だからこのシリーズは、強大な組織と矮小な個人の間に、もう一人第三者を置くことになる。
それが、「アルティメイタム」でいうところのサイモン・ロスであり、「レガシー」のマルタ博士(レイチェル・ワイズ)である。
僕たちは、第三者のスパイ素人の視点にたって、物語を体験することになる。
だから、この映画が俄然おもしろくなるのは、マルタが自宅を臨床心理士と名乗る人間に襲われるところからである。
それまでは、何が起こっているのかわかりにくいだけではなく、僕たちはどこに感情移入するべきなのか、基点が見えない。
同僚がいきなり銃乱射事件を起こし、さらに命からがら逃げてきた彼女のもとへ、なぞの男女が襲いに来る。
その間に割ってはいるのが、アーロンなのである。
それまでの展開は、次回作と、「ボーン」シリーズとの橋渡しのための描写に過ぎない。
僕はあまりの物語のつまらなさにうとうとしはじめていたところなので、ちょうど良かった。
全体の評価は、「それなり」である。
とくに致命的だったのは、彼の行動動機がいまいちなことだ。
ジェイソン・ボーンは自分の記憶という自身の根幹に関わる部分をめぐる物語だった。
その意味で、彼が恋人が殺されようと殺されまいと、やはり記憶を戻すために全世界を奔走するのは納得できる。
だが、それに比して今回のアーロンの場合、自分の知力体力を超人に維持するため、というモティベーションによって行動する。
もちろん、それは納得はできるのだけれど、どこか切実さに欠ける。
しかも、先ほども触れたように、このシリーズの面白さは、「巨大な権威」と「矮小な個人」という対比があるからだ。
その「矮小な個人」がクスリの力で増強されていたとしたら、やはりそこに「応援したくなる要素」は弱くなる。
数日で死んでしまう、数日で致命的な病気を発症してしまう、というようなもっと切実な動機にしてほしかった。
だから、絶対的な安心感のようなものがある。
僕がこの映画のクライマックスのマニラでのカーチェイスでうとうとしてしまったのは、日ごろの疲れがあるからだけではあるまい。
出てくる敵にしても、どんどん「常人離れ」しているため、その前にあった「007/スカイフォール」と同工異曲になりそうである。
ボーンシリーズの生きる道は、日常性だと思う。
日常にある景色の中で、日常にある道具を使って、非日常的な危機を脱していく。
そういう流れにしていかないと、世界観だけが壮大になるだけで、観客は置いてけぼりになる。
とはいえ、ようやくCIAの計画の全貌について見えてきた。
何度も顔写真で登場する「ジェイソン・ボーン」なる人物との邂逅も楽しみである。
シリーズのよさをしっかりと見つめながら、良作を作っていただきたい。
……次も、見に行こうかな。
少し落ち着きました。これからまたばたばたしそうです。
>Pさん
書き込みありがとうございます。
はい、スカイフォール、見てません。
正しくは、この映画を見る前に、予告編で、スカイフォールを見たのです。
「007」はスパイ映画の極みという位置づけで、同工異曲と、表現しました。
はい、言葉足らずだったことをお詫びして訂正します。
ちなみにスカイフォールは公開されても見に行く予定はございません。