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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

落下の解剖学

2024-03-01 11:22:47 | 映画(ら)
評価点:78点/2023年/フランス/152分

監督:ジュスティーヌ・トリエ

わかりあえないということ。

フランスの山間の村で暮らす作家の夫婦が、視覚障害のある息子と住んでいた。
ある日、大音量で家の階層作業をしていた夫が死体となって発見される。
発見したのは散歩に出かけていた息子で、当時家には妻のサンドラだけがいた。
サンドラは息子の声で午睡から目を覚まし、異変に気づく。
しかし、不自然な位置に血痕が残されており、検察らは妻のサンドラを殺人容疑で起訴することを決める。

アメリカのアカデミー賞でも作品賞にノミネートされ日本で話題になっている。
フランス映画であるが、かなりの部分が英語で話されているので、その分ウケがよかったのかもしれない。
作品としては法廷ものであり、ジャンルはサスペンスやドラマになるのだろう。
私は映画をジャンルでわけようと思わないので、そのあたりは他の記事をあたってほしい。

二時間半ほどあるので、決して気軽に見られるようなサイズではない。
また、一つの事件にある背景を掘り下げていく映画なので、普段めまぐるしい展開の映画しか見ない人は、退屈かもしれない。
著名な俳優が出ているわけでもなく、万人受けするような作品ではない。

にもかかわらず、劇場には多くの人が駆けつけていて、ほぼ満員の状態だった。
ほとんどが年配で暇で暇で仕方がない人たちなのだろう。
(私を含めて)
しかし、こういう映画に需要があるのだから、マンガのアニメ映画化作品に一日十回以上の上映回を設けるのではなく、もっと考えたらいいのに、と思わなくもない。
(ド平日の日中の映画館で「ハイ○ュー!」をそんなにやって席が埋まるの?)

そろそろ公開からずいぶん経ったので、終映していくだろう。
もちろん時間が経った後にサブスクでという選択肢もあるが、ぜひ見てほしい作品ではある。

▼以下はネタバレあり▼

ある人から見れば、この映画は退屈極まりなくラストが物足りなく消化不良で終わる。
ある人から見れば、この映画は唸るほどおもしろくラストで突きつけられるエンドロールに言葉を失うだろう。
もちろん、どちらが正しいとかどちらが読解力がないとかそういう問題ではない。
映画に何を求めるのか、どういう立場や社会的文脈でこの映画を見るかによって全く違って見えることだろう。
こういう映画が評価されているからこそ、各国の「映画賞」に存在意味がある。

夫が不自然に落下し、死んだ。
当時大音量で音楽をかけており、もう一人の在宅中の妻は耳栓をしながら昼寝をしていた。
屋根裏の作業場から落ちたとしたら、窓が内側に開くタイプで事故という説明は難しい。
自殺とすれば動機は何か。

妻の証言が嘘であれば、二階から何かで殴打し、転落したと思われる。
しかし180CMを超える大きな夫を簡単に殴打し突き落とせるか。
そしてその妻の殺害動機は何か。

概ね法廷での論点はこのあたりである。
どういう説明をしても不自然さが残り、はっきりしない。
そうなると、焦点は自殺と殺人のそれぞれの動機になっていく。

中盤以降、裁判での争いが物語の中心となる。
そしてそれは、この映画の中核でもある。
検察はなんとかこの暴挙をあばいて、妻に正しい制裁を加えるべきだと考え追い詰める。
弁護士は、彼女の無実を証明するために論を展開する。
このやりとりのなかで、丸裸にされていくのは、夫と妻の二人の夫婦生活である。

夫は小説を書きたいと思っていたが上手く作品にまとまらず苦悩していた。
教師をしながら、行き詰まっていた。
ある日、作品作りに没頭していたとき息子を迎えにいくのが遅くなり、ベビーシッターが事故を起こしてしまう。
息子はほとんど盲目になる障害を負う。

罪悪感もあったのだろう、息子が過ごしやすい田舎に引っ越して、息子の面倒をみながら小説を書く日々が続く。
しかし、容易に作品ができず、焦り、家庭の資金繰りが悪化していく。
そんな中、この山荘を民宿にするために屋根裏を改装していたのだ。

妻は数冊の本を出すほどの作家になっていた。
しかし、息子に障害を負わせたのは夫の責任だというのがどこかに残っていた。
息子のために言われるがまま、夫の故郷でもある、フランスの田舎に引っ越した。
しかし、周りは知らない人ばかり、言葉も話せない。
不安といらだちは、作品作りに向かうが、それだけでは満たされない。
バイセクシャルだった彼女は、何度かの不倫を経験し、夫婦の溝はますます深まっていく。
(長くなるので言及できないが、この〈母語を奪われた作家〉という点は非常に重要なポイントだった。)

息子のことが嫌いか。
嫌いではない。
しかし、彼女は自分の人生を生きることを大事にしたい母親だった。
夫からもらったアイデアを形にして、作家として軌道に乗りつつもあった。

事件(あるいは事故)前日、二人の軋轢が大きくなり、衝突する。
もっと時間を作りたいと思うが非協力的な妻に腹を立てる夫。
何もかも言い訳にして自分の努力不足を棚に上げようとする夫に、我慢できない妻。
その音声は、夫の「作品作りの材料」となるべく、録音されていた。

これが、裁判の終盤に提出される。
どうしても聞きたいと傍聴に参加した息子は、自分の障害をめぐる事故が、夫婦の関係性を決定的に悪化させたことを知る。

判決は、無罪。
その理由は明らかにされなかったが、彼女を殺人罪に問うほどの確証は得られなかったのだろう。
いわゆる「推定無罪」であろうと思われる。
(むしろこれで有罪になったらどんな司法やねん、と思いながら私は見ていた。)

判決後、妻は弁護士に漏らす。
「勝ったらなにかご褒美がもらえると思っていた。けれど、勝っても何もないのね」と。

この物語はこの台詞に象徴される。
勝者はいない。
真相などどうでもいい。
徹底的に「解剖」された家族の仲は不可逆なほど破壊されてしまった。

ラストで妻は、怖くて遅くまで家に帰れなかった。
どんな顔をして息子に会えばいいか分からないからだ。
そばに居てあげられる、という安堵感よりも、息子のせいで(間接的に)父親が自殺したかもしれない、と突きつけたことになる。
その傷は永遠に拭い去ることはできない。

下手な映画なら、実際の真相を最後に入れただろう。
趣は異なるが、ハリウッド映画の「スリーデイズ」のように。
しかし、そんな野暮なことはこの映画はしない。
「真相」など存在しない。
ただ、何らかの原因で夫が死に、家族が徹底的に解体される物語なのだ。
「事実」は、夫婦は決定的な齟齬を、解消することなくその関係を終えた、ということだけだ。
自殺か殺人かよりも、もっと重たいものを背負って母子は生きていくことになる。

しかし、この映画が胸を打つのは、この関係性は、この二人の夫婦だけに限ったことではないということだ。
こういう齟齬は、どんな夫婦にでもある。
妻に、夫に、100%満足して信頼して、わだかまりもなく過ごしている夫婦のほうが希有である。
子どもができれば家事や育児がどちらかに偏ることはあり得る。
収入の差も生まれるだろう。
言いたいことが言えない日々が続くこともある。

夫が死ななければ、おそらくこの夫婦も、他の多くの男女と同じく、それなりにやっていけたはずだ。
生活が苦しくても、家はある。
その意味では、この映画は私たち多くの「普通の人たち」と地続きであり、普遍性がある。
逆に言えば、一歩間違えれば、サンドラと同じ運命をたどることもあり得る。

エンドロール中に、私たちの胸をえぐってくるのは、そうした不安を私たちに意識させるからだろう。

しかし、サンドラと夫は一つ分かっていなかったことがある、と私は思っている。
それは、夫婦は元々他人であり、わかり合えることはないのだ、という決定的な無理解を肯定することだ。
自分のことを理解することなど、相手は不可能なのだという諦めが、どんな人間関係にも必要だ。
わかりあえなさをどう生きるか。
情報機器が発達した現代だからこそ、わかりあえなさが私たちを苦しめる。
それが、言語を奪われている作家に象徴されているわけだ。

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