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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

映画 ドラえもん のび太の地球交響楽(シンフォニー)

2024-03-05 19:31:01 | 映画(あ)
評価点:55点/2024年/日本/115分

監督:今井一暁

決定的な問いかけの不足。

音楽の授業でリコーダーの合奏発表を控えていたのび太だったが、一向に上手くならなかった。
投げ出しそうになったのび太は、日記が実現するというドラえもんの道具で、「今日は音楽がなくなった」と記載する。
異変に気づいたドラえもんは、のび太を問いただし、そのページを破り捨てる。
再びリコーダーの練習を始めたのび太の前に、不思議な少女が現れる。
言葉が通じなかったが、彼女の歌声に魅了されるが、急に消えてしまう。

たまたま時間が合ったので、子どもたちを連れて地元の映画館に行った。
公開二日目で、子どもの同級生も見に来ていたくらい、盛況だった。
前回に続いて、オリジナル脚本で、担当は内海照子。
私は存じ上げない。

ここでおすすめしようがしまいが、きっと見に行く人は行くだろうし、行かない人は行かないだろう。
後々までに語り継がれる作品化と言われれば、全くそんな完成度ではない。
子どもにとってもわかりやすい作品ではない。

▼以下はネタバレあり▼

ドラえもんは人気シリーズで、大人も鑑賞しに行くほどの国民的作品である。
近年は、リメイク作品も多かったが、子ども向けだけではなく大人も楽しめるオリジナル作品に挑戦している。
これは非常に重要なことで、映画だけは見に行きたい、(子どもに)見に行かせたいという流れを作っておけるかどうかは、今後の「ドラえもん」というコンテンツが生きていけるかどうかを決める部分になるだろう。
「結局サブスクになる」と分かっていても、映画館での鑑賞という、特別な体験として打ち出せるか。
それはこれだけ多様なエンターテイメントが絶えずしのぎを削っている昨今にあって、定番であっても問われ続ける問いかけである。

なんていう大仰な物言いをしなくても子どもがどれだけ楽しめるかということが結局一つのバロメーターだろう。
果たして今作は楽しめる作品なのか。

残念ながらそれほどおもしろい映画ではない。

話は定番の、あちらの世界から訪れた宇宙人が、こちらの世界ののび太たちに救いを求めるというものだ。
この日常と非日常が交わるところで、成長や変化、事件が起こる。
非常にオーソドックスだが、前半の物語設定が冗長すぎた。
惑星ムシーカの説明、脱出した宇宙船の話、ファーレを奏でるという設定、隠されたムシーカの過去、敵となる生物ノイズのわかりにくさ。
とにかく設定が複雑(でもないのに)で、長ったらしい。

音楽を奏でてわくわくする、という基本的な描写がどんどん強くなっていくという演出も弱い。
だから、楽しみながら設定を理解していく、というよりは、いつ楽しいシークエンスが来るのかと心待ちにしながら長い設定の話を理解していかねばらならないという時間になっている。

結果前半から不穏な動きをしているノイズの正体が明らかになったころには、既に物語に興味を失っている。
もちろん私は粘り強く見ていたが、子どもたちはどうなのだろう。
しかも、このノイズという敵がいかにも分かりづらく、何が有効な攻撃で、何が弱点なのかいかんともしがたい。
その名の通り、「ノイズ」なのであれば、のび太の「の」の音はまさにノイズだ。
それならばいっそ、沈黙とすればよかったのかもしれない。

もちろん、ノイズが照射するのび太たちの課題もいまいちわからない。
のび太はこの事件で何を成長させたのだろう。
対象はどう考えても子ども向けなのだから、それが分かる端的な台詞を誰かに言わせるべきだった。
音楽は楽しむことが大事だ、とか、これまでは上手く吹こうとしていたけれども大事なのはそこじゃなかったんだ、とか。
何に気づき、何をもって音楽に向き合っていくのかというのがわからない。
ラストでファーレが鳴り響き、ノイズを倒すというシークエンスに、全くカタルシスが得られないのはそのためだ。

音楽とノイズ、というモティーフは非常におもしろかった。
特に前半でミッカがのび太の前に現れたときの演出は見事だった。
しかし、それだけなのだ。
それが物語の哲学として生きるだけのシナリオになっていない。

私はこの映画を見ながら、畢竟、根本的な問いかけが作り手に不足しているからだろうと感じていた。
音楽の素晴らしさとはなにか。
音楽が素晴らしくなるとはどういうことか。
音楽がなくなったとしたら、私たちはどう生活していけるのか。

前半で音楽がなくなった日を描きながら、表層的な描写に終始し、のび太の変化を感じさせるだけの問いが不足していたのではないか。
(だから音楽がなくなったときに感じた「これから何かが起こる」という期待感はその後どんどんしぼんでいった)

音楽は多くの評論家が指摘しているように、近代西欧の端的な考え方を示す格好の題材である。
楽譜が支配する絶対的な作者の元、それを再現していくことだけが奏者には求められる。
そこから抜け出るのは、野蛮な行為であり、未熟さを端的に示す、ヒエラルキーが存在する。
だからカードに「ビギナー」から「プロ」へという変化は、このピラミッド型の「習熟度」を端的に示してしまう。

しかし、こういう発想自体が、音楽の楽しさや根源性の、限定された部分しか前景化されていない。
私たちが音楽を愛するのは、競技やコンクール、評価を求めてのものではない。
あるいは、人間関係を円滑にしたり生活に潤いを与えたりするものでもない。
音楽はそれ自体で価値がある、自己完結性をもつものだ。

ムシーカが滅びた理由とそういう音楽への鋭い視座を、どれだけシナリオに落とし込めるか。
その点が非常に曖昧で、ありきたりで、不明確だった。
音楽をただなんとなく〈なぞる〉だけでは、惑星は滅びない。
このノイズがなぜこんなにも地球にとって危機的だったのか。

私はこういう点が、作品の倫理を作り、作品の骨になると考えている。
それは一方で、子どものために顕在化されていなければならないし、一方ではお話の文法として埋め込まれていてもよい。

私の子どもらは一定楽しんだのかもしれない。
けれども、これが「ドラえもん」というコンテンツの価値を向上させたかと言われれば、ネガティブな評価を下さざるを得ないだろう。

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