評価点:88点/2014年/アメリカ/169分
監督:クリストファー・ノーラン
壮大な、そしてシンプルなSF冒険作品。
近未来。
全世界で植物が枯れていくという事態が起こり、久しくなっていた。
小麦が枯れ、オクラが枯れ、人々は深刻な食糧難にみまわれた。
アメリカ軍は解体され、人々はいかに食料を確保するかということのみに関心を寄せていた。
そんなある日、農家のクーパー(マシュー・マコヒー)の娘マーフ(マッケンジー・フォイ)が自室の本棚で奇妙なできごとを経験する。
それはあたかも幽霊の仕業のようなできごとだった。
その「幽霊」は、正確にある座標を示していた。
父と娘は半信半疑でその場所を訪れると、そこは解体されたはずのNASAの隠された基地だった。
「インセプション」「ダークナイト」……もう言わずとしれた代表作をあげるのが難しいほどたくさんの大作を世に送り出してきたクリストファー・ノーランの最新作である。
予告編は当てにならない。
クリスの作品は全て秘密主義で作られるため、ほとんど情報を与えられない。
だから、見にいくしかない。
どんな話? と説明を求められても、見にいった方が早い。
彼の作品で一筋縄の作品は一つもない。
だから、紹介文は必要最低限にとどめておいた。
私は公開日に見にいった。
隣が外国人で、ものすごいタイミングで笑ったので、「文化の違い」を考えさせられたのだが、この作品はやはりアメリカンな作品だ。
また、わかりやすい話でもない。
だから人を選ぶことになるだろう。
それでも私はおもしろい、と断言してしまう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を単純に語ることはできない。
しかし、描きたかったことは非常にシンプルだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そのメッセージ性をきちんと受け取れた人には、この作品はすばらしく感じる。
しかし、そうでない人にとっては、リアリティや設定の穴に目がいってしまって楽しめなかっただろう。
この映画のモティーフは、〈円〉である。
それはこの映画を通してずっと描かれ続ける。
しかし、この〈円〉は、あまりにも大きい円なので、どこから説明しても、どこから描いても、やはり一本の長大な線で描くしかない。
三時間近く描かれていたものが、ラストで円としてつながっていく。
そのつながった瞬間に、何が描かれようとしているのか気づく。
そのとき、いいようもない高揚感に襲われるのだ。
そしてその〈円〉の中心が何なのかを知ることになる。
以上のことが、非常にわかりにくく描かれていく。
映画を観た人は上の数行で私が言いたいことを理解してくれたはずだ。
そうでない人が大半だろうから、もっと詳しくみていく。
パンフレットの監督のインタビューにもあったが、この作品はなぜ地球が危機に瀕しているかという点については描かない。
なぜなら、それは描くべきことではないからだ。
同時に、世界の他の地域がどんな状態なのか、どういう経緯でNASAがなくなっていったのかついても説明されない。
だから映画の世界観はSFという形をとりながら、地球が終わろうとしているという点についてのSFらしい社会的警鐘などは一切描かれない。
そういうものを期待して見にいくと肩すかしにあうし、怒りすら覚えるかもしれない。
問題はそこではない。
描かれる〈円〉は何を囲っているのかを知るためだけの物語だ。
危機に瀕した地球がとるべき選択肢は二つしかなかった。
一つは重力を生み出す装置を完成させて、地球を離れてコロニーを打ち上げること。
そしてもう一つは地球とよく似た移住できる星を探し、新しいコミュニティを生み出すこと。
後者は今生きている地球の人間を見捨ててしまうということだ。
それらを実現するためには、地球が存在する銀河を飛び出るしか方法はない。
そのためには50年前から突如土星に出現したワームホールを通り抜けて、別の銀河に移動するしかない。
その計画はすでに実行されており、銀河を抜け出たのは12人中、3人だった。
その3人から送信される信号を頼りに、4人のパイロットと2体のアンドロイドが宇宙に旅立つ。
だが、地球はどんどん衰退していく。
計画を実行できるか、地球が滅亡していく(植物がなくなり窒息する)か、時間との闘いになるわけだ。
土星付近に発生したワームホールまで約2年。
さらにワームホールの先で新しい星である可能性を探索するのに、時間を要する。
そのタイムリミットは、娘マーフが生きている間に地球に帰ってこられるかという約束の時間でもある。
四人が紆余曲折の末、マン博士(マット・デイモン)とブラント教授(マイケル・ケイン)によってこの計画の全貌が明かされる。
それは、重力システムは生み出すことができず、地球人たちを救う方法はない、というものだった。
方程式は既に解くことができないことを証明する形で、解かれていた。
つまり、人類にはコロニーを打ち上げて移住することはできない。
宇宙船に乗り込んだ四人は、新しい惑星を探して新しい人類の歴史を生み出すように仕組まれた計画だったのだ。
ブラント教授がしきりに詩を引用し、「穏やかな夜に身を任せるな」と言いながら、実は絶望の中で彼らを送り出したことが告白される。
それは実質クーパーとマーフの二人が再会することはないことを意味する。
絶望の中、彼らは新しい星を探すことを決意し、アメリアを残る一つの可能性の星に送り出す。
宇宙空間で物質を一定方向に送り出す場合、何かを後ろに放出しなければならず、そのためにクーパーは残る(=ブラックホール)ことを選ぶ。
ここでようやく物語を象徴するものは〈円〉であることが明るみになる。
つまり、すべての物語は過去、現在、未来が人つながりの〈円〉になっている。
映画的な言い方をすれば、すべての伏線はここで回収されていく。
幽霊は幽霊ではなく、五次元を旅してきたクーパーの仕業だった。
クーパーは全ての公式を解くための手がかりをブラックホールから得て、それを感じ取ったマーフが方程式を完成させる。
その完成は、人類がコロニーを作り出し、新しい環境で今生きている人間たちが生きていくということを意味している。
〈円〉の中身は、要するに、科学では証明できないこと、愛情だったのだ。
空間的にも時間的にも、膨大な旅を続けてきたクーパーとマーフは、再び会うことになる。
その中心にあるのは、まさに愛情以外の説明はつかない。
もう一度会いたい、その執念ともいえる思いが再び彼らを引き寄せたのだ。
マーフは多くの家族に見守られて亡くなっていく。
それは彼女もまた、自分の特別な愛を見つけたということを意味している。
彼女もまた、父親との完結された〈円〉以外の、新しい〈円〉を紡ぎ出していたのだ。
なぜNASAは「この座標(NASAがある地)を知ったのはなぜだ」という問いに対する答えを、聞き出さなかったのか。
映画として置き去りにされていたその問いは、最後の最後、ようやく本の裏側へ行ったとき明かされる。
3時間弱ある長い物語に、なんら無駄がないことを証明する。
長い長い旅は、ただ一つのことだけを伝えていた。
だからこの映画のモティーフは〈円〉なのだ。
書き出されたインクから再び同じ所へ戻ってくる。
テレビインタビューが何を意味していたのか、それは「過去」のことして物語を語るべき人がいる、という「現在」を示していた。
もしこれが、プランBの成功なら、きっとこのインタビューは存在しなかった。
これこそが、この映画の始まりであり、終わりでもあるというインクの最終地点だったのだ。
円を描こうとすれば必ず始点があり、また同じ所へ終点がくる。
どこから描くにしても、その大きすぎる円はやはりどこからか始める必要があり、終わりもまた同じ所になるはずだ。
ブラックホールにしても、ワームホールにしても、土星にしても、スペースコロニーにしても、すべて円が描かれる。
それはそういうものだから、といえばそのとおりなのだが、この映画のテーマを考えればそうとは言いがたいのではないか。
そして、その〈円〉の中心は、紛れもなく、相手を思いやるという愛が明確に描かれている。
それは一見タイム・パラドクスのように思えてしまう。
救われる者、救う者、どちらが先なのか、と。
しかし、この映画はその批判を許さない。
なぜなら、〈円〉に因果関係は存在しないからだ。
原因でもあり、結果でもある。
〈円〉には始まりもなければ終わりもない。
それはまるで、愛しているから愛しているとしかいいようのない感情と同じだ。
だから、逆説でも矛盾でもない。
それはそうだとしかいいようがない、起こることは起こる、としか言いようのない現象なのだ。
クーパーは再び旅に出る。
今度はアメリアのもとへ向かう。
アメリアの恋人が見つけた星は、プランBを実現するための「新しい星」だった。
もう一度見ないといけないが、私はこの星の未来の住人が、「彼ら」なのだろうと読んだ。
つまり、ここでも両者がどこかの時点で交流するだろうということを、つまり〈円〉として結ばれるだろうということを、予感させているのだ。
そう考えれば、クーパーとアメリアの邂逅もまた、実現するだろう。
その対極に、愛されることを知らなかった兄は、家に閉じ込めるという形でしか家族を守れなかった。
兄は〈円〉を描けなかった人たちなのだ。
とにかく巨大で長大な物語だ。
監督のイマジネーションの大きさに、ただ私たちはひれ伏すしかないだろう。
完璧なのは映画の方であって、私たち観客ではない、そう感じさせる。
ちなみに外国人が笑ったのは、マン博士がステーションのドッキングハッチを開けて「ボン」となったところだった。
なぜそこで笑うのか、未だに全く理解できない。
監督:クリストファー・ノーラン
壮大な、そしてシンプルなSF冒険作品。
近未来。
全世界で植物が枯れていくという事態が起こり、久しくなっていた。
小麦が枯れ、オクラが枯れ、人々は深刻な食糧難にみまわれた。
アメリカ軍は解体され、人々はいかに食料を確保するかということのみに関心を寄せていた。
そんなある日、農家のクーパー(マシュー・マコヒー)の娘マーフ(マッケンジー・フォイ)が自室の本棚で奇妙なできごとを経験する。
それはあたかも幽霊の仕業のようなできごとだった。
その「幽霊」は、正確にある座標を示していた。
父と娘は半信半疑でその場所を訪れると、そこは解体されたはずのNASAの隠された基地だった。
「インセプション」「ダークナイト」……もう言わずとしれた代表作をあげるのが難しいほどたくさんの大作を世に送り出してきたクリストファー・ノーランの最新作である。
予告編は当てにならない。
クリスの作品は全て秘密主義で作られるため、ほとんど情報を与えられない。
だから、見にいくしかない。
どんな話? と説明を求められても、見にいった方が早い。
彼の作品で一筋縄の作品は一つもない。
だから、紹介文は必要最低限にとどめておいた。
私は公開日に見にいった。
隣が外国人で、ものすごいタイミングで笑ったので、「文化の違い」を考えさせられたのだが、この作品はやはりアメリカンな作品だ。
また、わかりやすい話でもない。
だから人を選ぶことになるだろう。
それでも私はおもしろい、と断言してしまう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を単純に語ることはできない。
しかし、描きたかったことは非常にシンプルだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そのメッセージ性をきちんと受け取れた人には、この作品はすばらしく感じる。
しかし、そうでない人にとっては、リアリティや設定の穴に目がいってしまって楽しめなかっただろう。
この映画のモティーフは、〈円〉である。
それはこの映画を通してずっと描かれ続ける。
しかし、この〈円〉は、あまりにも大きい円なので、どこから説明しても、どこから描いても、やはり一本の長大な線で描くしかない。
三時間近く描かれていたものが、ラストで円としてつながっていく。
そのつながった瞬間に、何が描かれようとしているのか気づく。
そのとき、いいようもない高揚感に襲われるのだ。
そしてその〈円〉の中心が何なのかを知ることになる。
以上のことが、非常にわかりにくく描かれていく。
映画を観た人は上の数行で私が言いたいことを理解してくれたはずだ。
そうでない人が大半だろうから、もっと詳しくみていく。
パンフレットの監督のインタビューにもあったが、この作品はなぜ地球が危機に瀕しているかという点については描かない。
なぜなら、それは描くべきことではないからだ。
同時に、世界の他の地域がどんな状態なのか、どういう経緯でNASAがなくなっていったのかついても説明されない。
だから映画の世界観はSFという形をとりながら、地球が終わろうとしているという点についてのSFらしい社会的警鐘などは一切描かれない。
そういうものを期待して見にいくと肩すかしにあうし、怒りすら覚えるかもしれない。
問題はそこではない。
描かれる〈円〉は何を囲っているのかを知るためだけの物語だ。
危機に瀕した地球がとるべき選択肢は二つしかなかった。
一つは重力を生み出す装置を完成させて、地球を離れてコロニーを打ち上げること。
そしてもう一つは地球とよく似た移住できる星を探し、新しいコミュニティを生み出すこと。
後者は今生きている地球の人間を見捨ててしまうということだ。
それらを実現するためには、地球が存在する銀河を飛び出るしか方法はない。
そのためには50年前から突如土星に出現したワームホールを通り抜けて、別の銀河に移動するしかない。
その計画はすでに実行されており、銀河を抜け出たのは12人中、3人だった。
その3人から送信される信号を頼りに、4人のパイロットと2体のアンドロイドが宇宙に旅立つ。
だが、地球はどんどん衰退していく。
計画を実行できるか、地球が滅亡していく(植物がなくなり窒息する)か、時間との闘いになるわけだ。
土星付近に発生したワームホールまで約2年。
さらにワームホールの先で新しい星である可能性を探索するのに、時間を要する。
そのタイムリミットは、娘マーフが生きている間に地球に帰ってこられるかという約束の時間でもある。
四人が紆余曲折の末、マン博士(マット・デイモン)とブラント教授(マイケル・ケイン)によってこの計画の全貌が明かされる。
それは、重力システムは生み出すことができず、地球人たちを救う方法はない、というものだった。
方程式は既に解くことができないことを証明する形で、解かれていた。
つまり、人類にはコロニーを打ち上げて移住することはできない。
宇宙船に乗り込んだ四人は、新しい惑星を探して新しい人類の歴史を生み出すように仕組まれた計画だったのだ。
ブラント教授がしきりに詩を引用し、「穏やかな夜に身を任せるな」と言いながら、実は絶望の中で彼らを送り出したことが告白される。
それは実質クーパーとマーフの二人が再会することはないことを意味する。
絶望の中、彼らは新しい星を探すことを決意し、アメリアを残る一つの可能性の星に送り出す。
宇宙空間で物質を一定方向に送り出す場合、何かを後ろに放出しなければならず、そのためにクーパーは残る(=ブラックホール)ことを選ぶ。
ここでようやく物語を象徴するものは〈円〉であることが明るみになる。
つまり、すべての物語は過去、現在、未来が人つながりの〈円〉になっている。
映画的な言い方をすれば、すべての伏線はここで回収されていく。
幽霊は幽霊ではなく、五次元を旅してきたクーパーの仕業だった。
クーパーは全ての公式を解くための手がかりをブラックホールから得て、それを感じ取ったマーフが方程式を完成させる。
その完成は、人類がコロニーを作り出し、新しい環境で今生きている人間たちが生きていくということを意味している。
〈円〉の中身は、要するに、科学では証明できないこと、愛情だったのだ。
空間的にも時間的にも、膨大な旅を続けてきたクーパーとマーフは、再び会うことになる。
その中心にあるのは、まさに愛情以外の説明はつかない。
もう一度会いたい、その執念ともいえる思いが再び彼らを引き寄せたのだ。
マーフは多くの家族に見守られて亡くなっていく。
それは彼女もまた、自分の特別な愛を見つけたということを意味している。
彼女もまた、父親との完結された〈円〉以外の、新しい〈円〉を紡ぎ出していたのだ。
なぜNASAは「この座標(NASAがある地)を知ったのはなぜだ」という問いに対する答えを、聞き出さなかったのか。
映画として置き去りにされていたその問いは、最後の最後、ようやく本の裏側へ行ったとき明かされる。
3時間弱ある長い物語に、なんら無駄がないことを証明する。
長い長い旅は、ただ一つのことだけを伝えていた。
だからこの映画のモティーフは〈円〉なのだ。
書き出されたインクから再び同じ所へ戻ってくる。
テレビインタビューが何を意味していたのか、それは「過去」のことして物語を語るべき人がいる、という「現在」を示していた。
もしこれが、プランBの成功なら、きっとこのインタビューは存在しなかった。
これこそが、この映画の始まりであり、終わりでもあるというインクの最終地点だったのだ。
円を描こうとすれば必ず始点があり、また同じ所へ終点がくる。
どこから描くにしても、その大きすぎる円はやはりどこからか始める必要があり、終わりもまた同じ所になるはずだ。
ブラックホールにしても、ワームホールにしても、土星にしても、スペースコロニーにしても、すべて円が描かれる。
それはそういうものだから、といえばそのとおりなのだが、この映画のテーマを考えればそうとは言いがたいのではないか。
そして、その〈円〉の中心は、紛れもなく、相手を思いやるという愛が明確に描かれている。
それは一見タイム・パラドクスのように思えてしまう。
救われる者、救う者、どちらが先なのか、と。
しかし、この映画はその批判を許さない。
なぜなら、〈円〉に因果関係は存在しないからだ。
原因でもあり、結果でもある。
〈円〉には始まりもなければ終わりもない。
それはまるで、愛しているから愛しているとしかいいようのない感情と同じだ。
だから、逆説でも矛盾でもない。
それはそうだとしかいいようがない、起こることは起こる、としか言いようのない現象なのだ。
クーパーは再び旅に出る。
今度はアメリアのもとへ向かう。
アメリアの恋人が見つけた星は、プランBを実現するための「新しい星」だった。
もう一度見ないといけないが、私はこの星の未来の住人が、「彼ら」なのだろうと読んだ。
つまり、ここでも両者がどこかの時点で交流するだろうということを、つまり〈円〉として結ばれるだろうということを、予感させているのだ。
そう考えれば、クーパーとアメリアの邂逅もまた、実現するだろう。
その対極に、愛されることを知らなかった兄は、家に閉じ込めるという形でしか家族を守れなかった。
兄は〈円〉を描けなかった人たちなのだ。
とにかく巨大で長大な物語だ。
監督のイマジネーションの大きさに、ただ私たちはひれ伏すしかないだろう。
完璧なのは映画の方であって、私たち観客ではない、そう感じさせる。
ちなみに外国人が笑ったのは、マン博士がステーションのドッキングハッチを開けて「ボン」となったところだった。
なぜそこで笑うのか、未だに全く理解できない。
>この映画のモティーフは、〈円〉である。
なるほど8を横に寝かせると∞ですから、メビウスの輪も∞状であり、出ていくと再び元の位置に舞い戻ります。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/ea3c6f904252e587bca00962a4ee469b
menfithさんも、伏線を配するのですね。
返信遅くなって申し訳ありません。
88点にそこまでの意味を見出していただけるとは。
もうそういうことにしておくしかないですね。
円を意識したものということにしておきます。
TBありがとうございます。
理屈うんぬんは抜きにしてただただ傑作ですね!
6時に起きて、年末の大掃除です。
まだまだ足りませんが、もう時間なので仕事に行きます。
>絨毯リュックと爆弾おにぎりさん
返信遅れました。
難しくてよく分からん、という声が多いですね。
けれども、そんなこと考えたくなければ考えなければいいんですよね。
そういう難しさとか理論とかを通り越したところに、シナリオがあるから、おもしろい。
もう一度行きたいですが……、時間を作れるかなぁ。
さすが『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン監督ですな。恐れ入りました。氏の言うとおり、監督の想像力・構成力はすごいと思いました。こういうテーマはそこらへんの監督が撮ったら、とても陳腐なものになるでしょうね。違いを作っているのは「見せ方」の巧さですね。
いやあ2017年は映画の当たり年になりそうです。
二つもコメント欄使ってすみません。
家事と育児と仕事の板挟みで倒れそうです。
いや、正確に言うと仕事が忙しいのに、家庭に負担をかけられなくて、汲々しています。
子育てがこれほどどうしようもないことを、改めて痛感している次第です。
育ててくれた親に感謝するしかないな、と思いながらだっこしている毎日です。
>おゆばさん
すみません。
完全に無視していた形になってしまい、申し訳ありません。
「インターステラ―」いいですね。
映画館で見ないと意味のない作品です。
どこまでがCGでどこまでが実写なのかよくわからない感じが大好きですね。
今年はまだ一本も映画館に行けていません。
がんばります……。