評価点:75点/2012年/日本/120分
総監督:庵野秀明
サードは起こった。全く新しいシリーズになったことを、受け止めるしかない。
「破」から14年後、幽閉されていた碇シンジ(声:緒方恵美)奪還に成功した葛城艦長(声:三石琴乃)率いるヴィレは、ネルフからの執拗な攻撃を受けていた。
いきなり目覚めた世界が14年後だったことに戸惑うシンジの前に現れたのは、鈴原サクラ(声:沢城みゆき)というトウジの妹だった。
助けたはずの綾波が見つからなかったことに混乱するシンジは、ネルフに連れ去られてしまう。
サクラが思わず叫んだことは、「もうヱヴァにだけは乗らんでください」という言葉だった。
今年公開する作品の中でも、最も期待する作品の一つがこの「Q」である。
公開がいつになるのか、まったく読めない中で、ようやく情報がこぼれてきたこの作品。
だれもが(とあえて言おう)心待ちにしていた作品であり、「破」の衝撃からどのような物語がつづられるのか、気になってしょうがない作品だった。
公開二日目、すでに「ヤフー」では多くのレヴューが書き込まれ、賛否両論、混乱の相を呈していた。
チケットを持っているのに本当に公開時間までに入場できるのか不安になるくらいの超満員で、妙な熱気に包まれていた。
それは「ダークナイト・ライジング」とは違う、熱気だった。
おそらく記録尽くしになるだろう、この話題作を、みなはどのように受け止めるのだろう。
それは映画館にいくしか解決方法はないが、見に行ってもすっきりしないかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見ながら、思い出させるのは「ああ、この映画は僕たちが知っているヱヴァではないんだな」ということだ。
変なヲタクを大量に生んだ、あのテレビシリーズの焼き直しとして始まった新劇場版シリーズ。
だが、その多くは「ここと、ここが違う」程度の、いわば、〈差異〉が問題化される程度のちがいだった。
だから、ヲタクの多くは、「テレビ版ではこうだったから、今度の新劇場版はこういう展開になるのではないか」という謎解きを楽しんでいた。
違いが楽しめるのは、ほとんどが共通しているからだ。
共通点がなくなってしまうと、そういう種類の楽しみ方はできない。
「悪の経典」と「踊る大捜査線」を比べられないのと同じだ。
違うものは違うとしか言いようがない。
だからこの映画を見たとき、その反応は二種類でしかない。
「こんなのはエヴァじゃない」と不安にちかい拒否を表明する。
もしくは「これもありだろう、すばらしいじゃないか」と畏怖に近い賞賛を送る。
これは、得体の知れない何者かと触れるときと同じ反応だ。
ネットでのレヴューが見事に賛否両論に分かれるのはそのためだ。
ただし、はっきり言えば、それらの賛否両論に共通しているのは、「わからん」ということだ。
庵野が描こうとしていることが、理解できるようには描かれていない。
だから、多くの人の共通した感想は「何がなんだかさっぱりわからない」ということなのだ。
それを深読みして、良いか悪いか考えることはほとんど無意味な行為のように見える。
僕たち、エヴァを楽しんできた人たちは、この映画も当然今までと同じように「理解できる」という思い込みがある。
少なくとも、他のヲタクたちはわからないかもしれないが、「俺にはわかる」という妙な自信がある。
だって、大好きなんだもん。
他の奴よりも、俺のほうが大好きなんだもん。
関連書籍も読んでいるし、エヴァを理解するために聖書まで手を出したんだもん。
だから、俺にわからないはずはない。
そう考えていた。
だから、この映画をみて、ひたすらに戸惑うのだ。
エヴァンゲリオンという作品がこれほどまでに売れたのは、「記号で遊ぶ」ということができた先進的な作品だったからだ。
これはどういう意味なのだろう、何を表しているのだろうか。
そういう記号の読解合戦をこれまでずっと繰り広げてきた。
だから、今回の映画も、「俺にならわかる」という自負と意気込みでみな映画館に向かったのだ。
しかし、違っていた。
これは僕たちが見てきたあのシリーズと世界ではなかった。
しかも、全く説明らしい説明がない。
物語も、中途半端で完結性を感じさせない。
ああ、裏切られた。
僕たちが知っているエヴァではなくなった。
おもしろくない。
庵野め、観客をなめるのもいい加減にしろ、待ってやったのに!
こういう構図である。
また、こういう構図を生み出す素地もあった。
なぜなら、前回の「破」が分かりやすすぎたのだ。
分かりやすい、というのは少し語弊があるかもしれない。
「破」が面白かった理由は、端的に言えば、「感情に訴える物語」だったからだ。
しかも、それは「テレビ版から大きく外れたもののその変換にすぎなかった」からだ。
先に述べた〈差異〉を楽しむ、とはそういうことだ。
「破」は全然これまでと違う! と興奮しながら感動した人たち(僕も含めて)は、その物語があまりにも分かりやすかったからだ。
そしてそれは、感情を直接やりとりするようなはっきりとしたテーマ性があったからだ。
そういう分かりやすい物語だったエヴァを経験した僕たちは、この説明がない「Q」に戸惑うしかない。
戸惑ったままではやりきれないから、怒るか、全面肯定するしかない。
だが、と僕は思う。
肯定しようが、否定しようが、僕にはどうでもいいことだ。
庵野が何を考えているのか分からない以上、出されたものをおとなしく食べつくすしかない。
僕はここにきてようやく庵野がやりたかったことが提示されはじめてきたのだろうと考える。
あるいは、後でも触れるが、庵野はやりたかった物語がより明確になってきたのかもしれない。
それはあの東日本大震災を経験したことがやはり大きかったのではないだろうか。
僕たちは、この「Q」で初めて「碇シンジ」と全く同じ視点に立つことになる。
これまでみたことのない世界、時代、人々。
碇シンジが放り込まれた「14年後の世界」は、僕たちにとってもまた、全く知らない世界だ。
比較しようのない、ヱヴァンゲリヲンの世界。
周りからの説明もなく、いきなり当事者に放り込まれた世界。
「序」「破」ではできた、「ああ、この次シンジ君はこうなるんだろうな」という予想も期待もできない世界。
シンジ君の戸惑いも、あせりも、絶望も、怒りもすべて対等に受け容れられる物語となっている。
14年間何が起こって、どうなったのか、ほとんど説明がされない。
だからこそ、僕たちはシンジになるしかない。
エヴァが好きなヲタクでも、そうでなかった人たちにも、対等に示される新しい物語が展開している。
だから、全く分からない。
だってシンジにもわからないことは、僕たちにもわからないのだから。
ヲタクであるほど、この映画の評価が真っ二つに分かれる理由がここにある。
今まで知っていたエヴァではない、という戸惑い。
僕はそのことに納得しながら、「いや、だってあんたたち新しいエヴァを見たかったんでしょ?」という疑問も起こる。
ある意味では、やっと映画になったのだ。
誰も知らなかった新劇場版になったのだ。
これまでは、やはりテレビ版の「焼き直し」を楽しんでいたに他ならない。
何度も言うように、僕たちはこの新しい、全く誰もしらない(製作スタッフや声優さえも知らない)物語をおとなしく受け取るより他はないのだ。
だからこそ、僕はこの映画に示された記号性を読み解くことをしないつもりだ。
物語はまだ完結していないのだから。
予想したところで、それは予想なのであって、批評ではない。
ただし、この映画は「Q」とタイトルが銘打たれた独立性ある作品として公開された。
やはりこの映画で一つの完結性をもつ作品として読み解くことはできるだろう。
それが、「観客たちがシンジになる物語」なのである。
ぶっ壊れた14年後の世界。
そこに放り出されたのは、シンジと、観客たちである。
月並みな言い方だが、やはり東日本大震災とこの映画を切り離してみることはできない。
作り手たちも、あの震災を経て作品の色を変えざるを得なかっただろうし、日本に生きる作り手である以上、それはそうするべきなのだと思う。
だからこそ、壊れてしまった世界を見たシンジは自分を責める。
それはあたかも、それまで生きることのみに懸命だった日本国民に向けられた「罪」のようなものなのかもしれない。
政府やオトナが悪いんじゃないよ、あんたが悪いんだよって。
壊れた世界でどんな希望を見出すのか。
それは、庵野が僕たちに用意する「答え」ではなかった。
この映画に「答え」を見出すのは、根本的に間違っている。
なぜなら、この映画は「問い」でしかないからだ。
「Q」と「問い」というのを安直につなげるつもりはないけれど、けれどもこの映画を何度見ても「問い」以外は見つからないだろう。
なぜシンジたちは子どものままなのか。
加持さんやその他のメンバーは死んでしまったのか。
ネルフを飛び出したヴィレのメンバーはなぜあのような大掛かりな兵器を手に入れられたのか。
そもそも、この14年間に何があったのか。
カヲル君の目的はなんだったのか。
問い考えればきりがないが、ほとんどその答えは用意されていない。
その答えが「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」にあるのかはわからないが。
自分の運命を徹底的に「問う物語」が、もう一つのこの映画のテーマだろう。
そして、最後に、シンジ、レイ、アスカが再会する物語である。
サードインパクト後、ばらばらになっていた三人は、ニア・フォースインパクトを経ることで、再開する。
それぞれはかつての三人ではないけれども、再び行動を共にするのだ。
ラストのどこまでも伸びる三人の足跡は、これまでの軌跡とこれからの三人の運命を象徴しているかのようだ。
人間はそんなに簡単に結束できるものではない。
けれども、そんなに簡単に決別してしまえるものでもない。
そう、ちょうど、完璧な希望がないように、完璧な絶望もまたないのと同じように。
結局、僕たちがいま、できることは、ただ次の公開日を心待ちにするしかないのである。
総監督:庵野秀明
サードは起こった。全く新しいシリーズになったことを、受け止めるしかない。
「破」から14年後、幽閉されていた碇シンジ(声:緒方恵美)奪還に成功した葛城艦長(声:三石琴乃)率いるヴィレは、ネルフからの執拗な攻撃を受けていた。
いきなり目覚めた世界が14年後だったことに戸惑うシンジの前に現れたのは、鈴原サクラ(声:沢城みゆき)というトウジの妹だった。
助けたはずの綾波が見つからなかったことに混乱するシンジは、ネルフに連れ去られてしまう。
サクラが思わず叫んだことは、「もうヱヴァにだけは乗らんでください」という言葉だった。
今年公開する作品の中でも、最も期待する作品の一つがこの「Q」である。
公開がいつになるのか、まったく読めない中で、ようやく情報がこぼれてきたこの作品。
だれもが(とあえて言おう)心待ちにしていた作品であり、「破」の衝撃からどのような物語がつづられるのか、気になってしょうがない作品だった。
公開二日目、すでに「ヤフー」では多くのレヴューが書き込まれ、賛否両論、混乱の相を呈していた。
チケットを持っているのに本当に公開時間までに入場できるのか不安になるくらいの超満員で、妙な熱気に包まれていた。
それは「ダークナイト・ライジング」とは違う、熱気だった。
おそらく記録尽くしになるだろう、この話題作を、みなはどのように受け止めるのだろう。
それは映画館にいくしか解決方法はないが、見に行ってもすっきりしないかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見ながら、思い出させるのは「ああ、この映画は僕たちが知っているヱヴァではないんだな」ということだ。
変なヲタクを大量に生んだ、あのテレビシリーズの焼き直しとして始まった新劇場版シリーズ。
だが、その多くは「ここと、ここが違う」程度の、いわば、〈差異〉が問題化される程度のちがいだった。
だから、ヲタクの多くは、「テレビ版ではこうだったから、今度の新劇場版はこういう展開になるのではないか」という謎解きを楽しんでいた。
違いが楽しめるのは、ほとんどが共通しているからだ。
共通点がなくなってしまうと、そういう種類の楽しみ方はできない。
「悪の経典」と「踊る大捜査線」を比べられないのと同じだ。
違うものは違うとしか言いようがない。
だからこの映画を見たとき、その反応は二種類でしかない。
「こんなのはエヴァじゃない」と不安にちかい拒否を表明する。
もしくは「これもありだろう、すばらしいじゃないか」と畏怖に近い賞賛を送る。
これは、得体の知れない何者かと触れるときと同じ反応だ。
ネットでのレヴューが見事に賛否両論に分かれるのはそのためだ。
ただし、はっきり言えば、それらの賛否両論に共通しているのは、「わからん」ということだ。
庵野が描こうとしていることが、理解できるようには描かれていない。
だから、多くの人の共通した感想は「何がなんだかさっぱりわからない」ということなのだ。
それを深読みして、良いか悪いか考えることはほとんど無意味な行為のように見える。
僕たち、エヴァを楽しんできた人たちは、この映画も当然今までと同じように「理解できる」という思い込みがある。
少なくとも、他のヲタクたちはわからないかもしれないが、「俺にはわかる」という妙な自信がある。
だって、大好きなんだもん。
他の奴よりも、俺のほうが大好きなんだもん。
関連書籍も読んでいるし、エヴァを理解するために聖書まで手を出したんだもん。
だから、俺にわからないはずはない。
そう考えていた。
だから、この映画をみて、ひたすらに戸惑うのだ。
エヴァンゲリオンという作品がこれほどまでに売れたのは、「記号で遊ぶ」ということができた先進的な作品だったからだ。
これはどういう意味なのだろう、何を表しているのだろうか。
そういう記号の読解合戦をこれまでずっと繰り広げてきた。
だから、今回の映画も、「俺にならわかる」という自負と意気込みでみな映画館に向かったのだ。
しかし、違っていた。
これは僕たちが見てきたあのシリーズと世界ではなかった。
しかも、全く説明らしい説明がない。
物語も、中途半端で完結性を感じさせない。
ああ、裏切られた。
僕たちが知っているエヴァではなくなった。
おもしろくない。
庵野め、観客をなめるのもいい加減にしろ、待ってやったのに!
こういう構図である。
また、こういう構図を生み出す素地もあった。
なぜなら、前回の「破」が分かりやすすぎたのだ。
分かりやすい、というのは少し語弊があるかもしれない。
「破」が面白かった理由は、端的に言えば、「感情に訴える物語」だったからだ。
しかも、それは「テレビ版から大きく外れたもののその変換にすぎなかった」からだ。
先に述べた〈差異〉を楽しむ、とはそういうことだ。
「破」は全然これまでと違う! と興奮しながら感動した人たち(僕も含めて)は、その物語があまりにも分かりやすかったからだ。
そしてそれは、感情を直接やりとりするようなはっきりとしたテーマ性があったからだ。
そういう分かりやすい物語だったエヴァを経験した僕たちは、この説明がない「Q」に戸惑うしかない。
戸惑ったままではやりきれないから、怒るか、全面肯定するしかない。
だが、と僕は思う。
肯定しようが、否定しようが、僕にはどうでもいいことだ。
庵野が何を考えているのか分からない以上、出されたものをおとなしく食べつくすしかない。
僕はここにきてようやく庵野がやりたかったことが提示されはじめてきたのだろうと考える。
あるいは、後でも触れるが、庵野はやりたかった物語がより明確になってきたのかもしれない。
それはあの東日本大震災を経験したことがやはり大きかったのではないだろうか。
僕たちは、この「Q」で初めて「碇シンジ」と全く同じ視点に立つことになる。
これまでみたことのない世界、時代、人々。
碇シンジが放り込まれた「14年後の世界」は、僕たちにとってもまた、全く知らない世界だ。
比較しようのない、ヱヴァンゲリヲンの世界。
周りからの説明もなく、いきなり当事者に放り込まれた世界。
「序」「破」ではできた、「ああ、この次シンジ君はこうなるんだろうな」という予想も期待もできない世界。
シンジ君の戸惑いも、あせりも、絶望も、怒りもすべて対等に受け容れられる物語となっている。
14年間何が起こって、どうなったのか、ほとんど説明がされない。
だからこそ、僕たちはシンジになるしかない。
エヴァが好きなヲタクでも、そうでなかった人たちにも、対等に示される新しい物語が展開している。
だから、全く分からない。
だってシンジにもわからないことは、僕たちにもわからないのだから。
ヲタクであるほど、この映画の評価が真っ二つに分かれる理由がここにある。
今まで知っていたエヴァではない、という戸惑い。
僕はそのことに納得しながら、「いや、だってあんたたち新しいエヴァを見たかったんでしょ?」という疑問も起こる。
ある意味では、やっと映画になったのだ。
誰も知らなかった新劇場版になったのだ。
これまでは、やはりテレビ版の「焼き直し」を楽しんでいたに他ならない。
何度も言うように、僕たちはこの新しい、全く誰もしらない(製作スタッフや声優さえも知らない)物語をおとなしく受け取るより他はないのだ。
だからこそ、僕はこの映画に示された記号性を読み解くことをしないつもりだ。
物語はまだ完結していないのだから。
予想したところで、それは予想なのであって、批評ではない。
ただし、この映画は「Q」とタイトルが銘打たれた独立性ある作品として公開された。
やはりこの映画で一つの完結性をもつ作品として読み解くことはできるだろう。
それが、「観客たちがシンジになる物語」なのである。
ぶっ壊れた14年後の世界。
そこに放り出されたのは、シンジと、観客たちである。
月並みな言い方だが、やはり東日本大震災とこの映画を切り離してみることはできない。
作り手たちも、あの震災を経て作品の色を変えざるを得なかっただろうし、日本に生きる作り手である以上、それはそうするべきなのだと思う。
だからこそ、壊れてしまった世界を見たシンジは自分を責める。
それはあたかも、それまで生きることのみに懸命だった日本国民に向けられた「罪」のようなものなのかもしれない。
政府やオトナが悪いんじゃないよ、あんたが悪いんだよって。
壊れた世界でどんな希望を見出すのか。
それは、庵野が僕たちに用意する「答え」ではなかった。
この映画に「答え」を見出すのは、根本的に間違っている。
なぜなら、この映画は「問い」でしかないからだ。
「Q」と「問い」というのを安直につなげるつもりはないけれど、けれどもこの映画を何度見ても「問い」以外は見つからないだろう。
なぜシンジたちは子どものままなのか。
加持さんやその他のメンバーは死んでしまったのか。
ネルフを飛び出したヴィレのメンバーはなぜあのような大掛かりな兵器を手に入れられたのか。
そもそも、この14年間に何があったのか。
カヲル君の目的はなんだったのか。
問い考えればきりがないが、ほとんどその答えは用意されていない。
その答えが「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」にあるのかはわからないが。
自分の運命を徹底的に「問う物語」が、もう一つのこの映画のテーマだろう。
そして、最後に、シンジ、レイ、アスカが再会する物語である。
サードインパクト後、ばらばらになっていた三人は、ニア・フォースインパクトを経ることで、再開する。
それぞれはかつての三人ではないけれども、再び行動を共にするのだ。
ラストのどこまでも伸びる三人の足跡は、これまでの軌跡とこれからの三人の運命を象徴しているかのようだ。
人間はそんなに簡単に結束できるものではない。
けれども、そんなに簡単に決別してしまえるものでもない。
そう、ちょうど、完璧な希望がないように、完璧な絶望もまたないのと同じように。
結局、僕たちがいま、できることは、ただ次の公開日を心待ちにするしかないのである。
裏切られたと思う人も多いだろうが、人の期待にあわせて作らされた作品ほどつまらないものはない。
面白い作品の焼き直しでもだ。
だが落ち着いてほしい。
Qでいったいなにが完結したんだろうか?
おそらく観た後のイライラはそこにある。
起承転結の結がなかった。
あれだけ長いことみてこれからってとこで終わってしまったのだ。
もう一度言うが落ち着いてほしい。
Qは終わったがエヴァの物語はまだ終わってはいない。
Qはいわば物語のつなぎとしての章であって、エヴァQ単体としての作品ではない。
エヴァという物語の後半の6割部分くらいから8割くらいだけを切り取って観たようなものだ。
中盤の盛り上がりのあとから一番いいところの手前である。
むしろ面白いわけがない。
そしてその結としての次回が用意されている。
エヴァQを単体として批評するならこの視点ははずしてはいけないように思う。
別の視点でみると、エヴァを支えるオタクにも多いキャラがよければすべて良し系の人には
カオルくんやレイの扱いは納得いかない人が多いかもしれない。
それはもう正直ザンネンでしたねとしかいえない。
だがそれらは映画を構成する1つの個性であり、そのために全体としての映画を崩すようなことはありえない。
個人的に本当に簡単に言ってしまえば、監督が萌えブタに媚びうるような映画じゃなくてよかった。ラストを観るための準備は整ったので次回が楽しみである。
そんな感じ。
展開にイライラ、キャラの扱いにイライラ
そのままで終わってしまって誰かどうにかしてくれって不満爆発状態。
そんな奴らと同じ奴をどこかでみたはず。
そう、Qの中でのシンジくんだ。
監督はQにかけられた期待を理解した上でそれを利用し、
感情移入という手段を使わずして観客のほとんどを主人公と同じ感情に持ち込んでしまった。
言ってしまえば擬似的な感情であるけれども、感情移入した時に気づく映画の登場人物と自分の感情の大きさの差にQではほとんど気づけずに感情を移行されてしまっている。
みんなして監督の術中にはまったとしか言い様がなく、Qはその役割として大成功だったと思っている。
>通りすがりさん
書き込みありがとうございます。
書き込みを読ませていただきましたが、ほとんど私と同じ意見のように感じました。
私も、この映画だけで、作品を語るべきではないと思っています。
だから、「わからない」というのがたぶん、一番まともな意見なのだと思っています。
ヤフーのレビューにあるように「売り方が汚い」といえばそれまでかもしれませんが。
また、シンジ君と全く同じ立場に立たされるというのも、同じ意見です。
「監督の術中にはまった」とはまさにその通りだと思います。
考えれば考えるほど、腹が立ってくるのですが、それもまた術中にはまっているのような気もしてきます。
とにかく、いつに公開されるのかわかりませんが、ドキドキしながら待つしかありませんね。