評価点:79点/1990年/アメリカ
原作:オリヴァー・サックス
監督・制作:ペニー・マーシャル
まさに「アルジャーノンに花束を」の実話版。
1960年アメリカ、ブロンクス。
臨床医募集とは知らずに、応募した研究医のマルコム・セイヤー(ロビン・ウィリアムス)は、神経科病棟で働くことになった。
戸惑うセイヤーだったが、なれてくると次第に患者の中で同じ症状で、特徴的な反応を示す者がいることに気づく。
その一人レナード・ロウ(ロバート・デ・ニーロ)は、幼少期にけいれんで悩まされ、以降、全く自分の意思では動けない体になってしまった。
けいれんが治まらないパーキンソン病用に開発された薬、Lドーパミンが効果があるのではないかと仮説を立てたセイヤー博士は、レナードの母親に許可をもらい、投薬をすることにするが…。
デ・ニーロとロビン・ウィリアムス競演の実話に基づいた、感動作だ。
有名な作品なので、観たことがある人は多いだろう。
今更、という感じもするが、勧めてもらったので観ることにした。
神経症、今で言うところの精神病や総合失調症というのはデリケートな部分だからなのか、あまりテレビなどでは放映していない。
放映したとしても深夜枠だろう。
こういう映画をむしろ放映するべきだと思うのだが……。
「パニッシャー」とか、しょうもない映画を放映するくらいなら、中身のある映画を観たいよね。
見所は、もちろんデ・ニーロの迫真の演技だ。
マフィアのボスから、神経症患者まで、幅広い映画を演じられる彼は、やはり一流の俳優だ。
このあたりからずっと医者のイメージが強いウィリアムスも、一流なのだろうが。
▼以下はネタバレあり▼
物語は、レナードが回復することを真ん中において、やはり「往来の物語」になっている。
あるいは、僕たちが生きる世界が日常であると置くならば、「竹取物語」や「ET」と同じような構造と言える。
すなわち、非日常 ― 日常 ― 非日常というパターンである。
実話に基づいているということもあり、大どんでん返しがあるような物語ではない。
余計なトリックが多用されるわけでもない。
安心して泣ける、安定して感動できる完成度の高い映画だ。
デ・ニーロが演じるレナードは11歳から症状がではじめた。
痙攣が止まらずに、ペンが持てない状態にまでなった。
やがてさらに症状が進行すると何時間か停止した状態になり、また動き出すという状態になり、入院する際にはもはや自分では何もできない状態だった。
少なくとも、震えが止まらないという症状は、パーキンソン病のそれと同じだ。
そう感じたセイヤーはパーキンソン病と同じ薬が有用なのではないかと考える。
それが実際どれくらい効果があるものなのか、僕にはわからないが、その考えは観客にもわかりやすいものだったといえる。
Lドーパミンというその薬によってレナードは回復する。
それは奇跡のような効果があり、健常者(こういって良いのかどうかはわからないが。)と差がないほどまでに回復する。
突然与えられたご褒美のようなその劇的な効果は、本人に大きな衝撃をもたらす。
30年以上も時が止まっていた人間が、次々に復活していく。
それは自分が失ってしまった時間に気づくということでもある。
ある者は、奪われたと感じ、ある者は取り戻したと感じる。
その衝撃は、どのようなものだったのだろう。
「浦島太郎」のような衝撃だったのかもしれない。
その感動はそれを取り囲む人間にも与えられる。
それまで「管理する」、あるいは「維持する」ということが病院関係者に与えられていた職務だった。
神経症や精神疾患が病気として〈発見〉されていこう、治すというよりも、閉じ込めておく、ということが対処方法だったという歴史性も感じさせる。
「17歳のカルテ」や「チェンジリング」でもそれは描かれていることだ。
だが、セイヤーがもたらしたのはただ待っていることではなく、治せることなのだ、という衝撃でもあったのだ。
(そもそも「病気である」という認定が差別を生んだり、治すべきだという強迫観念じみた発想を生み出していることを考えると、それも一概には正しいとは言えないような気もする。
現在の総合失調症といわれる疾患について、いまだ解明されていない点が多いにもかかわらず、メディアなどによって誤解を生じさせていることも、現代に積まれている問題だろう。)
目を丸くして驚いた彼らの感動は、そういう種類の衝撃だったのだろう。
また、どんどん「普通の人間」(語弊を恐れずに言うと)となっていく息子に、母親は戸惑いを隠せない。
彼女にとってもレナードはいまだ11歳のままなのだ。
戸惑いながらも、子離れしていくということさえも、知らなかったことが彼女の不幸なのかもしれない。
だが、彼らの幸せはそれほど長く続かない。
レナードには再び、震えの症状が出始める。
また、硬直してしまうという発作も表れる。
僕にはパーキンソン病を患う祖母がいる。
マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」を読んだこともあってパーキンソン病には多少の予備知識はある。
だから、僕は人一倍、レナードの症状が進行していく姿がつらかった。
自分がどうなってしまうか、知りながら、その状況を記録しろというレナードの姿は、身に迫るものがある。
デ・ニーロの、鬼気迫る演技に、悲しみを感じざるをえないだろう。
それでも、レナードは、伝えたいことがあると主張する。
それは「今生きている人間たちは、見失っている。
今の自分がどれだけ恵まれているか、家族や恋人や友人たちに感謝する心を忘れているんだ」
この台詞から、この映画が誰のために撮られたものか、示されることになる。
この映画は、結局完治しないという医療の失敗を描いた作品となっている。
だが、この難しい病気をもっと多くの人に認知してほしいというために、そういった社会的な視座を示すために撮られた映画ではない。
それこそ、「余命一ヶ月の花嫁」とはコンセプトが違う。
この映画が訴えるメッセージは、まさにレナードが体験した目覚めを伝えることで、自分たちが生きていることはすばらしいのだということである。
この映画は、精神疾患の患者を救いたい、そういう映画ではない。
むしろこの映画を体験する、観客そのものへの訴えである。
単なるお涙ちょうだい映画ではない、力強さを持っているのはそのためだ。
名作と評されるゆえんである。
この映画を観ているときに、違和感を覚えたことがある。
それは、病院の外の風景である。
劇中では密室劇と言っても良いくらい、病院内ばかりで展開する。
しかし、病院の外が描かれないというわけではない。
印象的なのは、セイヤーが病院から逃げ出したいと思って眺める外の様子であろう。
その外の子供たちは、自由に、自分の時間を謳歌している。
これは病院内の世界との対比を印象づけるためのシーンだ。
僕が気になったのはそれだけではない。
いわゆる背景として映し出される窓の外の様子が、表情豊かなのだ。
ある夏の出来事、ということを印象づけるためか、雪が降り積もっている様子(11歳のレナード)、風で木々が揺れる様子、秋の紅葉の様子、そしてラストにはまた雪が積もっている情景。
病院の色あせた、季節感のない様子とは対比的に、画面の割合としては極めて小さいはずのその一コマに、存在感を示している。
意図せずに撮られたシーンではないだろう。
さりげないこういった仕組みが、僕たちを〈テーマ〉へと導いていくのである。
原作:オリヴァー・サックス
監督・制作:ペニー・マーシャル
まさに「アルジャーノンに花束を」の実話版。
1960年アメリカ、ブロンクス。
臨床医募集とは知らずに、応募した研究医のマルコム・セイヤー(ロビン・ウィリアムス)は、神経科病棟で働くことになった。
戸惑うセイヤーだったが、なれてくると次第に患者の中で同じ症状で、特徴的な反応を示す者がいることに気づく。
その一人レナード・ロウ(ロバート・デ・ニーロ)は、幼少期にけいれんで悩まされ、以降、全く自分の意思では動けない体になってしまった。
けいれんが治まらないパーキンソン病用に開発された薬、Lドーパミンが効果があるのではないかと仮説を立てたセイヤー博士は、レナードの母親に許可をもらい、投薬をすることにするが…。
デ・ニーロとロビン・ウィリアムス競演の実話に基づいた、感動作だ。
有名な作品なので、観たことがある人は多いだろう。
今更、という感じもするが、勧めてもらったので観ることにした。
神経症、今で言うところの精神病や総合失調症というのはデリケートな部分だからなのか、あまりテレビなどでは放映していない。
放映したとしても深夜枠だろう。
こういう映画をむしろ放映するべきだと思うのだが……。
「パニッシャー」とか、しょうもない映画を放映するくらいなら、中身のある映画を観たいよね。
見所は、もちろんデ・ニーロの迫真の演技だ。
マフィアのボスから、神経症患者まで、幅広い映画を演じられる彼は、やはり一流の俳優だ。
このあたりからずっと医者のイメージが強いウィリアムスも、一流なのだろうが。
▼以下はネタバレあり▼
物語は、レナードが回復することを真ん中において、やはり「往来の物語」になっている。
あるいは、僕たちが生きる世界が日常であると置くならば、「竹取物語」や「ET」と同じような構造と言える。
すなわち、非日常 ― 日常 ― 非日常というパターンである。
実話に基づいているということもあり、大どんでん返しがあるような物語ではない。
余計なトリックが多用されるわけでもない。
安心して泣ける、安定して感動できる完成度の高い映画だ。
デ・ニーロが演じるレナードは11歳から症状がではじめた。
痙攣が止まらずに、ペンが持てない状態にまでなった。
やがてさらに症状が進行すると何時間か停止した状態になり、また動き出すという状態になり、入院する際にはもはや自分では何もできない状態だった。
少なくとも、震えが止まらないという症状は、パーキンソン病のそれと同じだ。
そう感じたセイヤーはパーキンソン病と同じ薬が有用なのではないかと考える。
それが実際どれくらい効果があるものなのか、僕にはわからないが、その考えは観客にもわかりやすいものだったといえる。
Lドーパミンというその薬によってレナードは回復する。
それは奇跡のような効果があり、健常者(こういって良いのかどうかはわからないが。)と差がないほどまでに回復する。
突然与えられたご褒美のようなその劇的な効果は、本人に大きな衝撃をもたらす。
30年以上も時が止まっていた人間が、次々に復活していく。
それは自分が失ってしまった時間に気づくということでもある。
ある者は、奪われたと感じ、ある者は取り戻したと感じる。
その衝撃は、どのようなものだったのだろう。
「浦島太郎」のような衝撃だったのかもしれない。
その感動はそれを取り囲む人間にも与えられる。
それまで「管理する」、あるいは「維持する」ということが病院関係者に与えられていた職務だった。
神経症や精神疾患が病気として〈発見〉されていこう、治すというよりも、閉じ込めておく、ということが対処方法だったという歴史性も感じさせる。
「17歳のカルテ」や「チェンジリング」でもそれは描かれていることだ。
だが、セイヤーがもたらしたのはただ待っていることではなく、治せることなのだ、という衝撃でもあったのだ。
(そもそも「病気である」という認定が差別を生んだり、治すべきだという強迫観念じみた発想を生み出していることを考えると、それも一概には正しいとは言えないような気もする。
現在の総合失調症といわれる疾患について、いまだ解明されていない点が多いにもかかわらず、メディアなどによって誤解を生じさせていることも、現代に積まれている問題だろう。)
目を丸くして驚いた彼らの感動は、そういう種類の衝撃だったのだろう。
また、どんどん「普通の人間」(語弊を恐れずに言うと)となっていく息子に、母親は戸惑いを隠せない。
彼女にとってもレナードはいまだ11歳のままなのだ。
戸惑いながらも、子離れしていくということさえも、知らなかったことが彼女の不幸なのかもしれない。
だが、彼らの幸せはそれほど長く続かない。
レナードには再び、震えの症状が出始める。
また、硬直してしまうという発作も表れる。
僕にはパーキンソン病を患う祖母がいる。
マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」を読んだこともあってパーキンソン病には多少の予備知識はある。
だから、僕は人一倍、レナードの症状が進行していく姿がつらかった。
自分がどうなってしまうか、知りながら、その状況を記録しろというレナードの姿は、身に迫るものがある。
デ・ニーロの、鬼気迫る演技に、悲しみを感じざるをえないだろう。
それでも、レナードは、伝えたいことがあると主張する。
それは「今生きている人間たちは、見失っている。
今の自分がどれだけ恵まれているか、家族や恋人や友人たちに感謝する心を忘れているんだ」
この台詞から、この映画が誰のために撮られたものか、示されることになる。
この映画は、結局完治しないという医療の失敗を描いた作品となっている。
だが、この難しい病気をもっと多くの人に認知してほしいというために、そういった社会的な視座を示すために撮られた映画ではない。
それこそ、「余命一ヶ月の花嫁」とはコンセプトが違う。
この映画が訴えるメッセージは、まさにレナードが体験した目覚めを伝えることで、自分たちが生きていることはすばらしいのだということである。
この映画は、精神疾患の患者を救いたい、そういう映画ではない。
むしろこの映画を体験する、観客そのものへの訴えである。
単なるお涙ちょうだい映画ではない、力強さを持っているのはそのためだ。
名作と評されるゆえんである。
この映画を観ているときに、違和感を覚えたことがある。
それは、病院の外の風景である。
劇中では密室劇と言っても良いくらい、病院内ばかりで展開する。
しかし、病院の外が描かれないというわけではない。
印象的なのは、セイヤーが病院から逃げ出したいと思って眺める外の様子であろう。
その外の子供たちは、自由に、自分の時間を謳歌している。
これは病院内の世界との対比を印象づけるためのシーンだ。
僕が気になったのはそれだけではない。
いわゆる背景として映し出される窓の外の様子が、表情豊かなのだ。
ある夏の出来事、ということを印象づけるためか、雪が降り積もっている様子(11歳のレナード)、風で木々が揺れる様子、秋の紅葉の様子、そしてラストにはまた雪が積もっている情景。
病院の色あせた、季節感のない様子とは対比的に、画面の割合としては極めて小さいはずのその一コマに、存在感を示している。
意図せずに撮られたシーンではないだろう。
さりげないこういった仕組みが、僕たちを〈テーマ〉へと導いていくのである。
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