secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ファインディング・ニモ(V)

2009-02-05 07:52:12 | 映画(は)
評価点:78点/2003年/アメリカ

監督・脚本:アンドリュー・スタントン

完璧な“王道”アニメーション。

カクレクマノミのマーリン(声/アルバート・ブルックス)は、妻のコーラルとたくさんの子どもたちを、サメに食べられてしまう。
たった一つだけ助かった卵に、ニモ(声/アレクサンダー・グードル)と名づけ、
一人(一匹)で育てることになった。
しかし、家族を殺されてしまった経験から、ニモに過剰な愛情を注ぐ、過保護な父親になっていた。
右のヒレが小さいニモは、そんな父親に嫌気がさしていた。
初めて学校に行くことになったニモは、父親に反発して、外海に飛び出したところを、人間に捕まってしまう。
一人息子を助けるため、マーリンは、ニモを探す旅に出掛ける。

「トイ・ストーリー」以来、ピクサー社はCGアニメでヒット作を連発。
CGアニメでは先駆的な地位を築いた。
きちんとした一個の商品として、そして映画として、CGアニメというものを確立した彼等の功績は、偉大と言える。
その中でも、大ヒットを記録したのが、この「ファインディング・ニモ」である。
個人的に、あまりディズニーの映画は楽しめないので、
「トイ・ストーリー」以外観たことがなかった(しかもテレビの吹替えで)。
子ども向けの映画であるものの、十分大人も楽しめる映画になっている。
特に終盤にかけての盛り上がりに、誰もが「ニモ~~~!!」と叫ぶに違いない。
 
▼以下はネタバレあり▼

王道。
これほどこのことばが似合う映画も珍しい。
アメリカという社会が、子供達に、教育に何を求めているかが、この映画を観るだけで、かなり理解できる。
大ヒットした理由は、そこにあるのだ。

まず、軸になっているテーマは、親離れ(自立)と子離れである。
マーリンは、妻と子どもたちをサメに食べられてしまったことが原因で、たった一匹だけ残ったニモに対して、過剰な愛情を注ぐ。
妻も子どもも殺されてしまったマーリンにとって、ニモだけが希望の星であり、彼を支える精神的支柱なのである。

だが、当然(厳密に言えば、アメリカ映画では「当然」)、過保護な親に、ニモは嫌気がさしてくる。
それが、はじめて学校に行く、という「時」であることが巧みである。
自分で歩きたい(泳ぎたい?)と願うニモは、父親のもとを飛び出して、人間に捕まってしまうのである。

さあ大変、果たしてニモを探し出して、救い出すことができるのか、というのが物語の大きな流れである。
そして「当然」、ハッピー・エンドで終わるわけだが、その終わり方もまた、「王道」である。
再び学校に行く、というシーンによって幕が閉じられる。
朝目覚めて学校に行くというシーンが、物語のはじめと終わりにあることで、その変化がわかるようになっている。

すなわち、ただ救い出す、ということだけではない。
救い出すために旅に出たことによって、マーリンとニモとの関係に変化が生じ、事態が好転するようになっている。
二人の絆を深めながら、それぞれが自立する、という「成長」するのである。
典型的な「往来」の物語である。
「神隠し」の物語といってもいいだろう。
「神」である人間に、ニモが連れされれ、再び戻ってくる、という物語である。

だが、このありきたりで王道の物語を、ありったけの丁寧さで描ききったことが、映画としての上手さである。
水の動き、光の反射・屈折、海に住むキャラクターの多様さ、その愛くるしさ、効果音やBGMの計算高さ……。
すべては王道でありながら、典型でありながら、それでも楽しいと思わせるのは、その丁寧なつくりである。
典型であっても、ここまで丁寧に映画を作ることは、凡人にはできない。
さすがはヒットメーカーである。

しかし、僕が面白いと思ったのは、それだけではない。
主人公達が出会う葛藤が、後半にかけて一気に盛り上がっていくという展開である。
先にも書いたように、テーマはあくまで自立と子離れの物語である。
だが、このテーマに絡ませて多くのメッセージが込められている。
それが展開するたびに大きく、深くそして多くなっていくから、後半になるにしたがって、物語がたまらなく楽しいものになる。

大きな流れはこうだ。
(1)自立と子離れ
(2)仲間としての認知、仲間同士の団結
(3)敵との対立、強靭な敵に対する抵抗
(4)敵への勝利と、問題の克服

(1)については、作品全体通してのテーマとなっており、最初の問題設定でもある。
(2)の、仲間としての認知、仲間同士の団結というのは、水槽での儀式(ニモ)と、ドリーとの出会い、亀の親子の姿(マリーン)などである。
水槽で、ニモは循環装置に呑み込まれそうになる。
しかし、水槽のボスのギルは助けない。
「自分で乗り切ってみせろ」ときつい言葉を、ニモにぶつける。
それまで守られることが、ニモの立場であったのに、水槽の中では、トラブルは自分で解決しなければならない。
そして、それを乗り越えると、「仲間」として認知されるのである。

マーリンも、ドリーと出会い、他の魚たちに助けられることで旅を続ける。
仲間とともに助け合いながら生きることを学んでいくのである。
だが、ニモと同じように、それは一方的な庇護ではない。
亀の親子のシーンがそれである。
亀に助けられたのは、自力でクラゲの群れを抜けきったからなのだ。
その姿を見て感心した亀が、マーリンたちを助けてくれるのである。
また、大きな海流に乗りながら進む子亀が、海流から外れてしまう場面がある。
焦るマーリンに対して、親亀は、「なあに、自分でもどってこれるさ」と放任する。
この姿をみて、マーリンは、互いに助けられながらも、仲間として認知されるべき自己の力に気づくのである。
自立の物語でありながら、集団や仲間を否定するような物語ではなく、逆に親子の絆や団結力を強める物語になっている所以である。

そして、これらの仲間意識は、海に住まう者、という共通項だけで、あらゆる種類の生き物達に共通したものであることもまた、アメリカ的である。
要するに、人種を超えたつながりなのである。
敵は強者(人間やサメ)であり、食べられる、もてあそばれる側の生き物は、互いに協力し合って生きている。
これこそ、様々な人種の住むアメリカ的発想であり、彼らの絶対的ルールなのである。
傷があったり、忘れっぽい性格であっても、見限らない、見捨てない、裏切らない。
非常に教育的な映画である。

(3)敵との対立、強靭な敵に対する抵抗とは、言うまでもなく、人間との闘いである。
ここでは、人間は完全に「敵」として位置づけられている。
魚達を食べるもの、海を汚すもの、悪戯でもてあそぶもの……。
教育的な勧善懲悪の世界である。
環境破壊や過剰な捕食など、子どもであれ、大人であれ、自分達の行いにフィードバックするような仕掛けが仕組まれている。

その勝ち方も、団結することで勝つ。
これも、アメリカが大好きな「強者対弱者」、あるいは、「少数の強者対多数の弱者」という構図である。
カツオを一網打尽にしようとするシーンでは、生き生きした魚の群れに対して、人間の船は錆び付いている。
この対比のメタファーは、敢えて解説する必要もないだろう。
こうした、したたかな構図が、映画が盛り上がっていく上で欠かせないのである。

(4)敵への勝利と、問題の克服とは、敵 = 人間に打ち勝ち、そして登場人物たちのそれぞれの課題を克服することを意味する。
カタルシスが大きいのは、これらの二つが同時にやってくることである。
分かりきっているといえばそれまでだが、そこまで巧みに引っ張り、後半にかけて一気に盛り上がることによって、十分に「冒険した」という満足感を得て、映画館を後にすることができる。

これだけ完璧ならば、売れないわけはない。
だが、個人的には、もう一ひねりほしい。
新たなアイディアが少なすぎる。
あまりに典型的で、お手本どおり、教科書どおりで、子どもと呼ばれる時期を脱した者にとっては、教育的すぎた。
アメリカの理想を学ぶためには役立つ映画だったけど。

(2005/2/5執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チェ 28歳の革命 | トップ | ネバーランド »

コメントを投稿

映画(は)」カテゴリの最新記事