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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

V・フォー・ヴェンデッタ(V)

2009-05-24 09:31:47 | 映画(あ)
評価点:76点/2005年/アメリカ

原作:アラン・ムーア
監督:ジェームズ・マクティーグ

近未来のイングランド。
地下鉄、小学校をはじめとする公共施設に対して行われた生物テロによって、人々は恐怖していた。
人々が選んだ指導者は、アダム・サトラー議長(ジョン・ハート)だった。
彼は深夜の外出を禁じ、秘密警察を組織し、人々をテロから守ろうとしていた。
そんなある日、国営放送のスタッフ、イヴィー(ナタリー・ポートマン)は、上司のゴードン(スティーヴン・フライ)に誘われ、深夜に外出しようとした。
そこを秘密警察フィンガーマンに問い詰められ、逮捕されそうになる。
助けを呼ぼうとすると、謎の仮面の男(ヒューゴ・ウィーヴィング)が現れ、彼らを倒してしまう。
Vと名乗る彼についていくと、11月5日ちょうどに刑務所を爆破してしまう。
翌日、事件を知った議長は大激怒、すぐに犯人を突き止めるように指示するが、防犯カメラに写っていたのはイヴィーという女性だった。

ウォッチメン」のアラン・ムーア原作の映画化作品。
主人公のVに感化されていくヒロインのイヴィー役に我らがナタリー・ポートマン。
彼女はこの役を射止めるために、オーディションを受け、なおかつ坊主にすることを快諾したそうだ。
内容的に、ムーアらしい政治的風刺がふんだんに込められているからなのかもしれない。

アメコミであるから、多少大味なところや、文化的な違和感はある。
だが、ムーアは中身のないアメコミを描かない漫画家だ。
むしろ、政治やイデオロギー、差別問題、文学などの現実のコンテクストを知っておかないと楽しめない大人の映画に仕上がっている。
それだけではなく、説明なしにどんどん世界観を展開するので、気張って観る必要もあるだろう。

制作にはあの「マトリックス」のウォシャワスキー兄弟が携わっている。
映像的なかっこよさ、スタイリッシュさは安定感がある。
日本ではあまり話題にならなかったようだが、隠れた名作かもしれない。
方向性としては、「ウォッチメン」よりもわかりやすく共感しやすいかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

この映画をみると、映画館で、しかも字幕なしで楽しみたいと改めて思う。
圧倒的なヴィジュアルと、世界観は、きっと映画館で観ないと楽しめない。
また、Vと名乗る彼の台詞は、文学的オマージュに満ちている。
Vで重ねている音のおもしろさは字幕では感じられない。
ある意味では日本人向けとは言い難いが、こういった知的なあそびは、観る者を引き込んでいく。
大人向けのコミックは、きちんと映画化されたわけだ。

ウォッチメン」と同じく、重厚な世界観と無冒頭とも言える説明のない導入は、予備知識なしだとかなりきつい。
だが、劇中の台詞などでかなり明瞭に近未来の姿は捉えられるはずだ。
この映画の柱となっている部分であるので、少し説明しておこう。

近未来のイギリスでは、サトラーと呼ばれる男が国の最高ポストに座っている。
彼は人前に現れることなく、国営放送BTNに出演したり、ビデオ会議に出席したりするのみだ。
アメリカは、汚染大国となりイギリスの植民地になっている。
第三次世界大戦後、ひどい生物テロがあり、数万人という単位で人々が死んでいった。
その薬を開発したのが、いま実権を握っているサトラーを中心とする人間たちだった。
彼らは巨万の富と、政治的権力を握ることで、国家を統一していた。
テロに対抗するために、深夜外出を禁止したり、言論統制をしいていた。
人々はテロにおびえつつ、国営放送から流れてくる情報に耳を傾け生きていた。

この世界観は、イヴィーやVによって解体されながら説明される。
そのため、この世界が異常であることを強調しながら紹介されるわけだ。
その意味で、僕たちは、この世界が明らかにかつてのナチスなどのファシズムを想定したものであろうと考えるわけだ。
ナチスを彷彿とさせる赤と黒の色彩は、宗教的な十字架をもイメージさせる。
宗教的な権威をも集約させたところに、この政権の異常さを認めることになる。

また、それに対するVのマークは、アナキズム、無政府主義、反国家主義を彷彿とさせながら、十字とは反対の円形とVの字で構成されている。
ファシズムに対する意志を象徴していると考えられる。
イヴィーに出会ったときに、政府からの広告に対してVの字に斬りつけるのは、明らかに意図的である。
ヴィジュアルとして単純化させて、この映画のテーマ性が浮き彫りにしている。

こうした国家が国民を統制するファシズムに対して、主人公として用意されたのはVと名乗るガイ・フォークスの仮面をかぶった男である。
ガイ・フォークスについて、僕はまったく知らなかったので、気持ち悪い仮面だな、くらいの印象だったが、この仮面そのものがこの映画のテーマだ。
圧政に苦しむ人々を救うため立ち上がった彼は、1605年に火薬陰謀事件を企てる。
その後、実行犯として逮捕され、残酷な方法で処刑される。
Vが11月5日にこだわっていたのは、この事件が起きた日だからだ。
つまり、Vがガイ・フォークスの仮面をつけ、11月5日に政府に反抗することは、歴史的に言って、圧政から人々を救うという象徴的な意味を持つのである。
このことは、イギリス人なら誰でも知っていることのようだ。
ガイ・フォークス・ナイトという祭りまであるほどだ。
ただ、残念ながら日本人にはほとんど理解できない歴史的コンテクストである。

おそらくこのあたりまで踏まえて、ナタリー・ポートマンは出演を熱望したのだろう。
この映画を歴史的な、政治的な意味合いを捨象して考えることは不可能だと思われる。
もちろん、この考え方に賛成できるか、嫌悪感を抱くかは、また別の問題だ。

とにかく、この映画ではこうした対立が柱となっている。
無教養的に、サトラーが部下に命令する姿と、知的な台詞回しで人々に語りかけるVとの対比でもある。

Vは、サトラーたちが私利私欲のために独裁政権を握っていることを明かしていく。
Vは、彼らの計画の根幹である生物テロへの関与についての、生き証人だったのだ。
人間として扱われることのなかったVは劇中、ほとんど顔を見せずに、また本当の名を明らかにされることもない。
それは、人間としての〈個〉を越えたところの存在であるからだ。
理念(イデー)は死ぬことはない、と繰り返し語るが、彼は人間としてのヒーローになりたかったのではない。
象徴として、きっかけを作りたかったに過ぎないのだ。
サトラーという名前と顔を全面に押し出す独裁者との違いはここに決定的に現れている。

だから、彼がなぜ厳重な警備の中、侵入したり暗殺できたのか、という説明はあまりない。
超人的な身体の能力があるといった説明はあるものの、調度品を盗んだり、武器や隠れ家を用意したりするのは困難だと思われる。
だが、そんなことはどうでもよいのだ。
なぜなら、彼は理念だからだ。
これまで伝統的にはぐくまれてきた自由という人間固有の芸術を守るために、生まれた忘れ去られることのない理念そのものなのだ。

とはいうものの、どうしても違和感が残ってしまうのは文化的な土台の違いだろうか。
たとえば、イヴィーの心を鍛えるために、独房まで用意し、執拗に拷問にかける。
しかも、独房の片隅にはレズビアンの女性の遺書まで仕込んでいる。
自分を見つけるためとはいうものの、さすがにやりすぎだろうという印象はぬぐえない。

また、チェ・ゲバラが言うように、革命はそのあとにどのような国を築くかが大切だ。
ただ政府を解体しただけでは、国として存立しえない。
国という形さえも否定するのがアナキズムであったとしても、「本当にこれでいいのか?」という疑問はよぎる。

本当にこの映画を楽しむには、やはり文化や歴史の流れを基礎知識として知っておく必要があるだろう。
また、これだけの美しい演出は、やはり映画館で楽しみたいところだ。
質は高い映画だと思う。

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