評価点:20点/2005年/アメリカ
監督:ジム・ジャームッシュ
僕は、正直に「わからん」と言おう。
コンピューター会社で大金を稼いだドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)は、恋人から突然別れを告げられた。
戸惑う彼の元に、ピンクの便せんにタイピングで打たれた手紙が届く。
「あなたと別れた後、妊娠に気づき、その息子が19歳になり、父親を捜すために家出をした」
驚いた彼は友人に相談し、友人のアドバイス通りに、その手紙の差出人を捜す旅に出るが。
例の「ロスト・イン・フラストレーション」で主役をつとめたビル・マーレイが、今度は、別れたはずの恋人を捜すというロード・ムービーの主人公を務める。
この映画の対象年齢は明らかに中年以降の男性。
まだその年齢に達していないと思う人は、見るべき映画ではない。
完成度うんぬん以前に、「わからない」だろう。
かく言う僕も、全く「わからなかった」。
しかもその対象に当てはまる人手も、一人の女性を愛してきたという生真面目な人という人も感情移入が難しい。
なんと間口の狭い映画だろう。
娯楽映画ではなく、俗に言う単館上映の「ミニシアター系」なので、それも許されるのだろう。
とにかく、主人公の境遇に近いか、もしくはキャスティングに惹かれないなら、見なくても良いかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
のっけから否定的だが、正直、僕にとっては辛い二時間になった。
物語を、理解することと、共有することとは全く違うのだということを教えてくれる映画である。
話としてはわかりやすい。
また、テーマもそれほど難解なものではないだろう。
ストーリーの項でも書いたように、要するに、失ってしまったものへの懐古であり、自分のアイデンティティへの回顧である。
主人公のドンは、不自由のない暮らしができるだけの経済力を得た。
しかし、彼には家族と呼べるものがいない。
そこに一通の手紙が届くのだ。
「あなたには19歳の息子がいる」
寝耳に水という言葉がぴったりのこの手紙によって、彼は失ってしまったはずの「一輪の花」を探し求めて、旅に出るのである。
車で次々に昔の恋人に再会するという展開は、一種のロードムービーと言って良い。
捜しているのはその差出人である「元恋人」ではないことは、言うまでもない。
探しているのは自分が帰るべき場所であり、あり得たかも知れない喪失してしまった時間である。
彼は花を持って昔の恋人を訪ねる。
時には必死に道路脇の花を集めて持っていく。
彼が渡す花はどれも素晴らしいが、渡す相手にその美しさを見る影もない。
嘗ては激しい恋をした相手も、今ではすっかり老け込んでしまい、タイトル通り「ブロークン・フラワー」である。
昔の恋人が、一個の人間として人生を歩んでいることを知り、あり得たかも知れない時間の喪失を感じるのである。
幸せそうであれ、深い傷を負っている女性であれ、彼とは全く違う人生を生きてきたその重みを知るのである。
そして、彼にはその重みに匹敵するだけの「重み」がないのだという
事実を同時に突きつけられる。
この映画で本当に「ブロークン」している「フラワー」は、年老いた恋人たちではない。
一時帰宅した彼の自宅にある干からびた花がそれを暗示する。
枯れてしまったのが恋人ならば、壊れてしまったのはドン自身なのだ。
それは、ドンの表情の変化が極端に少ないことが象徴している。
同窓会などで、ある程度の年齢を超えてしまうと、当時あったわだかまりはなくなり、笑えてしまうものだ。
それは当事者にとって「過去」であるからだ。
時が解決してくれ、過ぎ去ってしまったものとして思い出を見つめることができるからなのだ。
彼は恋人達とのやりとりのなかで、笑ったり悲しんだりという喜怒哀楽をほとんど見せない。
それは、彼は昔の恋人達とのやりとりを「過去」にできていないのである。
今も、彼は昔の次元で生きているのである。
すなわち、彼には彼女たちとのやりとりを成立させるだけの「現在」がないのである。
それはお金の問題ではない。
それは既婚・未婚の問題でもない。
それは子供の有無の問題でもない。
今現在の自分について、確固たるものがないのだ。
それはアイデンティティといってしまえば、仰々しく、自分らしさといえば聞こえがよくなりすぎる。
だが、もっと触感に近いような、感覚としての「現在」がないのだ。
彼は友人に恋人探しを促される。
しかし、その基底には「現在」が「現在」でないことを、手紙によって(あるいは恋人との別れによって)知ってしまったドンがいたはずだ。
それはドンにとって、なくてはならないような、切実な、絶対に明確にすべき問題ではない。
もっとさらっとした問題だ。
しかし、その「さらっとした問題」を容易に解決できないということを、旅していくうちに知っていく。
当たり前のようにしてきた日々が、新たな段階へと進んでいなかったことに気づくのだ。
彼はラスト、「自分の息子ではないか」と思える青年に出会う。
客観的にみれば、異常なほど彼に肩入れする。
それは、過去から現在へと連続するはずの、「終わっていないはずの時間」を証明したかったのではないか。
自分の息子がいて、その息子が自分に会いに来たがっている。
自分と恋人とが、別れた過去と、今自分が立っている時点とつなぐ何よりの連続性を示すものだからだ。
彼は終幕の時、交差点で立ちすくむ。
俺の過去はどっちだ。
俺の現在はどこだ。
俺の未来はどっちなのだ?
彼はすぐに立ち直るだろう。彼にとってそこまで深刻な問題でもないからだ。
だが、日常にあるふとした瞬間に訪れた、ちょっとした不安を、彼はかいま見たのだ。
そういう「不安」を描いた映画なのだ。
しかし、そんなに遊び人でもなければ、そんなに人生を極めた人間でもない僕にとって、この映画は、ゆりかごのように眠い映画であったのだった。
(2006/5/9執筆)
監督:ジム・ジャームッシュ
僕は、正直に「わからん」と言おう。
コンピューター会社で大金を稼いだドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)は、恋人から突然別れを告げられた。
戸惑う彼の元に、ピンクの便せんにタイピングで打たれた手紙が届く。
「あなたと別れた後、妊娠に気づき、その息子が19歳になり、父親を捜すために家出をした」
驚いた彼は友人に相談し、友人のアドバイス通りに、その手紙の差出人を捜す旅に出るが。
例の「ロスト・イン・フラストレーション」で主役をつとめたビル・マーレイが、今度は、別れたはずの恋人を捜すというロード・ムービーの主人公を務める。
この映画の対象年齢は明らかに中年以降の男性。
まだその年齢に達していないと思う人は、見るべき映画ではない。
完成度うんぬん以前に、「わからない」だろう。
かく言う僕も、全く「わからなかった」。
しかもその対象に当てはまる人手も、一人の女性を愛してきたという生真面目な人という人も感情移入が難しい。
なんと間口の狭い映画だろう。
娯楽映画ではなく、俗に言う単館上映の「ミニシアター系」なので、それも許されるのだろう。
とにかく、主人公の境遇に近いか、もしくはキャスティングに惹かれないなら、見なくても良いかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
のっけから否定的だが、正直、僕にとっては辛い二時間になった。
物語を、理解することと、共有することとは全く違うのだということを教えてくれる映画である。
話としてはわかりやすい。
また、テーマもそれほど難解なものではないだろう。
ストーリーの項でも書いたように、要するに、失ってしまったものへの懐古であり、自分のアイデンティティへの回顧である。
主人公のドンは、不自由のない暮らしができるだけの経済力を得た。
しかし、彼には家族と呼べるものがいない。
そこに一通の手紙が届くのだ。
「あなたには19歳の息子がいる」
寝耳に水という言葉がぴったりのこの手紙によって、彼は失ってしまったはずの「一輪の花」を探し求めて、旅に出るのである。
車で次々に昔の恋人に再会するという展開は、一種のロードムービーと言って良い。
捜しているのはその差出人である「元恋人」ではないことは、言うまでもない。
探しているのは自分が帰るべき場所であり、あり得たかも知れない喪失してしまった時間である。
彼は花を持って昔の恋人を訪ねる。
時には必死に道路脇の花を集めて持っていく。
彼が渡す花はどれも素晴らしいが、渡す相手にその美しさを見る影もない。
嘗ては激しい恋をした相手も、今ではすっかり老け込んでしまい、タイトル通り「ブロークン・フラワー」である。
昔の恋人が、一個の人間として人生を歩んでいることを知り、あり得たかも知れない時間の喪失を感じるのである。
幸せそうであれ、深い傷を負っている女性であれ、彼とは全く違う人生を生きてきたその重みを知るのである。
そして、彼にはその重みに匹敵するだけの「重み」がないのだという
事実を同時に突きつけられる。
この映画で本当に「ブロークン」している「フラワー」は、年老いた恋人たちではない。
一時帰宅した彼の自宅にある干からびた花がそれを暗示する。
枯れてしまったのが恋人ならば、壊れてしまったのはドン自身なのだ。
それは、ドンの表情の変化が極端に少ないことが象徴している。
同窓会などで、ある程度の年齢を超えてしまうと、当時あったわだかまりはなくなり、笑えてしまうものだ。
それは当事者にとって「過去」であるからだ。
時が解決してくれ、過ぎ去ってしまったものとして思い出を見つめることができるからなのだ。
彼は恋人達とのやりとりのなかで、笑ったり悲しんだりという喜怒哀楽をほとんど見せない。
それは、彼は昔の恋人達とのやりとりを「過去」にできていないのである。
今も、彼は昔の次元で生きているのである。
すなわち、彼には彼女たちとのやりとりを成立させるだけの「現在」がないのである。
それはお金の問題ではない。
それは既婚・未婚の問題でもない。
それは子供の有無の問題でもない。
今現在の自分について、確固たるものがないのだ。
それはアイデンティティといってしまえば、仰々しく、自分らしさといえば聞こえがよくなりすぎる。
だが、もっと触感に近いような、感覚としての「現在」がないのだ。
彼は友人に恋人探しを促される。
しかし、その基底には「現在」が「現在」でないことを、手紙によって(あるいは恋人との別れによって)知ってしまったドンがいたはずだ。
それはドンにとって、なくてはならないような、切実な、絶対に明確にすべき問題ではない。
もっとさらっとした問題だ。
しかし、その「さらっとした問題」を容易に解決できないということを、旅していくうちに知っていく。
当たり前のようにしてきた日々が、新たな段階へと進んでいなかったことに気づくのだ。
彼はラスト、「自分の息子ではないか」と思える青年に出会う。
客観的にみれば、異常なほど彼に肩入れする。
それは、過去から現在へと連続するはずの、「終わっていないはずの時間」を証明したかったのではないか。
自分の息子がいて、その息子が自分に会いに来たがっている。
自分と恋人とが、別れた過去と、今自分が立っている時点とつなぐ何よりの連続性を示すものだからだ。
彼は終幕の時、交差点で立ちすくむ。
俺の過去はどっちだ。
俺の現在はどこだ。
俺の未来はどっちなのだ?
彼はすぐに立ち直るだろう。彼にとってそこまで深刻な問題でもないからだ。
だが、日常にあるふとした瞬間に訪れた、ちょっとした不安を、彼はかいま見たのだ。
そういう「不安」を描いた映画なのだ。
しかし、そんなに遊び人でもなければ、そんなに人生を極めた人間でもない僕にとって、この映画は、ゆりかごのように眠い映画であったのだった。
(2006/5/9執筆)
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