今更感がすごいけれども、アドラー心理学について書かれた、「嫌われる勇気」を読んだ。
ずいぶん前に話題になっていてタイトルから考えて、だいたいこういう話だろうと高をくくっていたわけだ。
積ん読になっていた本にあったので、手に取った。
これを書いている時点で「アドラーをじっくり読む」と「幸せになる勇気」も読み終わっている。
多くの人は話題になった時点で読んでいるだろうから、わざわざ言わなくても良いのだが、まだ読んでいない人は、この「嫌われる」と「幸せになる」は読むべきだと思う。
私はこれを機会に、もう少し買おうかと思っている。
▼以下はネタバレあり▼
※未読の方が読んでもらってもかまいませんが、理解できないと思います。
未読の方に理解できるように書くことができないと思って、「ネタバレあり」と書きました。
正確には「ネタバレあり」ではなく、読んだ人にしか理解できない形でしか書けていない、という意味です。
五郎丸が勧めていたという「自分の小さな「箱」から脱出する方法」という本にかなり似ている。
あちらが、ビジネスに特化した方向性で書かれているのに対して、こちらはもっと根本的な、生きる態度について書かれている。
あちらが「自分からしか箱を出ることはできない」「人を箱から出すことはできない」と語るのに対して、こちらは「課題の分離、すなわち自分が変えることができることと、自分が変えられないことを捨てることが重要だ」と説く。
エッセンスとしては同じことで、非常に難しいことを、簡単に(シンプルに)説いている。
思想のようにも、宗教のようにも、そして哲学のようにも見えるが、私はここに「近代の超克」をみる。
近代という時代、資本主義、人間至上主義、自由主義、あるいは個人主義、そういった近代的な発想を超克する一つの考え方が、このアドラーかもしれない。
なぜそう思うのか。
一つは誰か一人でなし得ない到達点(態度)であるということだ。
近代的な発想は、誰もが自由に、誰もが自分の責任に於いて幸せになれるという発想だった。
だから、その記述はどうしても個人がどのように考えたかを、一方的に語ることで形成されていく。
このブログもまさしく、私が考えたことを訴えるという形式をとっている。
だが、この「嫌われる勇気」は対話形式で書かれている。
対話形式でしか書けない内容を書いている。
なぜか。
書かれていることを相手に理解してもらおうとすると、「わたし」の話ではなく、「わたし」と「あなた」の関係性の中でしか語れないからだ。
それは、「自分の箱~」も同じだ。
理論的に書けば、それは、「わたし」だけの話になり、その態度を示すことができない。
あるいは「あなた」への一方的な押しつけになるため、その態度を理解してもらうことができない。
私は文学の語り、ということに注目してこれまで様々な作品に触れてきたので、その点が非常に気になっていた。
だが、読み進めれば、その対話形式であることの必然性に気づき、これが、私たちが新しい時代を作る、切り開く一つの語り方なのかもしれないとまで思っている。
(詳細は終わらないので避けるが、たとえばインターネットの語りや、映画「メッセージ」の問いかけなどもそれに共通するのではないか)
私はまだ確信に至ったわけではないが、これからの生き方、物事に対する態度を考えさせる一つの機会にはなりそうだ。
ことあるごとに読み返したい、そういう本だと思う。
ずいぶん前に話題になっていてタイトルから考えて、だいたいこういう話だろうと高をくくっていたわけだ。
積ん読になっていた本にあったので、手に取った。
これを書いている時点で「アドラーをじっくり読む」と「幸せになる勇気」も読み終わっている。
多くの人は話題になった時点で読んでいるだろうから、わざわざ言わなくても良いのだが、まだ読んでいない人は、この「嫌われる」と「幸せになる」は読むべきだと思う。
私はこれを機会に、もう少し買おうかと思っている。
▼以下はネタバレあり▼
※未読の方が読んでもらってもかまいませんが、理解できないと思います。
未読の方に理解できるように書くことができないと思って、「ネタバレあり」と書きました。
正確には「ネタバレあり」ではなく、読んだ人にしか理解できない形でしか書けていない、という意味です。
五郎丸が勧めていたという「自分の小さな「箱」から脱出する方法」という本にかなり似ている。
あちらが、ビジネスに特化した方向性で書かれているのに対して、こちらはもっと根本的な、生きる態度について書かれている。
あちらが「自分からしか箱を出ることはできない」「人を箱から出すことはできない」と語るのに対して、こちらは「課題の分離、すなわち自分が変えることができることと、自分が変えられないことを捨てることが重要だ」と説く。
エッセンスとしては同じことで、非常に難しいことを、簡単に(シンプルに)説いている。
思想のようにも、宗教のようにも、そして哲学のようにも見えるが、私はここに「近代の超克」をみる。
近代という時代、資本主義、人間至上主義、自由主義、あるいは個人主義、そういった近代的な発想を超克する一つの考え方が、このアドラーかもしれない。
なぜそう思うのか。
一つは誰か一人でなし得ない到達点(態度)であるということだ。
近代的な発想は、誰もが自由に、誰もが自分の責任に於いて幸せになれるという発想だった。
だから、その記述はどうしても個人がどのように考えたかを、一方的に語ることで形成されていく。
このブログもまさしく、私が考えたことを訴えるという形式をとっている。
だが、この「嫌われる勇気」は対話形式で書かれている。
対話形式でしか書けない内容を書いている。
なぜか。
書かれていることを相手に理解してもらおうとすると、「わたし」の話ではなく、「わたし」と「あなた」の関係性の中でしか語れないからだ。
それは、「自分の箱~」も同じだ。
理論的に書けば、それは、「わたし」だけの話になり、その態度を示すことができない。
あるいは「あなた」への一方的な押しつけになるため、その態度を理解してもらうことができない。
私は文学の語り、ということに注目してこれまで様々な作品に触れてきたので、その点が非常に気になっていた。
だが、読み進めれば、その対話形式であることの必然性に気づき、これが、私たちが新しい時代を作る、切り開く一つの語り方なのかもしれないとまで思っている。
(詳細は終わらないので避けるが、たとえばインターネットの語りや、映画「メッセージ」の問いかけなどもそれに共通するのではないか)
私はまだ確信に至ったわけではないが、これからの生き方、物事に対する態度を考えさせる一つの機会にはなりそうだ。
ことあるごとに読み返したい、そういう本だと思う。
初めまして(__)
「女神の見えざる手」
御覧になりましたか?
一押しです!
全く映画館も、映画も見られていません。
危機的ですが、本業と育児があるので仕方がありません。
なんとか生きています。
>ショートスクールエレキギターさん
コメントありがとうございます。
「女神の見えざる手」、全くノーマークでした。
できるだけはやく見たいと思いますが、近所のレンタル屋さんが潰れてしまいました。
ちょっと新しい店を探してみたいと思います。
首を長くして待っていてください。
管理人のmenfith
こんばんは!
私は10回は観てしまいました。
伏線が彼方此方にあり観れば観るほど「お〜〜」です笑
五本の指に入る映画でした。
やはり映画館に行けていません。
本は順調に進んでいますが、記事を書くよりも早く読み終わって収集がつかなくなっています。
がんばります。はい。
>ショ-トスク-ルエレキギタ-さん
またまた返信遅れました。
そんなにすごいのですか。
がんばって探します、とりあえずレンタルビデオ屋を。