評価点:61点/2005年/アメリカ
監督:スティーブン・スピルバーグ
それはまさに竜巻のような映画だ。
離婚して土日を一緒に過ごすため、父レイ(トム・クルーズ)の元に預けられた、ロビー(ジャスティン・チャットウィン)とレイチェル(ダコタ・ファニング)。
だがニューヨークには巨大な竜巻が現れ不穏な動きを見せていた。
すると突然、雷が何度も同じ場所に落ちる。
再び静寂になった街に様子を見に行くと、街は停電、車も動かなくなっていた。
雷が落ちた場所をみると、突然大地が割れ、巨大なマシーンが現れる。
マシーンは次々と人間を灰にかえ、危険を察知したレイは子供を連れ、街から脱出することにするが……。
バイロン・ハスキン監督の名作「宇宙戦争」のリメイク。
夏に公開される「スターウォーズ」とタイトルがダブっているような気もするが、とにかく、スピルバーグによる超大作を予感させる映画である。
主人公にトム・クルーズ、その娘にダコタ・ファニングという話題になる要素は満載である。
だが、こういった超大作は一抹の不安もあるわけだが。
▼以下はネタバレあり▼
公開前からスピルバーグは公言していた。
テーマは「家族愛」である、と。
そのインタビューは正しかった。
世界が宇宙からきた何者かにおそわれる。
これだけのスケールの大きな話でありながら、テーマは家族愛である。
テーマ設定と題材の選択が正しかったかどうかは別にして、このギャップにスピルバーグらしさがあることは確かだろう。
この映画は強烈なメッセージ性が込められている。
単なる宇宙人の侵略に対する地球人(米国人)の抵抗という映画になっていないのは、さすがスピルバーグ、といったところだろうか。
この映画のテーマが「家族愛」であることは、レイからの視点でしか情報が入ってこないことが如実に表わしている。
視点人物はレイ一人であり、彼が逃げる途中で出会う人間からしか、世界の状況を伝える者はない。
だから、ニューヨークからボストンまでの逃避行のみが、作品の舞台であり、「ID4」のように、さまざまな人物が織りなす群像劇のようには構成されていない。
よって、彼に感情移入させるための用意が冒頭から進んでいた。
明確には示されないが、レイは妻と離婚し、子ども達二人は新しい妻の恋人とともに暮らしている。
この事件があった日だけは別で、二人の子どもはたまたま週末を一緒に過ごす日だったのだ。
兄のロビーがしきりに父に反発するのはそのためだ。
ただ単に思春期であることだけではなく、自分たちを捨てた(言葉の端々から見えるのは「捨てた」父親だろう)父に対して、憎悪に近い気持ちを抱いている。
それに対して、レイは父親としての役割を果たそうと必死になっている。
そして、次第に大人になっていくロビーを文字通りもてあましているのだ。
この前提が、事件までの短い時間の中で、巧みに描き出してるのはさすがである。
だから、単純に言ってしまって、この話は、事件を通して親子の絆を取り戻すまでを描いた作品であるといえよう。
スケールの大きな話でありながら、敢えてミニマムなテーマに挑戦したのには、訳があった。
この映画は、よくある「米国人が勝つ映画」ではない。
「ID4」や「ディープ・インパクト」「アルマゲドン」のように、人類が自らの手で驚異から救い出すというような、そんな映画ではない。
そういう映画は、人間の根元的な力の強さや、団結力の素晴らしさを描いた映画だと言える。
自由や民主主義が大好きなアメリカ人に受けるのは当たり前である。
ところが、この映画は、いわばそのお決まりのパターンを脱却する映画である。
「人間よ、もっと謙虚になれ」という警告がメッセージとして強く込められている。
それは結論に表われている。
物語の結末は、人間の手によって勝つのではなく、微生物の働きによってエイリアンが死滅してしまう。
人間は結局シールドを破るすべを見つけることなく、相手は倒れてしまうのだ。
そこにアメリカ人がお得意の自由や団結、人間賛歌のテーマはない。
ただ、小さき者を見過ごしてはいけない、という警告があるばかりである。
それどころではない。
むしろ、「敵は内にあり」とでもいうべきシーンが結構ある。
例えば、ティム・ロビンスは、人間と人間が争うことの方が恐ろしい、ということを示す者として登場する。
必死に家族を守ろうとするレイと、たとえ犠牲になっても戦おうとするオグルビーとの葛藤の中で、敵であるエイリアンを殺さないレイが、味方であるはずの人間を殺してしまう。
家族を守ろうとするレイの覚悟の強さを物語っているシーンである。
また、友人の客の車を盗むのも同じだ。
友情よりも、家族を守ることを優先したのである。
そこに「神の教え」を説くことは無に等しい。
非人間的だとか、神に背く行為だとかいう教科書通りの批判は無駄なのだ。
それを説得力あるものに仕立て上げるため、この映画はホラー的演出が随所に見られる。
この映画はパニック映画や群像劇、SF映画ではない。
ジャンルとしては、ホラー映画が一番近いのではないか。
恐怖を演出することによって、
「仲間を見殺しにしても進まなければならない茨の道」であることを印象づけたのである。
それほど家族を愛する気持ちが重要であることを叫んでいるようだ。
だが、このスピルバーグの選択は正しかったのだろうか。
映画人として誇りを賭けた「賭け」だったのではないか、とさえ思えてしまう。
なぜなら、この映画、見終わっても全然すっきりしないからだ。
これまで言ったように単なるエンターテイメントという枠をはずれた強いメッセージ「家族愛」がテーマになっていることもあり、「ID4」のような楽天的な結末を用意できなかったのは理解できる。
だが、映画を見終わった後の脱力感と疲労感は非常に大きなものになる。
圧倒的にカタルシスに欠ける。
これはどんな映画でも致命的な欠陥と言える。
映画はどんな気持ちで観客を劇場から帰すか、が重要になる。
つまり、「読後感」の良し悪しである。
それが悪ければ、その過程がどれだけ感動的であっても、観客は納得して劇場を後にすることはできない。
人間の手によって、エイリアンを倒すことがない。
よって、達成感が全くないまま映画がエンドロールに突入してしまうのである。
あれだけホラー映画のような演出を見せられた後である。
それなのに、明確な達成感を得られないで終わってしまうのは、観客にとって、苦痛を強いられた分だけ大きなショックとなって返ってくる。
それまでの展開が面白ければ面白いほど、怖ければ怖いほど、「ご褒美がなかった」衝撃は大きくなる。
大きな期待を裏切られた気持ちになるのだ。
結局、エイリアンたちは微生物によって死にました。
家族は再会できました。
なんとそこには途中で生き別れになったロビーもいたのです。
それでは誰も納得しない。
特にロビーが生きていたという結末は、新たな疑問符が生まれるだけだ。
なんでお前あれだけの火の海の中逃げられてん!
という大いなる疑問と、超ご都合主義によるハッピーエンドの怪によって、カタルシスのカの字もない結末になってしまう。
テーマが重苦しく、そして「お説教くさい」ため、余計にその未完成なオチが目につくのだ。
「CHASSERN」のように、映画自体の完成度が低ければ、その強いメッセージ性が徒となってしまうのだ。
だから、どれだけ強いメッセージ性があったとしても、映画としての完成度の低さによってそれが一気に瓦解してしまう。
残るのは疲れだけである。
この映画をたとえるなら、竜巻だ。
どこからともなく発生し、散々家屋を破壊したあげく、結局人間の手で解決する前に、自然消滅する。
残ったのは瓦礫という名の脱力感だけである。
ただ逃げまどうしか許されないその強力な「自然災害」が、荒らしていった瓦礫の前に、カタルシスなど見出しようもない。
この映画が映画として成り立っているとすれば、一人の役者による功績が大きいだろう。
彼女はもはや「子役」の枠にとらわれない。
彼女が出るシーン出るシーンで、映画が締まる。
これほどの役者は大人でも珍しいだろう。
スピルバーグがこの映画で成功した点があるとすれば、
ダコタ・ファニングを子役に起用したことだろう。
(2005/7/17執筆)
先日、ちょうどこの映画がテレビで放映されていた。
僕はほとんど見なかったが、ひどかったのは声優だ。
ダコタの声優が、何歳を想定して演じられたものなのか、腑に落ちない。
明らかに十代後半か、あるいはそれ以上の年齢を想定して演じているとしか思えない台詞回しだった。
そもそもが良い映画ではないにしても、もうちょっと役所を捉えて演技して欲しいよね。
監督:スティーブン・スピルバーグ
それはまさに竜巻のような映画だ。
離婚して土日を一緒に過ごすため、父レイ(トム・クルーズ)の元に預けられた、ロビー(ジャスティン・チャットウィン)とレイチェル(ダコタ・ファニング)。
だがニューヨークには巨大な竜巻が現れ不穏な動きを見せていた。
すると突然、雷が何度も同じ場所に落ちる。
再び静寂になった街に様子を見に行くと、街は停電、車も動かなくなっていた。
雷が落ちた場所をみると、突然大地が割れ、巨大なマシーンが現れる。
マシーンは次々と人間を灰にかえ、危険を察知したレイは子供を連れ、街から脱出することにするが……。
バイロン・ハスキン監督の名作「宇宙戦争」のリメイク。
夏に公開される「スターウォーズ」とタイトルがダブっているような気もするが、とにかく、スピルバーグによる超大作を予感させる映画である。
主人公にトム・クルーズ、その娘にダコタ・ファニングという話題になる要素は満載である。
だが、こういった超大作は一抹の不安もあるわけだが。
▼以下はネタバレあり▼
公開前からスピルバーグは公言していた。
テーマは「家族愛」である、と。
そのインタビューは正しかった。
世界が宇宙からきた何者かにおそわれる。
これだけのスケールの大きな話でありながら、テーマは家族愛である。
テーマ設定と題材の選択が正しかったかどうかは別にして、このギャップにスピルバーグらしさがあることは確かだろう。
この映画は強烈なメッセージ性が込められている。
単なる宇宙人の侵略に対する地球人(米国人)の抵抗という映画になっていないのは、さすがスピルバーグ、といったところだろうか。
この映画のテーマが「家族愛」であることは、レイからの視点でしか情報が入ってこないことが如実に表わしている。
視点人物はレイ一人であり、彼が逃げる途中で出会う人間からしか、世界の状況を伝える者はない。
だから、ニューヨークからボストンまでの逃避行のみが、作品の舞台であり、「ID4」のように、さまざまな人物が織りなす群像劇のようには構成されていない。
よって、彼に感情移入させるための用意が冒頭から進んでいた。
明確には示されないが、レイは妻と離婚し、子ども達二人は新しい妻の恋人とともに暮らしている。
この事件があった日だけは別で、二人の子どもはたまたま週末を一緒に過ごす日だったのだ。
兄のロビーがしきりに父に反発するのはそのためだ。
ただ単に思春期であることだけではなく、自分たちを捨てた(言葉の端々から見えるのは「捨てた」父親だろう)父に対して、憎悪に近い気持ちを抱いている。
それに対して、レイは父親としての役割を果たそうと必死になっている。
そして、次第に大人になっていくロビーを文字通りもてあましているのだ。
この前提が、事件までの短い時間の中で、巧みに描き出してるのはさすがである。
だから、単純に言ってしまって、この話は、事件を通して親子の絆を取り戻すまでを描いた作品であるといえよう。
スケールの大きな話でありながら、敢えてミニマムなテーマに挑戦したのには、訳があった。
この映画は、よくある「米国人が勝つ映画」ではない。
「ID4」や「ディープ・インパクト」「アルマゲドン」のように、人類が自らの手で驚異から救い出すというような、そんな映画ではない。
そういう映画は、人間の根元的な力の強さや、団結力の素晴らしさを描いた映画だと言える。
自由や民主主義が大好きなアメリカ人に受けるのは当たり前である。
ところが、この映画は、いわばそのお決まりのパターンを脱却する映画である。
「人間よ、もっと謙虚になれ」という警告がメッセージとして強く込められている。
それは結論に表われている。
物語の結末は、人間の手によって勝つのではなく、微生物の働きによってエイリアンが死滅してしまう。
人間は結局シールドを破るすべを見つけることなく、相手は倒れてしまうのだ。
そこにアメリカ人がお得意の自由や団結、人間賛歌のテーマはない。
ただ、小さき者を見過ごしてはいけない、という警告があるばかりである。
それどころではない。
むしろ、「敵は内にあり」とでもいうべきシーンが結構ある。
例えば、ティム・ロビンスは、人間と人間が争うことの方が恐ろしい、ということを示す者として登場する。
必死に家族を守ろうとするレイと、たとえ犠牲になっても戦おうとするオグルビーとの葛藤の中で、敵であるエイリアンを殺さないレイが、味方であるはずの人間を殺してしまう。
家族を守ろうとするレイの覚悟の強さを物語っているシーンである。
また、友人の客の車を盗むのも同じだ。
友情よりも、家族を守ることを優先したのである。
そこに「神の教え」を説くことは無に等しい。
非人間的だとか、神に背く行為だとかいう教科書通りの批判は無駄なのだ。
それを説得力あるものに仕立て上げるため、この映画はホラー的演出が随所に見られる。
この映画はパニック映画や群像劇、SF映画ではない。
ジャンルとしては、ホラー映画が一番近いのではないか。
恐怖を演出することによって、
「仲間を見殺しにしても進まなければならない茨の道」であることを印象づけたのである。
それほど家族を愛する気持ちが重要であることを叫んでいるようだ。
だが、このスピルバーグの選択は正しかったのだろうか。
映画人として誇りを賭けた「賭け」だったのではないか、とさえ思えてしまう。
なぜなら、この映画、見終わっても全然すっきりしないからだ。
これまで言ったように単なるエンターテイメントという枠をはずれた強いメッセージ「家族愛」がテーマになっていることもあり、「ID4」のような楽天的な結末を用意できなかったのは理解できる。
だが、映画を見終わった後の脱力感と疲労感は非常に大きなものになる。
圧倒的にカタルシスに欠ける。
これはどんな映画でも致命的な欠陥と言える。
映画はどんな気持ちで観客を劇場から帰すか、が重要になる。
つまり、「読後感」の良し悪しである。
それが悪ければ、その過程がどれだけ感動的であっても、観客は納得して劇場を後にすることはできない。
人間の手によって、エイリアンを倒すことがない。
よって、達成感が全くないまま映画がエンドロールに突入してしまうのである。
あれだけホラー映画のような演出を見せられた後である。
それなのに、明確な達成感を得られないで終わってしまうのは、観客にとって、苦痛を強いられた分だけ大きなショックとなって返ってくる。
それまでの展開が面白ければ面白いほど、怖ければ怖いほど、「ご褒美がなかった」衝撃は大きくなる。
大きな期待を裏切られた気持ちになるのだ。
結局、エイリアンたちは微生物によって死にました。
家族は再会できました。
なんとそこには途中で生き別れになったロビーもいたのです。
それでは誰も納得しない。
特にロビーが生きていたという結末は、新たな疑問符が生まれるだけだ。
なんでお前あれだけの火の海の中逃げられてん!
という大いなる疑問と、超ご都合主義によるハッピーエンドの怪によって、カタルシスのカの字もない結末になってしまう。
テーマが重苦しく、そして「お説教くさい」ため、余計にその未完成なオチが目につくのだ。
「CHASSERN」のように、映画自体の完成度が低ければ、その強いメッセージ性が徒となってしまうのだ。
だから、どれだけ強いメッセージ性があったとしても、映画としての完成度の低さによってそれが一気に瓦解してしまう。
残るのは疲れだけである。
この映画をたとえるなら、竜巻だ。
どこからともなく発生し、散々家屋を破壊したあげく、結局人間の手で解決する前に、自然消滅する。
残ったのは瓦礫という名の脱力感だけである。
ただ逃げまどうしか許されないその強力な「自然災害」が、荒らしていった瓦礫の前に、カタルシスなど見出しようもない。
この映画が映画として成り立っているとすれば、一人の役者による功績が大きいだろう。
彼女はもはや「子役」の枠にとらわれない。
彼女が出るシーン出るシーンで、映画が締まる。
これほどの役者は大人でも珍しいだろう。
スピルバーグがこの映画で成功した点があるとすれば、
ダコタ・ファニングを子役に起用したことだろう。
(2005/7/17執筆)
先日、ちょうどこの映画がテレビで放映されていた。
僕はほとんど見なかったが、ひどかったのは声優だ。
ダコタの声優が、何歳を想定して演じられたものなのか、腑に落ちない。
明らかに十代後半か、あるいはそれ以上の年齢を想定して演じているとしか思えない台詞回しだった。
そもそもが良い映画ではないにしても、もうちょっと役所を捉えて演技して欲しいよね。
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