評価点:80点/1997年/日本
監督:宮崎駿
体験する「神話」
アシタカは、村を襲ってきたタタリ神から村人を守るため、タタリ神を射殺してしまう。
殺したとき、アシタカは、タタリ神からタタリをもらってしまう。
タタリをもらった者は、数日のうちに死んでしまうという。
その呪いを解くために、アシタカは自分の村を後にして、タタリ神になった主の呪いの原因を探る旅に出る。
そして、旅先で、もののけ姫と呼ばれる少女サンと出会い、原因となった鉛の正体をつきとめるが……
公開当時、宮崎駿監督が久々に「監督」をした作品として注目された。
公開前から注目されたこともあり、おそらくこの映画も知らない人のほうが少ないのではないだろうか。
ちなみに、この「もののけ」は、僕が観にいった初めてのジブリ映画でもある。
▼以下はネタバレあり▼
この映画も、典型的な「往来」の物語と言える。
「浦島太郎」型の行って、帰ってくるという話である。
しかし、ただの行って帰ってくる物語というのでは、おもしろくない。
僕は、この物語を、神と人間との戦いを描いた作品であると同時に、アシタカが「死」に、再び「生」を得る物語と考えてみたい。
アシタカは、序盤でタタリ神となってしまったイノシシから、村人を守るため、イノシシを射殺してしまう。
その恨みから、アシタカの右腕は呪われてしまうのである。
その恨みの真相を知るため、アシタカは村を出て旅に出る。
これがアシタカの旅の目的であり、旅のきっかけであり、そして、物語じたいが背負う「課題」である。
このようにアシタカは、生きているように見えるが、実際は呪われた時点で死んでいるのではないだろうか、と僕は考えるのだ。
もっと言えば、普通に生きている者がいわれのない呪いで、殺されたのである。
それは、アシタカの行動の動機が、この呪いによって変化していることでもわかる。
アシタカは、村人を守るという、正当かつ、人間的な理由でイノシシを殺す。
村人が殺されそうになるのに、「イノシシが可哀想だ」などと考える者はいない。
ところが、旅に出た後のアシタカは、襲われそうになった人間を助けるだけでなく、人間とは違う世界に生きるもののけ姫をも助けようとする。
他人の戦争を無闇に手助けするということは、自分がその戦争に加担するということであり、生きている人間、生きようとしている人間としては不自然な行動と言えよう。
また、誰もが恐れる「神」の世界にいる者に関与しようとするのも、「生きている人間」にはできない。
他の人間達が、「お上」から神討伐の許しをもらうのも、神と人間の世界が明確に分かれ、神を畏れていたからに他ならない。
ところが、アシタカは、そうした「明確な線引き」をやすやすと乗りこえてしまう。
なぜなら、アシタカは自分が生きるべき土地を追われた、死者であるからだ。
イノシシを翻弄した呪いを解く、といえば聞えはいいが、実際には、いわれのない自分にかけらた呪いを、どうしても納得できずに、その真相を知りたいと思ったということが、死者・アシタカの行動原理なのである。
アシタカは、どこの国の者でもない、幽体となって、神と人間との交渉の物語を体験するのである。
言うなれば、土地という絶対的なアイデンティティを無効化したところで彼は行動することができるのだ。
アシタカが体験する神話とは、火を奪う神話であり、神の神話性、自然の神話性を人間が解体する物語である。
火薬を手に入れ、勢力をつけはじめた人間でも、神の住む領域までは立ち入ることはできない。
そこで、人間が造った火によって、神の火を奪う、あるいは神の火を克服するために、シシ神狩りを敢行する。
日本に現存する神話の記紀(古事記・日本書紀)や、実際の歴史と、この映画との関連性を考えることはやめておこう。
あくまでこの映画の中で考えると、自然発生的に起こる大いなる火を、人間が自分達のために造った火で克服することで、人間は神を克服しようとするのである。
もちろん、その成否は、人間側の勝利ということになる。
ラストで、シシ神の首を取り返した後の森は、僕たちはどこかで見た事がある。
それは、火山が噴火した後に木々が育ち始めた風景にそっくりなのである。
つまり、シシ神の首が奪われ、首を求め荒れ狂う様子というのは、火山の噴火であり、神の火の恐ろしさの極みなのである。
サンは言う。
「けれどもシシ神の森ではなくなった」
正に、シシ神の森は、人間の森となり、森にあったはずの「神」は解体されてしまう。
火山を克服した人間は、また一つ、自分達の住む世界を拡大したのである。
それと同時に、アシタカにかけられた呪いも解かれる。
これは、アシタカが転生したことを示す。
人間と神との争いを経験したアシタカは、再びタタラ場という生きる土地を発見し、生者として再生するのである。
面白いのは、サンとアシタカの関係性である。
アシタカは、死んでも死に切れない死者であるのに対し、もののけ姫・サンは、アシタカと対峙することによって、はじめて「人間」となる。
人間が人間であるのは、自分を人間と認める他者(社会)があるためだ。
人間として認める社会がなければ、もののけ姫は、もののけの姫であり、神の側にいる者にすぎない。
ちなみに、「もののけ」とは、「物の怪」であり、妖怪などの人知を超えた存在、つまり、この映画でいえば、神の世界の存在という意味である。
よって、これまで人間として扱う他者がいないサンは、人間ではない。
だが、「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ!」というアシタカが、サンと向き合うことによって、彼女ははじめて人間として存在し始める。
人間が神の火を、人間の火にする物語というプロットと、サンがアシタカと交渉することで、人間化するというプロットとはパラレルな関係になっているのである。
結局、サンは「人間」になることはないだろう。
なぜなら、アシタカは再生し、再び生きる場を手に入れた。
生きる場を手に入れたアシタカにとって、やはり他の人間と同じように、多かれ少なかれ神と対峙していくことになる。
人間としての生を回復したアシタカは、もののけ姫・サンを人間として扱う他者にはなり得ない。
自分を、「人間」として扱う者がいなくなったサンは、ふたたび、もののけ姫として生きることになる。
アシタカは言う。
「私はタタラ場で、そなたは森で、共に生きよう。」
神は人間の手で解体されてしまった。
だが、アシタカはそれでも神との共存を望む。
それは、「神」という思想がほぼ完全に解体されてしまった現代において、なお続いてる神と人間との関係性を暗示している。
人が畏怖する神は、すでにいない。
しかし、神の存在が消えてしまったのではない。
何らかの形で、明確ではなにしても、僕らはその存在を感じている。
高速道路の下に、サンはいるのかもしれない。
監督:宮崎駿
体験する「神話」
アシタカは、村を襲ってきたタタリ神から村人を守るため、タタリ神を射殺してしまう。
殺したとき、アシタカは、タタリ神からタタリをもらってしまう。
タタリをもらった者は、数日のうちに死んでしまうという。
その呪いを解くために、アシタカは自分の村を後にして、タタリ神になった主の呪いの原因を探る旅に出る。
そして、旅先で、もののけ姫と呼ばれる少女サンと出会い、原因となった鉛の正体をつきとめるが……
公開当時、宮崎駿監督が久々に「監督」をした作品として注目された。
公開前から注目されたこともあり、おそらくこの映画も知らない人のほうが少ないのではないだろうか。
ちなみに、この「もののけ」は、僕が観にいった初めてのジブリ映画でもある。
▼以下はネタバレあり▼
この映画も、典型的な「往来」の物語と言える。
「浦島太郎」型の行って、帰ってくるという話である。
しかし、ただの行って帰ってくる物語というのでは、おもしろくない。
僕は、この物語を、神と人間との戦いを描いた作品であると同時に、アシタカが「死」に、再び「生」を得る物語と考えてみたい。
アシタカは、序盤でタタリ神となってしまったイノシシから、村人を守るため、イノシシを射殺してしまう。
その恨みから、アシタカの右腕は呪われてしまうのである。
その恨みの真相を知るため、アシタカは村を出て旅に出る。
これがアシタカの旅の目的であり、旅のきっかけであり、そして、物語じたいが背負う「課題」である。
このようにアシタカは、生きているように見えるが、実際は呪われた時点で死んでいるのではないだろうか、と僕は考えるのだ。
もっと言えば、普通に生きている者がいわれのない呪いで、殺されたのである。
それは、アシタカの行動の動機が、この呪いによって変化していることでもわかる。
アシタカは、村人を守るという、正当かつ、人間的な理由でイノシシを殺す。
村人が殺されそうになるのに、「イノシシが可哀想だ」などと考える者はいない。
ところが、旅に出た後のアシタカは、襲われそうになった人間を助けるだけでなく、人間とは違う世界に生きるもののけ姫をも助けようとする。
他人の戦争を無闇に手助けするということは、自分がその戦争に加担するということであり、生きている人間、生きようとしている人間としては不自然な行動と言えよう。
また、誰もが恐れる「神」の世界にいる者に関与しようとするのも、「生きている人間」にはできない。
他の人間達が、「お上」から神討伐の許しをもらうのも、神と人間の世界が明確に分かれ、神を畏れていたからに他ならない。
ところが、アシタカは、そうした「明確な線引き」をやすやすと乗りこえてしまう。
なぜなら、アシタカは自分が生きるべき土地を追われた、死者であるからだ。
イノシシを翻弄した呪いを解く、といえば聞えはいいが、実際には、いわれのない自分にかけらた呪いを、どうしても納得できずに、その真相を知りたいと思ったということが、死者・アシタカの行動原理なのである。
アシタカは、どこの国の者でもない、幽体となって、神と人間との交渉の物語を体験するのである。
言うなれば、土地という絶対的なアイデンティティを無効化したところで彼は行動することができるのだ。
アシタカが体験する神話とは、火を奪う神話であり、神の神話性、自然の神話性を人間が解体する物語である。
火薬を手に入れ、勢力をつけはじめた人間でも、神の住む領域までは立ち入ることはできない。
そこで、人間が造った火によって、神の火を奪う、あるいは神の火を克服するために、シシ神狩りを敢行する。
日本に現存する神話の記紀(古事記・日本書紀)や、実際の歴史と、この映画との関連性を考えることはやめておこう。
あくまでこの映画の中で考えると、自然発生的に起こる大いなる火を、人間が自分達のために造った火で克服することで、人間は神を克服しようとするのである。
もちろん、その成否は、人間側の勝利ということになる。
ラストで、シシ神の首を取り返した後の森は、僕たちはどこかで見た事がある。
それは、火山が噴火した後に木々が育ち始めた風景にそっくりなのである。
つまり、シシ神の首が奪われ、首を求め荒れ狂う様子というのは、火山の噴火であり、神の火の恐ろしさの極みなのである。
サンは言う。
「けれどもシシ神の森ではなくなった」
正に、シシ神の森は、人間の森となり、森にあったはずの「神」は解体されてしまう。
火山を克服した人間は、また一つ、自分達の住む世界を拡大したのである。
それと同時に、アシタカにかけられた呪いも解かれる。
これは、アシタカが転生したことを示す。
人間と神との争いを経験したアシタカは、再びタタラ場という生きる土地を発見し、生者として再生するのである。
面白いのは、サンとアシタカの関係性である。
アシタカは、死んでも死に切れない死者であるのに対し、もののけ姫・サンは、アシタカと対峙することによって、はじめて「人間」となる。
人間が人間であるのは、自分を人間と認める他者(社会)があるためだ。
人間として認める社会がなければ、もののけ姫は、もののけの姫であり、神の側にいる者にすぎない。
ちなみに、「もののけ」とは、「物の怪」であり、妖怪などの人知を超えた存在、つまり、この映画でいえば、神の世界の存在という意味である。
よって、これまで人間として扱う他者がいないサンは、人間ではない。
だが、「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ!」というアシタカが、サンと向き合うことによって、彼女ははじめて人間として存在し始める。
人間が神の火を、人間の火にする物語というプロットと、サンがアシタカと交渉することで、人間化するというプロットとはパラレルな関係になっているのである。
結局、サンは「人間」になることはないだろう。
なぜなら、アシタカは再生し、再び生きる場を手に入れた。
生きる場を手に入れたアシタカにとって、やはり他の人間と同じように、多かれ少なかれ神と対峙していくことになる。
人間としての生を回復したアシタカは、もののけ姫・サンを人間として扱う他者にはなり得ない。
自分を、「人間」として扱う者がいなくなったサンは、ふたたび、もののけ姫として生きることになる。
アシタカは言う。
「私はタタラ場で、そなたは森で、共に生きよう。」
神は人間の手で解体されてしまった。
だが、アシタカはそれでも神との共存を望む。
それは、「神」という思想がほぼ完全に解体されてしまった現代において、なお続いてる神と人間との関係性を暗示している。
人が畏怖する神は、すでにいない。
しかし、神の存在が消えてしまったのではない。
何らかの形で、明確ではなにしても、僕らはその存在を感じている。
高速道路の下に、サンはいるのかもしれない。
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