貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

山刀伐峠越えは異種の感動!

2022-12-21 11:22:18 | 日記
令和4年12月21日(水)

 山刀伐峠の道は
「二十七曲り」と言われる
曲がりくねった山道で、
うっそうとしたブナの原生林に

覆われた手つかずの(?)自然が、
当時の面影を残している。
  出羽街道に下りると、
山刀伐峠越えの歴史の道の表示や
句碑も整備されている。


 俳人田川飛旅子の句。
「山刀伐に     
   立つ初蟬に 
     取りまかれ」。

 こうして、芭蕉たちは、
弟子の清風を尋ねることとなる。    
 山刀伐峠越えは、
異種の感動で、
我が身を包んでくれた。


恐怖の山刀伐峠越え

2022-12-20 10:52:50 | 日記
令和4年12月20日(火)
大崎市: 山刀伐峠           
 山刀伐峠は、
山形県の最上町から尾花沢市へと
越える峠。
<山刀伐峠入り口>

 峠の形状が、
山仕事や狩りの際に被った
「なたぎり」
に似ていることから名付けらる。
 しかし、
俗説では、刀を持った山賊が住み着いて、
道行く旅行者を襲撃しては
身包みを剥ぐ危険な峠
であったことに由来するという。
 実際に、
松尾芭蕉の『奥の細道』には、
山刀伐峠を越えるにあたって、
「封人の家」の当主有路氏が、
山賊から芭蕉の身を守るため、
屈強の者を護衛に付けた旨、
記されている。       
 『奥の細道』には、
「高山森々として、
  一鳥声きかず、
   木の下闇、
    茂りあひて、
   夜行くがごとし」
とあり、
当時はかなり厳しい峠で
あったことが偲ばれる。
 現在、山刀伐峠の山頂へは
舗装道路(旧道)が整備されていて
、車一台何とか通れる道となっている。
 「どうか、車が来ませんように」
と祈る気持ちで、
狭い街道をこれまた慎重に上る。
 峠の頂上に広場が有り、


一安堵。
 芭蕉庵も造られ、
トイレも整備されている。
 

 今後の更なる整備が待たれる。
 平成の芭蕉隊が、
歴史の道を踏破している話もちらほら。

~つづく。


封人の家に宿泊!馬の尿の音、蚤と虱!

2022-12-19 11:31:43 | 日記
令和4年12月19日(月)
山形県最上町: 封人の家       
 封人の家は、
10㎞出羽街道の先にあることがわかる。
  
 山形県にあり。
 もうびっくり!
 生憎整備のため、工事中であった。

 受付の老男性が見える。
 入口に、芭蕉と曾良の木彫像がある。

 封人の家とは、
「国境を守る役人の家」のこと。
 仙台領と境を接する新庄領堺田村
の庄屋家、
つまり
この旧有路家住宅であったといわれている。
 元禄2年(1689)5月、
芭蕉は二泊三日にわたって
"封人の家"に逗留し、
その時の印象を、
「蚤虱 
  馬の尿する 
     枕もと」
という句で表現した。
 最上町は以前は小国という地名で、
山形県内では随一の馬産地だった
ようだ。

 私の母屋は、役牛を飼育していた。
 同じ屋内で大事に育てられている
ことが、芭蕉の句でもよくわかる。 
 しかし、元禄当時のこと。
 芭蕉も蚤と虱で眠れず、
しかも馬の放尿の凄い音を聞いて、
さぞやびっくり仰天したことだろう。
 しかし、
それを楽しんでいるような芭蕉が
いることも…、
 また一興かな!
 幾度この句に出合ったことか。
 その度に、
その状況が鮮明に浮かび上がり、
思わず吹きだす自分が居る。
 田舎の牛との共同生活を思い出し、
懐かしさも手伝うのだろう。


義経同行の幼児が初のおしっこ!尿前の由緒!!!

2022-12-16 15:36:02 | 日記
令和4年12月16日(金)
 元禄2年(1689年)5月15日
(新暦7月1日)、
岩出山で一宿した芭蕉は、
「道遠ク、難所有之」
(曽良随行日記)
という理由から、  
尾花沢までの旅を、急遽、
小野田経由から鳴子経由に変更する。

 このため、
通行手形の用意がないまま
尿前から中山峠越えを目指す
こととなる。
<尿前の関石碑>
 
 
 
 「美豆の小島」というのは、
江合川の中にある岩山だそうだが、
名称の響きに誘われて探すことに。
 田園と山合の所と化し、
分からずじまいとなる。
<芭蕉翁像>
 
<芭蕉句碑>
 
 芭蕉の句は、
「蚤虱 
  馬の尿(ばり)する    
     枕もと」 。   
 なお、「尿前」という名前は、
義経一行が平泉に逃避する際、
連れていた幼児が初めておしっこを
した場所というのが由来らしい。
 何ともいえない。
 が、史実を尊び、納得!


関守に怪しまれる旅人!?

2022-12-15 11:30:40 | 日記
令和4年12月15日(木)
大崎市: 尿前(しとまえ)の関跡  


『奥の細道』には、
「南部道遙にみやりて、
 岩手の里に泊る。
 小黒崎・みづの小島を過て、
 なるごの湯より
 尿(しと)前(まえ)の関にかゝりて、
 出羽の国に越んとす。
 此路旅人稀なる所なれば、
 関守にあやしめられて、
 漸として関をこす。
  大山をのぼつて日既暮ければ、
 封人の家を見かけて舎を求む。
 三日風雨あれて、
 よしなき山中に逗留す 。」
と、怪しき者と訝られ、
足止めを食う芭蕉たち。    
 しかも、三日間も暴風雨に
見舞われるという…。

         
 かつての鳴子町は、
平成18年3月、
古川、岩出山など一市五町が合併して
大崎市となる。
 芭蕉が訪れた頃は、
出羽国で最上、伊達氏らの対立が
続いていたことから、
その波及を恐れた大崎氏は
国境の警備を更に強めるため、
「岩手の関」に
小屋館の番所を設置。

 小屋館は、
尿前の西方の山上(岩手の森)、
薬師堂跡付近にあったといわれる。
~つづく。