☆以下は、私がニュージーランドにワーキング・ホリデーで滞在していたときの、ホームステイの記録である。
日付は振っていないが、1992年の後半の話である。
ネット上では初公開のエピソードである^^v
◇ ◇ ◇
『エリオット君のお話(1)』(1992年)
ホーム・ステイをはじめて一ヶ月が過ぎた。
ちょいと報告をしなくてはなるまい。
クライスト・チャーチの郊外シャーリーに、ステイ先のグレインジャー家がある。
父親がブライアン(53歳)、母親がジェーン(42歳)、そして息子が一人、……エリオット(6歳)がいた。
他にチンチラ風の猫・ヒーローとレディがいて、ウサギのレインボウがいた。
昔はもう一匹ウサギがいたそうだが、エリオットの友達が棒で突いて死なせてしまった、と言うことだった。
ともあれ、問題はエリオットであった。
◇
とある昼食のとき、僕はジャムバタートーストを食べつつ、ジェーンに問うた。
「確か、『E.T』の主人公がエリオットって名前だったねぇ?」
「ええ」
その、あまり気のない返事によって、息子の名が『E.T』から取られたのでないことは分かった。
「『アンタッチャブル』の主人公の名前もエリオットだったね?」
するとジェーン、間髪入れずに応えた。
「エリオット・ネス!!」
どうやら、アメリカは禁酒法時代の密造酒取締り組織”アンタッチャブル”のリーダーから、夫妻は息子の名前を取ったらしい。
映画の中では、ケビン・コスナーが、リーダー役を颯爽と演じていた。
少年エリオットと、エリオット・ネス。
<アンタッチャブル(何ものにも影響されない)>
言い得て妙であった。
僕は窓の外に視線をやり、目を細め、ホーム・ステイをはじめた日から今日までのことを思い出すのだった。
野外には強い風が吹いていた。
北風の如く、だった。
ゴ・ゴ・ゴ・ゴ・ゴ・ゴ……。
◇
僕がジェーンに家の中を案内されていると、エリオットがどこからか帰ってきた。
目が合ったその時の一瞬の表情がはにかんでいたので、シャイな子なんだなあ、と思ったものだった。
そして、すぐに、エリオットは他の部屋に入ってしまったので、こりゃ仲良くなるのに一苦労だぞ、と思いつつ、ジェーンに僕の部屋を案内された。
さて、僕が与えられた部屋で荷物を広げていると、エリオットが入ってきた。
僕が笑いかけると、ニコッと微笑み、背中に隠していたノートを見せてくれた。
なかなか整った顔立ちのエリオットであった。
渡されたノートを見ると、小学一年生なりのアルファベットが記されている。
学校での学習ノートらしい。
僕はニュージーランドに来る前に、ホームステイをしたときに、その家に子供がいたらあげようと思っていた「ゴジラ・ミニ図鑑」をやった。
すると、エリオット、異常に喜んだ。
僕の手を引っぱり、リビングに連れて行き、ビデオテープの棚を示す。
そこには、『GODZILLA』のビデオテープ。
(注:当然ながら、エメリッヒ版ではなく、『ゴジラ(昭和59年度作品)』のインターナショナルver)
彼はゴジラ「も」大好きだったのだ。
僕は、キウィ(ニュージーランド人の愛称)の子供に、ゴジラを実在のモンスターと信じ込ませ、
「もうすぐ、ニュージーランドに上陸するぞ~」
と、脅そうとしていたのだが、その計画は崩れ去った^^;
そのほか、エリオットはディズニーのビデオもたくさん持っていて、その部屋にもミッキーマウスのポスターが数枚貼ってある。
ジェーンとブライアンの、
「ディズニーに囲まれて優しい子供に育っておくれ」
の気持ちの表われだろう。
・・・しかし、エリオットは『グレムリン』をこよなく好んでいた。
(次回『百ヶ日戦争勃発!』に続く 2009/05/26)
☆[さよなら、新宿ジョイシネマ/その2](クリック!)でも書いた通り、『人間の條件・全6部作』マラソン上映を観た。
午前11時から、午後9時半までの拘束10時間半の長丁場だ。
また、私と思考回路の異なる左翼作家・五味川純平の原作の作品でもある。
が、意外にも、ほとんど飽きることなく、楽しく観て過ごした。
それは、この作品の、「人間の條件」などと言う高尚なテーマっぽい題名とは裏腹の、その通俗性にあった。
その説明は、この原作が、お昼のメロドラマ化されていた、と一言書けばご理解され得ると思う。
先の大戦の渦中の中国大陸・満州で、自分の思う気持ちに真摯に生きようとする男・梶(仲代達矢)の物語だ。
仲代達矢は、ギョロ目が印象的な役者だが、その爛々と輝く瞳が、物語の進行とともに、次第に輝きを失っていくのがうまかった。
その冒頭の瞳のギラツキは、最近の阿部寛に似ている。
阿部寛自身も、それを意識していると思われ、芸風を似せているようにも思われる。
◇
メロドラマチックなのは、その前半で、老虎嶺の炭鉱の労務責任者で重責を担う梶が、妻・美千子との夫婦生活にすれ違うを生じさせるところだろうか、本来のメロにしては変則だが、物語上の社会的現実と、家庭内での理想との齟齬が、観ている者に心地良い欲求を募らせる。
妻を演じた新珠三千代は、上品で美しかった。
名前だけ知っているような往年の女優が、その時代を代表するようなおしとやかな性格の範囲で、必死に思いを伝えようとする様がいとおしかった。
冒頭、召集令状が明日にも来るのが予想され結婚を渋る梶に、「私が欲しくないの?」と上品に、でも、思いつめたように迫る美千子の健気さ。
白黒の作品は、美人を更に美しく見せる。
この作品では、名女優がビシバシ出てくる。
私は、テレビで活躍している麻木久仁子の、峰不二子のような「悪女とマイルドさ」のハイブリッドな雰囲気が大好きなのだが、娼婦のボスを演じた淡島千景は、その「悪女とマイルドさ」の究極の美しさを見せてくれた。
チャイナ服でキセルを吹かし、その煙を「ふぅー」と吐きながら、相手を見下ろす様なんて、エロ過ぎた。
◇
「特殊工人」と言う、炭鉱で使役する中国人捕虜の管理を梶は任せられ、それに関して、待遇の改善を求める捕虜と、虫けらの如く管理しようとする会社の体制側や憲兵との間に挟まれ、梶は難儀するのだが、その捕虜代表・高と恋仲になる娼婦・有馬稲子もまた美しかった。
「はねるのトびら」に出ているアブちゃんを美しくした感じ。
ほくろがエロい。
彼女の恋は、悲恋となるのだが、そのメロドラマに多くの婦人はうっとりしたことだろう。
新珠三千代も、淡島千景も、有馬稲子も、名前だけは知っていよう。
みんな観てみろ!
昔の女優は、部分的な魅力ではなく、総合的な魅力に溢れているぞ!^^
・・・私は最近、吉高由里子という女優が好きなのだが、特に、その目じり、口元、眉、鼻の際が、クイッと上方に吊り上っているところが美しいと思っている。
これは、メイクの力が大なのであろうが、『人間の條件』に出てくる女優陣のメイクもそうなのである。
とても気品があるのだ。
ファッションと言うものはループするから、50年のときを経て、現在とシンクロしているのだろう。
物語も、50年前の作品なのに、細かい部分まで理解できて面白い。
◇
他に岸田今日子も出てくる。
若く、気の強そうな娼婦を好演している。
娼婦が、物語の各所で多く出てくるが、女が過酷な状況の中で金を稼ぐ道としては、自然なことだったのだろう。
物語は、左翼的な戦争の中での女の悲劇を描きたいみたいだが、そういった女の姿を描けば描くほど、自然なる女の生き様の描写にいたる。
メチャ可愛い中村玉緒演じる女学生は、敗残兵に犯される。
普通の主婦であった高峰秀子演じる女(これまた可愛い)は、生き残るため、そして、寂しさを紛らわすために男と寝る。
不義は、不道徳であると同時に、究極の性の形を見せてくれる。
敗残兵たちの流れ着いた家屋で、そこで生き残った女たちと周囲はばからずにまぐわう情景は、曼荼羅のようであった。
そんな状況を描けたのは、小林正樹の非凡でもあろう。
・・・敗戦後のソ連の侵攻は、満州各地を席巻し、おそらく、梶の妻・美千子の末路でもあった。
◇
構成は、簡単に言うと、こんな感じ。
第一部・炭鉱を舞台にした捕虜待遇改善の戦い
第二部・既得権益の確保のために梶を追い落とそうとする者たちとの戦い
第三部・理屈の通らない軍隊階級制度の中での奮闘
第四部・戦場
第五部・戦場からの逃避行
第六部・現実からの逃避
この作品は、果たして、左翼作品であり、物語で示される「状況(例えば、横暴な会社幹部・憲兵・軍隊システム・古年兵・将校・思想システム・ソ連兵)」は、左翼思想(究極的には共産主義)に都合良く構成されている。
だから、私であっても、こんな状況ならば、俺でも梶と同じ行動をとるよ、と思わせられる。
つまり、作中で示される具体的な状況においては、私も共感できるのである。
しかし、梶が、自分の思想を主張するとき、途端に物語はしらける。
「暴力とは、抑圧された者が、権力に反抗する時だけ肯定されるものだ」
と、梶が、前後の具体例と脈絡なく言った時は苦笑した。
その他にも、
「国家? そんなものは滅びてしまえ」
「ソ連はそこまではしない」
などと、自分のおかれた境遇を、日本を貶める発言につなげ、共産主義礼賛の言葉を吐く。
しかし、梶の行動は、そんな思想とは裏腹に、常識的な判断で進行して行くので、噛み合わないこと甚だしい。
物語と思想に圧倒的な食い違いがある。
現実と言葉の齟齬は、左翼の永遠の負のテーマである。
◇
近年の邦画には見られない迫力の戦闘シーンや、遭難小説を読んでいるようなジャングルのサバイバル行、米の戦争ドラマ『コンバット』的な敗残兵としての逃避行、・・・それぞれが、さすがに映画の各部作のテーマを担っているが故に面白い。
シドニィ・シェルダンの小説のような通俗的なエンターテイメントになっている。
バカにしているのではない、感心している。
それぞれのエピソードにたっぷりと時間と描写を割いているので説得力がある。
その果てに、梶はソ連の捕虜となってしまう。
そこでは、比較的待遇の良い元日本軍将校や、ソ連の下級兵士に、捕虜全体が圧迫されている。
梶は、ソ連の共産主義に希望を抱いている。
だから、「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、共産主義全体が悪いわけじゃない」云々などと寝ぼけたことを抜かす。
だったら、物語の中で散々っぱら、日本をバカにしているが、何で、日本に対しては、、「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、軍国主義全体が悪いわけじゃない」と思わないのか?
そして、物語上の害悪の全てを、金子信雄(?)演じる元将校に押し付け、
「共産主義で世の中は良くなる。でも、待っていられないんだよ!」
などと叫んで殺害し、梶は、最後の、美千子のもとへの逃避行に入る。
おめでたい主張だと思うのは、その後の共産主義の辿る道を知っている現代人だから故だろうか・・・。
・・・しかし、やっぱり、物語上の現実は面白い。
乞食のようになって彷徨う梶の心には、美千子の、夫の帰りを待つ優しい言葉と、バカな夫への嘲笑の声が交互に去来する。
この辺のリフレインする信頼と懐疑の苦悩の描写が、作り手の良心に感じられ、また、やはり、理想主義との隔たりがあるのだ。
梶のボロボロの姿が、この頃、アカにかぶれていた宮崎駿の心に残り、後の『母を訪ねて三千里』のマルコの旅の最終局面にいかされたであろうことは確実だと思う。
◇
さて、原作者の五味川純平の作品にしても、司馬遼太郎の一部の著作にしても、軍隊組織の中での悪徳の姿がよく記される。
そして、保守(≒右翼)は、そんな軍隊内の悪はほんの一部だと主張している。
そう、先ほどの梶の「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、共産主義全体が悪いわけじゃない」の言葉の裏返しのようにだ。
しかし、長々とは書かないが、私は、保守の内部にも、五味川や司馬の言うように、本当に汚物のような卑劣な人格の野郎どもがいるのを知っている。
私は、思想は異なるが、梶のように、その点に関しては理想的に、かつ断固とした態度で挑んでいる。
システムが悪いのなら、システムの破壊さえも行なう。
◇
なお、[私の1991年のメモ日記・8「さよなら、新宿ジョイシネマ](クリック!)で、この作品には<ノモンハン事件>が描かれると書きましたが、それは同じ原作者の『戦争と人間』の間違いでした^^;
(2009/05/26)
午前11時から、午後9時半までの拘束10時間半の長丁場だ。
また、私と思考回路の異なる左翼作家・五味川純平の原作の作品でもある。
が、意外にも、ほとんど飽きることなく、楽しく観て過ごした。
それは、この作品の、「人間の條件」などと言う高尚なテーマっぽい題名とは裏腹の、その通俗性にあった。
その説明は、この原作が、お昼のメロドラマ化されていた、と一言書けばご理解され得ると思う。
先の大戦の渦中の中国大陸・満州で、自分の思う気持ちに真摯に生きようとする男・梶(仲代達矢)の物語だ。
仲代達矢は、ギョロ目が印象的な役者だが、その爛々と輝く瞳が、物語の進行とともに、次第に輝きを失っていくのがうまかった。
その冒頭の瞳のギラツキは、最近の阿部寛に似ている。
阿部寛自身も、それを意識していると思われ、芸風を似せているようにも思われる。
◇
メロドラマチックなのは、その前半で、老虎嶺の炭鉱の労務責任者で重責を担う梶が、妻・美千子との夫婦生活にすれ違うを生じさせるところだろうか、本来のメロにしては変則だが、物語上の社会的現実と、家庭内での理想との齟齬が、観ている者に心地良い欲求を募らせる。
妻を演じた新珠三千代は、上品で美しかった。
名前だけ知っているような往年の女優が、その時代を代表するようなおしとやかな性格の範囲で、必死に思いを伝えようとする様がいとおしかった。
冒頭、召集令状が明日にも来るのが予想され結婚を渋る梶に、「私が欲しくないの?」と上品に、でも、思いつめたように迫る美千子の健気さ。
白黒の作品は、美人を更に美しく見せる。
この作品では、名女優がビシバシ出てくる。
私は、テレビで活躍している麻木久仁子の、峰不二子のような「悪女とマイルドさ」のハイブリッドな雰囲気が大好きなのだが、娼婦のボスを演じた淡島千景は、その「悪女とマイルドさ」の究極の美しさを見せてくれた。
チャイナ服でキセルを吹かし、その煙を「ふぅー」と吐きながら、相手を見下ろす様なんて、エロ過ぎた。
◇
「特殊工人」と言う、炭鉱で使役する中国人捕虜の管理を梶は任せられ、それに関して、待遇の改善を求める捕虜と、虫けらの如く管理しようとする会社の体制側や憲兵との間に挟まれ、梶は難儀するのだが、その捕虜代表・高と恋仲になる娼婦・有馬稲子もまた美しかった。
「はねるのトびら」に出ているアブちゃんを美しくした感じ。
ほくろがエロい。
彼女の恋は、悲恋となるのだが、そのメロドラマに多くの婦人はうっとりしたことだろう。
新珠三千代も、淡島千景も、有馬稲子も、名前だけは知っていよう。
みんな観てみろ!
昔の女優は、部分的な魅力ではなく、総合的な魅力に溢れているぞ!^^
・・・私は最近、吉高由里子という女優が好きなのだが、特に、その目じり、口元、眉、鼻の際が、クイッと上方に吊り上っているところが美しいと思っている。
これは、メイクの力が大なのであろうが、『人間の條件』に出てくる女優陣のメイクもそうなのである。
とても気品があるのだ。
ファッションと言うものはループするから、50年のときを経て、現在とシンクロしているのだろう。
物語も、50年前の作品なのに、細かい部分まで理解できて面白い。
◇
他に岸田今日子も出てくる。
若く、気の強そうな娼婦を好演している。
娼婦が、物語の各所で多く出てくるが、女が過酷な状況の中で金を稼ぐ道としては、自然なことだったのだろう。
物語は、左翼的な戦争の中での女の悲劇を描きたいみたいだが、そういった女の姿を描けば描くほど、自然なる女の生き様の描写にいたる。
メチャ可愛い中村玉緒演じる女学生は、敗残兵に犯される。
普通の主婦であった高峰秀子演じる女(これまた可愛い)は、生き残るため、そして、寂しさを紛らわすために男と寝る。
不義は、不道徳であると同時に、究極の性の形を見せてくれる。
敗残兵たちの流れ着いた家屋で、そこで生き残った女たちと周囲はばからずにまぐわう情景は、曼荼羅のようであった。
そんな状況を描けたのは、小林正樹の非凡でもあろう。
・・・敗戦後のソ連の侵攻は、満州各地を席巻し、おそらく、梶の妻・美千子の末路でもあった。
◇
構成は、簡単に言うと、こんな感じ。
第一部・炭鉱を舞台にした捕虜待遇改善の戦い
第二部・既得権益の確保のために梶を追い落とそうとする者たちとの戦い
第三部・理屈の通らない軍隊階級制度の中での奮闘
第四部・戦場
第五部・戦場からの逃避行
第六部・現実からの逃避
この作品は、果たして、左翼作品であり、物語で示される「状況(例えば、横暴な会社幹部・憲兵・軍隊システム・古年兵・将校・思想システム・ソ連兵)」は、左翼思想(究極的には共産主義)に都合良く構成されている。
だから、私であっても、こんな状況ならば、俺でも梶と同じ行動をとるよ、と思わせられる。
つまり、作中で示される具体的な状況においては、私も共感できるのである。
しかし、梶が、自分の思想を主張するとき、途端に物語はしらける。
「暴力とは、抑圧された者が、権力に反抗する時だけ肯定されるものだ」
と、梶が、前後の具体例と脈絡なく言った時は苦笑した。
その他にも、
「国家? そんなものは滅びてしまえ」
「ソ連はそこまではしない」
などと、自分のおかれた境遇を、日本を貶める発言につなげ、共産主義礼賛の言葉を吐く。
しかし、梶の行動は、そんな思想とは裏腹に、常識的な判断で進行して行くので、噛み合わないこと甚だしい。
物語と思想に圧倒的な食い違いがある。
現実と言葉の齟齬は、左翼の永遠の負のテーマである。
◇
近年の邦画には見られない迫力の戦闘シーンや、遭難小説を読んでいるようなジャングルのサバイバル行、米の戦争ドラマ『コンバット』的な敗残兵としての逃避行、・・・それぞれが、さすがに映画の各部作のテーマを担っているが故に面白い。
シドニィ・シェルダンの小説のような通俗的なエンターテイメントになっている。
バカにしているのではない、感心している。
それぞれのエピソードにたっぷりと時間と描写を割いているので説得力がある。
その果てに、梶はソ連の捕虜となってしまう。
そこでは、比較的待遇の良い元日本軍将校や、ソ連の下級兵士に、捕虜全体が圧迫されている。
梶は、ソ連の共産主義に希望を抱いている。
だから、「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、共産主義全体が悪いわけじゃない」云々などと寝ぼけたことを抜かす。
だったら、物語の中で散々っぱら、日本をバカにしているが、何で、日本に対しては、、「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、軍国主義全体が悪いわけじゃない」と思わないのか?
そして、物語上の害悪の全てを、金子信雄(?)演じる元将校に押し付け、
「共産主義で世の中は良くなる。でも、待っていられないんだよ!」
などと叫んで殺害し、梶は、最後の、美千子のもとへの逃避行に入る。
おめでたい主張だと思うのは、その後の共産主義の辿る道を知っている現代人だから故だろうか・・・。
・・・しかし、やっぱり、物語上の現実は面白い。
乞食のようになって彷徨う梶の心には、美千子の、夫の帰りを待つ優しい言葉と、バカな夫への嘲笑の声が交互に去来する。
この辺のリフレインする信頼と懐疑の苦悩の描写が、作り手の良心に感じられ、また、やはり、理想主義との隔たりがあるのだ。
梶のボロボロの姿が、この頃、アカにかぶれていた宮崎駿の心に残り、後の『母を訪ねて三千里』のマルコの旅の最終局面にいかされたであろうことは確実だと思う。
◇
さて、原作者の五味川純平の作品にしても、司馬遼太郎の一部の著作にしても、軍隊組織の中での悪徳の姿がよく記される。
そして、保守(≒右翼)は、そんな軍隊内の悪はほんの一部だと主張している。
そう、先ほどの梶の「自分の直面した状況が自分に悪いからといって、共産主義全体が悪いわけじゃない」の言葉の裏返しのようにだ。
しかし、長々とは書かないが、私は、保守の内部にも、五味川や司馬の言うように、本当に汚物のような卑劣な人格の野郎どもがいるのを知っている。
私は、思想は異なるが、梶のように、その点に関しては理想的に、かつ断固とした態度で挑んでいる。
システムが悪いのなら、システムの破壊さえも行なう。
◇
なお、[私の1991年のメモ日記・8「さよなら、新宿ジョイシネマ](クリック!)で、この作品には<ノモンハン事件>が描かれると書きましたが、それは同じ原作者の『戦争と人間』の間違いでした^^;
(2009/05/26)