きのうのことに関連して、っていうか、
いろんな角度から いろんな風に思うような現状なんですが――。
会報が送られてきました。
『日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)』 (http://jcf.ne.jp/)
長年に亘って心あたたかく、そして事実に即して、力強く取り組んでおられる。
この会報の中で、宮尾彰さんという方の随筆に惹かれました。
(宮尾さんは長野県教委 発達障害 支援専門員だそうです。)
それによると――(要旨です)。
ある子育て支援センターをお訪ねすると、音楽療法士による「音楽遊び」がゆったりと行われていました。
そのスタッフからお聴きした話です。
重症心身障害児と呼ばれる子どもたちには、微弱な動きで音の出るような楽器が配慮されています。
自分で自覚して動ける子、介添えでわずかに身体の一部を動かすだけの子。
全員でひとつの音楽を奏でます。
そんな時、音の流れの中で、重度のお子さんの出す音がまったく無作為かつ唐突に大きく響くことがある。
そしてその音こそが、演奏全体の「通奏低音」を成しているというのです。
このセッションのように、最も力の弱い存在を真ん中にして成り立っている市民の輪があります。
それが、各地に広がりを見せている『ぷれジョブ』という活動です。
障害を持つ子どもたちに週1回1時間、職業体験の機会が提供されます。
主役は 希望する子どもたち。
家から送り出すのは 家族。
現場に付き添うのは 地域住民。
彼らを受け容れるのは 地元の企業。
彼らと仕事を組み合わせるのは 学校の先生。
「利益によらないつながり」です。
彼らを福祉サービスの対象としないがゆえに、あの「支援する/支援される」という二項対置の枠組みにとらわれることもありません。
子どもたちを囲んで定例会を重ねるうちに、周りの大人が変えられてゆくそうです。
こうした大らかな信頼関係が――。
とメッセージは続いていきます。
……なんだか読んでいるだけで、心がゆるんできてあったかくなってきました。
私の場合は、「聾・難聴者と 健聴者」というような認識の仕方になってしまうことが多いようです。
実際的なところで、「やっぱり聴こえる人を中心にした社会なんだよね…」とか、
「どこも 聴こえることを前提にしてるんだよね――」となったり。
「私は あんまり聴こえないのだから」と引いてしまうことも よくある。
でも、このお話のように響きあい、味わいながら自然に育ちあう、網の目のような かかわり方。
こころ豊かな社会を 目指していきたい。
少なくとも、自分の心の中で、境みたいなもの作ったりしちゃいけないですね。