ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

ご無沙汰しました

2013-07-22 19:21:02 | 対話型鑑賞
学期末で慌ただしい毎日を送っていたため、ブログの更新がすっかりお留守になっていますした。
やっと、夏休みです。

学期末に校区内の小学校で対話型鑑賞の実践をしましたので、その報告をさせていただきます。
なお、今週末には、京都大学博物館長の大野先生に再び来県いただき、研修会を行うことにしています。そのレポートもまた、お伝えできればと思っていますので、お楽しみに!!

では、報告です。

校区内の小学校で「対話型鑑賞」の実践を行いました。1年生と3年生です。
児童の実践後のアンケート結果は以下のようでした。
【1年生】回答者27名
ア)しっかりえをみましたか                 はい)27名    いいえ)0名
イ)えについてかんがえましたか               はい)26名    いいえ)1名
ウ)はっぴょうできましたか                 はい)20名    いいえ)7名
エ)おともだちのはなしをちゃんとききましたか        はい)26名    いいえ)1名
オ)おともだちのはなしをきいて、また、かんがえましたか   はい)24名    いいえ)3名
カ)このようなかいをまたやりたいですか           はい)24名    いいえ)3名
【3年生】回答者25名
ア)しっかり絵を見ましたか                 はい)25名    いいえ)0名
イ)絵について考えることができましたか           はい)24名    いいえ)1名
ウ)発表できましたか                    はい)20名    いいえ)5名
エ)お友だちの話をちゃんと聞きましたか           はい)25名    いいえ)0名
オ)お友だちの話を聞いて、また、考えることができましたか  はい)24名    いいえ)1名
カ)このような会をまたやりたいですか            はい)25名    いいえ)0名

それぞれ担任の先生から感想が届いているので紹介したいと思います。
【1年生】
 ☆対話型鑑賞を初めてご覧になっての感想をお知らせください。
初め「絵を見て」の発表で子どもたちはいったい何をどう言ったらいいのかわからず、戸惑っていましたが、切り口はどこからでも良いのかということがわかって言えるようになったようでした。対話をしていくうちにどう言ったらよいのかを知って、絵を楽しんで見るようになったと思いました。教室では「友だちの絵(作品)を見て、感じたことを発表しよう」ということはよくしています。その時は課題があって、自分もそれを描き、同一のテーマの中での違いに気づいていきますが、今回のように間口の広い鑑賞法は対話をしていく中で深まっていくものだと感じました。
 ☆児童の様子で気づかれたことを教えてください。
 この時期(入学して3ヶ月)、1年生の子どもたちは、未体験、未経験のことが多く、今日のような授業も新鮮に受けとめられていたようでした。思いはあっても、どう伝えたらよいか、ボキャブラリーの少ない子どもたちにとっては表現がうまくできません。でも、うまくは言えないけれど、このような授業体験ができること、それが楽しいようでした。友だちの発表を聞きながら、自分の思いと比べている子も中にはいましたが、発達段階からみても、まだ自分の思いを言うだけが精一杯という子が多かったのではないかと思います。しかし、ふりかえりのワークシートでは、友だちの思いに触れている子もいて「みて」「ふりかえって」の流れで、今日の授業を体感できたのではないかと思いました。

【3年生】
 ☆対話型鑑賞を初めてご覧になっての感想をお知らせください。
○最初に注意事項を児童に分かりやすく、きちんと挙げていて「ここが肝かな」と思いました。
○目的(めあて)とゴールが分からなかったため、余計なことをしました。
○以前、京都造形大の鑑賞の研修を受け、似たようなものかな?という勝手なイメージを抱いていました。また、どのような目的で、どこに(ゴール)に向かって、どんな力をつけていく鑑賞法なのか教えてもらえたらと思います。(準備、打合せが不十分でご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。)
 ☆児童の様子で気づかれたことを教えてください。
 本学級には1名場面緘黙の児童がおり、全員発表や発表をしない子に発表を求めることは避けてきました。しかし、今日の様子を見て、じっくり考える児童や、考えはあるけど発表のタイミングを逃している児童がたくさんいるのだと分かりました。新しい発見でした。
 どうしても小学校には小学生向けの絵(主に友だちの絵)を鑑賞に用いていたが、名画を題材にしても、やり方次第で十分に学習になることが分かりました。
 朝のところで、3年生の子どもに「鑑賞って何ですか?」ときかれました。先生ならどのように答えられますか?もしよろしければお聞かせください。)

 上記の3年生の担任の先生の問いに以下のように答えてみました。
先生もお書きになっていましたが、この鑑賞活動は、京都造形芸術大学の福のり子先生が広めておられる「対話型鑑賞」の実践です。私は、この鑑賞スタイルの提唱を行ったMOMA(ニューヨーク近代美術館)の教育普及部長のフィリップ・ヤノウィン氏のレクチャーを1年間にわたって受講し、「対話型鑑賞」については、一応、普及のライセンスをもらいました。ただ、ライセンスがあっても実践しないと意味がないので、さまざまなカテゴリーでの実践を目ざしています。現在は、神門幼稚園、神門川小学校、神西小学校、河南中学校で園児・児童・生徒を対象に実践させて頂いている状況です。以前には島根大学医学部学生を対象にも行いました。そして、「対話型鑑賞」を教育現場で実践しようと志を同じくする県内の美術教員で「みるみるの会」というのを立ち上げ、月1回、浜田市世界子ども美術館で研修会を行っています。
 では、先生の質問答えたいと思います。

「めあて(目的)とゴール」
○「めあて」は「ゴール」?
 対話型鑑賞のめあては「みる」「考える」「話す」「聞く」です。「よくみて」「考えて」自分の意見を「話し」、仲間の意見を「聞く」活動ができればOKです。仲間の意見を聞くことで、自分の考えが変わる、広がる、深まると、この活動は概ね成功したと言えます。みている作品の美術史的な背景や価値に気づく必要はありません。そこがゴールではありません。また、ゴールはなく、オープン・エンドで終わります。答えは参加者各自の中にあり、その答えも永遠のものではなく、みる仲間、みる年齢が変われば、変化します。答えを考え続けることが求められます。
 しかし、不思議なことに、何も教えなくても、子どもたちは自分の生活経験や知識を駆使して、作品を読み解こうと必死に考えていくと、作品の一般的な価値に近づくような発言が出てきます。そこが、名作と言われるゆえんなのだと感じます。だから、歴史的に淘汰され、現在も作品が世に残っている、いわゆる名作と言われるものをこの活動に使用するのだと思います。

「児童の発言」
○担任の先生と違って、私はクラスの児童の様子を知らないので、緘黙の児童がいたことも分かりませんでしたし、もし、その子が、話せなくても、特に気にしません。発言は、なるべく偏りのないように配慮します。そうしないと、話すのが得意な一部の子の独壇場になってしまうからです。中学生になるとなかなか女子は発言しないので、男子が挙手していても、それを制して、女子を指名して発言させたりします。なぜ、そのようなことを行うのかと言えば、多くの生徒の見方を仲間が共有することで、新たな発見があるからです。
 また、言えなくても、それを良くないことのようにはとらえず、「後で聞くからね。」などと言って、次に回します。また、質問の内容とかみ合わない発言であっても、それまでの対話と結びつけて発言を受容します。ここで、「聞いていることと違う」と発言を否定すると、その子は二度と発言しなくなるかも知れません。それは避けなければならない最大の注意点です。「何を言っても受け入れられる」ことが参加者に一番の安心を与えることになるからです。ここに「正解はない」という対話型鑑賞の理念があります。

「名作の鑑賞」
○作品を選べば、小学生でも名作の鑑賞は可能だと思います。現に、幼稚園でも実践していますが、十分に話しますし、みえているものについて考え、語ることができますから、小学生でも実践して欲しいと思います。ただ、注意するのは作品で、どんな作品で実践するのかは重要です。興味があれば、聞いてください。どんな作品がこの鑑賞活動で有効なものなのかを紹介できます。

「鑑賞」とは?
○小学生の「鑑賞って何ですか?」の問いかけに答えるのはなかなか難しいですが、強いて言えば「美術作品を味わうことを鑑賞と言います。でも、食べる訳じゃないから、味わうってどういうことかと思うよね。それは、みて、どんなことを思うか、それをみんなで話し合う中で、その作品について考える。そういう活動のことを鑑賞って言うんだよ。」くらいの答えで、3年生ならわかりますかね?

○大事なことは「好きにみて良い」と言うことです。「このようにみなくてはいけない。」などという美術評論家や美術史家の評価や論評を鵜呑みにするのではなく、自分の目でみて、考える、自由に発想を巡らすことが大事だと思います。そのような態度を養えば、将来にわたって美術を愛好し、美術館に足を向ける日本人を育てることができると思います。それが、肝心だと思います。だからこそ「対話型鑑賞」が有効だと思います。

最後に
○「対話型鑑賞」の実践のために学級を提供してくださいましてありがとうございました。事前の打ち合わせもなく突入しましたが、児童はしっかり考えていたと思います。普段の授業形態とは異なっていましたし、指導者も知らない中学校の先生と言うことで緊張もしたと思います。また、「何を、どう答えたらいいのか?」にも不安があったと思います。しかし、時間を経るにつれ、様子が分かると発言が活発になっていったと思います。「何をいっても良い」という風土を早く感じさせることができれば、発言は活発になります。授業者が無の状態で受容する姿勢を持てれば、会話はうまく進んでいくと思います。
○今回の作品はメアリー・カサットというアメリカ人の女性の画家の作品で、中央で本を読んでいたのが画家自身です。周りにいたのはカサット夫人の孫たちです。カサットは印象派の影響を強く受けています。当時、女性が画家を志すことは容易ではありませんでしたが、裕福な家に生まれたカサットはフランスに留学し、当時はまだ世に認められていなかった印象派の画家たちと交流し、自身もそのような作品を多く残しています。この絵も窓際で孫たちに囲まれて本を読んで聞かせている所を優しい色使いで、光に溢れた印象派らしい作品になっていると思います。そして、なぜだか、日本人の子どもは、あの大きな窓を汽車の窓と思うようです。日本の家屋にあのような大きな窓がないからではないかと私は考えています。

 以上、質問の答えになっているでしょうか。

 これが、6月28日に小学校で実践し、その後、児童へのアンケートの結果と担任の先生からの感想です。児童がこの鑑賞を楽しいと感じ、またやりたいと思っていることをうれしく思います。正解を求める他教科の授業の中にあって、自由な発想で発言でき、友だちの意見にも刺激を受けることのできるこの鑑賞活動が、授業スタイルをも変えうる可能性を秘めていることに教師の皆さんが気づいてくださり、「教える」から「学ぶ」へ学習スタイルがシフトされていけば、新しい学習指導要領の目ざすものが実現されるのではないでしょうか?
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2月の大野先生の講義からのレポートです

2013-07-01 22:53:37 | 対話型鑑賞
メチャメチャ長いですが、上坂会員の渾身のレポートです。気合い入れて読んでください。

その大野先生が27日28日に来県されます。今回は出雲地区をフィールドに活躍していただく予定です。興味のある方はご一報ください。詳細をお知らせします。

では、上坂会員のレポートです。

平成25年2月23日 みるみるの会研修企画 講演 大野照文教授「脳美学 ~人はなぜ美しいと感じるのか~」
感想レポート

みるみるの会 会員
上坂 美礼

はじめに
 みるみるの会(Art Communication in Shimane)は、島根県内の小中学校の図工・美術の指導力向上のために集った会員が、月に一度の例会を企画し、県内の美術館展覧会場を会場に、一般の観覧者を対象にした「対話型鑑賞」を実践することで、研修を行っている。併せて、半年に一度、各地より専門家を講師に招き、みるみるの会会員や他の教職員をはじめ、指導者向けの研修会を企画し、「対話型鑑賞」を軸に、鑑賞教育の実践力向上を図っている。
平成25年2月、みるみるの研修会講師に、京都大学博物館館長の大野照文教授をお迎えした。大野教授は、博物館学の講義もなさる傍ら、専門の古生物学と博物館学の融合的ワークショップ「貝体新書」などの教材開発も行い、「対話型鑑賞」の実践者としても著名な方である。前日の2月22日には浜田市内にお越しいただき、みるみるの会と浜田市教育研究会の企画で大野照文教授による「貝体新書」のワークショップが行われ、およそ20名の参加があった。「貝体新書」は、二枚貝に関する潜在的な知識を語り合う過程を経て、次第に二枚貝の生態に迫るワークショップである。
本文は「貝体新書」翌日の平成25年2月23日に益田市グラントワにおいて行われた指導者向け研修会のレポートである。講演会には、「貝体新書」の実習体験研修会に参加したみるみるの会の会員以外に、初めて大野教授に出会う浜田、益田市民も多く来場した。
私たちは大野教授による講演「脳美学 ~人はなぜ美しいと感じるのか~」を拝聴した後、島根県立石見美術館(グラントワ)内において30名近くの観覧者と「対話型鑑賞」体験を味わい、視覚と思考の関連について学ぶ感慨深い研修を終えた。この時のファシリテーターは山口からお越しの津室さんで、詳細は以前のみるみるのブログをご覧いただきたいと思う。
研修感想レポートを綴るにあたり、まずは講演の概要と、次にグラントワ内で行われた「対話型鑑賞」についてまとめ、参加者アンケートに寄せられた感想を加え、報告とする。

プログラム内容
② 講演 「脳美学 ~人はなぜ美しいと感じるのか~」大野照文教授 (京都大学博物館館長 古生物学)
 ②研修 対話による鑑賞 ファシリテーター 津室和彦さん(山口県 小学校教諭)

講演
 浜田市内において大野教授は、京都大学博物館館長を務める傍ら、博物館概論に関する講義も行っている実績から、博物館に展示されるモノに対する見方やとらえ方について、鑑賞者の生涯学習・生涯教育の観点から論じられ、美術館に展示される作品も、博物館内に展示される資料(=モノ)のひとつであるというとらえ方から、「脳美学 ~人はなぜ美しいと感じるのか~」の講義をしてくださったので、まずは、講演の概要を報告する。
 
 最初に、大野教授は、ゴーギャンの絵画作品のひとつ「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこに行くのか?」を私たちに示し、この問いを自問する人類すべての者にとって、博物館は学びの場であることを次のように示唆した。
ゴーギャンと私たちが共有する根元的な問いに対して、私たちは博物館に展示・保管されている資料(モノ)を根拠に探究することができる。大野教授は、京都大学の博物館には展示・保管されている資料(モノ)のいくつかをスライドショーで紹介した。一見、明治期の骨董品にも思える資料(モノ)は、旧帝国大学時代の科学者たちの探究心や情熱をうかがい知ることのできるような、ユニークな造形をしている。中でも印象的だったのは、養蚕業が普及した時代の、蚕が病気にならぬようにと蚕の体の仕組みをわかり易く示した模型である。明治時代の殖産興業を支えた養蚕業について、おおよそのイメージを抱く私たちだが、組み立て式の蚕の模型を目にすることで、当時の養蚕業に対する人々の意識や情熱を推測することができる。本来は手のひらに乗る大きさの蚕の体を、実物に即して忠実に、何十倍もの拡大サイズで再現した模型は、当時の養蚕業に関わった人々の思考や精神、足跡を知る根拠が秘められているものように思えた。博物館に展示されているモノ(資料)は、温故知新の手がかりとなり、我々が将来をいかに生きるか、その行方を占う羅針盤となる可能性が秘められている。
 博物館には、「モノを風化させず過去から未来へとつなぐ」役割がある、と大野教授は語った。それは、熱力学第2法則に逆らうムーブメントであり、博物館はそうした意味でもレジスタンスの場でもあると、大野教授は茶目っ気あるユーモアを交え、次のように続けた。
風化することの運命づけられたモノを守るためには、博物館という「場」のほかに、多くの人手や資金が必須である。モノを守るための戦いのムーブメントを興し、持続可能なものにするには、モノの価値を広く普及し、価値を知る人が増えることが課題となる。モノ(資料)の価値を伝えるために、教育普及の意義が周知され、中学校の美術教育においても鑑賞教育が必須となった昨今、なかでも注目されているのが「対話型鑑賞」方法であるのはなぜか。それは、対話を通して鑑賞者が主体的にモノの価値を見出す喜びを伴い、自ずと学びとなることが、成果として挙げられている。喜びを伴う学びこそが、次世代にモノの価値を伝え、モノを守る戦いを持続可能なものにする。学びを望む人であれば誰にとっても必要なモノ(資料)や情報を提供するために、人手や資金を集め、戦い続けるムーブメントを博物館は仕掛けていかなければ、という強い意識をもって、大野教授は、レジスタンスを試みようとしている。その仕掛けが「貝体新書」や「三葉虫」のワークショップである。
以上のようなことから、ゴーギャンの問いの答えを求める誰もが、望めば学習できる場であるという趣旨で、大野教授は、博物館が我々全人類の叡智を集結した場であり、全人類にとって学びの場であることを、私たちに示した。そのような大きな志で、生涯教育と生涯学習へ対する博物館学の立場から講演は展開し、原点から生涯学習を考え直す際に、いよいよ「知のセンターである大学博物館の出番」ではないかという提案を込め、大野教授は博物館の意義について、次のように述べた。
博物館は「地域における生涯学習推進のための中核的な拠点」であり、また、個人の自己実現を支援する機関である。あらゆる分野のモノ(標本)が集まる大学博物館において、モノ(標本)をどのように展示して活用するか、が課題である。
 例えば、マンモスの牙といった同じ標本(モノ)を、「古生物学」の分野からとらえると「進化の生き証人」である一方で、「薬学」の分野からとらえると「鎮静剤(漢方薬)」となる。標本(モノ)の意味は、展示する側の意図を読み取る鑑賞者のとらえ方によって、価値を成す。鑑賞者が標本(モノ)から情報を読み取る力も試される。大野教授は、幕末の京都・二条城付近の公家町周辺の古地図のスライドを我々に示し、「二条城に葵の紋が無いのは何故?」と問いかけた。幕末、倒幕の気配が漂う京都の地図に、徳川家の家紋が入っていないのは、当時の徳川幕府に人気がなかったことが伺える。モノを見て、「なぜか。」と自問することによって、標本(モノ)が面白いものになっていく。自問し、探究することに喜びを見出す学習者にとって、資料(モノ)は、生涯教育の資源といえる。大野教授は、古生物学の資料(モノ)として「三葉虫の化石」を題材に、子どもたちが化石に触れる機会を設け、標本(モノ)との出会いに感動を与える仕掛けづくりの実践も行っている。
 「さて、生涯学習は本当に可能であろうか。」という問いかけから、生涯学習の可能性について述べるあたりが、科学者らしいという印象をもった。大野教授は「脳の発達と生涯学習・生涯教育」に関する研究を紹介し、言語獲得や音楽的才能を開花させるために適した年齢はあるにせよ、脳は柔軟性をもっていて使用に応じて脳の変化は起きることを示した。新しいことを学んだとき、脳に損傷がおきたとき、体に損傷が起きたとき、脳の神経系は、変化する状況に応じて適応し続ける能力をもつ。使うことで、脳は鍛えられるものなのだ。その一例として、ロンドンのタクシードライバーの脳は、海馬後部が一般人に比べて大きく、ドライバーとしての経験年数に比例して増大するという。そのことからも、生涯を通して、刺激を与えることで脳は成長するといえよう。
 脳の発達が経験によって変化し、成長する力が備わっている一方で、学習者の態度のあり方が効果を左右する。生涯学習に限らず、学習活動全般に対する、学習態度のあり方は次のように三つに大別できることを大野教授は示した。
① 受身的
② 能動的(博物館ではこれが望ましい)
③ 啓発的(自発的学習態度がないと、啓発されないかも。)
博物館を舞台とした学習においては、能動的な学習態度が望ましい。博物館における能動的な学習態度について、大野教授はラジオのチューニングのアナロジーを用いて次のように説明した。耳を研ぎ澄ましながらラジオのダイヤルを丁寧に廻して、お目当ての局や番組にたどり着いた時の感動こそが、能動的な情報の受け手をつくる。博物館における理想的な生涯学習者は、ラジオのチューニングを試みる時のような、好奇心というスイッチが入った状態の高感度の受け手であることが望ましく、感動体験こそが、次の学習を促すといえる。
反対に、受身的学習の危険性について言及するために、大野教授は、米国国防省の心理学を用いた兵士養成のシステムを紹介し、次のように説明した。
戦場での兵士の選択肢として〈①武器を持って闘争。②武器を持って威嚇。③逃避。④降伏。〉の四つが挙げられ、望ましいのは①の武器を持って闘争する兵士である。しかし、第二次世界大戦において、前線の兵士の多くが自分の武器を使わず、さらに、敵機を追撃したパイロットはごくわずかな存在であったことが明らかになった。そのことから、より多くの兵士が武器を持って闘争するために、どのように兵士を養成するとよいかが研究されたという。多くの兵士が武器を持って闘争するときに、殺人者になるという罪悪感を伴い、躊躇する。罪悪感が、兵士にとって望ましい行動の妨げとなる。そこで、兵士の罪悪感を分散させるため、権威者からの命令であるという「権威者免責」や、集団的組織的な活動であるという「集団免責」に、責任を分散させることが有効ではないかという仮説が立てられたことや、権威者の要求に対して人はいかに反応するかを研究したミルグラム実験を大野教授は紹介した。人間がいかに権威者の指示に従い易い心理をもっているか、心理学に基づいた兵士養成のプログラムを紹介した大野教授は、受身的な態度で学習することがいかに危険かを示唆した後にベトナム戦争の帰還兵士たちの受けた心理的ダメージについて、言及した。そのことから、教育に携わる私たちが学習者をどのように育てていくか、その内容によって、未来の行方が大きく変わっていきそうな怖さを感じた。そして、大野教授から、教育に対する期待感と熱い使命感を受け取ったような気持ちになり、能動的な学習者を育てる責任感を抱かせる話であったと感じられた。
さて、効果的な学習といえば、オペラント条件付けがよく知られている。空腹のネズミが箱の中のレバーを偶発的に押し、食べ物を得るが、何回か偶然が重なるうちに、レバーを押せば食べ物を得られることを学習するという実験である。環境に自発的に働きかけた結果、生じた環境刺激の変化によって、一定の安定した反応率が生じるというもので、望ましい環境刺激は「強因子」とも呼ばれ、条件付けの因子となる。それをふまえ、博物館での学びが起こるとき、モノ(資料・標本)を見て、自分自身で発見している自分に出会える喜びこそが「強因子」となることを示した大野教授は、効果的な学習者を育成するために、次のようなサイクルを示した。
まず、鑑賞者は今までの体験・知識を伴って、標本(モノ)を観察し、推理する。推理の後に、専門的な知識などから確認を行うことで、自分の力で広げた知識がさらに広がる。新たに獲得したその体験・知識を伴って、私たち鑑賞者は、また新たにモノ(資料・標本)を観察し、推理し、確かめる。そのサイクルは、観察し、仮説を立てて、実証していく大学の研究と同じ行程ではないだろうかと大野教授は私たち学習者に投げかけた。
博物館において能動的な学びの起こる条件として、ある日突然、それまでの点在していたものが線でつながり、ひとつの形になってあらわれる瞬間の、その興奮が「強因子」となることが挙げられる。そのような「強因子」を促す学習プログラム開発に携わる大野教授は、博物館における「自発的学びを起こす教材づくり」のひとつとして、小学5年生を対象にしたワークショップ「三葉虫を調べよう」を提案し、実践している。幾重にも練られた教材は、より効果的な学習プログラムを構築するために評価作業を導入し、子どもたちの声をプログラム改良に生かしていることも教わった。
子どもたちは、三葉虫の化石を観察し、様々な発見をする。自分たちの発見したことを根拠に、対話を通して推理する。推理したことを発表し、各自で発見したことを共有する。その後、専門家による解説により仮説や推理の内容に関して確かめることで、新たな発見をなしえた新しい自分になれる喜びが感じられる。その過程を大切にした学習プログラムは、対話による学びの楽しさを味わいながら、五感や経験、推理を共有するコミュニケーションによって学びの深みを体験できるもので、誰にでも学ぶ機会が開かれているものといえる。
ただ、参加者の満足度の高さには、プログラム開発側の用意周到な教材パッケージが必須である。大野教授の開発プログラムには、シナリオブックやパワーポイント教材、手で触れて確かめることのできる模型などの補助教材等、教材パッケージが設けられている。「貝体新書」や「三葉虫を調べよう」の学習プログラム参加者は、「眼からうろこの体験。今まで蓄積されたものがつながっていく感じ。」と自分自身の蓄積した経験への肯定的評価を感想にもち、また、「主婦の観察力も捨てたものではない。」と、探究能力の肯定的発見を感想にもつ体験者もいる。そして、「みんなで話していたら、だんだん気づいていけるようになった。」とコミュニケーションの意味を発見する人もいる。さらに、「貝は、実はすごい生命のシステムを身につけていることを家族に話した。」という事後調査から、対象への深い興味への生起が伺える。
博物館の展示が学びにつながるだろうか。鑑賞者が能動的であったとして、展示されているモノ(資料)を見て、果たして誰もが学びにつなげられるのか。同じものを見ても受け取り方は人によって様々、多様であることを前提に、展示について考えるため、大野教授は問題提起を行った。博物館の展示が、生涯学習の学びにつながることの要因として、次の2点を挙げた。
1. 個々の人の認識には根元的な共通点がある。
2. 人が展示に興奮や楽しさを感じられる。
認識の根元的共通性とは、どのようなことだろうか。私たちは、大野教授から二つの形を示された。一つは、星形のように先の尖った形で、もう一方は、ヒトデのように先の円い形である。「Bouba」と「Kiki」と名付ける場合、どちらの形に当てはめるだろうか。私たちは挙手を求められ、先端の尖った形に「Kiki」の多くの手が挙がった。大野教授は、少数派の人たちは創造性が豊かであることを添えて、多数派によって示されているのが「認識の根元的共通性」であり、形と音とを関連させ、認識する感覚には言語環境を超えて、共通性があることを説いた。
では、美術館で展示物を美しいと思わせることは可能だろうか。いよいよ、講演「脳美学 ~人はなぜ美しいと感じるのか~」の本題に近づいてきた。
大野教授は生物学の立場から、美の定義として「高度な機能性を備えているものは、つねに高い美的感動をよぶ。」ものとし、「デザインは、美と用をふまえた造形」であり、「美の要素と、機能の要素が一致する」ところに、ヒトに美しいと思わせる手法があると述べた。それは、自然界にも見受けられる不思議な現象にも示されている。ニワシドリが同じ色のものを選び、規則性をもって配置することで巣作りを行う現象には、自然界にプログラムされた機能と美の秘密が隠されているのではないだろうかと問われた。
大野教授は「デザインの美的要素」として、1964年発行の『ダイナミック・デザインの教育』を引用し、以下の7つの美的要素を紹介し、さらに、インドの神経美学の提唱者・ラマチャンドランの思考と関連付けて、美についての経験・鑑賞を脳の機能や精神状態レベルで研究する分野があることを、私たちに示した。
『ダイナミック・デザインの教育』に挙げられている「美的要素」は、美術教育のなかでも親しみのある概念ではあるが、ラマチャンドランの9つの法則については、難解なものもあり、私自身、十分に理解できたとは言えない。大野教授がラマチャンドランの原書の著書を見せてくださった。
まず、デザインの教育より、七つの美的要素を挙げ、次に、ラマチャンドランの9つの法則について列挙する。

1. プロポーション(つりあい)→全体と部分の割合が感覚的に平衡を保つこと。
2. リズム(律動)
3. エンファシス(強調)→ものに中心的迫力を与えるために強く表現すること。
4. コントラスト(対照)
5. ハーモニー(調和)→性質の同じもの、似通っている様々なものを配置したとき、互いに誘引し共鳴いあって、そこに統一された穏やかな効果が表れてくる。
6. シュパンヌグ(緊張)→互いに干渉しあって、我々に強く働きかけてくる力、動き、方向などの美的感覚。
7. バラエティ イン ユニティ(変化と統一)

 
1. グループ化
2. ピークシフト
3. コントラスト
4. 単離
5. いないいないばあ、もしくは知覚の問題解決
6. 偶然の一致を嫌う
7. 秩序性
8. 対称性
9. メタファー

 ラマチャンドランの神経美学とは、神経学と美学を融合させたもので、美についての経験や鑑賞を脳の機能や精神状態のレベルで研究する分野で、審美的判断や芸術創造と脳との対応を探るものである。方法論として、普遍的な法則ないしは原理によって導かれているかどうか、論理的理由づけが挙げられ、ヒトの体験と、関与する脳の特定の部位を結びつけて、ヒトの反応の起源を特定することができるものとする。
 神経美学の法則のひとつ「グルーピング(配合)」は、「リズム(律動)」に対応するものとして紹介された。葉に覆われた茂みのなかに、ライオンが潜んでいることを見つけられるか否か、自然界ではその察知力が生死を分ける。隠れているものを見出し、「読めたぞ!」と驚きをもってグルーピングが起こるやいなや、脳内の多数の細胞群が、それまでは個々の部分の信号を発信していたにもかかわらず、一連の信号のピーク(スパイク)が完全に同期となるという。
 また、神経美学の法則のひとつ「ピーク・シフト」は「エンファシス(強調)」に対応する。強調(誇張)した表現に対するとらえ方は、アブストラクト・アート(抽象表現)に成立基盤を与える可能性もあるという。また、「エンファシス(強調)」に対応するもうひとつの神経美学の法則「アイソレーション」は、単独の情報源(色、形、動き)を強調するもので、他の情報源をわざと抑制し、消し去る。このことは「ピーク・シフト」と矛盾する。「ピーク・シフト」では、誇張が重要であったことに対し、「アイソレーション」では控えめが重要であるという。線描スケッチを行う際に、脳で視覚情報の処理の初期段階を司る一次視覚皮質が、線のみに注意を払い、全ての注意力を輪郭に向けることができる。逆に、輪郭をなくすことで、色に集中できるよう、強調することもできる。
 神経美学の法則「メタファー(隠喩法)」に関する話は、インドのシヴァ神の彫刻を見たロダンのエピソードが紹介された。シヴァ神の姿を「宇宙だ!」と読み取ることで、不可思議な彫刻が一瞬で、神秘の象徴となり、世界観が変わる。
 博物館展示で学びは起こるだろうか。大野教授は、「みる、考える、話す、聞く」の4つを基本とした対話型美術鑑賞教育プログラムACOP(Art Communication Project)の方法に、効果的な学びの可能性を見出している。美術史的な知識だけに偏らず、鑑賞者同士のコミュニケーションを通して、美術作品を読み解いていく鑑賞方法には、ハウゼンの提唱する美的発達段階が見出せる。その5つの発達段階について、学習者の成長を促し、仕掛けていく立場にある授業者は心得ておく必要があるだろう。しかしまず、博物館において展示物と対話することが楽しいという体験を、味わう機会を設けることが学びにつながる。意味が分かる前に楽しむこと、会話ができるようになるまで遊ぶことが、生涯を通した学習につながるのである。

対話による鑑賞
 講演の後、グラントワ内の展示会場に移動し、「対話による鑑賞」体験を味わうこととなった。ナビゲーターを務めたのは、山口県からお越しの津室和彦さん(小学校教諭)である。みるみるの会は、2月上旬に、山口県立美術館主催の企画に招かれ、学校教育関係者を対象に実践報告を行った。その会の参加者の一人であり、山口県内でも「対話型鑑賞」の実践者である津室教諭が、この度の大野教授の講演会のためにグラントワに訪れることから、交流を兼ねてナビゲーター役を依頼したという経緯である。講演の聴衆者とともに、展覧会場を歩き、二枚の油彩画がかけられている場所に、集うことになった。
 作品は、島根県内の油彩画普及を牽引した山崎修二によるもので、そのことを一目で分かる鑑賞者もいれば、知らない鑑賞者もいるなかで鑑賞会は始まった。二十数名の観覧者は、十代から七十代まで幅広い年代が揃った。
 まず、右側の作品について、木々の伐採された断崖を背景に、手前に藁ぶき屋根の建物や畑が見えることが話題になった。背景の山の斜面が画面の三分の二を占めている20号前後の作品は、全体的に橙みを帯びた土色の画面であるが、手前の建物や畑の様子から、人の暮らしの気配が伺える。建物の屋根から日本の田園風景のようで、きっと山陰の山村の風景ではないかなど、画面に描かれている様子を根拠に話し出す方も話はじめ、盛り上がった。右側の絵について全体の雰囲気や色彩について述べられ、描かれているものの様子にも話題が十分に展開された後に、津室さんのファシリテートで左側の作品に話題が移った。
その右側の絵に対し、左側の作品は一見、外国の街角のようにも見える。壁は青緑に塗られ、二階建てである。しかし、よく見ると漁村の一角のようでもある。鑑賞者の一人が、Y字路になった街角の奥のほうに見えるのは木戸であり、強風に耐えうる建物が所狭と立ち並んだ日本の漁村ではないかと述べた。左右の画面の色や建物の特徴を比較し、二枚の画面を比べてみるような展開にもなった。
 津室さんのファシリテートは鑑賞者から出てきた話題を要所でまとめ、全体に返す形で円滑な展開で進んだ。話題が弾むなか、「懐かしい。」と画面の雰囲気から既視感を述べる方も現れ、「修二さんの絵ではないか。」と話題にする鑑賞者も現れた。
 二十分程度の対話のなかで鑑賞者の発話は絶え間なく、画面の様子を根拠に考えていることや感じたことを述べる鑑賞者の話を聞くうちに、次第に作品の魅力が伝わってきた。鑑賞会が終了した後、右側の作品の手前に描かれているのは炭焼き小屋ではないか、と口にする方もいて、言ってみればよかったかな、とおっしゃっていたのが印象的だった。場合によっては、発言していない鑑賞者に無理なく発言を促すことで新たな発見を共有できる可能性があることが分かった。

終わりに
 講演を聞いた後に、対話による鑑賞を体験し、改めて、話を聞きながら自分の感じ方が変容し、思考が揺さぶられ、自分で作品の魅力を発見した喜びを味わうことができた。
研修会の参加者のみなさんから研修会の感想を記述していただいたので紹介する。

・絵から感じることを、それぞれの立場で意思表示をすることは、とても面白いと思いました。自分では表現できないけれども、聞きながら楽しみました。
・対話型鑑賞が、美術だけでなく、ものごとのしくみなどを考えるために有効であることを知りました。
・ここで、ラマチャンドランと再会できるとは驚きでした。以前、身体の部分を失った人が、無い部分の感覚を有することに関する研究者として、紹介されていたことを思い出しました。
・対話型鑑賞教育で、まずは学習者の能力を引き出し、学ぶ喜びを見出させることは、とても大切だと講演で再認識しました。
・よりよく生き、より豊かに生きるために、五感から入る情報を、やりとりのなかで、新しい発見や確信を得る行為は、「美術」のジャンルにとどまらないと思いました。
・自分の予想や期待をいい意味で裏切り、発見することを楽しめる資質を養うことから、はじめることも必要だと感じました。
 
 好奇心を備えた鑑賞者として、博物館の資料をみて楽しむばかりではなく、その楽しさを伝える一員として、鑑賞者の発見を促すファシリテーターの技術を磨くためには、鑑賞者の発言を受け、鑑賞者の一人として、発言者の趣旨を損なわない言い換えを試みることが求められるように思う。
 大野教授の講演を聞いて、鑑賞教育のための教育プログラム開発について、大野教授の惜しみない情報提供に、励まされた。もし、可能であれば、美術教育に関わる教材開発に私も携わる機会があればと考え、教育機関で働く日々である。喜びをもって発見できる出会いを、仕組みたい。
 私にとっては、ラマチャンドランとの出会いは初めてのことであり、つい最近のことではあるが、著書を読むことにした。


参考文献
・『脳のなかの天使』(V・S・ラマチャンドラン 山下篤子 訳   角川書店)
・『脳のなかの幽霊』(V・S・ラマチャンドラン サンドラ・ブレイクスリー  角川書店)


                             2013.6.27
コメント (1)
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