5日に県の道徳教育夏季研修会に参加しました。講演講師は秋田公立美術大学の毛内嘉威(もうない よしたけ)先生でした。演題は「道徳教育の充実を目指して」~特別の教科・道徳の動向を踏まえて~というものでした。毛内先生は小学校教員の経験もお持ちで文部科学省「学習指導要領の改善に関する調査研究協力者会議委員」でもあります。その豊かな経験を踏まえて、午後の睡魔に襲われる時刻に研修者が集中を切らさない工夫も盛り込んだ実に有意義な講演でした。(この講師先生の配慮も道徳的といえるのではないかなあ・・・。などと考えていたのは私だけでしょうか???)
また、最初に私が「?」と思ったのは、美術大学の先生なのに「道徳?」というところです。実際のところ先生も「うちの大学で美術を教えないのは私だけです。あとの人はみんな美術の先生。」と講演の中で話されました。もちろん美術大学だって一般教養はあるだろうから道徳の先生がいるのは不思議でもないことですが、美術大学に在って、道徳を専門としているというところに異色な感じと美術と道徳になにか特別な関係があったりするのではないかと思い、講演に興味をもちました。
道徳の「教科」化については世間を賑わしています。確かに近年の「いじめ」問題やSNSなどを利用した誹謗中傷事案や出会い系による殺害事件等は後を絶ちません。日本人の道徳性を問われるような出来事が社会問題となっていることは憂慮すべきことだと思います。また、地域の教育力が衰えていることも事実です。近隣の方との交流は街が都会化するにつれて希薄になり、躾に厳しいおじいさんやおばあさんの姿も見られなくなりました。このような状況にあって、子どもたちの道徳心を育んでいくことを考えた時、「学校で教える」ことが求められるのは致しかたのないことなのかもしれません。毛内先生が講演の中で「家庭や地域で教えられないことを教えるのが学校です。」とおっしゃられました。都会だと学校外でいくらでも学力を伸ばすことができます。大学入試があるから高校へ行っている生徒も少なくはないでしょうが、高校に意味を感じない子どもはいわゆる大検(現在は高等学校卒業程度認定試験)をパスして大学入試に臨み、難関校に合格するという実態があることからもわかります。他にも公立学校よりも私立学校に人気があるのがなぜなのかを考えた時にも、公教育の果たす役割が都会であるほど「基礎的な学力を身に付ける」場所からシフトしていることがみえてくるのではないでしょうか・・・。
私はこの講演を聴くまで、道徳の「教科」化については大きな不安がありました。しかし、子どもたちを取り巻く環境の中で道徳心を喚起させることができないのであるならば、現状の教育システムを変更していかなければならないのではないかという発想は起るだろうと考えられます。従来の在り様では不十分だと言われても反論のできないような社会的事象がひっきりなしに起こっているのですから・・・。確かに地域格差はあると思います。私たちの住む島根県では一部の地域を除けば3世代同居も珍しいことではないですし、近所付き合いもまだまだ残っています。高齢の方から様々なことを学ぶ機会にも恵まれています。しかし、私たちが子どもの頃と大きく違っていることは情報量と情報伝達速度です。どんなに田舎に住んでいても都会でいや世界で起きていることを瞬時に入手できるし、その情報量も入手先も多岐に渡れます。そこが大きな違いで、子どもたちは情報の波にさらされながら、目の前にある暮らしとのギャップに折り合いをつけながら生きているのかもしれません。そんな中で道徳心を養うとしたら、従来の道徳では不十分だから「教科」にして、「評価」もして、という動きになることを否定できない側面があるということがわかりました・・・。本当に「教科」になるのかは文部科学省の最終判断を待たなければなりませんが、そういう時代が来ているのかもしれないと感じました・・・。
また、一方で、「?」の謎も解けたような気がします。「美術」は「美しいと感じる心」を養う教科です。「感性」とも呼ばれます。「美しい」ものには様々なものがあります。それは作品のみに限りません。美術作品の鑑賞を行えばその作品の表面的な美しさのみならず、内面に込められた意味の奥深さに気付かずにはいられません。それらを含めてその作品の持つ美しさであったり、感動をよぶものであったり、価値であるから、人の心を揺さぶるのであるということに気付きます。私たちの実践する「対話型鑑賞」は根拠をもとに語り合います。そしてナビゲーターは「どこからそう思うのか?」「そこからどう思うのか?」を繰り返し尋ねることで鑑賞者に揺さぶりをかけます。道徳の授業でも「揺さぶり」が大事であること。自分の考えの根拠や真意を確かめながら問題意識や本音を引き出すような工夫が必要であると毛内先生は話されました。私たちは作品を生徒と鑑賞しながら、美術作品を通して道徳教育も行っている感覚によくとらわれます。松本竣介の「立てる像」を鑑賞すれば、生徒は戦争について語り、未来に向かって決意している姿を感じ取ります。そこには美術の価値のみならず道徳的な価値にも気付いているという手応えがあります。
道徳も美術と同様にひとの感情に訴えることが重要です。心が揺さぶられるから道徳的な価値が自分の中に落ちていくと思います。美術で作品を鑑賞する時も心が揺さぶられ、感じることがあるから感動するのです。それを「感性」と呼ぶのであれば、「感性」の教育として「道徳」と「美術」は共通項をもっていると思いました。
最後に、何の因果か、いや、上記のような根拠からでしょう、出雲市中学校道徳部員には美術の先生がなんと3分の1も占めていたことを申し添えてレポートを終えたいと思います。
がんばろう!!美術教師!!
また、最初に私が「?」と思ったのは、美術大学の先生なのに「道徳?」というところです。実際のところ先生も「うちの大学で美術を教えないのは私だけです。あとの人はみんな美術の先生。」と講演の中で話されました。もちろん美術大学だって一般教養はあるだろうから道徳の先生がいるのは不思議でもないことですが、美術大学に在って、道徳を専門としているというところに異色な感じと美術と道徳になにか特別な関係があったりするのではないかと思い、講演に興味をもちました。
道徳の「教科」化については世間を賑わしています。確かに近年の「いじめ」問題やSNSなどを利用した誹謗中傷事案や出会い系による殺害事件等は後を絶ちません。日本人の道徳性を問われるような出来事が社会問題となっていることは憂慮すべきことだと思います。また、地域の教育力が衰えていることも事実です。近隣の方との交流は街が都会化するにつれて希薄になり、躾に厳しいおじいさんやおばあさんの姿も見られなくなりました。このような状況にあって、子どもたちの道徳心を育んでいくことを考えた時、「学校で教える」ことが求められるのは致しかたのないことなのかもしれません。毛内先生が講演の中で「家庭や地域で教えられないことを教えるのが学校です。」とおっしゃられました。都会だと学校外でいくらでも学力を伸ばすことができます。大学入試があるから高校へ行っている生徒も少なくはないでしょうが、高校に意味を感じない子どもはいわゆる大検(現在は高等学校卒業程度認定試験)をパスして大学入試に臨み、難関校に合格するという実態があることからもわかります。他にも公立学校よりも私立学校に人気があるのがなぜなのかを考えた時にも、公教育の果たす役割が都会であるほど「基礎的な学力を身に付ける」場所からシフトしていることがみえてくるのではないでしょうか・・・。
私はこの講演を聴くまで、道徳の「教科」化については大きな不安がありました。しかし、子どもたちを取り巻く環境の中で道徳心を喚起させることができないのであるならば、現状の教育システムを変更していかなければならないのではないかという発想は起るだろうと考えられます。従来の在り様では不十分だと言われても反論のできないような社会的事象がひっきりなしに起こっているのですから・・・。確かに地域格差はあると思います。私たちの住む島根県では一部の地域を除けば3世代同居も珍しいことではないですし、近所付き合いもまだまだ残っています。高齢の方から様々なことを学ぶ機会にも恵まれています。しかし、私たちが子どもの頃と大きく違っていることは情報量と情報伝達速度です。どんなに田舎に住んでいても都会でいや世界で起きていることを瞬時に入手できるし、その情報量も入手先も多岐に渡れます。そこが大きな違いで、子どもたちは情報の波にさらされながら、目の前にある暮らしとのギャップに折り合いをつけながら生きているのかもしれません。そんな中で道徳心を養うとしたら、従来の道徳では不十分だから「教科」にして、「評価」もして、という動きになることを否定できない側面があるということがわかりました・・・。本当に「教科」になるのかは文部科学省の最終判断を待たなければなりませんが、そういう時代が来ているのかもしれないと感じました・・・。
また、一方で、「?」の謎も解けたような気がします。「美術」は「美しいと感じる心」を養う教科です。「感性」とも呼ばれます。「美しい」ものには様々なものがあります。それは作品のみに限りません。美術作品の鑑賞を行えばその作品の表面的な美しさのみならず、内面に込められた意味の奥深さに気付かずにはいられません。それらを含めてその作品の持つ美しさであったり、感動をよぶものであったり、価値であるから、人の心を揺さぶるのであるということに気付きます。私たちの実践する「対話型鑑賞」は根拠をもとに語り合います。そしてナビゲーターは「どこからそう思うのか?」「そこからどう思うのか?」を繰り返し尋ねることで鑑賞者に揺さぶりをかけます。道徳の授業でも「揺さぶり」が大事であること。自分の考えの根拠や真意を確かめながら問題意識や本音を引き出すような工夫が必要であると毛内先生は話されました。私たちは作品を生徒と鑑賞しながら、美術作品を通して道徳教育も行っている感覚によくとらわれます。松本竣介の「立てる像」を鑑賞すれば、生徒は戦争について語り、未来に向かって決意している姿を感じ取ります。そこには美術の価値のみならず道徳的な価値にも気付いているという手応えがあります。
道徳も美術と同様にひとの感情に訴えることが重要です。心が揺さぶられるから道徳的な価値が自分の中に落ちていくと思います。美術で作品を鑑賞する時も心が揺さぶられ、感じることがあるから感動するのです。それを「感性」と呼ぶのであれば、「感性」の教育として「道徳」と「美術」は共通項をもっていると思いました。
最後に、何の因果か、いや、上記のような根拠からでしょう、出雲市中学校道徳部員には美術の先生がなんと3分の1も占めていたことを申し添えてレポートを終えたいと思います。
がんばろう!!美術教師!!
断定的すぎる。