ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

ACOP 2回目のレポートが金谷さんから届きました!!

2015-01-31 19:45:46 | 対話型鑑賞


みるみる会員の金谷さんが参加していたACOPの2回目のレポートが届きました。ちょっと、旬は逃してますが、でも、VTS日本語訳「学力をのばす美術鑑賞」に併せて読んでいただければ、対話型鑑賞の核心が分かると思います。

では、どうぞ・・・。

みるみるの金谷です。11月30日に、京都造形芸術大学のACOP鑑賞会(第2回目)に参加してきました。その様子をレポートします。

 今回も4つの作品をみることができました。1作品目は「メイヤー・シャピロの肖像」(ジョージ・シーガル/メトロポリタン美術館蔵)です。ナビゲーターはなんと、みるみるの会の研修会でもお世話になっている、アート・コミュニケーション研究センターの北野さんです。スクリーンに映し出されたのは、ごつごつした青い壁から、西洋人っぽいおじいさんの上半身が半分出ているような、(背面が)埋まっているような不思議な立体作品でした。人物の顔と体の前で硬く握られた両手は、人の肌の色に近いのですが、それ以外のジャケットやシャツはバックの壁と同じ青い色。
私は、この作品をみて最初に、悲しみを味わっている人のように思えました。作品全体を覆う青と、人物の表情と手の様子から悲しみを感じ、また背後の壁から出てくるのでもなく、また埋もれるのでもないような感じから、この場に留まり今を感じ、味わっているようにみえたのです。他のみなさんからは、「口元が微笑んでいるから安らかな感じがする」「地球を征服に来た、宇宙人ジョーンズみたい」「埋もれていたのを掘り起こされたみたい」等々、また、この人物が時間や空間を行き来しているようだ、というような意見も出されました。
自分の考えとは違う意見を聴き、それらをふまえたりふまえなかったりしながら、自分はどう思うのか、そしてその根拠はなにか?とまた自分に問いかけていたら、もう脳味噌が沸騰しそうでした。ナビから、「この人の職業は何だと思われますか?」というような投げかけがあったときも、「何か、この人先生っぽい感じがするんだけど、その根拠となるものを言葉に出来てないーぃ。くぅーっ。もっと、みるんだぁ」と、密かにもんどりうっておりました。
北野さんのナビは、軽快でテンポもよく、とても楽しいのですが、なるほど!という情報とともに、それをふまえてどう思いますか?というなかなかヘビーな問いかけが、ドカーンとくるので、やっぱり脳味噌が沸騰してしまいます。鑑賞って、奥深くて、おもしろくて、はまっていますが、時に自分の底の浅さまでみえてしまいますね。
 家に帰ってから、埃をかぶっていたシーガルの画集を手に取りました。「メイヤー・シャピロの肖像」も載っていました。けれども、今までは意識してみていませんでした。でも、今は、私にとって特別な作品のひとつです。

2作品目は、「クリスティーナの世界」(アンドリュー・ワイエス/ニューヨーク近代美術館蔵)です。
この作品、じつは、みたことがあります。以前みた時の情報が、自分のなかでそわそわしていて、ちょっとへんな感じがしていました。集中的にみるところが、拡大されたりしているのに、素直にみれていない自分がいました(今思うと、すごくもったいない!)。その作品に関する情報は持ちながらも、ちょっと脇に置いといて、作品を素直にみたり、話を素直に聴いたりするのが、(今更ですが)やっぱり大事だなぁと思いました。これは、ナビをする時はもちろんですが、人とかかわるときにも自分の基盤にしたいと思っています。そのためにも、頭だけではなくて、からだで聴けるように、日々精進中です。

さて休憩時間に、お茶とお菓子をいただいて、リフレッシュ&糖分チャージ(脳味噌の栄養)!3作品目は「盲人の寓話」(ピーテル・ブリューゲル/カポディモンテ国立美術館)です。「あ、これなんかブリューゲルっぽい」というのが第一印象でした。そう思う自分に、「それで?」と突っ込む自分。我ながら惜しいなぁ、時代背景やどこの国の人なのか、もう少し知っていたらいいのにねぇ、と。でも、それがわからずとも、「この絵の中で、いったい何が起こっているの?」と、ぐいぐい惹きつけられる作品です。「巡礼中?」「もしかして、こけてるの?なんで?」と、妄想や疑問が膨らんでいきます。もっとみてわかりたい、よくみたい、あの服装は何を表しているの?と、目が貪欲にといっていいほどこの作品をみたがりました。他の方々から「これは風刺画では」という意見もあり、「私もそう思う!」とうなずきながら、この作品は何を表しているの?何を伝えようとしているの?と、より作品に迫っていく面白さを体感することができました!

最後の4作品目はアニメーションの1場面「シンプソンズ」(マット・グローニング)です。スクリーンにぱっと、このアニメの静止画像(TV画面をカメラで写した感じの画像)が映し出されたとき、正直「まじっ!?」と。まさか、アニメがくるとは思いませんでしたから。
シンプソン一家が、部屋の中でテレビらしきものを見ている画像なのですが、どことなく不気味なのです。一見家族でソファに座っているようにみえるけれど、ソファは無いし(空気イス状態)、テレビをただ見ているというよりも、超ガン見!・・・失礼しました。あの飛び出した目で凝視しているし、家族の間に会話やあたたかさなんて一切感じられない!そして部屋には窓も無し!なにコレ!?
先ほどの3作品目は、目の不自由な方々が描かれていたけれど、このシンプソンズ、目はやたら大きいが、いったい何を見ているのやら・・・。対話をするなかで、情報の受け手としての自分たちの在り方にまで話が進んでいきました。一人でさらっと見ていたら、こんなところまで考えが及ばないな、と改めてそう思いました。そして、対話型鑑賞は守備範囲が広いなぁと思うとともに、よくこの素材(画像)をみつけてこられたなぁと、頭が下がる思いがしました。

今回は、言葉になりそうで、ならなくて、発言を聴いて「そう!うちも、そう云いたかったんさ」と、激しくうなずいてしまうことも、しばしば。ふと、この第2回鑑賞会を振り返ると、思っているのに言えなかったこともたくさんあったなぁと。そして、その裏には「なんか、いいこと言いたーい!」「かっこいいとこ、見せたーい!」なんて、下心があったのでは(と、自分で書きながら恥ずかしくなっています)。だからこそ、頭も体もかたくなって、素直にみたり、聴いたり、話したり、考えたりできないところがあったのかもしれません。

次回(12月14日)はいよいよ第3回目、ラストACOP2014です。頭と体とこころをほぐして、作品はもちろん、ナビをはじめとする学生のみなさん、一緒に鑑賞するみなさんとの出会いを楽しみたいです。どうぞよろしくお願いします。

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みるみると見てみる展 1回目ナビの金谷さんからのレポート到着です!!

2015-01-28 20:26:37 | 対話型鑑賞


今回の「みるみると見てみる展」は当会の会員でもある廣田さんの企画展示になっています。廣田さんなりのシークエンスがあるようですが、そこにしばられ過ぎると自分のナビを見失うのではないかと思います。

初回のナビを担当した金谷会員からレポートが早速届きましたので、お届けします。


「みなさーん!今年も、『みるみると 見てみる?』の季節になりましたよー!」
っと、失礼しました。「みるみると 見てみる?」とは、島根県立石見美術館で開かれているコレクション展「あなたはどう見る? -よく見て話そう、美術について-」の関連イベントのことです。展示室で、お客様と一緒に対話をしながら作品を鑑賞します。今年度第1回目となる1月25日に、ナビゲーターをさせていただきました、みるみるの金谷です。鑑賞会の様子と、その後のふりかえりについてレポートします。

「みるみると 見てみる?」
・平成27年1月25日(日)13:30~14:10
・島根県立石見美術館 展示室Aにて
・鑑賞作品(数字はキャプションの番号) 1「若い女性の肖像」ラファエル・コラン(1889)、 2「裸体」黒田清輝(1889)、 3「裸婦」中村不折(1900~1920頃)、 4「裸婦」大下藤次郎(1897)、 5「裸婦」大下藤次郎(1897) 
・鑑賞者 一般参加者3~7名、みるみる会員5名
・ナビゲーター 金谷

鑑賞会の様子

はじめに、この鑑賞会のルールと大切にしたいこと「よくみること」、「よく考えること」、「挙手して(あてられてから)話すこと」、「他の人の意見をよく聴くこと」について確認。(以下、ナ:ナビ、鑑:鑑賞者、(1)などは作品番号)

ナ「今日見ていただく作品は、これら(1~5)の裸ん坊の作品を見ていきたい」「まず、このふたつの作品(作品1、2)を見ていきたい」(近づいてじっくりみる時間を取る)

・1,2の作品について
ナ「この2作品をみられて、気づかれたこと。みつけられたことなど、どうぞ」
鑑「この辺りから見ると、右側の絵(1)は肌がきれい。でも、近くで見るときたない(あらい)。左側の方(2)も・・・」
ナ「近くと遠く見ると、また違うという感じですね」

鑑「右(1)は光が当たっていて、(肌の)白を強調するような描き方。左(2)は逆光で、別のものを狙っている。形がはっきりしているので、プロポーションの美しさを描きたかったのではないか。左は一つの画面を切り取ったような印象」

鑑「うなじという言葉はご存知ですか?昔の人は、うなじが美しさを見せるところだった。そういう面では古風だが女性の美しさを表しているんじゃないかと思った。」
ナ「古風とおっしゃいましたが、この作品は明治の後半に描かれた作品。(1は)うなじから背中にかけて輝くような美しさ、左(2)はプロポーションの美しさがあらわされている」

鑑「(1の女性は)向こうを向いているので、見えてないものを想像させるような感じ」
ナ「女性の象徴である乳房を隠していることで、より女性を意識させる」
鑑「(1の女性の)左の乳房はわざとらしい 無理やり寄せているような感じを受ける」
鑑「右の作品(1)はエロイ感じ。左(2)はそう感じない。一つの風景として描きたかったのではないか」
ナ「エロい感じがする(1は)、女性性を出していると捉える?」
鑑「ならば、右(1)のほうが風景という感じはする。左(2)はスケッチ会という感じ。(2は)風景というよりも、そのままを描こうとしている感じ」
鑑「右(1)は作品という感じがする。左(2)は筋肉のつき方とかを学ぶための習作という感じ」
ナ「左の作品(2)は作者がパリに行って人体を学ぶために描いたもの。人体の描き方、光と影を学んでいるときのもの。そこに違いがあるのかもしれない」

・3、4、5の作品について
鑑「1、2の西洋人のヌードは様になる。 東洋人のヌードは、特に3は裸で本を読むというのはあり得ない」

ナ「3、4は日本の女性。では他には?」
鑑「髪型とかからして、古い、明治、大正などの時代ではないか。その時代に女性が裸で絵をかかれるって大変なことではないか?日本の女性の裸を書いて人体の有り様を描きたかったのではないか」
鑑「裸で傘を持っている絵もある。違和感がある。生活のリアリティを描いたのではないとは思うが、もう少し考えてポーズをとらせても良かったのではないか」
鑑「左側の足(のデッサン)がおかしい」

ナ「この3点とも明治の終わりの作品。(作品)1から約10年後に描かれた作品。西洋の絵に学ぶ、まずは裸婦を描くということで学ぼうとした。そういう時代の作品」
鑑「生活のリアリティは体から現れる。左(3)は下半身が非常に力強い。生活感がある。4は両腕ががっしりしている。(体型から)まだ出産とかしていない。この二の腕で生活を支えていたのでは」

鑑「左の作品は紙?紙の方が肌の陰影がリアルに表現出来る」
鑑「2番は描いた当時はもっと明るい感じだったのではと想像する」
ナ「そこからどう思われますか?」
鑑「油彩なので、年月が経つと変わってくる」

ナ「もう一度1〜5を一まとめで見たときに違いや気づかれたことは何か?」
鑑「描き方について、1の絵はこの部分が凹んでいるように見える」

鑑「グラントワの作品の中から、この作品が選ばれた理由を考えると、西洋と東洋の裸婦ということで並べられたと思うが、それぞれの年代は?」
学芸員「並べてみて思ったのは、体の違いはこうもあからさまになるものかと思った。皆さんはどう思うか?」

鑑「額縁(の豪華さ)が違うので、日本の作品はハンディキャップがある」
鑑「体つきの違い、西洋は文化として裸の美しさを追求する文化がある。」
鑑「この水彩(4)が気になる。肘から下は日に焼けているから赤い。普段はモデルなんてするような感じではないのでは。西洋風の布をまとわされて恥ずかしい、体の姿勢からからも感じる。西洋のモデルは堂々としている」
ナ「シチュエーションはリアリティがないけれど、日焼けの跡や体つきから生活を感じることはできる。」
鑑「表情や仕草から、見ている私たちが恥ずかしくなっているのではないか。1、2は西洋のモデルで堂々としている。プロのモデル。東洋(3,4,5)は恥ずかしく思っているように感じられるので、見ている方が恥ずかしくなってくる」
鑑「トルソー的に胴体の美を描くのと、こういう全体の生々しい裸を描くのでは描く側に違いがある」

ナ「今回みた作品は、日本の裸婦の最初期の作品。今回裸の作品を見ていただくことで、裸になることの作品をみて、布をまとうこと、身にまとうことはどんなことなのかを考えるきっかけにしてほしい。この展示しつの中には、ファッションに関わる作品がたくさんあるので、楽しんでほしい」


鑑賞会後の振り返り (金:金谷、・みるみる会員の意見)
金)今日の私のテーマは二つ「よく聴こう」「情報を出せるところは出す」。
西洋の作品、東洋の作品 全体でという構成で展開することを想定していたが東洋の部分で行き詰るところがあった。
途中で「体つきの違い」についての提案があった。もっと体つきで迫っても良かったと感じる。
ナビが、ナビゲーションできていなかった。

・はじめに裸の作品と言ってしまったが、裸というキーワードは鑑賞者から出させても良い
・時代等に関する情報の提示の仕方は良かった
・西洋の方はスムーズだった。習作として描かれたものだということも言われ良かった。
・導入が流石だなと思った。最初の西洋の2点を比べる、右の端の1番はエロティシズムも感じるという意見など、面白かった。
・恥ずかしさ・違和感は何か・・・?
・スムーズにいきすぎて葛藤がなかった。正解を述べられている感じ。深く「どうなんだろう」と考えることがなかった。
・人間の感情を描く作品ではなかったと思う。
・今ここで「違和感を感じる」「恥ずかしい」などの議論が起こることがまちがっている。参加者の中に疑問を投げかけて、参加者が葛藤し、今出ているような意見をあの場で出させることがナビの仕事。
・初発のことに対して根拠を問うことはしなければならない。一つのことについて追求するする場がなかった。
・例えば紙のことに焦点が当たった時に、これまでのことを振り返って話してもらうなどの膨らませ方もあったのではないか。
・その発言がこの会でどんな意味があるのかを追求することが大切では?
・日本の裸を見ている時にバラバラと意見が出た。学芸員が入ることで比較する対象が整理されるといいなと思った。
・体つきを整理しても良かった。
・金谷自身が、東洋の女性の体つきに対する見解を十分に持ち合わせていないまま、ナビを行なっていたのではないかと思う。
・最後の「まとう・まとわない、この部屋には〜」は言わなくていいのではないかと思った。それは鑑賞者自身が思うこと。
・あのまとめで、そういう方向に持っていきたかったんだな、と思った。それに持っていくには今回のナビは遠すぎた。
・余裕がなかった。みんなに返して完結してしまうのが早すぎる。
・「私もナビですが、その疑問には賛成です」というのは良かった。だが、二人で対話が終わってしまっては、他のひとはおいてきぼり。
・視点を絞っても良かった。
・日本の絵は何を思って画家は描いたのかと思った。西洋は目的がはっきりしているから読み取りやすい。同じ時代に同じモチーフで描かれているのにこの違いはなんなのかを考えさせても良かったのか。
・作品リストにはどっちにも(3、4、5)「裸婦」である。画家は恥ずかしいと思う。モデルも、互いに恥ずかしい思いがある、それって日本人にとって「まとう」「はだける」のとらえにつながるのではないかと思う。
・日本でも裸の文化がないわけではない。風俗の一部として絵にした人たちと、裸を描くという人たちとはちがう。
・裸を描く方もモデルもいけないことをしているという意識があったのでは?
・キリッとした顔に見えた。モデルも覚悟が必要だった。
・今言っているような意見が、鑑賞会の場で引き出せたのではないか。
・わからないことを教えてもらうというスタンスで流せばよかったのでは?
・紙の話ももっと突っ込めば良かった。発言が早口でわかりにくいときは、周囲もわかりにくい。そこはパラフレイズする方が良い。
・それを小まとめすれば良い。
・始終笑顔で、雰囲気は話しやすかった。
・全体に返す時にフォーカシングする。そうしないと同じことの繰り返しになる。
・金谷は、なぜあの作品を選んだのか?
金)服をまとうと考えると裸がスタートだと思った。裸に対して語る機会はそうないので、やってみる価値はあると思った。
・美術ってなぜあんなに裸が多いの?と聞かれることがある。裸を描くことにも最初があった。
・切り口として「なぜ裸を描いたんでしょうね」ということもできた。
・日本の作品は胸が表現されていたが、西洋の作品は描かれていない。
・西洋と東洋の体を比べた時に見せ方が違うので比べようがないと思った。
・肉付き。骨格が違う。骨に合う服ということ。
・服に合わせて体つきが変わっていく。着ているものから分かる体の違い。


 
 今回の実践をふりかえりますと、ナビの基本がすっかりぶっ飛んでしまっていて、そんな自分がとっても残念。やっぱり、場数を踏むこと、そして日々どう人とかかわるのか(本当に、いま目の前の人を大切にしているのか)が、自分にとってカギになりそうです。と、すこしは落ち込んだりもするけれど、私は元気です(by KIKI)。
またまた、失礼いたしました。
「みなさーん!次回の『みるみると 見てみる?』は、2月1日(日)13:30スタートですよー。島根県立石見美術館へ集合!GO!GO!」


追伸:鑑賞会のはじめに「はだかんぼ」発言をしたのは、「裸婦」「裸」という硬くて高いハードルをぐっと下げて、空気とともにやわらかいものにしたかったからだと思います。


フィリップの書いたVTSの日本語版を読むと、VTSが何を目指しているのかが良くわかります。ナビは鑑賞者主体を忘れてはいけないと思います。そこがブレないナビができるよう今後も精進あるのみだと思います。

さて、みるみるのブログをご覧くださっている皆様の中に、教員免許状をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思います。私たちみるみるの会の名付け親でもある福先生のいらっしゃる京都造形芸術大学で免許更新の講習会が開催されます。専門18単位が3日間連続で取得可能です。
詳細は京都造形芸術大学HPに掲載されています。
VTS,対話型鑑賞に興味のある方は、ぜひご参加ください。

3月の免許更新の詳細は
http://www.acop.jp/news/2014/11/3-2.html

夏季休暇中の免許更新の詳細は
http://www.acop.jp/archives/2014/08/20143.html

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石見美術館でみるみると見てみる展の初回が開催されました

2015-01-27 21:52:33 | 対話型鑑賞


上坂会員から、所感が届いたので、ナビ当番だった金谷さんからのレポートの前に、お届けします。


昨日、一昨日と、素晴らしい時間をありがとうございました。

金谷さんのナビでは、裸婦について、たくさんのお話が聴けて、とても面白かったです。自分なりの裸婦についての見解を言葉にできるようになりたいなぁと、思いました。

金谷さんのナビによって、裸婦について、けっこうな大人数で(見知らぬ人も交えながら)あんなにおおらかに話ができたのは、改めて考えてみると、本当にユニークなひとときで、楽しかったです。

ナビの最初に金谷さんが、あっけらかんと「はだかんぼ」と言ったのは、もしかしたら、みんながそこはかとなく恥ずかしくて躊躇する心理的な壁を取り払う効果を狙ったのだろうかと、伺ってみたいなぁと、考えてみたりもしたのですが、いかがでしょうか。

裸婦について、みんなで見て話をするにあたって、全く恥ずかしがる必要ナシ!という雰囲気になったようにも思いました。


ミーティングの後、来週の私のナビ予習のため、房野さん、澄川さん、金谷さんと改めて展示室に入り、油彩の三人の女性像を観ました。

視線や姿勢、背景について、それぞれの作品に描かれていることがらについてお話していただいて、私には見えていなかったことが続々と明らかに!
本当にありがとうございました!

みなさんからいただいた発見を頼りに、帰り道に思いついたことも多く、
それぞれの女性像に、吹き出しをつけるなら、と問いかけたくなり、来週も試みてみようかと思います。

描かれた女性は三人三様、それぞれの個性も異なる様子ですが、三人の女性に共通するセリフを考えてみたところです。
それは、どこからそう思うの⁉と反芻しながら、改めて考えてみたくもあります。


それから話は変わるのですが、展示室のヴォーグの90年代の写真を見ていて、黒いヴィーナスといわれた1920年代にパリで活躍したダンサージョセフィン ベーカーを連想したのですが、何かしら模したイメージ像ではないでしょうか。
帰ってから気になって、

ジョセフィン ベーカー ヴォーグ
と検索すると、ある建築家が、ジョセフィンベーカーの家を設計している、ということや、家の設計図がヴォーグに掲載されていた、という記事?が出てきました。

ナビは、あんまり自信ないのですが、あれこれ、気になることを発見したり、調べてみたりするのが楽しい 時間だったりします。

みなさん、健康にはくれぐれも、お気をつけてください!

(^-^)/
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大社幼稚園での実践報告です!!

2015-01-23 20:03:22 | 対話型鑑賞


大社幼稚園 対話型鑑賞 2回目 
作品「孫に本を読んで聞かせるカサット夫人」 メアリー・カサット


最初に前回の作品を思い出す発問をしました。多数の園児が手をあげました。
「夏の服を着た人がいた絵」
「日傘をさしていた」
など、2ヶ月くらい前にみた作品なのに、ちゃんと覚えています。答えてくれた園児以外の子たちも、うんうんとうなずく仕草がみられ、多くの園児が前回の作品「径」(小倉遊亀)を覚えていたことがわかりました。
いつも思うことですが、100の作品を解説して知らせるより、1点でも対話をして、作品をみることの楽しさを感じさせた方が、将来にわたる美術愛好者を育てられるのではないかと、だからこそ、この鑑賞法をあまねく体験させたいと願うのです。

次に、この会のルールを思い出してもらいました。これも、たくさんの園児が手をあげました。
「だまって、手をあげる」
(これは「はい」「はい」と大きな声を出しながら手をあげると、声の大きな子に威圧される雰囲気が生じることを避けたいという思いと、静かに考える雰囲気を大切にしたいと考えているので、私の私的手法としてそうしています。)

「よくみる」
「ひとが話している時は、だまって聴く」

ちゃんとルールも覚えています。すごいなあと思います。園児たちは年長クラスなので、4月に小学校入学です。この年齢くらいになると、集団のきまりを守ることができるようになるのだと思います。でもそれは、幼稚園の先生方が、そういうことのできる力を日々育てているからだとも思います。子どもの発達段階に応じながら教育を進めていくことの大事さを、幼稚園で実践するたびに感じます。
また、この度日本語版が発刊されたVTSですが、VTSのなかでも、幼稚園(アメリカではキンダーガーデンですが)での実践が報告されています。キンダーガーデン用の作品も選定されていて、幼少期にこの活動を行うことに意義があることが認められています。私も、VTSJでフィリップの講義を受けて、幼稚園での実戦にチャレンジしました。出来るのか、半信半疑でしたが、やるたびに手ごたえと充実感を得ることができます。そして、幼少期でこの活動を行うことには意味があると思います。
今回、園長先生(元小学校長)が参観してくださいましたが、実践後のMTGで、園児たちの発言や態度をご覧になられて、作品を鑑賞する力を育てるだけでない、その他にも大きな価値があると感じられ、この活動を認めてくださるお話があり、うれしく感じました。
園長先生は
・子どもたち同士が、仲間が話すことを聞いて、自分との違いに気付きながら、友だちを認める空気が生まれていくのではないかと感じた。
・みんなの前で、発表することができていた。
・答えのない、間違いのない、自分の意見を自由に言える活動だから、安心して発表できている。
・ちゃんと、約束を守って、活動していた。
と、語ってくださいました。
まさに、そのとおりで、みんなでみているものは絵画作品なのだけれど、そのことについて語り合いながら、「仲間を認め、自分も認めてもらう」「仲間の意見も聴きながら、自分の意見を考える」という、対話型鑑賞の醍醐味を、幼稚園児でも実践することができているということは、やはり、この手法は優れたものであるということが言えると思います。そのことの価値を園長先生が認めてくださったのも、今後の活動につながると、手応えも感じられて収穫でした。

さて、ルールを守りながら、対話を始めました。(以下か、常体で記述)
みんな、身を乗り出して作品をみている。きょろきょろするような園児は一人もいない。すごい!!しっかりみている。
「もうちょっと、みたいひと?」と聞くと
半分以上の園児の手があがるので
「では、もう少しみましょう。」
また、みはじめる・・・。
「しっかりみましたか?」今度は多くの園児の手があがるので、
「はい。何でも。みつけたことを話してくれるかな?」
いっぱい手があがります。一人1回は発言してほしいので、同じ子に当たらないように指名していく。出来るだけ名前を聞いて、名前を呼んで話してもらうようにしている。また、園児は、なぜか、最初に「あのね。」と言う。まあ、小学校でも「あのね帳」というのがあるので、「あのね。」と言い始めるのが、話しやすいのだと思う。そのことも大切にしたいと思っている。

「あのね。お母さんが、子どもに絵本を読んでいるところ」(いきなり核心?)
「あのね。子どもがね。3人いる」
「あのね。お母さんに絵本を読んでもらっているけど、電車に乗って、遠足に行っている」
「どうして、電車に乗っていると思ったの?」
「あのね。窓の向こうの、草が、なんか・・・(手振りで理由を示した)」
「草が、ばあーーーって、動いているから、この窓の向こうが、だから、この人たちは電車に乗っていると思ったのね。」
「でも、どうして電車なの?」
「う~~~~んっとね。それはね。窓が大きいから」
「なるほど、この窓をみて、こんな大きな窓なのは、電車だと思ったわけね。」
この、「電車説」は、前にも実践したことのある幼稚園でも出る。窓の大きさや形状がやはり日本の家屋と違うからではないかと思う。「電車説」と言う園児は電車が好きな子だったり、電車をよく利用する(親戚の家に行く時よく電車に乗っている)子どもだったりするのだが、大きな横長の窓は子どもたちに「電車」を連想させるのかもしれないと思っているところだ。

「ほかに、ないかな?」もっと発見はないか、尋ねる。

「あのね。はしっこのほうに、英語の字がある」
「どこにあるかな?指さしてみて。」
(絵の左下の方を指さします。)
「おお、こんなところに、本当に、英語の字が書いてあるね。よくみつけたね。」
「みんな、みえる?みえてた人?」
数人が、手をあげる。
「ここに、英語の字が書いてあるのはね。みんなも絵を描くと、自分の名前書くでしょう?」
みんな、うなずく
「それと一緒なの。だから、これは、サインと言って、この絵を描いた人が、私が描きましたよ。って、自分の名前を書いたの。わかったかな?」
ここにサインをみつけるのは、なかなか困難である。茶色っぽい背景色よりやや濃い茶色でサインが書かれているからだ。この子に言ってもらわなかったら、私も見逃していた・・・。で、この子のお母さんは、英語塾を開いているそうで、普段から英語の文字が身近にあるから、この発見があったのではないかと思われる。また、ナビが「隅から隅まで、しっかりみてね。」と言った言葉に素直にしたがった成果でもあるかも知れない。いずれにしても、本当によくみている。そして、「サイン」については、知識として与えてもいいのではないかと思って、教えた。みつけたことに対するご褒美の意味もある。そうやって、よくみることへの意欲を喚起しようと考えた。

「ほかに?」
「あのね。あの子が、お母さんの方をじっとみて、話を聞いている。」
「あの子って、どの子?」
「お母さんの向こうにいる子。」
「どうして、じっとみてると思ったの?」
「う~~~ん。」
「よくみて、いいことに、気付いたんだよ。だから、じっとみてると思ったのはどこからなのかな?」
問い詰めているのではないこと。気付きが素晴らしいので、それを思いついたのがどこからなのかを、褒めながら、自分で口にして言えることに意味があると思ったので、しっかり待った。
「あのね。目がね。」
「目が、なあに?」
「目がね。こっちを向いてて、お母さんの方を見てるから。」
「おお、いいこと言ったね。目がね。そうだね。こっち向いているね。で、お母さんの方を見上げてるね。だから、じっとみていると思ったんだ。すごいね。」
「この子が、お母さんが絵本を読んでくれるのを、お母さんの方をじっと見ながら聞いていると思ったんだね。いいよ。」
「みんなも、言ってることわかった?」
こんなふうに、園児とやるときは、時々確認をする。また時には、「同じこと考えていた人?」と問いかけて、手を上げさせたりする。園児の集中力は短いと思うので、飽きさせない、自分も参加している感覚を途切れさせない工夫をする。

「ほかに。」
「あのね。絵本の字が英語だから、この人は、日本じゃなくて、外国の人。」
すごいこと言う!!
「絵本の字が、英語なの?」
「うん。英語が書いてある。」
「なるほど、で、英語の本を読んでいるから、この人たちは、日本人じゃなくて、しかも、韓国や中国の、日本に近い、アジアの人たちでもなくて、英語を使う、外国人だと思ったのね。すごいね。」「気付いていた人?」と、挙手を求めると、たくさんの子たちの手があがる。

この作品で何度も幼稚園児と対話をしているが、ここに描かれている人物を「外国人」として発言した子に出会ったのは今回が初めてである。今までこの絵をみてきた子どもたちは、実は、この人たちは「外国人」だと気付いていたのかもしれない。しかし、それを口に出して言うことを今までの子たちはしてこなかった。なぜか?周知の事実と思われるようなことは敢えて言おうとしないのは、国民性なのだろうか?みんな分かっていることは、言わないのだろうか?「みればわかるでしょ。」なのか?でも、本当にみんな分かっているのかは未確認だ。だから、私はこの子の「発言」は、とても大きな意味があると感じる。本人は分かっていないと思うけれど、私にとっては『勇気ある言葉』だ。『分かっているはずのことなのかも知れないけれど、でも、ちゃんと確認しようとする』この姿勢を育てていかないといけないのではないかと思う。『分かったつもり』になる危険性を防ぎ、『分かってくれていたのでは』という誤解を防ぐためにも・・・。それが、相互理解のための第1歩ではないだろうか。

ここで、かなり描かれているものについての発言が出尽くしたと感じたので、園児の発言の中で、みんなで、もう一度考えてほしいことにつなげていく。
それは、以下の3つで、こうして、フォーカシング(焦点化)してみた。
・真ん中の女の人は、お母さんなのか?
・子どもの関係は?
・この場所は、電車の中なのか?
なぜかというと、一人の子どもの発言で出たこと(お母さん、電車の中)、そこに疑問を感じさせることをしなかったら、この一人の子どもの言ったことが、正解になってしまうからだ。だから、「本当にお母さんなの?どうしてそう思ったの?」と、揺さぶることで違う意見をもっている子どもに発言の機会を与え、多様な見方があることを、答えはひとつじゃない!!というこの鑑賞法の核になるものを体感させる目的を秘めている。(これは私の戦略)
では、続きを・・・。

「じゃあね。みんな、この人は、お母さんって、言ってくれた人が多かったけど、本当にお母さんかな?どこからお母さんだと思ったのかな?」
「あのね。メガネかけているから。」
「メガネかけているとお母さんなんだ。あなたのお母さんはメガネかけているの?」
「うん。」これは、この子なりの理由なので、認めることは大事だと考えている。
「お母さん。髪が長いから・・・。」
「どこから、髪が長いと思ったの?」
「あのね。後ろのとこを、結んでいて、なんか、髪をこう、(と手振りをしながら)留めるもので留めているから。」
「あなたのお母さんも、髪が長くて、この人みたいに、髪を留めているのかな?」
「うん。」園児たちにとって、母親は一人であり、それが、全てのモデルになるのではないかと思う。
「お母さんって、いう人が多いけど、ほかには?」
「あのね。おばあちゃんだと思う。」
勇気ある発言!!これが言わせたかった!!!
「どうして、おばあちゃんだと思うの?」
「メガネかけているから。」
理由は、前に「お母さん」と言った子と、理由が一緒だ。
「あなたのおばあちゃんは、メガネかけてるの?」
「うん。」これも、おばあちゃんはメガネという、この子なりの根拠だ。でも、もっと他にないか、ちょっとかわいそうだけど、再度、訊く。
「おばあちゃんメガネかけているんだ。でも、メガネだけじゃなくて、ほかにはない?」
絵をじ~~~~っとみながら、すご~~~~~く考える。
「あのね。・・・・・・・・・・・・しわがある。」すご~~~~~く、考えて言った。
おお、しわ!!いい言葉がでたぞっ!!!
「しわがあるのね。どこにあるのかな?」
かなりしつこく訊いている。ごめんね。
「う~~~~~~~~んっとね。ほっぺのところ」
「なるほど。このあたりに(指さしながら)、しわがあるから、この人は、おばあちゃんじゃないか。って、言ってくれました。」
「おかあさん、っていう人と、おばあちゃんっていう人がいるね。どっちなのかな?みんな自分でどっちなのか、しっかり考えてね。
じゃあ、この3人の子どもは、どうかな?兄弟なの?別々の友だちなの?」
ここで、視点を子どもに向けさせる。中心の女性は実は祖母なのであるが、この時にその正解は必要ないと思う。どっちなのかを自分なりに考えるということが、求められる姿勢ではないかと考えるからだ。そして、次に、多様な解釈のできる子どもの関係について考えさせることにする。

「どうかな?兄弟?友だち?」
「あのね。兄弟。」
「みんな、3人とも?」
「ううん。青い服の大きい人と、こっちを向いている人」
「じゃあ、この人は?」女性の右肩側にいる背中を向けた人物を指さしながら・・・。
「違う。」
「違うって。兄弟じゃないってこと?」
「うん。」
「じゃあ、この人は誰?」
「別の人」
「なるほど。この人は、この人たちとは兄弟じゃないって、言ってくれました。ほかに。」
「お母さん。」
「はい?お母さんって、誰が?」
「青い服の人。」
「どうして?」
「なんか、大きいから。お母さんだと思った。」
「じゃあ、ほかの2人は?」
「子ども」
この3人の人間関係については、2人が兄弟説が有力だった。中心の女性をおばあちゃんだと思った子は、青い服の人物をお母さんと考えていた。男の子2人と女の子1人という、みんな兄弟という説も出た。

次に、この場所について考えさせた。これも電車じゃなくて、家だという意見があるだろうと予測できるからだ。家だと思う子どもに、発言の機会を与えてやらねばならないと思う。
「じゃあ、この場所は、電車っていう人もいたけど、どうかな?」
「あのね。電車だと思う。」
「どうして?」
「窓が大きいから。」
「その意見は、Y君も最初に言ってくれたよね。ほかの意見はない?」
「外が、草だから」
「窓の外が草が生えていると思ったのね。そこは、どこ?」
「後ろの、窓のところが緑だから・・・。」
「ああ、ここが(と指差しながら)緑色だから、草が生えていると思ったのね。で、そういうところは、電車の走るところと思ったのかな?」
うなずく。
ここで、最初に「電車」説を唱えた、Y君が手をあげる。
「はい、じゃあ、最初に電車って言ってくれた、Y君、どうぞ。」
「あのね。窓のあそこのところ(指さす、けど、遠いので、近づかせる)ここが、黒くて、ここは、窓の鍵。電車の窓の鍵だと思う。」
「なるほど、ここの黒いところが鍵だと思ったのね。で、こんな鍵があるのは、電車の窓だと思ったんだ。だから、電車なのね。」
うなずく
「ほかに?」
「あのね。お家だと思う。」
いいぞ。電車じゃないという意見を言うことに意味がある!!勇気ある発言!!!
「どうして?」
「お母さんの周りにみんな座っているから。」
「周りに座っていると、お家なの?」
「電車だと、こんな風に座れない。」
「そうなんだ。電車だとこんな風に座れないから、この座っている様子から、お家だと思ったのね。ありがとう。ほかには?」
「お家だと思う。」
「どうして?」
「お兄さんが正座している。」
「正座しているの?それはどこからそう思ったの?」
「足がみえる。」
「どこに?」
前に出てきて
「(指さしながら)ここが、足だと思うので、正座しているから、家だと思う。」
「なるほど。ここが足なのね。で、こんな風に座っていると思ったのね。」
正座のポーズをしてみせる。

まだまだお話しできそうだけど、ここまでで、30分が経過・・・。そろそろ切り上げ時。

「みんな、いっぱいお話してくれたね。ありがとう。この人がお母さんなのか?おばあちゃんなのか?この3人は兄弟なのか?別の人たちなのか?ここは電車なのか?お家なのか?いろいろ考えたね。でもね。本当のことはわからないの。だってね。この絵を描いた人はもう死んでしまっていて、(園児たちが息をのむ、死んでいるという事実がショックなのだろう)どうなのか聞くことができないの。でもね。分からないから、みんなでいろいろ考えることができて、楽しかったんじゃないかな?先生は、すごく楽しかったよ。みんなはどうだった?楽しかった?」と聞くと・・・。
園児は全員手をあげた。

「じゃあ、今日、お家に帰ったら、こんな絵をみたよって、お家の人にお話ししてね。で、自分はこんなことを考えたよって、教えてあげてね。じゃあ、今日のみるみるの会はおしまいです。次は2月に来ます。それまで、元気でね。」

といって、みんなで拍手をして、2回目が終わった。

対話型鑑賞のナビゲーターはこの幼稚園で12月に実践して以来約2か月ぶりです。いつも感じることは、ナビゲーターとして、鑑賞者の考えていることを聴くのはとても楽しいということです。しかし、楽しいと感じるためには、様々な仕掛けが必要だと思っています。でも、仕掛けにこだわりすぎず、場の空気を読みながら臨機応変な対応をしていくには、場数を踏むしかないと思っています。多様な見方や解釈を引き出すことのできる懐の広さを身に付けるためにこれからも実践を続けたいと思います。

今回の実践中の気付きについては、実践レポート中に記述しています。いつも言うことですが、幼稚園児だって、ちゃんと語ります。子どもたちなりの世界観で語ります。その語りに耳を傾け、子どもたちの成長にとって有意義な活動になるよう、今後も精進したいと思います。

最後に、前回の実践に対する、担任の先生の感想を載せて終わります。

園児は
A)しっかり絵をみることができていた 評価3
B)絵をみてしっかり考えることができていた 評価2
C)自分の意見を言うことができていた 評価3
D)友だちの意見をしっかり聞くことができていた 評価3
E)友だちの意見を聞いて、自分の考えをより深めることができていた 評価3
F)このような鑑賞は園児に有意義だ 評価3

・最初に3つの約束をしてもらったので、一人一人が約束を守りながら発表をしようとしていた。
・普段、クラスの中で意見を言いにくい子どもも、自分から手を挙げて発表しようとしていた。最初は目に見えること(絵を見てわかること)を発表していたが、春日先生からの投げかけや、友達の発表を聞いて、「どうしてそう思ったのか」という理由を少しずつ考える姿が見られるようになったと思う。
・かさをさしている絵を見て、日がさだと思う子どもがいたり、サンダルを見て、海に行くと思う子どもがいたり・・・と、大人の私が思う考えとは違った子どもの発想にふれることができた。
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光中学校生徒の筆記サンプルを検証しています!!

2015-01-12 21:02:58 | 対話型鑑賞

画像は同じ生徒の筆記サンプルです。左が初回。右が最終です。右は表に収まりきらず、裏面にも記述が及んでいます。

中国五県造形教育研究会で授業公開した出雲市立光中学校3年生の2回目の筆記サンプルが届いたので、変化をまとめてみました。

この筆記サンプルはVTSJを受講した際にも紹介されたもので、VTSJのSTEP③に向けては、実践対象者の対話型鑑賞受講前後に必ず実施するように義務付けられていたものです。
 同じ作品を対話型鑑賞を体験する前と後で、どのような変化があるのかを知ることで、鑑賞者の美的発達を知ることもできるし、ナビは、自分のナビが鑑賞者の鑑賞力をUPさせることができているのかを知る手がかりにもなるという、ナビにとっては怖いような、しかし、知らずにはおられないような、そんな取り組みです。
 VTSについては、日本語訳「学力をのばす美術鑑賞」(淡交社)がそろそろ発売になるので、ぜひ、入手して読んでいただきたいと思います。私もまだ、手に入れてないのですが、筆記サンプルに触れた記述があるなら、そこをみてもらうと、この取り組みについての理解が深まると思います。

 さて、光中学校の3年生には、対話型鑑賞を始める前に1回目を取りました。10分くらいで記述してもらったので、十分な時間を与えたとは言えませんが、書きかけの生徒は2名くらいでした。
プリントに印刷されている作品をみて、
①みえているものは何か?
②どこからそう思うのか?
③そこからさらに考えられることは?
について書くように指示しても、初めてのことだから、「何をどう書けばいいのか。」さえも分からないと思います。ここで、スラスラ書ける生徒がいたとしたら、その生徒の美的発達段階は、指導者の私より上ということになります。さすがに、そんな生徒はいませんでした。だから、時間も10分もあれば十分なのです。それ以上時間を与えても書けることはないのです。それは、大人だって同じです。そこをスタートにして、どこまで、書けるようになるか、どんな風に書けるようになるかが、この後の鑑賞活動にかかっているのです。さて、5回の対話型鑑賞を終えての生徒の変化はどうだったのでしょう?

 まず、当然といえば当然なのですが、記述量は飛躍的に増えます。文字数が増えていない生徒は一人もいませんでした。
 その一つとして、みえるものが増えます。同じ作品なので、みえているものは同じはずなのに、細かいところまで気付けるようになります。初回に比べると、自分の気になったもの、目に付いたものだけでなく、作品全体を隈なくみているし、身なりだったり、表情や仕草、色使い、細かい描写までみられるようになっています。それだからこそ、ここに描かれた人たちにどんな関係があるのかを考えようとすることができるというか、関係性を考えるために、もっとよくみることができるようになるのかも知れません。
 また、記述の仕方も、授業で繰り返し問いかけた「どこからそう思う?」「そこからどう思う?」に答えたときのように書かれています。「~~のようにみえるので、○○だと思う。」「~~だと思ったので、〇〇ではないかと思いました。」のように根拠を示しながら自説を展開する記述に変化しています。この記述法を強いたことは一度もありません。でも、生徒は、このような記述のスタイルを取るようになります。それは、筆記サンプルを取るときだけではなく、鑑賞後のワークシートへの記述の時も同様のスタイルを取るようになります。思考が根拠をもとにしながら構築されている結果だと言えるのではないでしょうか。また、自説を構築するために、もっとよくみるのだと思います。そこには「どうして?」「どこから?」という問いを常に自分自身に問いかけている姿勢があると思います。
 5回の実践を終えて、生徒に5回を振り返っての感想を書いてもらいましたが、その時一人の生徒が
やはり、春日先生は、今までの先生とは違って「どうしてそう思うのか」「どこからそう思うのか」を深く問われるので、春日先生の授業の時は意識して自分の発表の中に「どうして、どこから」を取り入れようとしていました。次第に自然と自分の考えを頭で考える時に(ここ、春日先生につっこまれそうだな。こう答えよう。)と答えを準備してから発表ができるようになりました。私はこの5回の対話型鑑賞で学んだ中で1番これからに活かしたいのは「どうして、どこから」精神です。だから、これからは今まで以上に「どうして、どこから」精神を大切にしていきたいです。
と記述していました。この鑑賞活動から、美術作品の鑑賞にとどまらず「どうして、どこから」精神で、自ら学ぶ姿勢が身についたのなら、いつも感じることですが、対話型鑑賞の活動は、鑑賞にとどまらない、これからの未来を生きていく子どもたちに求められている力をつけることができると考えています。

 ナビとしては、一定の効果はあったのではないかと感じているところです。もっとやりようはあったのではないかという反省はもちろんありますが、生徒に成長をもたらすことは出来たという手応えは感じています。

 この後は筆記サンプルをさらに詳細に検証し、生徒一人一人の変容を今後はみていこうと思います。ハウゼンの美的発達段階のステージが上がった生徒もいると思います。VTSJのセミナーを受講して3年が経過しますが、あの時に学んだ手法を思い出しながら、自分のナビをさらにUPさせるためにできることは何かを考えたいと思います。
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