5月28日(日)11:30~11:50 春日裕次展 「みんなで一緒にアートをみてはなそう!」
会場:出雲市文化伝承館
ファシリテーター:房野伸枝
参加者 一般の方 8名・みるみるの会メンバー 2名
鑑賞作品 春日裕次 作 「かいじゅ」
令和5年5月20日~6月25日に開催されている「春日裕次展」には、春日氏の初期のスケッチから、美術展に入賞した大作までたくさんの作品が展示されており、その迫力に圧倒されました。作品の多くは、春日氏が長年追求しておられる「バイク」「人物」などが重厚な筆致で描かれており、鑑賞者はそこからにじみ出る「何か」をおのずと考えさせられます。「何が描かれているのか?」「この色やモチーフの意味は?」「どんな思いが込められているのか?」と考えながら見つめていると、時間の経過を忘れてしまいます。そんな中から1点、鑑賞会のための作品を選ぶにあたって、ひとつの作品が心にひっかかりました。それは、バイクでも、人でもない「かいじゅ」とタイトルのついた他とは作風の異なる作品です。
会場全体を見渡すと、居並ぶ作品群の中には、バイクが描かれていない作品にも、煙突やチューブなど、バイクのマフラーやエンジンに類似する形状のものが描かれています。また、春日氏の描くバイクと人物からは、バイクが人、人がバイクの象徴のように感じられたり、「エネルギー」「疾走感」「躍動感」「情熱」が感じられたり、「生命」につながる「熱」が発散されているようにも感じます。 画面のところどころに走っている「朱」の色にも強い印象を受けます。
私は海岸に流れ着いたようにみえる大きな流木を描いた「かいじゅ」も一連の作品に通底するものを感じました。他の人はこの作品をどのように鑑賞するのか?という好奇心が高まり、「この作品をみんなで対話しながら鑑賞したい」と強く思い鑑賞作品に選びました。
<鑑賞者からの意見(抜粋)>
・木に見えるが、枝や根が入り組んでいて、かなり大きな木であったことがわかる。
・森の中に生えている木ではなく、奥は湖か何か、水辺に流れてきた木に見える。もう成長が止まっている木。
・台風や何かで、かつて森にあったものが川に流れて、海から漂着した木の根っこ。
・枝に手を伸ばしているように見えるところがあり、何かを訴えているよう。海岸に流れ着いたものやごみが、人間に「これでいいのか」と訴えているのでは。
・タイトルの「かいじゅ」は「怪樹」とも「塊樹」ともとれる。
・流木だから死んでいる木だが、枝ぶりから動き出しそうで、生きている感じがする。血のような赤い色からも木というか、何か生き物のようにも見える。
・奥に海があり、そこからお日様が見える。枝が伸びている先に光があり、それに向かう生命感、躍動感を感じる。
・太陽は朝日だと思う。木の枝の動きから光のほうへ伸びていこうとしているように見えるので、太陽や水を求めてまだ、芽吹くエネルギーがあるのでは。海は生命の源でもあるので、そこへ伸びようとしているようにも見える。
・生きてはいない。死して、なお、エネルギーを感じるのは、燃えている炎のような部分があるから。木は死んでも燃えてエネルギーの形を変える。太陽は生命の源であり、炎が太陽にも通じていて、エネルギーの循環をも感じさせる。
・他のバイクの作品にも通じるフォルムを感じる。枝の管状の形態はバイクの配管にも通じる。管状のものには何かが詰まっている、何かが流れていることを人は連想する。この枝や根っこも、かつてはその筒状のものの中に生命やエネルギーを宿していた。
・朱色はバイクの作品にもあったが、その色からもエネルギーや命を感じる。
<ふりかえり>
流れ着いたように思われる大樹はかつて生えていたところから遠く流され、すでに命は尽きている流木なのに、うごめく生き物のようにも描かれ「生と死という相反するものが同居している」という意見が出されました。しかしなぜかそこに共通して感じるものは「生命力」や「躍動感」でした。水平線に太陽があり、生命の源である海や太陽の光というものが加わっていることからも、様々な解釈が生まれました。
鑑賞者は他の作品にも通じる一貫した力を感じ、対話を交わすことでどんどん作品の見方が変化していくダイナミズムを共有できたように思います。ひとりの画家による作品展では、鑑賞者はおのずと並んだ作品の関係性について考え、それが鑑賞する際に作品の共通項やテーマへの意識につながるということが実感できました。
ワクワクしながらも多くを学んだ鑑賞会となりました。この機会を提供してくださった春日裕次氏、その夫人の美由紀さん、出雲文化伝承館のスタッフのみなさま、鑑賞会に来てくださった方々のおかげです。本当にありがとうございました。