
浜田市世界こども美術館で昨日まで開催されていた「佐々木信平とその仲間たち」展で行った対話型鑑賞会の振り返りのレポートが澄川会員から届きましたので、UPします。
はじめに
本会でナビゲーターを務めるのは実に1年ぶりである。この活動は、鑑賞者の発言によって成り立つ時間である反面、それをどのようにつなげ、組み立て、深く「みて」いくことができるよう手立てを講じるといったナビの技量も大いに問われる。作品とじっくり向き合う時間は鑑賞者にとってたった1度の機会かもしれない。そう考えると「1年ぶりだから」というのは単なる言い訳でしかない。少しの緊張と鑑賞者の発言に胸躍った30分弱の時間となった。
作品について
鑑賞作品は、佐々木信平「球をもつ少女」(1977)である。画面には、女性とモデム(おそらく自画像であろう)が卓球をしていると窺える姿が描かれ、中央に台の向こうに白い服を着た少女が立っており、両の手には壊れそうなものを大事に扱うように白い玉が描かれている。女性と少女は無表情のようにも見える。また、宙に浮いた白い玉からは動きを感じない。描かれた3人(?)は家族なのか、なぜこのような場面なのか、画面から受ける静けさ、温かさ・・・多くの想像をかきたてる作品である。
対話の実際
「真ん中に白いワンピースを着た少女がいる」
「卓球をしている不思議な空間が描かれている。人間とロボットのような。不思議な世界。」
「真ん中から描いているからネットの部分は見えないが、真ん中にあるのは卓球をするときのネットだと思う」「真ん中の白い女性は清い聖なるものに見える。顔も、なんか、キリストの顔に見えてきて。」
「片方は人間で、片方はロボット。邪悪な世の中、汚れた世の中に清純な人が中央に立っていて(略)争ったりせず自然に生きなさいよ、と教えているのではないかと思う。」
鑑賞者は本会のリピーターが多く占めた。そのためか、上述のように、最初から描かれているものだけでなくそれを基にどう考えたのかといった発言が見られた。発言は進んだが、ナビとしては適宜確認が必要だったかもしれない。
様々な価値があり、見方がある。それをどう組み立てるか・・・!
鑑賞者で意見が分かれることがある。例えば以下のような対話があった。
「(略)1974年に東京ビエンナーレがあって、スーパーリアリズムやハイパーリアリズムが紹介されている。その影響を受けて、なんか、こういう、具象を描き出したんじゃないかと。何も感じさせないような絵に見えませんけれども、何かを感じさせたいという気なんか、こういう、具象を描き出したんじゃないかと。何も感じさせないような絵に見えませんけれども、何かを感じさせたいという気持ちを持っている人なんでしょうか、そんなことからリアリズムを行ったような気がして・・・。この絵から何かを探るっているのはできないんじゃないかと。」
「なるほど。具象的なもの、見えているものをそのまま写すという絵なんだけれども、すごく抽象度の高い絵なんじゃないかなとおっしゃっていただいたと思います。この絵から、何かを感じさせたいと思っていないんじゃないかな、作家は。ということでした。他には?」
「私はこの絵からすごくいろんな物語を感じるんですけれども・・・。と言うのは、すごく抽象的で、何かのメタファー(隠喩・暗喩)なんじゃないかと思うものがたくさんあるんですよ。例えば卓球だけど座っていて本当のスポーツをしているわけじゃない。でも卓球で玉がやり取りされるってことを「対話のキャッチボールみたいな感じでこちらの主張を相手にぶつけて跳ね返す」という風に見るとすれば、あの真ん中の女の子も何か言いたいことがある、やり取りをしている二人に。言いたいことがあるんだけどもそれができずにいるんだ、という感じに見えます。」
様々な価値があり見方があるから一人で見る以上の面白さがあると考える。時に、意見によっては相違があったとしても、双方の言いたいことの真意は同じだったりすることがある。表面的な事象ではなく真意をとらえる姿勢をもちたい。この二人の意見も全体につなげることでより深まったと感じ、そうならなかった進行に反省である。
必要な情報の与え方
時としてその作品の情報(知識)をタイミングよく提供することが大事だと感じているが、与え方が悪いと発言が鎮静化してしまう。今回はまさにその「お手本(悪い意味で)」となってしまった。キャプション情報から左側に描かれたものをモデムと紹介し、それが作者を指すものであるという情報は、今回の作品を鑑賞しながら深める上で出てきたはずであったし、そうなるまでに様々な情報から多くを推察する過程があったであろうが、そのプロセスをなくしてしまった。
言葉のもつ意味
画面には卓球をしている台が描かれている。鑑賞者はこれを「テーブル」と発言し、「テーブル」が使われている場所や環境等から他に見られる情報と関連付けて話す場面があった。だが、ナビとして「机」と言い換えてしまったため、その後波及されるであろう様々なイメージを広げることに繋がらなかった。「テーブル」と「机」。見ているものは同じだが、テーブルであれば家族が集う場の象徴としての意味があり、描かれた人物等との関係性、そこからイメージされるものと表情との矛盾など、多様な想像が生み出されたはずである。発言を捻じ曲げて全体に還してしまうことの怖さ、言葉のもつ意味を改めて考えさせられた。
ルールの提示はすべての鑑賞者を公平にする
「手を挙げて指名する」というルールをはじめににお伝えしたが、見ていくと「話したい」という気持ちが先行していくのか、滔滔と思いを話す鑑賞者を優先してしまい、結果的に他の鑑賞者の意見を表出させる機会を設定できなかった。30分弱の時間を有意義なものにするためにも、ルールは大事にしたい。
事後のアンケートからは満足群が多い一方で、そうでない鑑賞者も存在することがわかった。特に今回は欄外に不満足であることを書き示す鑑賞者もいたことも踏まえると、十分に対話の中で自分の見方が消化できなかったことや、上述した内容や、ナビゲーションの技量も不十分であったためだと推測される。
おわりに
対話は創造的な活動だと思う。対話しながら新たな自分の価値を見出していくのだとすれば、その空間を生み出すきっかけ作りがナビの役目なのではないか。それができたかどうかといえば、なかなか首を縦にふることはできないが、私自身は「楽しい」時間になった。なぜか?あの作品と出会い、鑑賞者との対話を通してより別の見方が出来たからだろう。
参加している鑑賞者の鑑賞者間と対作品との対話がRICHなものになるかどうかはナビゲーター(ファシリテーター)の手腕にかかっています。今回の鑑賞会のナビは参観者に助けられた部分もあるので、振り返りにあることを次回の実践に反映させていけば、RICHな時間を提供することができるのではないかと思います。がんばりましょう!!