R元年 島根県造形教育研究会夏季研修会 ~レポート~
日にち 8月5日(月)
時間 10:30~15:30
場所 石見美術館多目的ギャラリー
講師 福 のり子(京都造形芸術大学教授 同アート・コミュニケーション研究センター所長)
三重野 優希(京都造形芸術大学アート・コミュニケーション研究センター講師)
廣田 理紗(島根県立石見美術館主任学芸員)
今回の研修会は福先生の講義はもちろんのこと、対話型鑑賞会が設けてあることが、私にとって大きな楽しみだった。なぜなら、授業で対話型鑑賞を行っているが「上手くいかない」と感じることが増えてきたからだ。なぜ、上手くいかないのだろう。それが今の私の悩みだったので、この度の研修会で何かヒントがつかめるのではないかと期待して参加した。研修会は以下の流れで行われた。
1,講義「生きのびるために」(福 のり子)
2.対話型鑑賞会(ナビゲーター:三重野優希)鑑賞作品:「カラカラ帝」
3.アートカード研修(廣田 理沙)
その中で、2.対話型鑑賞会についてレポートする。
「カラカラ帝」は私が最初に対話型鑑賞を体験したときの作品だ。その時のナビゲーターは福先生だった。鑑賞者の発言が絡み合って、他者の発言からインスピレーションを受けて、さらに深い思考につながっていく。カラカラ帝のことは知らなくても、その内面や心情をありありと想像してしまう。カラカラ帝の頭が、ぐっと立体的に見える…。「これはすごい!この方法で生徒と鑑賞したい!」と思った。それから何度も対話型鑑賞を行っている。しかし、「上手くいかない」と感じることが多くなった。
今回の鑑賞会は、全体的に発言が続かなかったり、一人の発言が長かったりと、時間ばかりが過ぎる印象だった。こういうことは、自分自身がナビゲーターになった時もよく起こる。勇気を出して発言してくれた生徒の言葉がつながっていかない。そういう時の鑑賞は、読み取りの浅い、印象に残らない鑑賞になる。「なぜそうなるのか」が私の今の悩んでいるところだ。最初は「何が見えますか?」という投げかけから、鑑賞者の発言が多かった目に注目した。次は顔の右半分と左半分とに注目して、次に傷に話題が移って…鑑賞者は、決して見ていなかったわけではないし、消極的だったわけではない。ただ、それなりに経験を積んだ大人なので、それぞれに独特の言い回しがあり、発言の真意がつかみにくいなと思った。また、年齢層も幅広く、年配の方が発言されると、全体的に「そうだよな。」とわかったような気持ちになったような気がした。この研修会での対話型鑑賞の時間は40分間だったので、三重野先生は、30分経ったところでまとめに入ろうとされた。私もそうするだろうと思う。しかし、福先生は、「まだ、全部見ていない!」「口はどんな口?」「耳のことも話題になってない、髪も、髭も!」と厳しく言われた。そして、「目のあたりが、とかではなくて、どこがどうだから、こう見えるという、根拠をはっきり言って」ということを何度か言われた。そのナビをみながら、「そうか、自分も鑑賞者の発言を分かったつもりになって、きちんと求めていないな」ということが分かった。また、「作品の細部まで、全部見て、話題にしたかという確認を怠っていたかもしれない」と思った。福先生は、「そういうことをきちんと話題にしていくことで、一つ一つが鑑賞者の頭にインプットされていく。」と話された。それが、「作品を深く考える」ことにつながっていくのだ。中学校では、なかなか発言が出ないことが多い。やっと出た発言を「勇気を出して発言してくれた生徒」に対する遠慮から、ソフトにふんわり扱ってはいなかっただろうかと反省した。また、「この人が自分の上司だったら?」という投げかけがあり、「ついていくか?ついていかないか?」という二者択一を迫られたときに、鑑賞者は作品を鑑賞するということが初めて自分ごととして考えられ、多くの挙手につながった。このように、ナビゲーションには、作品鑑賞を自分ごとにできる問いかけが必要であることを痛感した。
「眉間のしわが意志が強そうに見える。目標に向かって無理難題を言われそうなので、ついていきたくない。」など、それぞれが、見えることを根拠にしてその人物像を解釈していた。私は「ついていきたい」方で発言した。「いろいろな負の感情があっても、それを強い意志で隠して、みんなをひっぱるなんて、力のある人だと思う。」と。福先生は「でも、負の感情は見えるんでしょ?隠せてないやん。」と言われた。「う…、たしかに…。」(というか、そこまで突っ込まれる!?)と思ったが、このような問いかけこそが、鑑賞者の意識していない矛盾する思考を気づかせるきっかけとなり、作品とさらに深く対話することを促す。だから、私は、なぜ自分は、「隠して」と思ったのだろうと自問した。鑑賞者の気がつかないうちに「主体的に作品をみる」ことができる仕掛けとしての発問をすることができるようになることが大切だということ、そして、問い返されることで、さらに考えることができることにも気がついた。問い返した時に、すぐに反応はないかもしれないが、頭の中では必死に考えている。
後半は、福先生がナビをされ、ぐいぐいひっぱっていかれる感じだった。福先生のようなナビは自分にはできないと思う。しかしそれは、「私にはナビゲーションはできない」ということではない。福先生のナビから学んだことは、作品の細部まで見て、話題にしたかという確認を行うこと、鑑賞者の発言を分かったつもりにならないで、問い返しを行うこと、鑑賞者が作品を主体的にみるための仕掛けとしての発問を考えること、である。以上のことを心がけて、二学期の対話型鑑賞を実践していきたい。
(文責:中嶋 寛子)
日にち 8月5日(月)
時間 10:30~15:30
場所 石見美術館多目的ギャラリー
講師 福 のり子(京都造形芸術大学教授 同アート・コミュニケーション研究センター所長)
三重野 優希(京都造形芸術大学アート・コミュニケーション研究センター講師)
廣田 理紗(島根県立石見美術館主任学芸員)
今回の研修会は福先生の講義はもちろんのこと、対話型鑑賞会が設けてあることが、私にとって大きな楽しみだった。なぜなら、授業で対話型鑑賞を行っているが「上手くいかない」と感じることが増えてきたからだ。なぜ、上手くいかないのだろう。それが今の私の悩みだったので、この度の研修会で何かヒントがつかめるのではないかと期待して参加した。研修会は以下の流れで行われた。
1,講義「生きのびるために」(福 のり子)
2.対話型鑑賞会(ナビゲーター:三重野優希)鑑賞作品:「カラカラ帝」
3.アートカード研修(廣田 理沙)
その中で、2.対話型鑑賞会についてレポートする。
「カラカラ帝」は私が最初に対話型鑑賞を体験したときの作品だ。その時のナビゲーターは福先生だった。鑑賞者の発言が絡み合って、他者の発言からインスピレーションを受けて、さらに深い思考につながっていく。カラカラ帝のことは知らなくても、その内面や心情をありありと想像してしまう。カラカラ帝の頭が、ぐっと立体的に見える…。「これはすごい!この方法で生徒と鑑賞したい!」と思った。それから何度も対話型鑑賞を行っている。しかし、「上手くいかない」と感じることが多くなった。
今回の鑑賞会は、全体的に発言が続かなかったり、一人の発言が長かったりと、時間ばかりが過ぎる印象だった。こういうことは、自分自身がナビゲーターになった時もよく起こる。勇気を出して発言してくれた生徒の言葉がつながっていかない。そういう時の鑑賞は、読み取りの浅い、印象に残らない鑑賞になる。「なぜそうなるのか」が私の今の悩んでいるところだ。最初は「何が見えますか?」という投げかけから、鑑賞者の発言が多かった目に注目した。次は顔の右半分と左半分とに注目して、次に傷に話題が移って…鑑賞者は、決して見ていなかったわけではないし、消極的だったわけではない。ただ、それなりに経験を積んだ大人なので、それぞれに独特の言い回しがあり、発言の真意がつかみにくいなと思った。また、年齢層も幅広く、年配の方が発言されると、全体的に「そうだよな。」とわかったような気持ちになったような気がした。この研修会での対話型鑑賞の時間は40分間だったので、三重野先生は、30分経ったところでまとめに入ろうとされた。私もそうするだろうと思う。しかし、福先生は、「まだ、全部見ていない!」「口はどんな口?」「耳のことも話題になってない、髪も、髭も!」と厳しく言われた。そして、「目のあたりが、とかではなくて、どこがどうだから、こう見えるという、根拠をはっきり言って」ということを何度か言われた。そのナビをみながら、「そうか、自分も鑑賞者の発言を分かったつもりになって、きちんと求めていないな」ということが分かった。また、「作品の細部まで、全部見て、話題にしたかという確認を怠っていたかもしれない」と思った。福先生は、「そういうことをきちんと話題にしていくことで、一つ一つが鑑賞者の頭にインプットされていく。」と話された。それが、「作品を深く考える」ことにつながっていくのだ。中学校では、なかなか発言が出ないことが多い。やっと出た発言を「勇気を出して発言してくれた生徒」に対する遠慮から、ソフトにふんわり扱ってはいなかっただろうかと反省した。また、「この人が自分の上司だったら?」という投げかけがあり、「ついていくか?ついていかないか?」という二者択一を迫られたときに、鑑賞者は作品を鑑賞するということが初めて自分ごととして考えられ、多くの挙手につながった。このように、ナビゲーションには、作品鑑賞を自分ごとにできる問いかけが必要であることを痛感した。
「眉間のしわが意志が強そうに見える。目標に向かって無理難題を言われそうなので、ついていきたくない。」など、それぞれが、見えることを根拠にしてその人物像を解釈していた。私は「ついていきたい」方で発言した。「いろいろな負の感情があっても、それを強い意志で隠して、みんなをひっぱるなんて、力のある人だと思う。」と。福先生は「でも、負の感情は見えるんでしょ?隠せてないやん。」と言われた。「う…、たしかに…。」(というか、そこまで突っ込まれる!?)と思ったが、このような問いかけこそが、鑑賞者の意識していない矛盾する思考を気づかせるきっかけとなり、作品とさらに深く対話することを促す。だから、私は、なぜ自分は、「隠して」と思ったのだろうと自問した。鑑賞者の気がつかないうちに「主体的に作品をみる」ことができる仕掛けとしての発問をすることができるようになることが大切だということ、そして、問い返されることで、さらに考えることができることにも気がついた。問い返した時に、すぐに反応はないかもしれないが、頭の中では必死に考えている。
後半は、福先生がナビをされ、ぐいぐいひっぱっていかれる感じだった。福先生のようなナビは自分にはできないと思う。しかしそれは、「私にはナビゲーションはできない」ということではない。福先生のナビから学んだことは、作品の細部まで見て、話題にしたかという確認を行うこと、鑑賞者の発言を分かったつもりにならないで、問い返しを行うこと、鑑賞者が作品を主体的にみるための仕掛けとしての発問を考えること、である。以上のことを心がけて、二学期の対話型鑑賞を実践していきたい。
(文責:中嶋 寛子)