ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

ACOPミーティングに出かけた金谷会員のレポートが届きました!!

2014-10-26 23:24:35 | 対話型鑑賞
ACOPミーティングに出かけた金谷会員のレポートが届きました!!


11月から始まる京都造形芸術大学でのACOPのミーティングに金谷会員が出かけてきました。夜行バス往復の0泊という強行軍ですが、内容は充実してますね。紅葉の秋は繁喫してないようですが、芸術の秋は堪能してますね!!さすが「みるみる会員」です。

では、レポートです!!

こんにちは、みるみるの金谷です。10月25日に、京都へ行ってきました。京都造形芸術大学で行われる、ACOP鑑賞会の説明会に参加するためです。実は私、11月から12月にかけて合計3回行われるACOPに、鑑賞ボランティアとして参加します。いつもみるみるの活動を応援してくださっている、アートプロデュース学科長の福先生をはじめ、伊達先生や岡崎先生、夏の研修会に来ていただいた北野先生にお会いできるというのも、とても楽しみです。

京都には朝早く着いたので(説明会は午後から)、鳥獣人物戯画をみに「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展を行っている京都国立博物館へ。開館1時間前で既に行列ができていたので、すぐに私もその一人となりました。入館前に係の方から「鳥獣戯画は待ち時間が発生すると思われますので、先にご覧ください」とのこと。また、行列に並んでいる方から「教科書に載ってたやつ、本物に会えるね!」という声も。それを聞きながら、教科書に載っているって、なんて大きいのだろうと思いました。教科書に載っているのもいいし、載ってないけど面白い作品もあるよーと、子どもたちに伝えていきたいなぁ、いや伝えていかなきゃ「やばい!」と思いました。

館内は、行列ができることを想定して作品が配置してありました。「ゆっくりあるきながら、お進みくださーい」と係の方の声。特に鳥獣戯画の甲巻の前で立ち止まろうものなら、やんわりと先に行くように進められます。大変な人数をさばくには仕方ないよなぁと、思いながらも、ちょっともやもやしていました。でも、本物をみると、長い年月をこえてきた(もちろん修復をされながら)和紙の強さと美しさ、墨の線の多彩さの前に、細かいもやもやは飛んでいきました。でも、なんで蛙と兎なんだろう?どうしてこんなことを描いたんだろう?お土産に買った、甲巻のミニ絵巻をくるくる楽しみながら、考え続けていこうと思います。京都国立博物館の特別展覧会「修理完成記念 国宝 鳥獣戯画と高山寺」は11月24日までです。

さて、午後は本命の京都造形芸術大学へ。造形大には何度か来させてもらっているのですが、いつもホスピタリティと明るさにあふれています!おやつとコーヒーを頂いて、福先生のお話を聴きました。私は、福先生の「アート」と「恋」のお話が好きです。
・あなた(作品)を→私(鑑賞者)がみて→恋(アート)が生まれる
・なぞがあるから、考え続ける。満たされないから、考え続ける。(例、恋すると「あなたのことをもっと知りたい」ってなりますね)。
・コミュニケーションにも芸術にも一つの正解はない。
・コミュニケーションを先に進めることができるときは、そこに様々な解釈が許されているとき。解釈はひとの数だけある。
・絵の中に描かれたもの→何かの「象徴」「主張」「概念」である可能性

 これから、鑑賞者に期待されることとして次の4つのことをおっしゃいました。
1、 意識をもってすみずみまでみる。
2、 直感を大切にする。その根拠を作品の中に見つけ出す。
3、 心にわきあがる感情や疑問を的確な言葉にして、グループの人たちに伝える。
4、 他の人の意見に、耳を傾ける。意識をもってきく。

また、ACOPを経験した学生さんのことばも、いくつか紹介されました。その中で私の胸にぐっときたのは、次のことばでした。
・私がしていたのは「対話」ではなくて「応答」だ。「対話」をするには「思いやり」が必要だ。
 自分のナビや日頃のコミュニケーションをふりかえると、「応答」が多く「対話」になっていなかったんじゃないかと思いました。そして、造形大に来るとホスピタリティにあふれていると感じるのは、もう既に「対話」が始まっている、「対話」の準備ができているのかもしれないと思いました。

 さてさて、私のACOP鑑賞デビューは11月16日です。どんな作品をみることができるのか?どんな疑問をもったり、発見をしたりできるのか?今からとても楽しみです。

 ACOP説明会後は、もう一度京都国立博物館へ。平成知新館 オープン記念展「京(みやこ)へのいざない」を駆け足でみました。閉館時間になり外に出ると、京都タワーがにょきっと立っていました。今回、0泊の京都小旅行でした。ありがとう京都、また来ますからね!
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10月のみるみるの会のレポートが澄川会員から届きました!!

2014-10-21 22:33:54 | 対話型鑑賞
10月のみるみるの会のレポートが澄川会員から届きました!!


みるみる鑑賞例会 2014/10/18 
ナビゲーター:澄川 由紀    鑑賞作品:「永遠」清水光夢(1998)

澄:今から20分程度皆さんとこの作品について会話を通してじっくり鑑賞したいと思います。
澄:どうですか?まず最初に第一印象を伺いたいと思います。どう思われましたか?
A:まず、思いついたのですが先日の台風19号ですね。雨がふっているような感じもする。
B:冬の日本海ではないかなと思う。なぜかというと、空がどんよりしているし、自分が育った浜田で見たことがある感じ。
澄:ご自身の経験や体験とも照らし合わせて観てくださいました。冬の日本海、台風、といったキーワードが出てきましたが、他の方どうですか。
B:神秘的な感じがする。空の真ん中の所に、白い部分があり、光が差し込んでいるので神々しい。
澄:それは、(示しながら)この部分からですか?
A:描かれている大半は海だが、主体は、あそこ(上空)の光だと思う。本来なら(画面奥水平線を指して)この辺りが光っているはずだが、この波が明るく描かれている。
澄:ご自身も絵を描きますか?描く時、このような風景の場合は光の当たり方が違うということ?
C:乾いた後、おつゆ描きで、うすく赤をのせたところが、この人の描き方だと思う。面白い。
澄:赤をのせるところとのせないとかなり印象が違いますか?
C:白いところにうすい赤をのせると濁ってしまう。
澄:技法などにも触れて考えてくださいました。他には?
D:海だと思う。岩とか砂浜とかが描かれていない。どうしてだろう。
A:安定した感じ。空、波、波打ち際の画面からの比率を見ると、黄金分割のように分かれている。下に砂浜があるだろうが見えない。
E:険しい波。 
澄:どこから険しさを感じられましたか?
E:このあたり(波の盛り上がっている部分を指して)。
F:東映映画のオープニングがぴんときた。
G:冬の海だと思う。寒さを感じないのはなぜかと思っていた。厳しいタッチではなく、この波が柔らかいタッチで描かれていることと、波の上に光が当たっているとおっしゃっていたが、この波の上にも、雲間が有り、光が差し込んでいるから、その感じから、暖かさを感じるので、寒さを感じない。
澄:初めに「冬の海」という発言があった。見てきて、色や描かれているもの、波しぶきの感じから皆さんは「寒さ」などといった感じを受けますか?それとも先ほど「柔らかい」と言われたが「柔らかい」感じを受けますか?
E:冬だと思うけれど、どちらかと言うと柔らかい感じを受けた。白い光の中にピンクを入れているところに温かさを感じるのではないか。荒い波だからやはり冬。
B:両方あるなと思いました。冷たさや厳しさは濃い色から、白やタッチからは柔らかさを感じる。
C:日本海ならもっと波が立つ。
A:風をあまり感じない。ほとんど感じない。これほど波が立っていたら、もっと奥も波があるはず。
D:初めに台風のことをおっしゃった方がいたが、これは台風が去って今から落ち着いていくのでは?何時間か前は荒れ狂っていただろう海だが、これは、台風が去って光は満ちる「あけぼの」の状態。
F:光が有る。空の分け目に。
澄:たしかに光がある。
G:浜田にゆかりがある作家のブースなので、浜田の海なのかなと思っている。山陰の海は確かに荒れているけれども、どこかに穏やかさがあるというイメージがある。山陰の気候や風土がこの作品の通底にあるのかなと思う。リアルに荒れているのではなく穏やかなイメージがあって・・・。もしかしたらこの土地を離れて懐かしい自分の思い描く故郷というイメージの作品ではないか。
澄:今言われたが、(キャプションを示し)「浜田市出身の画家で、教員を経て上京して絵を描くことに専念した」とある。故郷を思い出し描くと言われたが、もしかしたらそうなのかもしれない。
F:これは浜田?伊豆大島みたいな感じがする。
澄:どうして、伊豆大島だと思った?伊豆大島に行ったことがある?
澄:ふるさとを描いたかもしれ無いし、伊豆大島と言われたけれど、他のところで海を見ながら浜田の海を描いたのかもしれない。
D:波が描きたかったんだろうと思う。海と空しかないから。海の方が面積が大きい。題名に「永遠」と書かれている。波がひいては寄せてと繰り返すということを描きたかったのではないかと題名を見て思った。
澄:「永遠」というタイトルである。
澄:今まで、波と海しかない、光がさしている、荒れていて厳しさを感じるけれど柔らかさもある、その両面を感じると言ってくださいました。少し、赤という色味を感じることや描き方にも触れていただいた。さて、「永遠」というタイトルを聞いてもう一度この作品を見た時に、どうですか。違う感じとかありますか?
A:ある少女に、水平線の先には何があるかと問うた時に「水平線がある」と答えたという話がある。永遠と聞いてそれを思い出した。でもタイトルは「波」でもいいかも。
H:永遠は日常である。波は繰り返す。毎日も繰り返す。だから永遠。
E:元に戻るけれど、舞台のようにも見える。すごく写実的に描かれている。記憶のイメージを描いていて、光がスポットライト、日々のドラマチックな映像が始まるように思った。
G:雲の切れ間が真ん中にある。どこが切れていてもいいはずなのに。「ドラマチックに」「舞台で」と聞くと、なにがしかの意図があると思う。「永遠」というタイトルだし、天候も刻々と変わるけど光は常にそこにある。地球と月がある限り波は繰り返す。切り取られている場面は、一場面だけれど。そこに作者の気持ちが込められているのでは?
澄:この作者の気持ちを言われましたが、他の皆さんはどう思われましたか。作者はどんなことを描こうとしたと思いますか?
B:私は、いいことも悪いこともやってくるということかと。それは、雲の間からの光は希望、波のぐっと奥まっているところは怖さや闇にも見える。良いことも悪いことも繰り返して永遠につながっていくようなことではないかと思いました。
A:隣の作品は「正月」という題。「正月」と言われれば正月のような気もするし。タイトルってどうなのかなと。
澄:もしかしたら作者はそんなにタイトルを考えていないと?
G:たしかに、べつに「永遠」で無くてもいいかもしれないが、波の途絶えることはなく寄せては返すしところから繰り返し続く時間的な流れと、形が変わるという二つの意味はあると思う。雲の切れ間があって光が差しているところから、見る人には明るいものがそこにあるだけで気持ちが晴れるというか・・・。山陰の空って人を暗く重くさせるものだけれど、少し光があることで気分が明るくなる。山陰独特の感性みたいなのは、この作品に投影されているような気がする。
D:自分も光に神々しさのようなものを感じていて、多くの神話では事の初めは空と海から始まっている。だとすると、真ん中に光があることは意味があることだと思う。そうなると、海にも空にも主題があって、どっちも大事。
G:だから、真ん中に光がある。
澄:光というのは、すごく大きい意味があるのだということですか?
I:どうもね、緻密にね、微細にこれだけ描いているのに、あのサインはいただけない。邪魔している。
(笑)
澄:はじめにこの作品を見た時に、荒れている感じなのに柔らかい印象を受ける絵だなと思った。描かれているものは少ないがタイトルにも触れていただいたことで、見方が広がると思わなかったが、楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

<活動を振り返って>
作品選定の理由:対象のモチーフは、海と波、注がれる光のみである。一見すると荒々しい冬の海であるがそこからは「やわらかさ」「あたたかさ」も感じ、鑑賞者の受け止め方は様々であることが想定されると考えこの作品を選定した。リピーターが多く、いずれの鑑賞者も絵を描いている方なので、「描き手の立場」から鑑賞することで作者の心情を感じ取ることができるのではないかと考えたことも、理由のひとつである。また、鑑賞が進むにつれ、キャプションに目が留まることは十分想定される。今回は「永遠」という作品名である。作品名と描かれている対象とを関連させて考えた時に、新たな見方が表出されるであろうとも考えた。
①描かれているものが限られていたので、第一印象からというアプローチを行ったが?
・逆に迷わせてしまったかもしれない(いつもは何でもいいですよ、という導入)
・曖昧な絵だったので「印象」は答えにくいのかもしれない
・「どんな感じがする?」という聞き方の方が答えやすかった?
・何が描かれている?でもよかった。例えば、「海」→「どんな海?」→「荒れているけど、柔らかい印象の海」という感じ。
・海なら海、空なら空、と絞ってもよかったのではないか?
・鑑賞者はリピーターなので、周囲の意見を聴いて鑑賞を深めていた。
・「色の塗り方について」さらに深める方法もある。
・少年の声は、そばに行きつぶやきを拾った後、全体に流してもよかった。
②ナビというより鑑賞者にゆだねたところが多かったが?
・発言と発言をつなげたり、小まとめすることは少なかった。一人の発言が長くて多岐にわたっていた。視点を絞り、意見を集約すればより深めることができるのではないか。
③タイトルを明かしたことは?
・「永遠」というタイトルを明かしたことで、鑑賞者は自分の日常と照らし合わせて語っていた。
・鑑賞者の発言を受けてキャプションの内容を触れたのは、よかったのではないか。
④その他
・作品は「海」を描いたものである。海に対する印象は自身の体験や経験に裏付けられたものではないか。同じ海の絵を見ても自身の育った場所の海の印象をフィルターにかけて見るであろう。海の受け止め方も人それぞれ。
・終わった後に「潮のにおいがする」「音がする」というつぶやきがあった。おそらくそれは、この鑑賞から五感を通して味わっていた結果ではないか。
・海と波などしかないが、それしか描かない理由があるはず。心象風景である。心象風景だから自己投影がしやすくなるのではないか。
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みるみる会員松田さんの個展レポートです!!

2014-10-13 11:15:33 | 対話型鑑賞
みるみる会員松田さんの個展レポートです!!


みるみる会員松田さんは彫刻家です。先の山口県展でも優秀賞を受賞しています。
個展を世界遺産の石見銀山で開催しています。そこに、会員の房野さんが訪れました。レポートが届いたのでUPしますね。

松田 淳氏  彫刻展のレポート

10月11日、台風が来る前に、と思い、みるみるのお仲間でもある松田さんの「彫刻展」に行ってまいりました。

場所は島根県大田市大森町。
世界遺産にもなった石見銀山の街並みの中、「水仙の店」という古民家で開催中の「松田淳彫刻展」です。何とも味わいのある古民家に、松田さんのこれまたぽってりとした味のある作品がマッチしていて、素敵な個展でした。
松田さん手作りの幕は、作品のエッセンスをこめた「ももくり」マークです(^^)

すぐ近くの「大森町町並み交流センター」では「現代彫刻小品展」も開催中でした。大森町在住の彫刻家・吉田正純氏の鉄の彫刻をはじめ、全国の彫刻家の様々な素材の彫刻が並び、作品は小さいながら、見ごたえたっぷりの彫刻展でした。

大森の街並みはまるでタイムスリップしたような昔のたたずまいで、街角の自動販売機までも木調でした。
帰りに「群言堂」という雑貨屋さんに寄って、久々にゆったりほっこりした時を過ごすことができました。

どちらの彫刻展も10月19日までです。是非、お立ち寄りください。
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広島現美に行ってきました!!

2014-10-07 21:57:06 | 対話型鑑賞
広島現美に行ってきました!!


会員の金谷さんが広島現美に行ってきました!!
レポートが届きましたのでUPします。

「ぐりとぐら」を読まずに大人になる日本人はいないのではないかと思うくらいの童話の展覧会に出かけたようです。
ちょっと、前なんですけどね・・・。では、ご覧ください。


みるみるの金谷です。先日・・・いや先月「ぐりとぐら展」(ひろしま美術館)と「第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展」(広島市現代美術館)に出かけました。

 「ぐりとぐら」といえば、「ぼくらのなまえは ぐりとぐら このよでいちばんすきなのは~」と思わず口ずさんでしまう方もいるのでは?「ぐりとぐら展」は、そんな「ぐりとぐら」の誕生50周年を記念した、ぐりとぐらの絵本や関連本の原画展です。

 展覧会場前には、大きな玉子がドーンと置いてあり、赤と青のサロペットや帽子を身につけた子どもたちが「ぐりとぐら」になりきって、玉子と一緒にカメラに収まっていました。このときは一人で来てしまったことを、ちょっと残念に思いました。「ぐりとぐら」になりきったちびっこたち、かわいかったですよ。
 
「ぐりとぐら」のシリーズは、自分が子どもの頃はもちろん、娘たちとも読んでいた大好きな絵本です。でも、この原画展をみて「再発見」の連続でした。「こんなに、色鮮やかに描かれていたの?」や「こんなところに、棒がある!」「こういう草や木ってあるよね!リアルだぁ」等々、みることが楽しくてたまりません。こういうのを眼福というのかなぁ、なんて思いながら、会場を行ったり来たりしていました。

 絵本では、絵と文字(物語)がセットになっています。展覧会場ではあらすじや作者の言葉がキャプションになっていますが、基本的に絵は絵だけで展示されています。文字から離れて絵に集中してみたからこそ、再発見できたのかもしれないなと思いました。

絵本は絵と物語で一つの作品になっているので、矛盾するようだけれども、絵だけでも幸せになれるって面白い!と思いました。もちろん、山脇百合子さんの絵があるのも、中川李枝子さんのお話があるからこそですね。

カフェでは、展覧会にちなんだメニューも登場。その中で私は、フライパンカステラを注文しました。ミニフライパンに乗った、ふかふかのカステラに、アイスをつけて「いただきまーす!」。目だけではなく、おなかも幸せになった、ひろしま美術館でのひと時でした。

「ぐりとぐら展」の会期は10月13日まで。
ひろしま美術館で、こころも、おなかも、おしあわせにー!


さて、次に訪れたのは、広島現代美術館(ゲンビ)での「ドリス・サルセド展」です。少し前から、ポスターなどを目にしていましたが、「何だかよくわからない」「でも、なにか気にかかる」というのが正直なところでした。そこで、学芸員さんによるギャラリートークがあると知り、それにあわせてゲンビを訪れました。

ゲンビのHPにドリス・サルセドさんの紹介があります。
>1958年にコロンビアの首都ボゴタに生まれたドリス・サルセドは、自国コロンビアをはじめ、世界で横行する暴力や差別などに対して、芸術が強い抵抗の力を持ち得ることを一貫して示してきた作家です。

学芸員さんから、コロンビアでの紛争や暴力によって、多くの方が犠牲になっているという話を聴き、あまりのひどさに、今、自分が生きている同じ時代に起こっていることとは思えませんでした。悲しみと怒りの海が、静かに自分の中に広がっていくような感じでした。

この展覧会で展示されているのは、無数のバラの花びらを糸で縫い合わせ、大きな1枚の布のように仕立てられた「ア・フロール・デ・ピエル」と、土の塊をはさむ形で重ねられた長机が部屋中に無数に並べられたインスタレーション「プレガリア・ムーダ」です。

「ア・フロール・デ・ピエル」のくすんだ赤い色は、人の血の色のようであり、傷ついた心の色であるようにもみえました。何か、生々しい傷口のようでありながらも、しっとりとした(ようにみえる)花びらの表面からは、柔らかさも感じられました。思わず「・・・痛かったね、つらかったね」と小さく呟いていました。そして、気の遠くなるような花びらの枚数に、何万人ともいわれる犠牲になった方を思いました。学芸員さんによると、この作品は拷問の末に亡くなったとされる、一人の行方不明の女性に捧げられているとのこと。一人の方に捧げられた作品でありながら、私には数知れない多くの方々の痛みまでも覆う、大きな毛布のようにみえました。

その後、地下1階展示室の「プレガリア・ムーダ」へ。この展示室すべての空間が、このインスタレーションで埋め尽くされています。20センチ位の厚さの土を、天板ではさんで重ねられた木製の長机の間を、ゆっくりと歩きました。机の天板の裏から、小さな草がいくつも生えていました。静かな空間に、並べられた机たちは、まるで棺のようでした。

「〈ア・フロール・デ・ピエル〉が普遍的な一人の誰でもない者への献花であるなら、本作は無数の誰でもない者のための追悼といえます。現代の大都市に偏在する貧困層の居住地区では、繰り返される暴力のなかで若者たちが殺されています。(後略)」(展覧会パンフレットより)

棺のような机の間を歩きながら、机の長さや草の生え方、そして間にはさまれている土の厚さも、一つずつ違っていることに気づきました。もしかすると、これは、亡くなった一人ひとりが、犠牲者という言葉一つで括られてしまうのではなく、自分の人生のストーリーをもって生きていた、一人ひとり違った人間であるということを表しているように思いました。中には、上に重ねられている机が土をはさんで、下の机の天板と平行ではなく、少し斜めになっているものもありました。もしかして、埋葬される際に、腕や足をなくされていた方なのかもしれない、だからその部分がない分、机が斜めに下がっているのかも、と。

私は目の前にあるものを、土をはさんで重ねられた机たちではなく、犠牲になった方々を埋葬しているお墓としてみている自分に気が付きました。でも、なぜ長机なんだろう?ふと疑問が浮かびました。もしかすると、机は学ぶ場や教育を意味しているのではないかと。「(若者たちは)本当は、学びたかったのでは?」「知識や教養を身につけていくことで、貧困や暴力から抜け出せるということかな?」「机から生えている草とともに、教育が再生へのキーワードなのかな」等々、ひとりACOP(自分と対話しながら鑑賞)をしていました。

「ア・フロール・デ・ピエル」と「プレガリア・ムーダ」に共通して思ったことは、手仕事が半端ない!ということです。何らかの処理が施されているとはいえ、バラの花びらを1枚1枚縫い合わせるという行為や、机の天板裏に小さな穴をあけ、草の種を一つずつ植えていくという作業(机に生えている草はすべて、本物!)は、本当に気が遠くなります。作品に合わせてチームを編成し、制作するということを聞いたのですが、そのもとにあるメッセージや思いの強さに、私は打たれました。

そこまでして、伝えたいことがある。ドリス・サルセドさん、強く美しい方です。


私が、レポートを準備している間に、コレクション展「どちらでもない/どちらでもある」は、終了してしまいました。「やっぱ、ゲンビいいよなぁ」(上から目線ですみません)と思う作品をたっぷりみることができました。改めて「ヒロシマ」を思い、考えることもでき、胸がいっぱいになりました。

ちなみに、ドリス・サルセド展は10月13日まで開催中です。静かな空間の中で、ドリス・サルセドさんの思いに触れてみませんか?
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光中の生徒の振り返りの記述をお届けします

2014-10-05 09:25:06 | 対話型鑑賞


4回目の対話型鑑賞をベン・シャーンの「解放」で行いました!!皆さんの記述の一部を紹介します。感想は次号に!!
まずは、ふりかえりの集計から
授業のふりかえり
           質 問 事 項               4    3 2 1
A しっかり絵をみることができた       14人 2人 1人 0人
B 絵を見てしっかり考えることができた     14人 2人 1人 0人
C 自分の意見を言うことができた       10人 3人 0人 4人
D 友だちの意見をしっかり聞くことができた 14人    2人 1人 0人
E 友だちの意見を聞いて、自分の考えをより深めることができた13人 3人 1人  0人
F このような鑑賞をまたやりたい 11人 5人 1人   0人

 今回の作品は「どこからそう思ったか。」に加えて「そこからどう思うか。」についても考えるように促したので、ちょっと難しく感じた人が多かったように思います。そのため発言できなかった人がいて、問Cの評価が1の人がいつもより多いと思います。でも、発言はできなかったのですが、記述を見るとみんなしっかり書けているので、友だちの意見に耳を傾けながら、自分の意見を考えることができていると思うので、それで十分だと思います。ただ、やはり、自分の意見をみんなの前で言えたなら、あなたの意見で、仲間の考えが変わったり、新たな見方ができたりすると思うので、みんなに向かって自分の意見を言うことは大切な行為だと私は思います。
 そして、今回はこの作品を描いた作者からのメッセージについても考えてもらいました。そのことについての記述を紹介します。全文を記載するとすごい量になるので、その部分のみの紹介にします。

(男子)
 僕は自然災害や戦争などで親を無くしてしまった子どもが世界にたくさんいることを伝えたかったんだと思います。そんな一人で悲しい子どもを世界からなくしていこうということだと思います。
(女子)
 悲しい状況でも遊んでいるのを見て、復興が始まった希望を表していると思います。辛いことがあっても、何年かたてばきっと人の気持ちも明るくなって、楽しい日々が送れるということを遊んでいる様子から思いました。
(女子)
 後ろで壊れたビルやがれきがそのまま残っているにもかかわらず、3人の子どもたちがぶら下がって遊んでいるので、今までこんな辛くて大変なことがあっても、それに負けないで大切さが伝えたいのではないかと思います。(中略)みんなであの遊具で遊びたくなって帰ってきたと思うから、故郷を思い続ける大切さも訴えていると思います。
(女子)
 久しぶりにいつもの遊具で遊んでいるという意見もあったのですが、わたしは3人で遊んでいるといつも呼びに来ていた母が亡くなってしまって、また会いたい、迎えに来てほしいという3人の願いが込められているのではないかと思いました。
(男子)
 この絵から僕が感じたことは、今、僕たちも野球などして遊んでいる。そしてこの子たちも遊んでいる。同じ遊んでいるでも周りの状況は明らかに違う。今は平和に遊べているが、この絵のように遊んではいるが思いっきり楽しく遊んでいる訳ではないので、他の国では戦争によってこのような状態になってしまっている。同じ年代でも経験していることは違うので、いろいろなことを知って、戦争というものの悲惨さを訴えているのだと思う。今、このように平和に生きて、楽しく遊べているこの瞬間を大切にしていこうと思った。
(女子)
 (前略)この女の子たちにとってこの場所はとてもなじみのある場所なんじゃないかと思いました。あと女の子の顔は笑ってないので楽しくないんじゃないかと思いました。以上のことから、この女の子たちはここによく遊びに来ていて、よくこの遊具で遊んでいたけど、戦争が始まってしまったので遊べなくなってしまい、戦争が終わり戻って来てみたら、ビルは壊れてがれきまみれになっている町を見てとても悲しい気持ちになったんじゃないかなと思いました。それは顔からわかります。だから子どももこんな悲しい気持ちになる戦争はやってはいけないという考えをみている人に読み取ってほしいのじゃないかなと思いました。
 (男子)
 この絵は戦争後で戦争中は外で遊べなかった子どもたちが思いっきり遊べているので、平和になったことのうれしさと今までのものが戦争によって壊された悲しさを訴えかけてくる絵だなと思いました。
 (男子)
 作品から受け取るメッセージは潜像や災害が終わって久しぶりに前遊んでいたところで遊んでいるけど、全然楽しそうな感じが伝わってこないので、戦争や災害が人や物に与えるダメージはとてつもなく恐ろしい物なんだと改めて思いました。
 (男子)
 この絵からはどんなに大きな災害があっても大切な場所を捨ててはならないということです。3年前の東北大震災の時にも同じように街や建物が破壊されてしまいました。そして原発事故などで放射線が飛び交い東北地方は「死の町」となりました。それでも住民は諦めずに東北の町に残り続けました。だからこの絵を観て自分の愛する町はなにがあっても見捨ててはいけないものだと思いました。(中略)この絵のような町はたくさんあります。(イラクなど)だから支援をしていくことがとても大切だと思います。
 (女子)
 あの絵からは、崩壊した建物とガレキの山の影響、緑の服の少女の顔つきが暗いためか怖いものを感じました。何らかの災害があったようです。ですが、それでも少女たちは遊んでいるようなので、あの絵を描いた人は私たちに「苦しみの中にも楽しみはある」ということを伝えたかったのではないでしょうか。
 (女子)
 この絵から、作者は、たとえどんな状況であっても、ふるさとを捨ててはならないということを見る側に伝えたかったのではないかと考えました。
 (女子)
 真ん中にいる3人は一緒に遊んでいるから前から仲よしで、遊べるものがこの棒のようななくなってしまって、しょうがなく遊んでいると想像しました。この作品から災害みたいな悲しいことがあっても、前向きな子どもたちの気持ちを感じました。
 (女子)
 この絵の奥にある建物を見て、上のところが黒くこげていて爆弾が落とされた後のように見えるので、私は戦争の後かなと思いました。戦争の後というマイナスなイメージなのに子どもたちが遊んでいる風景はなにか不自然な感じがしました。また遊ぶことは楽しいはずなのに子どもたちの表情が嬉しそうではなく、暗いように見えたので全体的に悲しいとかさびしい印象を受けました。だから私は戦争は人の笑顔を奪ってしまうからいけないことだということを伝えたかったのかなと思いました。
 (女子)
 (前略)3人の子供はこの遊具の場所をしっているので、この場所は3人の故郷のような所だとも思います。戦争後に戻ってきて遊びに来たのではないでしょうか。遊んでいるけど、緑のワンピースの人の表情が笑ってないし、3人が当時いた時とはかわりはてていると思うので、昔のこの場所のことを思い出して悲しい気持ちでいると思います。この絵からは「たとえどんなにもといた場所がかわりはてていたとしても、それでも遊びに来た3人のように、故郷を大切に思って欲しい」という思いがあるのではないかと思いました。
 (男子)
 この絵は戦争後に子供たちがかえってきて遊んでいる絵だと思う。戦争のない世界にすることを作品で訴えていると思った。

 以上が生徒の記述です。次回は本番の授業となります。次回で光中学校の生徒との出前授業は終わりになります。それを惜しんでくれる生徒の声もあり、うれしく思いました。
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