今日、今年初めてのボランティアに行ってきました。
例の昔の暮らし体験ですが子供達相手ではありません。
実は去年、文化財収蔵館はリニューアルして博物館になりました。
そのリニューアルした建物で、日を決めて来館した方々相手に色々と体験してもらう趣向なのです。
今回、体験してもらうことは綿繰りと糸紡ぎで、いつもと同じでした。
それと、子供さんに楽しんでもらおうと福笑いも用意されていました。
子供向けといっても、大人の来館者も結構楽しんでいました。
私も、一応体験しておこうと福笑いに挑戦。
結果は。
結構いい線いってます。
体験室には機織機も置かれています。
来月は機も織ってもらう予定らしいです。
機織機は、見ているだけでも市の歴史の一端が伺えます。
この機織機は大島紬の機織機です。
市民から寄贈されたものですが、阪神間になぜ大島紬の機織機があるかというと、市が戦後栄えた工業都市だったからです。
どういうことかと言うと、第二次世界大戦後、奄美大島や喜界島、徳之島といった奄美群島にはこれといった産業がなく、多くの人が職を求めて阪神間に移住したようです。
移住した男性は工場労働者になるのですが、家族として共にやってきた女性は大島紬の技術を持っているので、島から糸を送ってもらい、家で大島紬を織ったとのことです。
織りあがった大島紬は島に送られ、厳しい審査を経て大島紬として売られたそうです。
ただ、今ではそうした女性達も齢をとり、亡くなったりして、大島紬の機織機が市の博物館に寄贈されることとなったようです。
この博物館の大島紬の機織機で大島紬は織れるのかというと、そんな高度な技術を持ったボランティアはいませんので織れません。
でも普通の織機としても使えるので、普通に使っています。
大島紬の織り方は、ちょっと話を聞いただけでも気の遠くなるような作業なのです。
高価なのは当たり前です。
工業都市だった市は、様々な公害で全国に知れ渡るのですが、今では工場も少なくなり、臨海地帯の広大な工場跡地は21世紀の森として自然環境の復活を目指しています。
まさに日本の現代史の縮図です。
でも大島紬がそんな市で織られていたなんて、ちょっと意外です。
今日は寒かったのですが、それでも来館者はぼつぼつとありました。
今年はなるべくボランティアにも参加したいです。
例の昔の暮らし体験ですが子供達相手ではありません。
実は去年、文化財収蔵館はリニューアルして博物館になりました。
そのリニューアルした建物で、日を決めて来館した方々相手に色々と体験してもらう趣向なのです。
今回、体験してもらうことは綿繰りと糸紡ぎで、いつもと同じでした。
それと、子供さんに楽しんでもらおうと福笑いも用意されていました。
子供向けといっても、大人の来館者も結構楽しんでいました。
私も、一応体験しておこうと福笑いに挑戦。
結果は。
結構いい線いってます。
体験室には機織機も置かれています。
来月は機も織ってもらう予定らしいです。
機織機は、見ているだけでも市の歴史の一端が伺えます。
この機織機は大島紬の機織機です。
市民から寄贈されたものですが、阪神間になぜ大島紬の機織機があるかというと、市が戦後栄えた工業都市だったからです。
どういうことかと言うと、第二次世界大戦後、奄美大島や喜界島、徳之島といった奄美群島にはこれといった産業がなく、多くの人が職を求めて阪神間に移住したようです。
移住した男性は工場労働者になるのですが、家族として共にやってきた女性は大島紬の技術を持っているので、島から糸を送ってもらい、家で大島紬を織ったとのことです。
織りあがった大島紬は島に送られ、厳しい審査を経て大島紬として売られたそうです。
ただ、今ではそうした女性達も齢をとり、亡くなったりして、大島紬の機織機が市の博物館に寄贈されることとなったようです。
この博物館の大島紬の機織機で大島紬は織れるのかというと、そんな高度な技術を持ったボランティアはいませんので織れません。
でも普通の織機としても使えるので、普通に使っています。
大島紬の織り方は、ちょっと話を聞いただけでも気の遠くなるような作業なのです。
高価なのは当たり前です。
工業都市だった市は、様々な公害で全国に知れ渡るのですが、今では工場も少なくなり、臨海地帯の広大な工場跡地は21世紀の森として自然環境の復活を目指しています。
まさに日本の現代史の縮図です。
でも大島紬がそんな市で織られていたなんて、ちょっと意外です。
今日は寒かったのですが、それでも来館者はぼつぼつとありました。
今年はなるべくボランティアにも参加したいです。
大島紬にそんな歴史があるとは知りませんでした。高価で私には縁のない織物ということだけでした。
以前の勤務先に奄美黄島出身の女性がいたのですが、彼女の親戚縁者etc大勢が尼崎に住んでいました。
彼女の祖父母の代で戦争をきっかけに移住してきたんですね。
ちなみに奄美黄島出身の方達は背の高い人が少なく、彼女の結婚式に出席したときにそれを実感しました。
その審査が厳しくて、織り手の技術力によって貰える金額も全然違っていたらしいです。
そうやってブランドが守られたのでしょうね。
奄美黄島というのは奄美大島のことですか?
私の知人にも徳之島出身の人がいます。
尼崎は奄美群島や沖縄出身者が多いです。
戦争がきっかけというより、戦後の日本の経済復興に奄美群島は立ち遅れてしまったというのがあるのでしょうね。
でもなぜ尼崎にかたまって移住したのかは不明です。
人手を必要とした工業都市は他にもあった筈なのに。
>>奄美黄島というのは奄美大島のことですか?
そうです、すみません。誤変換に気づきませんでした(_ _)
大島が 阪神間で 作られていたとは 知らずにお召の方もいらっしゃるでしょう
私の職場には 親が 沖縄出身の人が 居ました
帰省にパスポートが 要ら無くなった日のことなど
憶えています
ただ、阪神間で織られたというだけで品質的には本場奄美の物と変わらなかった筈です。
ちなみにひと頃は韓国でも大島紬が織られたようです。
昭和50年代、まだ日本の女性が着物を着ていた頃、大島紬はブームで、とにかく需要があり、人件費が安かった韓国でも織られたみたいです。
今はないでしょうけど。
歴史は経済で動いているのかもしれませんね(笑)
博物館が市民にとっつきやすい場所になることは、とても大事なことだと思います。ボランティア、頑張ってくださいね
もう一つ、「島育ち」という有名な歌がありますが、その島が伊豆の大島なのか奄美大島なのか、分からなくてネットで調べたら奄美大島でした。
大島とだけ言われたら分からないですよね。
ボランティア、コロナでどうなるか分かりません。
この日も、福笑いも何もかも人が触った物は除菌シートやアルコールスプレーで消毒しまくりでした。
意外な広がりがあったんですね。
おそらくどなたかが尼崎に来て、それを頼ってほかの人たちも来たのでしょうか。
大島機はきつく織れると、私の織の先生の話でした。
織り方は簡単な平織りですが、平織りは織り目の調子をそろえるのが難しく、乱れると見苦しくて下手なのがよくわかります。
私も平織りは苦手です。
お写真の織機、まだまだ使えそうですね。
時折、そちら様のブログを楽しく読ませていただいてます。
大島紬の機織機、写真の一台だけでなく他にもあり、すべて市民からの寄贈です。
ただ、寄贈された段階では修理の必要な場合が多く、博物館で、ボランティアも一緒になって復元し、使えるようにしています。
私はノータッチですが、復元も大変な作業のようです。
ボランティアで織に詳しい人がおり、その方の指導でやってます。
大島紬、母の遺品であったのですが、洗い張りに出して、私のサイズに仕立て直してもらったところ、見違えるほど綺麗になって戻ってきました。
それで大島紬の魅力がやっと分かりました。