なんだかややこしそうな題ですが、実際ややこしい事柄について書いてみたいと思います。
長いし、興味のない人はスルーしてください。
私は2年前に「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」という記事を①②③④と4つ分割してアップしました。
我ながら長いんですが、日本の男子新体操が、その歴史を含めどのようなスポーツか、今現在どういう問題を抱えているか、とりわけ男子新体操がジェンダーやLGBTQの問題とどう関わるのか書こうとすると長くなるのです。
今回のこの記事と「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④は、一連のものなので、“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーでまとめ、また読みやすいように記事の順序としても並べておきました。
興味のある人は読んでください。
今回はこのテーマで、ややこしい論証はすでに前の記事でしてますので、少しまとめる形で書いてみたいと思います。
きっかけになったのはフォローしているブログ「アルファロメオと小倉唯」さんの以下の記事でした。
この記事でブログ主のバロリスタさんは、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの書物「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」について書かれてます。
ジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」は、なんでもフェミニズムについての今までの考えをひっくり返すような革命的で刺激的な本らしいです。
ただ、読むには難解を極めていて、大半の人がお手上げらしい。
そんなお手上げな本、ちょっと私にも読めません。
で、一番良くないパターンかも知れませんが、ネット検索でだいたいの内容を調べてみたりしました。
結果、一番詳しく書いておられたのは、 Wikipedia 以外だとバロリスタさんではないかと思いました。
いずれにしても、検索した記事に目を通しただけでも、私はその本とは別に、それなりに刺激を受けました。
というのも、私は男子新体操におけるジェンダーとLGBTQの問題にずっと関心(寒心かもしれない)を抱いていたからです。
それで、改めてそのテーマを私なりに整理し、新たな情報も書いてみたいと思ったのです。
それは、日本の男子新体操が国際化に際し、どのような障壁があるかを具体的に示すことになります。
実は男子新体操は16年の長きにわたり国スポ(旧国体)から外されていて今年ようやく復帰しています。(一度国体から外された競技がもう一度国体に復帰することは奇跡に近いそうです)
国体を外された理由というのが、国内でもやっている人が少ないし国際化されていないということだったようです。
日本の男子新体操は日本でしか行われていなかったからですが、今も事情はほとんど変わっていません。
日本以外で日本式の男子新体操を行っている国はロシアだけのようです。
やり始めようとしている国はあるそうです。
では男子新体操はそんなにも魅力のない競技なのかというと、そうではないのです。
たとえば、以下の、おそらくアメリカ人によるものと思われるコメントは14年前の花園大学の演技動画についていたものです。
ここでも、演技そのものについては素晴らしいものだと認めているのです。
でもアメリカでは通用しないと言います。
このコメントだけ読むと謎のようなコメントです。
ですが、他の多くのコメントから類推すると、要するに男子新体操はどんなに素晴らしくてもアメリカのジェンダー規範に反しているから受け入れられないということです。
つまり、信じられないような話ながら、先進国中ジェンダーギャップ指数が最下位の日本ですが、意外にも男子新体操は、世界におけるその分野のジェンダー平等の先駆け的存在であり、それが日本の男子新体操というスポーツの困難になっているのです。
というのも、私も驚いたのですが、欧米西側諸国の文化的側面におけるジェンダー規範はとてつもなく強烈なものだからです。
具体的には、踊ること=ダンスは女性が行う行為だとみなされていることです。
たとえば、器械体操の床運動で、音楽付きで演技するのは女性だけですし、ヨーロッパ発祥の新体操は長年の間、女性のみのスポーツだとされてきました。
もちろん、実際には欧米でも男性は踊っているのですが、どうやら衣装がレオタードのようなのが特にダメみたいです。(レオタードはそもそも軽業師の男性が着始め、今ももちろん男性用があるのですが、なぜか男性用レオタードに対して物凄い嫌悪感が示されます。)
男性が踊る場合、集団、個人を問わず、男女を対とするヘテロセクシャル(異性愛)な雰囲気の中で女性をサポートするなど、男性が男性であることがはっきりしている場合に許容されているようです。(例えば社交ダンス)
欧米系の素晴らしいダンスとしてすぐに思い浮かぶミュージカルでは、演者はダンサーというより俳優とみなされているようです。
ストーリー自体がたいてい男女の恋愛もので、その中で男性の演者は役柄や衣装等で男性であることが明示された上で歌い、踊っています。
でなければ「キャッツ」や「ライオンキング」のように動物にしてしまう。
あと、異なる社会的文脈を背景にして成立していると思われるブレイキンなど、ストリート系のダンスも男性が踊ってもおかしくないようです。(昔ならばタップダンスなど、いわゆるダンスとは別物という認識なのか? よく分かりません)
さらに異なる民族・文化圏に属することがはっきりしている民族舞踊は、自分達とは全く別物の文化としてなのか、これも許容されるようです。
そういう例外はあるものの、私が調べた限り、ジェンダー、つまり社会的文化的な性別役割の、このダンスに対する一部欧米人の意識は、一日本人である私の想像をはるかに絶する強烈なものでした。
私が前の記事で論証していったように、性別が示されていない形で男子新体操の演技を見た人々の中には、演者が姿形から男性であることが容易に想像できるのに女性だと思いこんでいる人達がとても多くいました。
彼らが女性だと思った理由は、彼ら自身も無意識で分かっていないようなのですが、選手達が踊っているからです。
その前に男子新体操はダンスなのか? ですが、音楽に合わせて演技するという意味ではダンスです。
実際は、男子新体操はアクロバット+徒手体操+ダンスです。
ただ、選手達は演技することを踊ると言うそうです。
井原高校男子新体操部の練習風景の動画では「自分には、選手たちが演技している時は少女に見え、それ以外の時は少年に見える」というような外国人のコメントもありました。
踊っている時と、そうでない時で、同じ人物の性別が変わるのです。
踊っていれば、脳が自動的に女性と認識してしまうほど、ダンスは女性がするものと思われているのです。
よく言われるアンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)も、そこまでいくと恐ろしいです。
一般日本人なら、演技内容や選手の姿形から男性だと分かると思うのですが、彼らにとっては踊っている人は女性であり、踊ることは女らしさそのものなのです。
曖昧なものは役割や服装で性別をはっきりさせるのです。
それが彼らの譲ることのできないジェンダー規範のようなのでした。
性別判断において、男性の身体を持っていることより、踊っていることの方(=ジェンダー)が重視されるのです。
この辺り、生物学的性差(セックス)がジェンダー(社会的性差)を作り出すのではなく、ジェンダーがセックスを決めるみたいなことを言っているらしいジュディス・バトラーの考えを図らずも立証しているようです。
そして男子新体操はその名の通り男性が行っているものです。
なのにリズムに合わせて踊っている。
踊っているのが女性ではないと知ると彼らの脳はどう反応するのか。
そこで二義的に出てくるのがLGBTQという概念です。
要するに、踊る男を見ると、ネットスラングを借りるならば脊髄反射的に「そいつはゲイだ」と言うわけです。
前に論証として、2009年、青森大学の男子新体操の動画のコメントから挙げましたが、私が言っていることが大袈裟でないと理解してもらうために、もう一度日本語に翻訳したコメント欄のスクショをほんの一部ですが挙げてみます。
誤解なきよう付け加えておくと、2009年の青森大学の演技はその芸術性とスキルの高さゆえに伝説的な演技であり、初めて国外でバズった動画です。
もちろん、国内外の多くの人達に賞賛されています。
(ゲイだと決めつけるコメントでも演技の素晴らしさには気づかれています)
実際、前にも書いたように、この動画を見た世界的なサーカス集団であるシルク・ドゥ・ソレイユのプロデューサーは直ぐに日本にリクルーターを送り、その時は7名の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユに採用され、それ以降継続的に日本の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユで活躍するきっかけになっています。
ですがその一方で、上記のような「これはゲイだ」と決めつけるコメントが大量についたのです。(※注 前の記事を書いた2年後の現在、2009年の動画に付いていたその種のコメントは多くは削除された模様。その種のコメントを批判するコメントは残されているところをみると、クレームを受けた可能性有り。)
全体を見るならば、この状況は基本的に変わっていません。
意外なことかもしれませんが、欧米諸国のポリコレやLGBTQの権利擁護の流れの元、もっと酷くなっている印象さえ受けます。
上記のようなコメントを読むと、単純にこれはLGBTQ差別の問題かと思われそうですが、そうではありません。
LGBTQは本来全く関係ないのです。
それはあくまで二義的で、偏見に偏見を重ねているにすぎません。
ここでの本質的な問題は、ゲイだと決めつける人達が持っている、ダンスは女性がするものであり女性性(女らしさ)の表出だという固定化され、確信を持たれているジェンダー規範の方です。
実際、そこで言揚げされているゲイは、どこよりもそう決めつける人たちの脳内に住んでいるのです。
むろん、今も昔もそのことに気づいている外国人は多くいます。
たとえば、2009年の井原ジュニアの演技動画についた次のようなアメリカ人のコメントや、2018年の福岡大学の演技動画についたブラジル人のコメント。
前提として説明しておくと、RGとは、Rhythmic Gymnastics(リズミック・ジムナスティック)の略で新体操を意味します。
要するに男子新体操は、どんなに素晴らしい演技をしても、欧米西側諸国の「ダンスは女がするもの」という偏見から「ゲイだ」と決めつけられてしまい、結果的に国際化は極めて難しいのです。(ジュディス・バトラー流に言うなら“排除”されてしまうのです。)
そして、この問題を複雑にしているのがスペインの男子新体操です。
前にも触れたように、日本の男子新体操は日本が発祥のスポーツです。
オリンピックスポーツである女子の新体操はヨーロッパ発祥で、名称のみ新体操と同じですが、実質は異なるスポーツです。
(個人的には私は、日本の男子新体操(Mens Rhythmic Gymnastics)はヨーロッパ発祥の女子の新体操と名称を同じくするのではなく名称変更すべきであると考えています。)
スペインにも男子新体操があるのですが、スペインの男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操と同一ルールです。
だから、もし女子の新体操に対応する男子の新体操を求めるのならスペインのそれです。
今ではスペインの近隣国もスペイン式の男子新体操をやり始めているようです。
(ここでは便宜上、スペインの男子新体操、もしくはスペイン式男子新体操と称します)
ところでスペインは、ジェンダーやLGBTQの問題に先進的に取り組んでいる国です。
それだけなら私も、女子の新体操と対になるものとしてスペイン式の男子の新体操を応援したいところですが、実態を見ると考えこまざるをえないものがあったのでした。
あらかじめ断わっておくと、私にはスペインの男子の新体操について書くことは情報自体が乏しく、YouTube等で知るだけなので正確なことはいえません。
そのことを理解の上で以下を読んでください。
たとえば以前にも触れたように(今現在もそうなのかは分かりませんが、)スペインの男子新体操では、成人男性が女子の新体操と同じレオタードを着て試合に参加していました。
女子の新体操のレオタードは、女性である私が見ても過度に女性的と言わざるをえないものがあります。
私は、それをあえて着る男性はドラァグクイーンであると思います。
ドラァグクイーンとは、LGBTQの一つのQ(クイア)に属する人達で、過度に女性的な服装を着る、多くはゲイでもある男性達のことです。
ドラァグクイーンだけでなく、異性装、つまり異性の服を好んで着る人達はQに属するのですが、ドラァグクイーンと呼ばれる異性装者の場合、過度に女性的な服装を着た自分が人々の注目を浴びることに満足を得ます。
つまり、ドラァグクイーンは異性装を行う人達の中でも特に自己顕示欲求の強い人達なわけで、注目を浴びる新体操の試合はうってつけの場所になるわけです。
私は日本のテレビで、一人のドラァグクイーンの男性が、努力して空中ブランコを習得し(!)、実際のサーカスで演技する番組を見たことがあります。
もちろん日本でのことで、テレビ局も協力している1回限りのことのようでした。
空中ブランコをした彼にも、スペインで新体操をする男性達にも、同じような動機があるのかもしれません。
ただ、サーカスの空中ブランコは、そもそも見世物ですから問題はありません。
ですが新体操は見世物ではなくスポーツです。
ドラァグクイーン自体は特に非難されることではないですが、スポーツ競技の場に実質としてLGBTQのイベントを持ち込んでいいのか、そこが私には疑問でした。
スペインはLGBTQに理解があるのでOKなのか、情報不足で分かりません。
ただ、スペインのその種の動画は一頃 YouTube等で多く流され、男子新体操のイメージに大きな影響を与えていました。
スペインの男子新体操は、もちろん女性用のレオタードを着た成人男性だけがやっているわけではありません。
むしろ男性用のレオタードを着て演技する少年や青年の選手の方が多いと思われます。
断言できないですが、彼らは全員ゲイというわけでもなさそうです。
ですが、彼らの演技がまた問題なのでした。
前の記事でも書いたように、スペインの男子新体操は、それでよく批判されてもいるのですが、完全に女性の新体操のコピーだったからです。
女性の新体操は最初から女性に特化されて出来ており、女性の身体の特性を強調したスポーツです。
それを男性の選手が忠実にコピーすればどうなるか。
同じスポーツなんだから男女が同じことをして何がおかしいと思われるかもしれません。
確かにサッカーであれ、卓球であれ、ボクシングであれ、水泳であれ、ほとんどのスポーツは男女同じことをします。
ですが身体表現そのものである芸術スポーツや体操は、基本の要素は同じであっても男女同じではないのです。
たとえば芸術スポーツであるフィギュアスケートは男女まったく同じ演技をしているかというとそうではありません。
そもそも筋肉量がまったく違うので、それに合わせてやることも微妙に違ってくるのです。
スポーツから離れて、舞踊芸術であるバレエを見ても、男性のバレエダンサーは女性のバレエダンサーとまったく同じ踊り方をしているわけではありません。
(それをやってるバレエ団もありますが、コメディバレエ団です。)
結果として、スペインの男子新体操は、新体操が芸術スポーツであるにもかかわらず、男性選手の女性化がまるで目的になっているかのようでした。
そこには、男子が行う新体操において、当然期待される独創性(オリジナリティ)も、創造性もありませんでした。
男子新体操としての可能性が見えなかったのです。
スペインの男子新体操がそうなった原因については、すでに前の記事に指摘したように、おそらく欧米西側諸国の一員である彼らは、欧米のダンスを巡るジェンダーの軛を逃れていなかったからと考えられます。
彼らもまた、意識裡か無意識裡かは分かりませんが、ダンスを女性性の表現、もしくは表出と考えて、男性が踊っても、その範疇で演技したのではないかと思います。
私がここでスペインの男子新体操について書いていることは分かりにくいかもしれません。
日本の男子新体操と対比させると、あるいは理解しやすいかもしれません。
たとえば日本の男子新体操は、欧米人と思しき人達からしばしば、以下のように「男らしさを損なうことなく優雅である」とコメントされています。
これは逆に考えると、彼ら欧米西側諸国の人達にとっては、ダンスと女性性が不可分である以上、ダンスにおける優雅さや美しさは、女らしくあらねば(=男らしさを放棄せずには)表現出来ないと考えられていたということではないでしょうか。
その結果がスペインの男子新体操だったと言えます。
だからこそ彼ら欧米西側諸国の人達は、日本の男子新体操では選手達が男らしさを失わず優雅で美しいことに驚いているのです。
もう一つ、私が以前に記事として挙げた「男子新体操の女子選手」ですが、日本の男子新体操を行う女子選手は男の子みたいに見えるでしょうか。
見れば分かりますが彼女達は男の子のようには見えず、自然な少女らしさを保っています。
男性選手の場合も「男らしさを失わず」といっても、これ見よがしな男性性を誇示しているわけではなく、あくまで自然体です。
それが日本における、ジェンダーを気にしない、らしさにこだわらないということのようです。
ただ、スペインの男子新体操も、一部ですが女らしさにこだわらない独創的で芸術的な演技をする選手が出てきており、スペインの男子新体操に批判的な人からも高評価を得ています。
正直、数年前に観たスペインの男子新体操と、今回改めて観たスペインの男子新体操とでは選手達の体形一つとっても変化が見られます。(以前の選手達の体形は、私の記憶では、まるで紙人形のようにペラペラでした。)
スペイン式の男子新体操は生成の過程にあるのかもしれませんが、この点に関しては私は確定的なことを記すことはできません。
いずれにしろ、スペインの男子新体操は、ドラァグクイーンと思しき選手の参加や、選手達の過度に女性的な演技など、何のことはない、日本からみれば、それは男性が踊ることに対する欧米の偏見だとしか言いようのない在り様をそのまんま体現していたのでした。
もっとも、以上のようなことを指摘したところで、根強いジェンダー規範を持つ欧米西側諸国の人達にとっては、ジェンダー的な意味合いで女性的なスペインの男子新体操も、ジェンダーにこだわらない日本の男子新体操も、両者に違いはないのです。
というのも日本の男子新体操で、仮に勇壮な戦士を思わせる男らしい演技をしたところで、根強いジェンダー規範を持つ人達から見れば、踊っているというただそれだけで女性的とみなされるからです。
ここから書くことは最近のことになります。
2年前の記事では差別的な意味合いで男子新体操が女性的とみなされ、ゲイであると決めつけられていると指摘しました。
しかし、パリオリンピックを見ても分かるように、欧米のジェンダー平等やLGBTQ問題への向き合い方は少なくとも表面では積極的です。
この流れは日本の男子新体操にとってプラスになっているでしょうか。
ここでは日本と同様、男性が踊ることに偏見を持たないロシアの存在も視野に入れつつ考えてみます。
(日本の男子新体操を巡る日本とロシアとの関係は複雑なものがあるようですが、ここではこの記事のテーマに沿ったことのみ記します。)
私もよく知らないのですが、かつて日本の男子新体操の関係者が世界に日本の男子新体操を広めるべく単身外国に赴いたことがあったそうです。(5人の侍といわれたらしい)
その試みはほぼ失敗に終わったとのことですが、そうした日本の試みとは別に、一国だけ日本の男子新体操が根付いた国がありました。
それがロシアだったのです。
この背景として、ロシア(だけでなく東欧)は、日本と同様に男性が踊ることに対して偏見を持たないことが挙げられます。
もちろんそこに住んでいる全員がそうだというわけではなく、西欧化した意識の持ち主は東欧にもいます。
いずれにしろロシアは日本の男子新体操を気に入り、今ではロシア国内で競技会も開かれているとのことです。
そこまで行われるようになった背景には、ロシアの女子の新体操界の大御所であるイリーナ・ヴィネルという女性の存在も大きいようです。
ロシアは、新体操に関しては長年にわたり絶対王者として君臨しており、そのためロシアの大御所であるということは世界の新体操界の大御所でもあるということです。
彼女は、ロシアの新体操界の過酷な内実を取材したドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」にも、まるでラスボスのような風格と迫力で登場しています。
そして、欧米諸国がスポーツにおけるジェンダー平等をあれこれ主張し始める以前から、日本の男子新体操をヨーロッパ発祥の女子の新体操の男性版として推していたのがイリーナ・ヴィネルだったのです。
彼女はロシア国内でも日本式の男子新体操を行う男子選手の育成に力を注いでいました。
彼女の意向は当然新体操界では重く受け取られました。
過去の記事でも私が何度か触れたように、日本では歴史的経緯から男女異なるスポーツを合わせて新体操と称しています。
そのせいか英語では日本の男子新体操は“ men's rhythmic gymnastics ”と訳されてしまい、様々な誤解や混乱を招いています。
イリーナ・ヴィネルが考えた、ヨーロッパ発祥の新体操の男性版に、本来異なるスポーツである日本の男子新体操を当てようというのもその一つだったのかもしれません。
もちろん、プロ中のプロであるイリーナ・ヴィネルは、一目見て日本の男子新体操がヨーロッパ発祥の新体操とは異なるスポーツだということを理解したでしょう。
それでも彼女は日本の男子新体操を推したのでした。
これはスペイン式の男子新体操を推す人達から反感をかいました。
困ったことに、その反感は提案した当人ではなく日本の男子新体操に向かったみたいです。
以下の動画はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場から男子新体操の問題を取り上げたものです。(もちろん日本のものではなく英語圏のもの。)
私はこの動画「Men's Rhythmic Gymnastics」について、2年前の記事でも取り上げましたが、今回改めてこの動画を見て、前の記事を訂正しないといけないことに気づきました。
というのも、この動画自体が大幅に編集し直されているからです。
コメント欄も問題があるものは削除したのではないかという印象です。
実はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場にあるこの動画は、以前は日本の男子新体操について非常に敵対的でした。
その理由は、もし日本の男子新体操が女子の新体操の対となる男子の新体操として採用されるならば、新体操は名目上は男女平等が達せられますが、日本の男子新体操が女子の新体操と異なるスポーツである以上実際には男女平等は達せられないからです。
それだけではありません。この動画の管理者や以前にコメントを書いた人達は大きな誤解をしていたみたいです。
彼らは、日本の男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操を剽窃したものだと思っていたらしいのです。
要するに、日本人がヨーロッパ発祥の女子の新体操を見て、勝手に似て非なるものを作り上げ、男子新体操と名乗っていると思ったようなのです。
もちろん事実は、既に日本の男子新体操の歴史で触れたように全く異なります。
上記の動画はジェンダー平等という、それなりに真面目な意図をもって配信されていたものですから影響も懸念されました。
それで、なのかどうか分かりませんが、SNS上で日本の男子新体操を応援し、動画や記事を配信している「Ouen MRG」の管理人がコメント欄でそのことを指摘しました。
その結果、コメント欄でのそれまでの敵対的な姿勢は止みました。
私の2年前の記事はその時点で書いたものでした。
その後に、この動画の管理人は大幅な再編集を行ったものと思われます。
これは私の推測ですが、たぶん慎重に事実関係を調べ直し、結果、ロシアとイリーナ・ヴィネルの存在に行き当たったのかもしれません。
ところで再編集の結果、欧米西側諸国の男子新体操に関わるジェンダーやLGBTQについての意識もコメント欄で散見できるようになりました。(以前は、動画のテーマが rhythmic gymnastics におけるジェンダー平等でありながら日本の男子新体操を問題視することが主眼になっていた。)
そこから窺えることについて触れてみます。
そもそもYouTubeやX(旧ツィッター)のコメントや書き込みは、深く考えたり調べたりせず思ったことを書き込んでおり、内容に事実と反することは当たり前のようにあります。
そこには、人々が何をどう考えているかが、簡単には敷衍化できないにしろ反映されています。
つまり人々の偏見もまた浮かび上がるのです。
たとえば以下のようなコメント。
このコメントの書き手はロシアのイリーナ・ヴィネルがスペインの男子新体操を受け入れなかったことからロシアの保守性を指摘しているわけです。
ですが、このコメントは誤りだらけです。
たとえばロシアがバレエ大国であることは私でも知っていますし、歴史的にもロシアの男性バレエダンサーの活躍は目覚ましいものがありました。
ロシアがバレエや男性ダンサーを受け入れないなんて偏見もいいところです。
それ以前にこのコメントの一番の偏見は、言うまでもなくダンスする男性とLGBTQを疑問も持たず結びつけていることです。
その上でロシアはLGBTQ問題に限らず保守的だから男子新体操を受け入れないと主張しているわけです。
そこでは、動画の中ではっきり語られている、ロシアが日本の男子新体操を受け入れている事実もなぜか無視されています。
何度も記しますが、ダンスについての根強いジェンダー規範を持つ人にとって、スペインのそれも日本のそれも関係がないのです。
イリーナ・ヴィネルが日本の男子新体操を推している事実はそれだけでこのコメントの主張を覆しているのです。
実際、この動画には以下のようなコメントもついていました。
このコメントはGoogleの翻訳が分かりにくいですが「自分のロシアのRG体操選手を言葉で脱がす云々」の意味は、先に触れたドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」に現れているイリーナ・ヴィネルのパワハラを指していると推測されます。
後段、イリーナ・ヴィネルが男性がRGに参加することを支持云々は、彼女が日本の男子新体操を女子の新体操の男性版として参加させようとしていることを指しているようです。
この動画自体はスペイン式の男子新体操を推す立場ですので、上記のコメントにはイリーナ・ヴィネルが推しているのは日本の男子新体操である(だから評価には値しない?)という返信コメントもありました。
が、いずれにしても上記のコメントは、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルが日本のそれであれ男子の新体操を受け入れていることを評価しているわけです。
ただその種の評価もまた、いささか的が外れていて、ロシアという国を知らなさすぎると言えます。
というのも、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルは、そもそも男性が踊ることに対する西側の欧米人が持っているような偏見を持ちあわせていないからです。
言葉を換えれば上記二つのコメントをした人達は自分達自身の偏見を無自覚なまま相手(ロシアやイリーナ・ヴィネル)に投影しているということです。
付け加えると、確かにイリーナ・ヴィネルは日本の男子新体操を推していますが、彼女はスペインの独創的で芸術的な演技をする男子新体操の選手も評価しています。
ならばなぜ、彼女はスペイン式の男子新体操を推さないのかというと、スペインではその種の独創的で芸術的な演技が全体の方向性や水準としては確立されていないからだと思います。
新体操の芸術性を重視するロシア的な価値観はどうやら西側諸国のジェンダー平等を推進しようとする人達やLGBTQへの差別を排そうとする人々には理解できないようです。
それ以前に彼ら、いわゆるリベラルな人達は、自分達の文化の価値観でロシアなり日本なりの異なる文化を持った人達を評価しようとする間違いを犯しているようにも感じます。
私はこの記事のハッシュタグに“エスノセントリズム”という言葉を付けました。
エスノセントリズムとは自分が生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化や社会を評価する考え方のことです。
ジェンダーやLGBTQについて、私たちは無意識に欧米西側諸国が一番進んでいると考えてしまいがちです。
でも、そこに彼ら自身のエスノセントリズムが入り込んでいることもあります。
実際、ジェンダー平等やLGBTQの権利を主張するリベラルな人達の中には、逆の意味で差別的な感じさえ受けることがあります。
たとえば、2019年の花園大学の演技動画には以下のようなコメントが付いていました。
いくつか説明しておくと、このコメントの原語はスペイン語のようで、スペイン語圏の人によるもののようです。
コメント中のネオコンの意味は新保守主義のことです。
分かり辛いもう一つの言葉「アルファメール」の原語は“machos alfa”で、意味は「群れのボス猿」みたいな感じです。
そこから意訳すると、コメントの内容は、日本のアニメが好きなような同性愛嫌悪を持つ保守的人種は、彼らがボスと仰ぐ男権的な日本で、LGBTQイベントに他ならない男子新体操というスポーツがあるなんて考えも及ばないだろうハハハハハハと笑っているのです。
このコメントを書いた人は、おそらく日本で言う意識高い系のリベラルな人なのでしょうが、踊る男性=ゲイという自分の所属する文化の持つ偏見には完全に無自覚なようです。
日本のアニメに、ここで指摘されるような同性愛嫌悪があるかどうかも疑問です。
考えるに、どうやら西側欧米諸国にとっては、ロシアも日本も、自分達とは異なり、政治的意識(いわゆるポリコレ)に未だ目覚めない遅れた国という認識なのかもしれません。
以上、ざっと見たところですが、男子新体操は、欧米の今時のジェンダー平等やLGBTQ問題の流れの中では、仮に相手に聞く姿勢があったとしても、よほど上手く説明したり説得したりしないと理解されないのではないかという印象を持ちます。
ただそういった状況も含め、理解している人は理解しています。
実際、日本国内で10年以上国体から外されていた男子新体操が国スポ(旧国体)に復帰できたのも、関係者の努力が国外での高い評価につながり、それが国内での見直しとなったからでしょう。
多くの外国人が男子新体操を観て「なぜこのスポーツがオリンピック種目にならないのか」と素朴に疑問を持ちます。
最近も、以下のようなコメントがありました。(このコメントは、先のコメントと同じ2019年の花園大学の演技に付いたものです。)
このコメントにあるように、男子新体操が国際化しない理由は欧米のジェンダー規範であり、それがもたらす性差別であることは、欧米西側諸国にとっては既知の事柄なのです。
コメント主が欧米のジェンダー規範を当然としている場合も含め、それはもう何度となく多くの人達が動画のコメント欄で書いていることなのです。
翻って日本は、欧米西側諸国のその偏見にどの程度気づいているのか。
ここからは日本のことを書いてみます。
ある程度大人の当事者たちは色々言われていることは知っていたと思います。
ただ、それらからは目を逸らしていたというのが実情ではなかったでしょうか。
そりゃあ「自分達は欧米ではゲイだと見なされている」なんて誰も思いたくはないでしょう。
それ以前に、ここで述べたような欧米のジェンダー規範の強烈さには思い至らなかったと思います。
日本人にとっては、それは理解や想像の範疇をはるかに超える事柄だからです。
何度も書きますが私にとっても驚きでした。
自分自身についての、あまりに事実とかけ離れた他者の思い込みは自分とは無関係だと思ってしまうのです。(確かに無関係なんですが・・)
男子新体操の動画についた無数のコメントを意識的に読まなかったら、私も気が付かなかったと思います。(Googleの翻訳機能は万全とは言えないけれど、他国の人達の生(ナマ)の意識を知る上で役に立ちます。)
実際、ジェンダー平等というと女性が被害者のように思われがちですが、男子新体操においては男性が差別され、偏見の矢面に立たされています。
またジェンダー平等やLGBTQ問題で遅れていると思われているロシアや日本に偏見がなく、進んでいると思われている欧米西側諸国に強い偏見があります。
固定観念に囚われていたらその種の事実は見えません。
しかも男子新体操におけるジェンダー問題は現在進行形で、女子の新体操との関係でどのように日本の男子新体操を位置づけられるか、未だ決着がついていないのです。
でも欧米での議論は相当にあるようなので遠からず大きく動くかもしれません。
日本はその時、欧米の差別的なジェンダー規範の存在に無知で無自覚なままで、欧米やロシアの言い分に巻き込まれず、どれくらい主体的に動けるのでしょうか。
日本の男子新体操は日本体操協会に属していますが、男子新体操に関しては資金も人材も乏しく、登録されている選手数も2000名程度と、まさにマイナースポーツの典型です。
実際、日本体操協会の中でも長年冷や飯食いの状態のようです。
国際化に関しては、長い年月、関係者は努力していたけれど、極東の小さなスポーツ団体が欧米の強固なジェンダー規範を新体操の部分だけ変えるなんて、どだい無理な話だったのです。
そしてグローバルスタンダードを任ずる欧米が動かなければそれ以外の国々も動きません。
だから国際化がうまくいかなかったことは、日本の関係者の責任ではありません。
それくらい欧米のジェンダー規範は途方もなく強いものだからです。
じゃあどうするんだって話ですが、それでももし本気で国際化を望むのなら、欧米のジェンダー規範という敵をしっかりと見すえた上で戦略を立てねばならないでしょう。
相手(日本以外の国々、とりわけ実質的に決定権を握っている国々)が自分のことをどう思っているか、まったく気づかないまま国際化なんてありえないのです。
幸い、日本はともかく欧米西側諸国では、日本の男子新体操が性差別によって正当に評価されていないことに気づかれています。
ここで私の勝手な考えを書くならば、国際化を目指すなら、日本の男子新体操についての欧米とは異なる社会的・文化的コンテキストを積極的に示すことではないかと思います。
先に書いたように、ストリート系のダンスなど、欧米でも男性がダンスすることは当たり前にあるからです。
要は社会的・文化的な文脈(コンテキスト)の問題です。
そこから考えると、海外で、mens rhythmic gymnasticsと、英語表記で自らを名乗っていることは相当な悪手でした。
なぜなら rhythmic gymnastics は、欧米ではスポーツにおける女性文化そのものだからです。
あえて酷い言い方をするなら、まるで関係ないのにわざわざ「おかまキャラ」を買ってでているようなものです。
もちろん、そういう見方自体が差別的なのですが、国際化とか普及といった面から見ると悪いネーミングだということです。
たとえば外国人のコメントを読んでいて、よく見かけるのは日本の男子新体操は武道から生まれたのではないかというようなことです。
要するに外国人で、男子新体操を見て魅力を感じるなど肯定的な思いを持った人は、男子新体操は武道から派生しているのではないかと言いたいようなのです。
中でもロシアの男子新体操の指導者は、はっきりと武道から派生したみたいなことをいい、オリエンタルなものだと言ってます。
ロシアはそういう嘘を平気で言うから信用できないのですが、意図は分かります。
背景の文脈を変えて、受け入れ可能なものとして諸外国の認知を図ろうとしているのです。
むろんそれは間違ってます。
日本の男子新体操は、徒手体操の部分はヨーロッパの体操を基礎にしているので、全然武道とは関係なく、伝統的でも民族的でもオリエンタルなものでもないのです。
そして最大の特徴であるアクロバットつまりタンブリングは、選手間の言い伝えによれば、元々は戦前の日本の軍隊での、航空兵の空間認識能力を高めるための訓練だったそうです。
ただその起源は選手間の言い伝えとしてのみ残っていて、公的には語られていません。
起源として正式に語られなかったのは、おそらく終戦直後のGHQ対策だったと推測できます。
ちなみに青森大学の2019年のドイツ(?)遠征時の演技動画を見たあるイギリス人のコメントは興味深いものです。
2行目、「演技と演技」は原語では“display and routine”です。
このコメントの主は1950年代から1960年代初頭に英国空軍に所属していたとのことですので相当にご高齢のようです。
このコメントから分かることは、イギリス空軍でもアクロバットのショー的な演技が行われていたことです。
コメント主は青森大学の演技を観てそれを思い出しています。
これは日本の男子新体操の起源の言い伝えの信ぴょう性を高めるものでしょう。
そして国際化を考えるのなら、「航空兵の訓練」といった文脈は有効です。
なぜなら、男子新体操が好きでも「ゲイだと思われるのが怖すぎる」というアメリカ人のコメントが現実にあるからで、「航空兵の訓練」は彼らに刷り込まれている「ゲイの求愛ダンス」とは別の文脈を提供するからです。
そして実際の演技の、サーカス並みにスリル満点の超絶性はその文脈を充分すぎるほど補強します。
要は欧米各国でも心理的な抵抗なく男子新体操をやってもらうことが重要なのです。
そのために欧米流の文脈から離れることが必要なのです。
ジェンダー平等の闘士ならば「それはゴマカシだ」と言って怒るかもしれません。
もちろんジェンダー差別は重要な論点ではあるけれど、日本の男子新体操が欧米のジェンダー問題を直接的に解決するには余裕も義務も無さすぎるのです。
もっと基本的なところでは、少年達が行うスポーツとしての男子新体操を知ってもらうことですが、アニメの「バクテン!!」はそれが成功した例だと思います。
アニメの「バクテン!!」は、フィクションであっても、日本の社会の日常性の中で、男子新体操に夢中になる高校生達をリアルに描いていました。
海外に配信されたアニメの「バクテン!!」を見て、本物はどんなものかと実際の男子新体操の動画を見てコメントしてくる海外の若い世代の人達には、私が読んだ限りジェンダーに関わる否定的なコメントは一つもありませんでした。
彼らは実際の演技がアニメで見たものよりも凄いことにシンプルに感心し、男子新体操というスポーツをクールだと書いています。
自国のジェンダー規範で見ているのではなく、「バクテン!!」が提示した文脈で見ているのです。
アニメの「バクテン!!」はどちらかといえば国内向けに男子新体操というスポーツの認知度を上げることを目指していたのでしょうけど、国外に向けても良い宣伝になったと思います。
なにより本来の日本の文脈での男子新体操がどういうものか、海外でも知らしめる効果がありました。
国際化に関しては、今はどうなのか知りませんが、おそらく日本の関係者は女性の rhythmic gymnasticsの男性版にするというイリーナ・ヴィネルの提案に期待をかけていたと思います。
実は私も最初に聞いた時は「そうなればいいな」と思っていました。
ですが色々と知るにつけ、その方法は良くないと思うようになりました。
理由は、女子の rhythmic gymnastics と競技内容を同じくするスペインの男子新体操があるからです。
そこに競技内容がまるで異なる日本の男子新体操を持っていく必然性などないのです。
逆に、仮にもし日本の男子新体操を rhythmic gymnastics の男性版とすると、スペインの男子新体操の選手達や日本で男子新体操をやっている少女達の行き場がなくなります。
海外のコメントを読むと日本式とスペイン式の両者を融合させようとする意見もありますが、それではどちらの独自性をも失わせます。
というより、力の弱い日本は相手に吸収されてしまうでしょう。
実際、私が知る限りでも、過去において日本の男子新体操は rhythmic gymnastics にすり寄り、競技内容まで変えようとした形跡があります。
独創性においても、創造性においても、世界に誇り得る競技でありながらヨッロッパ発祥の rhythmic gymnastics の権威に縋ろうとしたのは、それによって得られる国際化が目的だったのかもしれません。
それは良く分かるのですが、でもそれは実際には国際化とは繋がらず、競技のアイデンティティをも危機にさらす姿勢だったと思います。
スポーツにおけるジェンダー平等とか、LGBTQ問題というのは、私がここで書いたように決してスローガンだけ唱えていればよいものではないし、また教科書的な理解で済まされるものでもないです。
実際、このテーマは私のような素人には荷が勝ちすぎています。
日本のスポーツジャーナリストやジェンダー問題の専門家には、もう少しは男子新体操に目を向けてほしいものだと思います。
最後になりましたが、疑問点や間違っている部分などありましたら、遠慮なく指摘してください。
また、このテーマに興味のある人のために、分かりやすいように2年前に書いた前段に当たる「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④と纏め、新たに“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーの中に収めました。
そちらも読んでくだされば幸いです。
長いし、興味のない人はスルーしてください。
私は2年前に「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」という記事を①②③④と4つ分割してアップしました。
我ながら長いんですが、日本の男子新体操が、その歴史を含めどのようなスポーツか、今現在どういう問題を抱えているか、とりわけ男子新体操がジェンダーやLGBTQの問題とどう関わるのか書こうとすると長くなるのです。
今回のこの記事と「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④は、一連のものなので、“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーでまとめ、また読みやすいように記事の順序としても並べておきました。
興味のある人は読んでください。
今回はこのテーマで、ややこしい論証はすでに前の記事でしてますので、少しまとめる形で書いてみたいと思います。
きっかけになったのはフォローしているブログ「アルファロメオと小倉唯」さんの以下の記事でした。
この記事でブログ主のバロリスタさんは、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの書物「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」について書かれてます。
ジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」は、なんでもフェミニズムについての今までの考えをひっくり返すような革命的で刺激的な本らしいです。
ただ、読むには難解を極めていて、大半の人がお手上げらしい。
そんなお手上げな本、ちょっと私にも読めません。
で、一番良くないパターンかも知れませんが、ネット検索でだいたいの内容を調べてみたりしました。
結果、一番詳しく書いておられたのは、 Wikipedia 以外だとバロリスタさんではないかと思いました。
いずれにしても、検索した記事に目を通しただけでも、私はその本とは別に、それなりに刺激を受けました。
というのも、私は男子新体操におけるジェンダーとLGBTQの問題にずっと関心(寒心かもしれない)を抱いていたからです。
それで、改めてそのテーマを私なりに整理し、新たな情報も書いてみたいと思ったのです。
それは、日本の男子新体操が国際化に際し、どのような障壁があるかを具体的に示すことになります。
実は男子新体操は16年の長きにわたり国スポ(旧国体)から外されていて今年ようやく復帰しています。(一度国体から外された競技がもう一度国体に復帰することは奇跡に近いそうです)
国体を外された理由というのが、国内でもやっている人が少ないし国際化されていないということだったようです。
日本の男子新体操は日本でしか行われていなかったからですが、今も事情はほとんど変わっていません。
日本以外で日本式の男子新体操を行っている国はロシアだけのようです。
やり始めようとしている国はあるそうです。
では男子新体操はそんなにも魅力のない競技なのかというと、そうではないのです。
たとえば、以下の、おそらくアメリカ人によるものと思われるコメントは14年前の花園大学の演技動画についていたものです。
ここでも、演技そのものについては素晴らしいものだと認めているのです。
でもアメリカでは通用しないと言います。
このコメントだけ読むと謎のようなコメントです。
ですが、他の多くのコメントから類推すると、要するに男子新体操はどんなに素晴らしくてもアメリカのジェンダー規範に反しているから受け入れられないということです。
つまり、信じられないような話ながら、先進国中ジェンダーギャップ指数が最下位の日本ですが、意外にも男子新体操は、世界におけるその分野のジェンダー平等の先駆け的存在であり、それが日本の男子新体操というスポーツの困難になっているのです。
というのも、私も驚いたのですが、欧米西側諸国の文化的側面におけるジェンダー規範はとてつもなく強烈なものだからです。
具体的には、踊ること=ダンスは女性が行う行為だとみなされていることです。
たとえば、器械体操の床運動で、音楽付きで演技するのは女性だけですし、ヨーロッパ発祥の新体操は長年の間、女性のみのスポーツだとされてきました。
もちろん、実際には欧米でも男性は踊っているのですが、どうやら衣装がレオタードのようなのが特にダメみたいです。(レオタードはそもそも軽業師の男性が着始め、今ももちろん男性用があるのですが、なぜか男性用レオタードに対して物凄い嫌悪感が示されます。)
男性が踊る場合、集団、個人を問わず、男女を対とするヘテロセクシャル(異性愛)な雰囲気の中で女性をサポートするなど、男性が男性であることがはっきりしている場合に許容されているようです。(例えば社交ダンス)
欧米系の素晴らしいダンスとしてすぐに思い浮かぶミュージカルでは、演者はダンサーというより俳優とみなされているようです。
ストーリー自体がたいてい男女の恋愛もので、その中で男性の演者は役柄や衣装等で男性であることが明示された上で歌い、踊っています。
でなければ「キャッツ」や「ライオンキング」のように動物にしてしまう。
あと、異なる社会的文脈を背景にして成立していると思われるブレイキンなど、ストリート系のダンスも男性が踊ってもおかしくないようです。(昔ならばタップダンスなど、いわゆるダンスとは別物という認識なのか? よく分かりません)
さらに異なる民族・文化圏に属することがはっきりしている民族舞踊は、自分達とは全く別物の文化としてなのか、これも許容されるようです。
そういう例外はあるものの、私が調べた限り、ジェンダー、つまり社会的文化的な性別役割の、このダンスに対する一部欧米人の意識は、一日本人である私の想像をはるかに絶する強烈なものでした。
私が前の記事で論証していったように、性別が示されていない形で男子新体操の演技を見た人々の中には、演者が姿形から男性であることが容易に想像できるのに女性だと思いこんでいる人達がとても多くいました。
彼らが女性だと思った理由は、彼ら自身も無意識で分かっていないようなのですが、選手達が踊っているからです。
その前に男子新体操はダンスなのか? ですが、音楽に合わせて演技するという意味ではダンスです。
実際は、男子新体操はアクロバット+徒手体操+ダンスです。
ただ、選手達は演技することを踊ると言うそうです。
井原高校男子新体操部の練習風景の動画では「自分には、選手たちが演技している時は少女に見え、それ以外の時は少年に見える」というような外国人のコメントもありました。
踊っている時と、そうでない時で、同じ人物の性別が変わるのです。
踊っていれば、脳が自動的に女性と認識してしまうほど、ダンスは女性がするものと思われているのです。
よく言われるアンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)も、そこまでいくと恐ろしいです。
一般日本人なら、演技内容や選手の姿形から男性だと分かると思うのですが、彼らにとっては踊っている人は女性であり、踊ることは女らしさそのものなのです。
曖昧なものは役割や服装で性別をはっきりさせるのです。
それが彼らの譲ることのできないジェンダー規範のようなのでした。
性別判断において、男性の身体を持っていることより、踊っていることの方(=ジェンダー)が重視されるのです。
この辺り、生物学的性差(セックス)がジェンダー(社会的性差)を作り出すのではなく、ジェンダーがセックスを決めるみたいなことを言っているらしいジュディス・バトラーの考えを図らずも立証しているようです。
そして男子新体操はその名の通り男性が行っているものです。
なのにリズムに合わせて踊っている。
踊っているのが女性ではないと知ると彼らの脳はどう反応するのか。
そこで二義的に出てくるのがLGBTQという概念です。
要するに、踊る男を見ると、ネットスラングを借りるならば脊髄反射的に「そいつはゲイだ」と言うわけです。
前に論証として、2009年、青森大学の男子新体操の動画のコメントから挙げましたが、私が言っていることが大袈裟でないと理解してもらうために、もう一度日本語に翻訳したコメント欄のスクショをほんの一部ですが挙げてみます。
誤解なきよう付け加えておくと、2009年の青森大学の演技はその芸術性とスキルの高さゆえに伝説的な演技であり、初めて国外でバズった動画です。
もちろん、国内外の多くの人達に賞賛されています。
(ゲイだと決めつけるコメントでも演技の素晴らしさには気づかれています)
実際、前にも書いたように、この動画を見た世界的なサーカス集団であるシルク・ドゥ・ソレイユのプロデューサーは直ぐに日本にリクルーターを送り、その時は7名の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユに採用され、それ以降継続的に日本の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユで活躍するきっかけになっています。
ですがその一方で、上記のような「これはゲイだ」と決めつけるコメントが大量についたのです。(※注 前の記事を書いた2年後の現在、2009年の動画に付いていたその種のコメントは多くは削除された模様。その種のコメントを批判するコメントは残されているところをみると、クレームを受けた可能性有り。)
全体を見るならば、この状況は基本的に変わっていません。
意外なことかもしれませんが、欧米諸国のポリコレやLGBTQの権利擁護の流れの元、もっと酷くなっている印象さえ受けます。
上記のようなコメントを読むと、単純にこれはLGBTQ差別の問題かと思われそうですが、そうではありません。
LGBTQは本来全く関係ないのです。
それはあくまで二義的で、偏見に偏見を重ねているにすぎません。
ここでの本質的な問題は、ゲイだと決めつける人達が持っている、ダンスは女性がするものであり女性性(女らしさ)の表出だという固定化され、確信を持たれているジェンダー規範の方です。
実際、そこで言揚げされているゲイは、どこよりもそう決めつける人たちの脳内に住んでいるのです。
むろん、今も昔もそのことに気づいている外国人は多くいます。
たとえば、2009年の井原ジュニアの演技動画についた次のようなアメリカ人のコメントや、2018年の福岡大学の演技動画についたブラジル人のコメント。
前提として説明しておくと、RGとは、Rhythmic Gymnastics(リズミック・ジムナスティック)の略で新体操を意味します。
要するに男子新体操は、どんなに素晴らしい演技をしても、欧米西側諸国の「ダンスは女がするもの」という偏見から「ゲイだ」と決めつけられてしまい、結果的に国際化は極めて難しいのです。(ジュディス・バトラー流に言うなら“排除”されてしまうのです。)
そして、この問題を複雑にしているのがスペインの男子新体操です。
前にも触れたように、日本の男子新体操は日本が発祥のスポーツです。
オリンピックスポーツである女子の新体操はヨーロッパ発祥で、名称のみ新体操と同じですが、実質は異なるスポーツです。
(個人的には私は、日本の男子新体操(Mens Rhythmic Gymnastics)はヨーロッパ発祥の女子の新体操と名称を同じくするのではなく名称変更すべきであると考えています。)
スペインにも男子新体操があるのですが、スペインの男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操と同一ルールです。
だから、もし女子の新体操に対応する男子の新体操を求めるのならスペインのそれです。
今ではスペインの近隣国もスペイン式の男子新体操をやり始めているようです。
(ここでは便宜上、スペインの男子新体操、もしくはスペイン式男子新体操と称します)
ところでスペインは、ジェンダーやLGBTQの問題に先進的に取り組んでいる国です。
それだけなら私も、女子の新体操と対になるものとしてスペイン式の男子の新体操を応援したいところですが、実態を見ると考えこまざるをえないものがあったのでした。
あらかじめ断わっておくと、私にはスペインの男子の新体操について書くことは情報自体が乏しく、YouTube等で知るだけなので正確なことはいえません。
そのことを理解の上で以下を読んでください。
たとえば以前にも触れたように(今現在もそうなのかは分かりませんが、)スペインの男子新体操では、成人男性が女子の新体操と同じレオタードを着て試合に参加していました。
女子の新体操のレオタードは、女性である私が見ても過度に女性的と言わざるをえないものがあります。
私は、それをあえて着る男性はドラァグクイーンであると思います。
ドラァグクイーンとは、LGBTQの一つのQ(クイア)に属する人達で、過度に女性的な服装を着る、多くはゲイでもある男性達のことです。
ドラァグクイーンだけでなく、異性装、つまり異性の服を好んで着る人達はQに属するのですが、ドラァグクイーンと呼ばれる異性装者の場合、過度に女性的な服装を着た自分が人々の注目を浴びることに満足を得ます。
つまり、ドラァグクイーンは異性装を行う人達の中でも特に自己顕示欲求の強い人達なわけで、注目を浴びる新体操の試合はうってつけの場所になるわけです。
私は日本のテレビで、一人のドラァグクイーンの男性が、努力して空中ブランコを習得し(!)、実際のサーカスで演技する番組を見たことがあります。
もちろん日本でのことで、テレビ局も協力している1回限りのことのようでした。
空中ブランコをした彼にも、スペインで新体操をする男性達にも、同じような動機があるのかもしれません。
ただ、サーカスの空中ブランコは、そもそも見世物ですから問題はありません。
ですが新体操は見世物ではなくスポーツです。
ドラァグクイーン自体は特に非難されることではないですが、スポーツ競技の場に実質としてLGBTQのイベントを持ち込んでいいのか、そこが私には疑問でした。
スペインはLGBTQに理解があるのでOKなのか、情報不足で分かりません。
ただ、スペインのその種の動画は一頃 YouTube等で多く流され、男子新体操のイメージに大きな影響を与えていました。
スペインの男子新体操は、もちろん女性用のレオタードを着た成人男性だけがやっているわけではありません。
むしろ男性用のレオタードを着て演技する少年や青年の選手の方が多いと思われます。
断言できないですが、彼らは全員ゲイというわけでもなさそうです。
ですが、彼らの演技がまた問題なのでした。
前の記事でも書いたように、スペインの男子新体操は、それでよく批判されてもいるのですが、完全に女性の新体操のコピーだったからです。
女性の新体操は最初から女性に特化されて出来ており、女性の身体の特性を強調したスポーツです。
それを男性の選手が忠実にコピーすればどうなるか。
同じスポーツなんだから男女が同じことをして何がおかしいと思われるかもしれません。
確かにサッカーであれ、卓球であれ、ボクシングであれ、水泳であれ、ほとんどのスポーツは男女同じことをします。
ですが身体表現そのものである芸術スポーツや体操は、基本の要素は同じであっても男女同じではないのです。
たとえば芸術スポーツであるフィギュアスケートは男女まったく同じ演技をしているかというとそうではありません。
そもそも筋肉量がまったく違うので、それに合わせてやることも微妙に違ってくるのです。
スポーツから離れて、舞踊芸術であるバレエを見ても、男性のバレエダンサーは女性のバレエダンサーとまったく同じ踊り方をしているわけではありません。
(それをやってるバレエ団もありますが、コメディバレエ団です。)
結果として、スペインの男子新体操は、新体操が芸術スポーツであるにもかかわらず、男性選手の女性化がまるで目的になっているかのようでした。
そこには、男子が行う新体操において、当然期待される独創性(オリジナリティ)も、創造性もありませんでした。
男子新体操としての可能性が見えなかったのです。
スペインの男子新体操がそうなった原因については、すでに前の記事に指摘したように、おそらく欧米西側諸国の一員である彼らは、欧米のダンスを巡るジェンダーの軛を逃れていなかったからと考えられます。
彼らもまた、意識裡か無意識裡かは分かりませんが、ダンスを女性性の表現、もしくは表出と考えて、男性が踊っても、その範疇で演技したのではないかと思います。
私がここでスペインの男子新体操について書いていることは分かりにくいかもしれません。
日本の男子新体操と対比させると、あるいは理解しやすいかもしれません。
たとえば日本の男子新体操は、欧米人と思しき人達からしばしば、以下のように「男らしさを損なうことなく優雅である」とコメントされています。
これは逆に考えると、彼ら欧米西側諸国の人達にとっては、ダンスと女性性が不可分である以上、ダンスにおける優雅さや美しさは、女らしくあらねば(=男らしさを放棄せずには)表現出来ないと考えられていたということではないでしょうか。
その結果がスペインの男子新体操だったと言えます。
だからこそ彼ら欧米西側諸国の人達は、日本の男子新体操では選手達が男らしさを失わず優雅で美しいことに驚いているのです。
もう一つ、私が以前に記事として挙げた「男子新体操の女子選手」ですが、日本の男子新体操を行う女子選手は男の子みたいに見えるでしょうか。
見れば分かりますが彼女達は男の子のようには見えず、自然な少女らしさを保っています。
男性選手の場合も「男らしさを失わず」といっても、これ見よがしな男性性を誇示しているわけではなく、あくまで自然体です。
それが日本における、ジェンダーを気にしない、らしさにこだわらないということのようです。
ただ、スペインの男子新体操も、一部ですが女らしさにこだわらない独創的で芸術的な演技をする選手が出てきており、スペインの男子新体操に批判的な人からも高評価を得ています。
正直、数年前に観たスペインの男子新体操と、今回改めて観たスペインの男子新体操とでは選手達の体形一つとっても変化が見られます。(以前の選手達の体形は、私の記憶では、まるで紙人形のようにペラペラでした。)
スペイン式の男子新体操は生成の過程にあるのかもしれませんが、この点に関しては私は確定的なことを記すことはできません。
いずれにしろ、スペインの男子新体操は、ドラァグクイーンと思しき選手の参加や、選手達の過度に女性的な演技など、何のことはない、日本からみれば、それは男性が踊ることに対する欧米の偏見だとしか言いようのない在り様をそのまんま体現していたのでした。
もっとも、以上のようなことを指摘したところで、根強いジェンダー規範を持つ欧米西側諸国の人達にとっては、ジェンダー的な意味合いで女性的なスペインの男子新体操も、ジェンダーにこだわらない日本の男子新体操も、両者に違いはないのです。
というのも日本の男子新体操で、仮に勇壮な戦士を思わせる男らしい演技をしたところで、根強いジェンダー規範を持つ人達から見れば、踊っているというただそれだけで女性的とみなされるからです。
ここから書くことは最近のことになります。
2年前の記事では差別的な意味合いで男子新体操が女性的とみなされ、ゲイであると決めつけられていると指摘しました。
しかし、パリオリンピックを見ても分かるように、欧米のジェンダー平等やLGBTQ問題への向き合い方は少なくとも表面では積極的です。
この流れは日本の男子新体操にとってプラスになっているでしょうか。
ここでは日本と同様、男性が踊ることに偏見を持たないロシアの存在も視野に入れつつ考えてみます。
(日本の男子新体操を巡る日本とロシアとの関係は複雑なものがあるようですが、ここではこの記事のテーマに沿ったことのみ記します。)
私もよく知らないのですが、かつて日本の男子新体操の関係者が世界に日本の男子新体操を広めるべく単身外国に赴いたことがあったそうです。(5人の侍といわれたらしい)
その試みはほぼ失敗に終わったとのことですが、そうした日本の試みとは別に、一国だけ日本の男子新体操が根付いた国がありました。
それがロシアだったのです。
この背景として、ロシア(だけでなく東欧)は、日本と同様に男性が踊ることに対して偏見を持たないことが挙げられます。
もちろんそこに住んでいる全員がそうだというわけではなく、西欧化した意識の持ち主は東欧にもいます。
いずれにしろロシアは日本の男子新体操を気に入り、今ではロシア国内で競技会も開かれているとのことです。
そこまで行われるようになった背景には、ロシアの女子の新体操界の大御所であるイリーナ・ヴィネルという女性の存在も大きいようです。
ロシアは、新体操に関しては長年にわたり絶対王者として君臨しており、そのためロシアの大御所であるということは世界の新体操界の大御所でもあるということです。
彼女は、ロシアの新体操界の過酷な内実を取材したドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」にも、まるでラスボスのような風格と迫力で登場しています。
そして、欧米諸国がスポーツにおけるジェンダー平等をあれこれ主張し始める以前から、日本の男子新体操をヨーロッパ発祥の女子の新体操の男性版として推していたのがイリーナ・ヴィネルだったのです。
彼女はロシア国内でも日本式の男子新体操を行う男子選手の育成に力を注いでいました。
彼女の意向は当然新体操界では重く受け取られました。
過去の記事でも私が何度か触れたように、日本では歴史的経緯から男女異なるスポーツを合わせて新体操と称しています。
そのせいか英語では日本の男子新体操は“ men's rhythmic gymnastics ”と訳されてしまい、様々な誤解や混乱を招いています。
イリーナ・ヴィネルが考えた、ヨーロッパ発祥の新体操の男性版に、本来異なるスポーツである日本の男子新体操を当てようというのもその一つだったのかもしれません。
もちろん、プロ中のプロであるイリーナ・ヴィネルは、一目見て日本の男子新体操がヨーロッパ発祥の新体操とは異なるスポーツだということを理解したでしょう。
それでも彼女は日本の男子新体操を推したのでした。
これはスペイン式の男子新体操を推す人達から反感をかいました。
困ったことに、その反感は提案した当人ではなく日本の男子新体操に向かったみたいです。
以下の動画はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場から男子新体操の問題を取り上げたものです。(もちろん日本のものではなく英語圏のもの。)
私はこの動画「Men's Rhythmic Gymnastics」について、2年前の記事でも取り上げましたが、今回改めてこの動画を見て、前の記事を訂正しないといけないことに気づきました。
というのも、この動画自体が大幅に編集し直されているからです。
コメント欄も問題があるものは削除したのではないかという印象です。
実はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場にあるこの動画は、以前は日本の男子新体操について非常に敵対的でした。
その理由は、もし日本の男子新体操が女子の新体操の対となる男子の新体操として採用されるならば、新体操は名目上は男女平等が達せられますが、日本の男子新体操が女子の新体操と異なるスポーツである以上実際には男女平等は達せられないからです。
それだけではありません。この動画の管理者や以前にコメントを書いた人達は大きな誤解をしていたみたいです。
彼らは、日本の男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操を剽窃したものだと思っていたらしいのです。
要するに、日本人がヨーロッパ発祥の女子の新体操を見て、勝手に似て非なるものを作り上げ、男子新体操と名乗っていると思ったようなのです。
もちろん事実は、既に日本の男子新体操の歴史で触れたように全く異なります。
上記の動画はジェンダー平等という、それなりに真面目な意図をもって配信されていたものですから影響も懸念されました。
それで、なのかどうか分かりませんが、SNS上で日本の男子新体操を応援し、動画や記事を配信している「Ouen MRG」の管理人がコメント欄でそのことを指摘しました。
その結果、コメント欄でのそれまでの敵対的な姿勢は止みました。
私の2年前の記事はその時点で書いたものでした。
その後に、この動画の管理人は大幅な再編集を行ったものと思われます。
これは私の推測ですが、たぶん慎重に事実関係を調べ直し、結果、ロシアとイリーナ・ヴィネルの存在に行き当たったのかもしれません。
ところで再編集の結果、欧米西側諸国の男子新体操に関わるジェンダーやLGBTQについての意識もコメント欄で散見できるようになりました。(以前は、動画のテーマが rhythmic gymnastics におけるジェンダー平等でありながら日本の男子新体操を問題視することが主眼になっていた。)
そこから窺えることについて触れてみます。
そもそもYouTubeやX(旧ツィッター)のコメントや書き込みは、深く考えたり調べたりせず思ったことを書き込んでおり、内容に事実と反することは当たり前のようにあります。
そこには、人々が何をどう考えているかが、簡単には敷衍化できないにしろ反映されています。
つまり人々の偏見もまた浮かび上がるのです。
たとえば以下のようなコメント。
このコメントの書き手はロシアのイリーナ・ヴィネルがスペインの男子新体操を受け入れなかったことからロシアの保守性を指摘しているわけです。
ですが、このコメントは誤りだらけです。
たとえばロシアがバレエ大国であることは私でも知っていますし、歴史的にもロシアの男性バレエダンサーの活躍は目覚ましいものがありました。
ロシアがバレエや男性ダンサーを受け入れないなんて偏見もいいところです。
それ以前にこのコメントの一番の偏見は、言うまでもなくダンスする男性とLGBTQを疑問も持たず結びつけていることです。
その上でロシアはLGBTQ問題に限らず保守的だから男子新体操を受け入れないと主張しているわけです。
そこでは、動画の中ではっきり語られている、ロシアが日本の男子新体操を受け入れている事実もなぜか無視されています。
何度も記しますが、ダンスについての根強いジェンダー規範を持つ人にとって、スペインのそれも日本のそれも関係がないのです。
イリーナ・ヴィネルが日本の男子新体操を推している事実はそれだけでこのコメントの主張を覆しているのです。
実際、この動画には以下のようなコメントもついていました。
このコメントはGoogleの翻訳が分かりにくいですが「自分のロシアのRG体操選手を言葉で脱がす云々」の意味は、先に触れたドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」に現れているイリーナ・ヴィネルのパワハラを指していると推測されます。
後段、イリーナ・ヴィネルが男性がRGに参加することを支持云々は、彼女が日本の男子新体操を女子の新体操の男性版として参加させようとしていることを指しているようです。
この動画自体はスペイン式の男子新体操を推す立場ですので、上記のコメントにはイリーナ・ヴィネルが推しているのは日本の男子新体操である(だから評価には値しない?)という返信コメントもありました。
が、いずれにしても上記のコメントは、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルが日本のそれであれ男子の新体操を受け入れていることを評価しているわけです。
ただその種の評価もまた、いささか的が外れていて、ロシアという国を知らなさすぎると言えます。
というのも、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルは、そもそも男性が踊ることに対する西側の欧米人が持っているような偏見を持ちあわせていないからです。
言葉を換えれば上記二つのコメントをした人達は自分達自身の偏見を無自覚なまま相手(ロシアやイリーナ・ヴィネル)に投影しているということです。
付け加えると、確かにイリーナ・ヴィネルは日本の男子新体操を推していますが、彼女はスペインの独創的で芸術的な演技をする男子新体操の選手も評価しています。
ならばなぜ、彼女はスペイン式の男子新体操を推さないのかというと、スペインではその種の独創的で芸術的な演技が全体の方向性や水準としては確立されていないからだと思います。
新体操の芸術性を重視するロシア的な価値観はどうやら西側諸国のジェンダー平等を推進しようとする人達やLGBTQへの差別を排そうとする人々には理解できないようです。
それ以前に彼ら、いわゆるリベラルな人達は、自分達の文化の価値観でロシアなり日本なりの異なる文化を持った人達を評価しようとする間違いを犯しているようにも感じます。
私はこの記事のハッシュタグに“エスノセントリズム”という言葉を付けました。
エスノセントリズムとは自分が生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化や社会を評価する考え方のことです。
ジェンダーやLGBTQについて、私たちは無意識に欧米西側諸国が一番進んでいると考えてしまいがちです。
でも、そこに彼ら自身のエスノセントリズムが入り込んでいることもあります。
実際、ジェンダー平等やLGBTQの権利を主張するリベラルな人達の中には、逆の意味で差別的な感じさえ受けることがあります。
たとえば、2019年の花園大学の演技動画には以下のようなコメントが付いていました。
いくつか説明しておくと、このコメントの原語はスペイン語のようで、スペイン語圏の人によるもののようです。
コメント中のネオコンの意味は新保守主義のことです。
分かり辛いもう一つの言葉「アルファメール」の原語は“machos alfa”で、意味は「群れのボス猿」みたいな感じです。
そこから意訳すると、コメントの内容は、日本のアニメが好きなような同性愛嫌悪を持つ保守的人種は、彼らがボスと仰ぐ男権的な日本で、LGBTQイベントに他ならない男子新体操というスポーツがあるなんて考えも及ばないだろうハハハハハハと笑っているのです。
このコメントを書いた人は、おそらく日本で言う意識高い系のリベラルな人なのでしょうが、踊る男性=ゲイという自分の所属する文化の持つ偏見には完全に無自覚なようです。
日本のアニメに、ここで指摘されるような同性愛嫌悪があるかどうかも疑問です。
考えるに、どうやら西側欧米諸国にとっては、ロシアも日本も、自分達とは異なり、政治的意識(いわゆるポリコレ)に未だ目覚めない遅れた国という認識なのかもしれません。
以上、ざっと見たところですが、男子新体操は、欧米の今時のジェンダー平等やLGBTQ問題の流れの中では、仮に相手に聞く姿勢があったとしても、よほど上手く説明したり説得したりしないと理解されないのではないかという印象を持ちます。
ただそういった状況も含め、理解している人は理解しています。
実際、日本国内で10年以上国体から外されていた男子新体操が国スポ(旧国体)に復帰できたのも、関係者の努力が国外での高い評価につながり、それが国内での見直しとなったからでしょう。
多くの外国人が男子新体操を観て「なぜこのスポーツがオリンピック種目にならないのか」と素朴に疑問を持ちます。
最近も、以下のようなコメントがありました。(このコメントは、先のコメントと同じ2019年の花園大学の演技に付いたものです。)
このコメントにあるように、男子新体操が国際化しない理由は欧米のジェンダー規範であり、それがもたらす性差別であることは、欧米西側諸国にとっては既知の事柄なのです。
コメント主が欧米のジェンダー規範を当然としている場合も含め、それはもう何度となく多くの人達が動画のコメント欄で書いていることなのです。
翻って日本は、欧米西側諸国のその偏見にどの程度気づいているのか。
ここからは日本のことを書いてみます。
ある程度大人の当事者たちは色々言われていることは知っていたと思います。
ただ、それらからは目を逸らしていたというのが実情ではなかったでしょうか。
そりゃあ「自分達は欧米ではゲイだと見なされている」なんて誰も思いたくはないでしょう。
それ以前に、ここで述べたような欧米のジェンダー規範の強烈さには思い至らなかったと思います。
日本人にとっては、それは理解や想像の範疇をはるかに超える事柄だからです。
何度も書きますが私にとっても驚きでした。
自分自身についての、あまりに事実とかけ離れた他者の思い込みは自分とは無関係だと思ってしまうのです。(確かに無関係なんですが・・)
男子新体操の動画についた無数のコメントを意識的に読まなかったら、私も気が付かなかったと思います。(Googleの翻訳機能は万全とは言えないけれど、他国の人達の生(ナマ)の意識を知る上で役に立ちます。)
実際、ジェンダー平等というと女性が被害者のように思われがちですが、男子新体操においては男性が差別され、偏見の矢面に立たされています。
またジェンダー平等やLGBTQ問題で遅れていると思われているロシアや日本に偏見がなく、進んでいると思われている欧米西側諸国に強い偏見があります。
固定観念に囚われていたらその種の事実は見えません。
しかも男子新体操におけるジェンダー問題は現在進行形で、女子の新体操との関係でどのように日本の男子新体操を位置づけられるか、未だ決着がついていないのです。
でも欧米での議論は相当にあるようなので遠からず大きく動くかもしれません。
日本はその時、欧米の差別的なジェンダー規範の存在に無知で無自覚なままで、欧米やロシアの言い分に巻き込まれず、どれくらい主体的に動けるのでしょうか。
日本の男子新体操は日本体操協会に属していますが、男子新体操に関しては資金も人材も乏しく、登録されている選手数も2000名程度と、まさにマイナースポーツの典型です。
実際、日本体操協会の中でも長年冷や飯食いの状態のようです。
国際化に関しては、長い年月、関係者は努力していたけれど、極東の小さなスポーツ団体が欧米の強固なジェンダー規範を新体操の部分だけ変えるなんて、どだい無理な話だったのです。
そしてグローバルスタンダードを任ずる欧米が動かなければそれ以外の国々も動きません。
だから国際化がうまくいかなかったことは、日本の関係者の責任ではありません。
それくらい欧米のジェンダー規範は途方もなく強いものだからです。
じゃあどうするんだって話ですが、それでももし本気で国際化を望むのなら、欧米のジェンダー規範という敵をしっかりと見すえた上で戦略を立てねばならないでしょう。
相手(日本以外の国々、とりわけ実質的に決定権を握っている国々)が自分のことをどう思っているか、まったく気づかないまま国際化なんてありえないのです。
幸い、日本はともかく欧米西側諸国では、日本の男子新体操が性差別によって正当に評価されていないことに気づかれています。
ここで私の勝手な考えを書くならば、国際化を目指すなら、日本の男子新体操についての欧米とは異なる社会的・文化的コンテキストを積極的に示すことではないかと思います。
先に書いたように、ストリート系のダンスなど、欧米でも男性がダンスすることは当たり前にあるからです。
要は社会的・文化的な文脈(コンテキスト)の問題です。
そこから考えると、海外で、mens rhythmic gymnasticsと、英語表記で自らを名乗っていることは相当な悪手でした。
なぜなら rhythmic gymnastics は、欧米ではスポーツにおける女性文化そのものだからです。
あえて酷い言い方をするなら、まるで関係ないのにわざわざ「おかまキャラ」を買ってでているようなものです。
もちろん、そういう見方自体が差別的なのですが、国際化とか普及といった面から見ると悪いネーミングだということです。
たとえば外国人のコメントを読んでいて、よく見かけるのは日本の男子新体操は武道から生まれたのではないかというようなことです。
要するに外国人で、男子新体操を見て魅力を感じるなど肯定的な思いを持った人は、男子新体操は武道から派生しているのではないかと言いたいようなのです。
中でもロシアの男子新体操の指導者は、はっきりと武道から派生したみたいなことをいい、オリエンタルなものだと言ってます。
ロシアはそういう嘘を平気で言うから信用できないのですが、意図は分かります。
背景の文脈を変えて、受け入れ可能なものとして諸外国の認知を図ろうとしているのです。
むろんそれは間違ってます。
日本の男子新体操は、徒手体操の部分はヨーロッパの体操を基礎にしているので、全然武道とは関係なく、伝統的でも民族的でもオリエンタルなものでもないのです。
そして最大の特徴であるアクロバットつまりタンブリングは、選手間の言い伝えによれば、元々は戦前の日本の軍隊での、航空兵の空間認識能力を高めるための訓練だったそうです。
ただその起源は選手間の言い伝えとしてのみ残っていて、公的には語られていません。
起源として正式に語られなかったのは、おそらく終戦直後のGHQ対策だったと推測できます。
ちなみに青森大学の2019年のドイツ(?)遠征時の演技動画を見たあるイギリス人のコメントは興味深いものです。
2行目、「演技と演技」は原語では“display and routine”です。
このコメントの主は1950年代から1960年代初頭に英国空軍に所属していたとのことですので相当にご高齢のようです。
このコメントから分かることは、イギリス空軍でもアクロバットのショー的な演技が行われていたことです。
コメント主は青森大学の演技を観てそれを思い出しています。
これは日本の男子新体操の起源の言い伝えの信ぴょう性を高めるものでしょう。
そして国際化を考えるのなら、「航空兵の訓練」といった文脈は有効です。
なぜなら、男子新体操が好きでも「ゲイだと思われるのが怖すぎる」というアメリカ人のコメントが現実にあるからで、「航空兵の訓練」は彼らに刷り込まれている「ゲイの求愛ダンス」とは別の文脈を提供するからです。
そして実際の演技の、サーカス並みにスリル満点の超絶性はその文脈を充分すぎるほど補強します。
要は欧米各国でも心理的な抵抗なく男子新体操をやってもらうことが重要なのです。
そのために欧米流の文脈から離れることが必要なのです。
ジェンダー平等の闘士ならば「それはゴマカシだ」と言って怒るかもしれません。
もちろんジェンダー差別は重要な論点ではあるけれど、日本の男子新体操が欧米のジェンダー問題を直接的に解決するには余裕も義務も無さすぎるのです。
もっと基本的なところでは、少年達が行うスポーツとしての男子新体操を知ってもらうことですが、アニメの「バクテン!!」はそれが成功した例だと思います。
アニメの「バクテン!!」は、フィクションであっても、日本の社会の日常性の中で、男子新体操に夢中になる高校生達をリアルに描いていました。
海外に配信されたアニメの「バクテン!!」を見て、本物はどんなものかと実際の男子新体操の動画を見てコメントしてくる海外の若い世代の人達には、私が読んだ限りジェンダーに関わる否定的なコメントは一つもありませんでした。
彼らは実際の演技がアニメで見たものよりも凄いことにシンプルに感心し、男子新体操というスポーツをクールだと書いています。
自国のジェンダー規範で見ているのではなく、「バクテン!!」が提示した文脈で見ているのです。
アニメの「バクテン!!」はどちらかといえば国内向けに男子新体操というスポーツの認知度を上げることを目指していたのでしょうけど、国外に向けても良い宣伝になったと思います。
なにより本来の日本の文脈での男子新体操がどういうものか、海外でも知らしめる効果がありました。
国際化に関しては、今はどうなのか知りませんが、おそらく日本の関係者は女性の rhythmic gymnasticsの男性版にするというイリーナ・ヴィネルの提案に期待をかけていたと思います。
実は私も最初に聞いた時は「そうなればいいな」と思っていました。
ですが色々と知るにつけ、その方法は良くないと思うようになりました。
理由は、女子の rhythmic gymnastics と競技内容を同じくするスペインの男子新体操があるからです。
そこに競技内容がまるで異なる日本の男子新体操を持っていく必然性などないのです。
逆に、仮にもし日本の男子新体操を rhythmic gymnastics の男性版とすると、スペインの男子新体操の選手達や日本で男子新体操をやっている少女達の行き場がなくなります。
海外のコメントを読むと日本式とスペイン式の両者を融合させようとする意見もありますが、それではどちらの独自性をも失わせます。
というより、力の弱い日本は相手に吸収されてしまうでしょう。
実際、私が知る限りでも、過去において日本の男子新体操は rhythmic gymnastics にすり寄り、競技内容まで変えようとした形跡があります。
独創性においても、創造性においても、世界に誇り得る競技でありながらヨッロッパ発祥の rhythmic gymnastics の権威に縋ろうとしたのは、それによって得られる国際化が目的だったのかもしれません。
それは良く分かるのですが、でもそれは実際には国際化とは繋がらず、競技のアイデンティティをも危機にさらす姿勢だったと思います。
スポーツにおけるジェンダー平等とか、LGBTQ問題というのは、私がここで書いたように決してスローガンだけ唱えていればよいものではないし、また教科書的な理解で済まされるものでもないです。
実際、このテーマは私のような素人には荷が勝ちすぎています。
日本のスポーツジャーナリストやジェンダー問題の専門家には、もう少しは男子新体操に目を向けてほしいものだと思います。
最後になりましたが、疑問点や間違っている部分などありましたら、遠慮なく指摘してください。
また、このテーマに興味のある人のために、分かりやすいように2年前に書いた前段に当たる「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④と纏め、新たに“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーの中に収めました。
そちらも読んでくだされば幸いです。
ジェンダー観を巡る差別や偏見に限らないのですが、我々人間は全員、エスノセントリズム…というよりセルフセントリズムに囚われた思考をしがちです。たとえばトランス界隈とフェミニストの一部との鋭い、鋭すぎる対立など。さまざまな「○○センター」からフリーになることを目指さなければいけませんね。
真夜中に 夢中になって 読まさせてもらいました。
理路整然としていて とても読みやすく思いました。
ただ 内容は 重いですよね。
欧米諸国の 根底にあるもの。
宗教からくるものや アジア人蔑視も あるのかなとも 思いました。
少し 本題と離れますが LGBTQは 変に綺麗事として 持ち上げられ 実際の当事者達の気持ちと かけ離れているのではと思ったりもします。
男子新体操の歴史も 知らなかった事ばかりでした。
今の状況では 国際舞台では認められなくても 国スポに戻ってきたって すごい事ですよね。
青森大学の演技「ブルー」
素晴らしくて 感動致しました。
まとまりのない文章で ごめんなさい。
とても興味深いお話し ありがとうございました。
私はたまたま男子新体操のファンで、そこに潜むジェンダー問題に気づきました。
文化の違いはどうしようもないものですが、差別的な文化は困ったもんです。
ただ中にいるものはそれが差別だとも偏見だとも気づかないでしょうね。
自らの血肉と化しているから。
それでも、何事につけ、冷静に見られる人と見られない人の差は何なのか、そこが気になるところです。
知性ですか、教養ですか、それとも元々の思慮深い性格か・・。
対立も、欧米でも日本でもそうなんでしょうが、活動家というより意識高い系の人達の意識が偏り過ぎてる感じです。
前の記事も読んでくださったのですか。
ありがとうございます。
確かに、内容は重いです。
私は調べてみたのですが、意外にも宗教、要するにキリスト教はからんでいないのです。
キリスト教では男性が踊ることを否定しているのかと思ったのですが、それはなかったのです。
LGBTQ問題に限らず障がい者問題でもそうですが、被差別者というと変に美化されますね。
私は美化するのも差別で、当事者は逆にしんどいんじゃないかと思います。
LGBTQの人達も、障がい者も、日常性の中で寄り添っていくしかないような・・。
「ブルー」は、私も感涙ものでした。
男子新体操は人の思いを表現できる類まれなスポーツだと思います。