久しぶりの介護シリーズです。
母の介護の経験の中で、当初このシリーズで書こうと思いながら止めていたことを書いておこうと思います。
とても長いし、重い話だと思います。興味のない人はスルーしてください。
このシリーズを書こうと思った理由は、介護について、介護保険制度が始まっているにもかかわらず、介護保険以前の、30年くらい前の介護のイメージのままの人が多いことに気づいたからです。
それで私が経験した介護の実際を書いてみようと思ったのです。
介護を自分だけで抱え込まず、専門家である他人の力を借りれば乗り切れることを書きたかったのです。
そうすると逆に、介護保険を利用しても途方に暮れた経験は書きづらいものがありました。
なにより、あまりにも大変だったことは記憶も曖昧になっていました。
今回はその書かなかったことを書いてみます。
たぶん、今、介護をしている人にとってはレアケースであり、そんなことがあるのかと思われるようなことですし、役に立つ話でもないです。
それは、介護保険を利用しての母の介護が始まって5年目のことでした。
母の回復は、視力が元に戻らないことを除けば元気で、デイサービスにも一番楽しんで通っていた頃の出来事です。
ただ、世の中や私自身の状況は順調とは言えませんでした。
リーマンショックで20年以上働いた会社は破産し、再就職も年齢を理由に履歴書を送ることさへ断られる始末。
1年以上失業して、やっと公的な機関の契約職員になりフルタイムで働き始めました。
ところが背中を事故で傷め(労災ではない)、それをかばっている内に椎間板ヘルニアになりました。
ヘルニアは少し良くなってもまた発作を繰り返し、だんだん悪化して、結局、その職場も止めざるをえませんでした。
数か月休養して、椎間板ヘルニアがすっかり良くなってから、次に、やはり公的な機関(役所)で、年度替わりの4月から働くことにしました。
ただ、この時はフルタイムではなく、役所なので土日祝日は確実に休み、ウィークディに月に15日の出勤という契約でした。
私が新しい職場で働き始めて1週間くらい経った頃、母が左耳の下が何だか痛くて食事もしづらいと言い出しました。
見ると少し腫れていました。
私は耳下腺炎だなと思いました。私も同じ経験をしたことがあり、まったく同じ症状だったからです。
私はすぐに駅近くの耳鼻咽喉科に連れて行きました。
医師の診断は私の予想通り、耳下腺炎でした。
抗生物質が処方され、1週間経ちましたが良くならず、別の抗生物質が処方されました。
でも1週間たっても良くならずまた別の抗生物質が処方されました。
でもその抗生物質でも良くならず、医師は大きな病院に行ってほしいといいました。
幸か不幸か、私の居住地には比較的大きな総合病院が複数あり、今後のことも考えて一番近くの総合病院(仮にK病院とします)宛に紹介状を書いてもらいました。
もうゴールデンウイーク直前のころでした。私は仕事で病院に付き添うことができなかったので、兄に付き添いで行ってもらいました。
その日、仕事から帰ると母は耳の下を腫らしたまま寝ていました。
兄に聞いてみると、K病院の医師いわく「下咽頭がんです。入院しても治療の方法もないので入院はさせられません。連れて帰ってください」とのことで、そのまま連れて帰ったのだそうです。
K病院の医師は組織を生検に出しているとかで、それ以外は何もせず、薬の処方もありませんでした。
兄と私は生検の結果を待って、とりあえず家で養生することにしました。
その翌日からはゴールデンウイークに入っていましたが、母の症状はあっという間に悪い方に急展開しました。
耳の下が化膿で首も顔も変形するほど急激に腫れ上がり、パンパンになって首も曲がらない状態。
動かすと激痛で、当然、食べ物を食べることはできなくなり、なんとか吸い飲みでジュースだけは飲ませることはできました。
たぶん、いきなり抗生物質を止めたため、今まであまり効かないとはいえ薬で抑えられていた化膿が爆発的に進んだものと思えました。
この頃のことは、私は切羽詰まっていましたので記憶も不確かなのですが、だいたい起こった事を記します。
母の状態は、若い人でも絶望するような、耐えられるかどうか分からない酷いものでした。
しかも母はその時86歳、耐えられるかどうか私には疑問でした。
私はK病院に電話し事情を話しました。
でも答えは、今は病院は休みで、ゴールデンウイークが終わった診療日に受診してくださいというもの。
私が何を言っても「診療日に来てください」で終わり。
あの頃ほど私がゴールデンウィークが終わることを待ちわびたことはないです。
やっと終わって、診療日、私はシフト上、勤め先を休むことができないので、兄に母をK病院に連れて行ってもらいました。
ところが家に帰ると、母は何の治療も受けないまま、ベッドで寝ていました。
ゴールデンウィークで生検の結果は出ておらず、そのまま帰されたというのです。
私にとっては、生検の結果なんてどうでもよかったのです。
早く腫れあがった耳の下を切開して大量の膿を出さねば、母の苦痛は終わらないし、食事もできないのです。
黙って医者の言うがまま母を連れ帰った兄にも腹が立ちましたが、兄にしてみれば医者の指示に従っただけなのです。
医者は入院はさせられないの一点張りだったそうですが、入院より治療をしてほしかったのです。
兄は危機的な状況というものが全く理解できない病気音痴みたいな人ですし、自分が介護にも看護にも当たらないので「どうしようもないやろ」と投げやりなものでした。
母の担当のNケアマネにはメールで連絡を入れていましたが、ゴールデンウィーク中だったからかどうか音沙汰なし。
これも奇妙なことでした。いつもは真面目で熱心な人なのです。
私は途方に暮れました。
その時、ふと思い出したことがありました。
まだ母が介護とも縁がなく、元気だった頃、母の甲状腺に良性の腫瘍ができたことがありました。
良性でも切除しなくてはならず、その手術を受けた時のことです。
病院は甲状腺の専門病院である神戸にある隈病院でした。
隈病院は日本全国から患者が来るほど甲状腺専門の高度な医療を受けられることで有名でしたが、それだけではなく心身両面に立ち、徹底した患者本位の医療をすることでも知られていました。(今もそうなのかは知りません。ずっと昔、今の皇后陛下が妃殿下だった頃、甲状腺の病気に罹られた時、甲状腺の治療とともに当時の院長先生によるカウンセリングも受けておられたのは知る人ぞ知る話。)
隈病院では、患者や患者家族の誰もが目につくところに「相談室」の掲示がありました。
治療に関することでも、退院後のことでも、分からないことや心配なことがあれば何でも相談に来てくださいと書いてありました。
患者やその家族のための「相談室」は総合病院ならどの病院にも設置されています。
ただ、どの病院でも患者やその家族の誰もにもその存在が周知されているかというと疑問です。
それは病院の姿勢の問題で、多くの病院は面倒なことで相談はされたくはないからだと思います。
隈病院では病院に来た人が嫌でも目に入る場所に掲示がしてあったので、当時『さすが、隈病院』と思ったものでした。
私は隈病院の相談室のことを思い出して、K病院は総合病院なので、必ず相談室はある筈だと考え、そこに相談してみようと思いました。
その時は勤め先を休むことなど気にしていられなくて、翌日くらいにはK病院の相談室に行って母の窮状を相談していました。
時を置かずK病院から電話があり、母の診察をするので来院してほしいとのことでした。
翌日、しんどいから行きたくないという母を説得して車に乗せ病院に行きました。
その頃になると母の耳の下の腫れは、自壊して皮膚が破れ膿が流れ出ていましたが、皮膚の奥に大量に溜まっている膿を出すにはやはり医療の専門家やそれなりの医療器具が必要と思われる状態でした。
病院で診察を待っていると、Nケアマネがやってきました。
母が病気になってからNケアマネはずっと顔も見ていなかったのです。
様子がおかしかったので今でもその時の記憶は鮮明です。
いつもはキビキビした人が、足取りも躊躇いがちにフラフラと、表情も『これでいいのか』と考えているような感じで来たのです。
担当の医師は50がらみの女医で、ベラベラとしゃべりながら、皮膚の割れた場所から膿を吸い出していったのですが、麻酔とか痛み止めとか一切なし。
最初は吸引器のようなもので吸い出していましたが上手くいかず、結局、針を外した大きな注射器を突っ込んで吸い出していきました。
母は我慢強い人なので何も言わず耐えていましたが、とても痛そうで見ている方が辛いぐらい。
しかも話しながら吸い出すのですが、目が患部ではなく、娘の私とNケアマネの顔を見ながらで、口には出しませんでしたが内心『患部を見て、痛くないようにやってくれないか』と思いました。
後に母は、その時の処置ほど生涯で痛い思いをしたことはなかったと会う人毎に話してました。
処置しながら医師が話したことは、膿を出さなかったのは、切開すると癌がキノコのように耳の下から生えてくることがあり、見栄えがよくなく、そうなったら気の毒だから、というようなこと。
大量の膿はすべて癌の死骸だということ。「これ、みんな癌の死骸ですよ」と言ってました。
膿が多すぎて生検に出しても結果が出ない(つまり陰性だという)こと。
そうして、実際にはどれくらいの時間だったか分かりませんが、私にはとても長く感じられた、痛みに対する配慮がまるで感じられない乱暴な処置が終わりました。
同じ日ではなかったと思いますが、病院の相談室のソーシャルワーカーとも話し合いを持ちました。
その時のソーシャルワーカーの態度も不自然でした。
最初に話した時と異なり、防衛的というか、感情抜きのロボットのような応対だったのです。
Nケアマネといい、ソーシャルワーカーといい、普段は普通の人ですので、私のやったことは余程の横紙破りだったようです。
ソーシャルワーカーによれば、担当の医師は、家族が可哀そうなので入院させてあげても良いと言っているということでした。
家族より患者である母が可哀そうだと思わないのかと私は思いましたが、結局、入院はこちらから断りました。
その代わり、在宅で看護するために、在宅の末期癌患者を専門に診る訪問医を確保してもらいました。
看護師の方はNケアマネが手配してくれました。
その二つは最速でやってもらいました。そして、やっとまともな看護体制が整ったのです。
来てくれたのは緩和ケアの専門医でしたので、母は相当に楽になったようです。
もちろん、訪問看護師や専門の医師が来てくれるといっても、在宅の看護は大変でした。
腫れはある程度治まったとはいえ、母の耳の下からは相変わらず大量の膿が流れ続けていました。
看護師さんは色んな種類のガーゼ類を用意しましたが、どれも役に立たず、私は看護師さんに一番大きな夜用の生理用ナプキンを購入するように言われました。
看護師さんは私が買ってきたそれを半分に切り、膿が流れる傷口に当てるようにしたのですが、1日に2度替えてもパシャマや下着が流れ落ちた血膿でグチョグチョになりました。
ただ、そういう状態はいつまでも続くことはありませんでした。
膿の流出は徐々に治まりました。3ヵ月ほどで傷口もふさがり、その後は傷跡さへ目立たなくなって、要するに完治したのです。
皮膚の割れ目から「癌がキノコのように生えてくる」こともありませんでした。
K病院の医師の癌という診断には確定的なものは何もなく、もともと私は懐疑的だったのですが、末期癌専門の訪問医に本当に癌であったか聞くと、「膿と一緒に流れ出てしまったのかもしれませんね」ということでした。
翌年、たまたま最初にかかった町の耳鼻咽喉科に私自身がかかることがあり、その時についでに母の話をすると、そこの先生は「そんなもんが癌であるわけないやろ」と激怒しました。
その先生にすれば、自分が紹介状を書いた患者が総合病院で酷い扱いを受けたことに怒り心頭だったようです。
その前に、もう一人激怒した人がいました。Nケアマネです。
在宅で診ることになって、介護認定のし直しをする際に、Nケアマネは一応主治医ということになっていたK病院の医師に、必要書類の一つである医師の所見の記入を依頼したらしいのですが、返ってきたきた書類のほとんどすべての項目に「不明」と記されていたらしいのです。
上から下まで不明・不明・不明・不明・不明の羅列だったそうで、それにキレたらしいのです。
もちろん、そんな書類は提出できず、書き直しを依頼するかどうかという時、事情を知った訪問医が「僕が書きます」と言ってくれて事なきをえたようです。
一連の出来事はK病院の医師が最初にきちんと診療してくれていたら、母も私も、そんなに苦労しなかったと思います。
これは介護保険制度に問題があるというような問題でもないと思います。
医師の言葉、指示というのはとても権威があり、医療のシロウトの家族である私の言葉や思いよりはるかに重んじられるのです。
客観的にみて医師の指示がどれほどおかしくても、です。
Nケアマネが動かなかったこと、躊躇いの理由はそこにあったと思います。
当時の私は新しい職場に就職したばかりで、仕事は覚えねばならず、シフトの都合上、そうそう休むこともできず、一時は私は勤め先を辞めることも考えていました。
ただ当時の就職状況はとても厳しく、一度退職してしまうと再就職は難しかったと思います。
でも、介護がうまく回り始めると特に仕事を辞める必要もなくなりました。
K病院の医師が母の診療を実質的に拒否していた理由は、色々と推測は可能ですが、不明というしかありません。
母の介護の経験の中で、当初このシリーズで書こうと思いながら止めていたことを書いておこうと思います。
とても長いし、重い話だと思います。興味のない人はスルーしてください。
このシリーズを書こうと思った理由は、介護について、介護保険制度が始まっているにもかかわらず、介護保険以前の、30年くらい前の介護のイメージのままの人が多いことに気づいたからです。
それで私が経験した介護の実際を書いてみようと思ったのです。
介護を自分だけで抱え込まず、専門家である他人の力を借りれば乗り切れることを書きたかったのです。
そうすると逆に、介護保険を利用しても途方に暮れた経験は書きづらいものがありました。
なにより、あまりにも大変だったことは記憶も曖昧になっていました。
今回はその書かなかったことを書いてみます。
たぶん、今、介護をしている人にとってはレアケースであり、そんなことがあるのかと思われるようなことですし、役に立つ話でもないです。
それは、介護保険を利用しての母の介護が始まって5年目のことでした。
母の回復は、視力が元に戻らないことを除けば元気で、デイサービスにも一番楽しんで通っていた頃の出来事です。
ただ、世の中や私自身の状況は順調とは言えませんでした。
リーマンショックで20年以上働いた会社は破産し、再就職も年齢を理由に履歴書を送ることさへ断られる始末。
1年以上失業して、やっと公的な機関の契約職員になりフルタイムで働き始めました。
ところが背中を事故で傷め(労災ではない)、それをかばっている内に椎間板ヘルニアになりました。
ヘルニアは少し良くなってもまた発作を繰り返し、だんだん悪化して、結局、その職場も止めざるをえませんでした。
数か月休養して、椎間板ヘルニアがすっかり良くなってから、次に、やはり公的な機関(役所)で、年度替わりの4月から働くことにしました。
ただ、この時はフルタイムではなく、役所なので土日祝日は確実に休み、ウィークディに月に15日の出勤という契約でした。
私が新しい職場で働き始めて1週間くらい経った頃、母が左耳の下が何だか痛くて食事もしづらいと言い出しました。
見ると少し腫れていました。
私は耳下腺炎だなと思いました。私も同じ経験をしたことがあり、まったく同じ症状だったからです。
私はすぐに駅近くの耳鼻咽喉科に連れて行きました。
医師の診断は私の予想通り、耳下腺炎でした。
抗生物質が処方され、1週間経ちましたが良くならず、別の抗生物質が処方されました。
でも1週間たっても良くならずまた別の抗生物質が処方されました。
でもその抗生物質でも良くならず、医師は大きな病院に行ってほしいといいました。
幸か不幸か、私の居住地には比較的大きな総合病院が複数あり、今後のことも考えて一番近くの総合病院(仮にK病院とします)宛に紹介状を書いてもらいました。
もうゴールデンウイーク直前のころでした。私は仕事で病院に付き添うことができなかったので、兄に付き添いで行ってもらいました。
その日、仕事から帰ると母は耳の下を腫らしたまま寝ていました。
兄に聞いてみると、K病院の医師いわく「下咽頭がんです。入院しても治療の方法もないので入院はさせられません。連れて帰ってください」とのことで、そのまま連れて帰ったのだそうです。
K病院の医師は組織を生検に出しているとかで、それ以外は何もせず、薬の処方もありませんでした。
兄と私は生検の結果を待って、とりあえず家で養生することにしました。
その翌日からはゴールデンウイークに入っていましたが、母の症状はあっという間に悪い方に急展開しました。
耳の下が化膿で首も顔も変形するほど急激に腫れ上がり、パンパンになって首も曲がらない状態。
動かすと激痛で、当然、食べ物を食べることはできなくなり、なんとか吸い飲みでジュースだけは飲ませることはできました。
たぶん、いきなり抗生物質を止めたため、今まであまり効かないとはいえ薬で抑えられていた化膿が爆発的に進んだものと思えました。
この頃のことは、私は切羽詰まっていましたので記憶も不確かなのですが、だいたい起こった事を記します。
母の状態は、若い人でも絶望するような、耐えられるかどうか分からない酷いものでした。
しかも母はその時86歳、耐えられるかどうか私には疑問でした。
私はK病院に電話し事情を話しました。
でも答えは、今は病院は休みで、ゴールデンウイークが終わった診療日に受診してくださいというもの。
私が何を言っても「診療日に来てください」で終わり。
あの頃ほど私がゴールデンウィークが終わることを待ちわびたことはないです。
やっと終わって、診療日、私はシフト上、勤め先を休むことができないので、兄に母をK病院に連れて行ってもらいました。
ところが家に帰ると、母は何の治療も受けないまま、ベッドで寝ていました。
ゴールデンウィークで生検の結果は出ておらず、そのまま帰されたというのです。
私にとっては、生検の結果なんてどうでもよかったのです。
早く腫れあがった耳の下を切開して大量の膿を出さねば、母の苦痛は終わらないし、食事もできないのです。
黙って医者の言うがまま母を連れ帰った兄にも腹が立ちましたが、兄にしてみれば医者の指示に従っただけなのです。
医者は入院はさせられないの一点張りだったそうですが、入院より治療をしてほしかったのです。
兄は危機的な状況というものが全く理解できない病気音痴みたいな人ですし、自分が介護にも看護にも当たらないので「どうしようもないやろ」と投げやりなものでした。
母の担当のNケアマネにはメールで連絡を入れていましたが、ゴールデンウィーク中だったからかどうか音沙汰なし。
これも奇妙なことでした。いつもは真面目で熱心な人なのです。
私は途方に暮れました。
その時、ふと思い出したことがありました。
まだ母が介護とも縁がなく、元気だった頃、母の甲状腺に良性の腫瘍ができたことがありました。
良性でも切除しなくてはならず、その手術を受けた時のことです。
病院は甲状腺の専門病院である神戸にある隈病院でした。
隈病院は日本全国から患者が来るほど甲状腺専門の高度な医療を受けられることで有名でしたが、それだけではなく心身両面に立ち、徹底した患者本位の医療をすることでも知られていました。(今もそうなのかは知りません。ずっと昔、今の皇后陛下が妃殿下だった頃、甲状腺の病気に罹られた時、甲状腺の治療とともに当時の院長先生によるカウンセリングも受けておられたのは知る人ぞ知る話。)
隈病院では、患者や患者家族の誰もが目につくところに「相談室」の掲示がありました。
治療に関することでも、退院後のことでも、分からないことや心配なことがあれば何でも相談に来てくださいと書いてありました。
患者やその家族のための「相談室」は総合病院ならどの病院にも設置されています。
ただ、どの病院でも患者やその家族の誰もにもその存在が周知されているかというと疑問です。
それは病院の姿勢の問題で、多くの病院は面倒なことで相談はされたくはないからだと思います。
隈病院では病院に来た人が嫌でも目に入る場所に掲示がしてあったので、当時『さすが、隈病院』と思ったものでした。
私は隈病院の相談室のことを思い出して、K病院は総合病院なので、必ず相談室はある筈だと考え、そこに相談してみようと思いました。
その時は勤め先を休むことなど気にしていられなくて、翌日くらいにはK病院の相談室に行って母の窮状を相談していました。
時を置かずK病院から電話があり、母の診察をするので来院してほしいとのことでした。
翌日、しんどいから行きたくないという母を説得して車に乗せ病院に行きました。
その頃になると母の耳の下の腫れは、自壊して皮膚が破れ膿が流れ出ていましたが、皮膚の奥に大量に溜まっている膿を出すにはやはり医療の専門家やそれなりの医療器具が必要と思われる状態でした。
病院で診察を待っていると、Nケアマネがやってきました。
母が病気になってからNケアマネはずっと顔も見ていなかったのです。
様子がおかしかったので今でもその時の記憶は鮮明です。
いつもはキビキビした人が、足取りも躊躇いがちにフラフラと、表情も『これでいいのか』と考えているような感じで来たのです。
担当の医師は50がらみの女医で、ベラベラとしゃべりながら、皮膚の割れた場所から膿を吸い出していったのですが、麻酔とか痛み止めとか一切なし。
最初は吸引器のようなもので吸い出していましたが上手くいかず、結局、針を外した大きな注射器を突っ込んで吸い出していきました。
母は我慢強い人なので何も言わず耐えていましたが、とても痛そうで見ている方が辛いぐらい。
しかも話しながら吸い出すのですが、目が患部ではなく、娘の私とNケアマネの顔を見ながらで、口には出しませんでしたが内心『患部を見て、痛くないようにやってくれないか』と思いました。
後に母は、その時の処置ほど生涯で痛い思いをしたことはなかったと会う人毎に話してました。
処置しながら医師が話したことは、膿を出さなかったのは、切開すると癌がキノコのように耳の下から生えてくることがあり、見栄えがよくなく、そうなったら気の毒だから、というようなこと。
大量の膿はすべて癌の死骸だということ。「これ、みんな癌の死骸ですよ」と言ってました。
膿が多すぎて生検に出しても結果が出ない(つまり陰性だという)こと。
そうして、実際にはどれくらいの時間だったか分かりませんが、私にはとても長く感じられた、痛みに対する配慮がまるで感じられない乱暴な処置が終わりました。
同じ日ではなかったと思いますが、病院の相談室のソーシャルワーカーとも話し合いを持ちました。
その時のソーシャルワーカーの態度も不自然でした。
最初に話した時と異なり、防衛的というか、感情抜きのロボットのような応対だったのです。
Nケアマネといい、ソーシャルワーカーといい、普段は普通の人ですので、私のやったことは余程の横紙破りだったようです。
ソーシャルワーカーによれば、担当の医師は、家族が可哀そうなので入院させてあげても良いと言っているということでした。
家族より患者である母が可哀そうだと思わないのかと私は思いましたが、結局、入院はこちらから断りました。
その代わり、在宅で看護するために、在宅の末期癌患者を専門に診る訪問医を確保してもらいました。
看護師の方はNケアマネが手配してくれました。
その二つは最速でやってもらいました。そして、やっとまともな看護体制が整ったのです。
来てくれたのは緩和ケアの専門医でしたので、母は相当に楽になったようです。
もちろん、訪問看護師や専門の医師が来てくれるといっても、在宅の看護は大変でした。
腫れはある程度治まったとはいえ、母の耳の下からは相変わらず大量の膿が流れ続けていました。
看護師さんは色んな種類のガーゼ類を用意しましたが、どれも役に立たず、私は看護師さんに一番大きな夜用の生理用ナプキンを購入するように言われました。
看護師さんは私が買ってきたそれを半分に切り、膿が流れる傷口に当てるようにしたのですが、1日に2度替えてもパシャマや下着が流れ落ちた血膿でグチョグチョになりました。
ただ、そういう状態はいつまでも続くことはありませんでした。
膿の流出は徐々に治まりました。3ヵ月ほどで傷口もふさがり、その後は傷跡さへ目立たなくなって、要するに完治したのです。
皮膚の割れ目から「癌がキノコのように生えてくる」こともありませんでした。
K病院の医師の癌という診断には確定的なものは何もなく、もともと私は懐疑的だったのですが、末期癌専門の訪問医に本当に癌であったか聞くと、「膿と一緒に流れ出てしまったのかもしれませんね」ということでした。
翌年、たまたま最初にかかった町の耳鼻咽喉科に私自身がかかることがあり、その時についでに母の話をすると、そこの先生は「そんなもんが癌であるわけないやろ」と激怒しました。
その先生にすれば、自分が紹介状を書いた患者が総合病院で酷い扱いを受けたことに怒り心頭だったようです。
その前に、もう一人激怒した人がいました。Nケアマネです。
在宅で診ることになって、介護認定のし直しをする際に、Nケアマネは一応主治医ということになっていたK病院の医師に、必要書類の一つである医師の所見の記入を依頼したらしいのですが、返ってきたきた書類のほとんどすべての項目に「不明」と記されていたらしいのです。
上から下まで不明・不明・不明・不明・不明の羅列だったそうで、それにキレたらしいのです。
もちろん、そんな書類は提出できず、書き直しを依頼するかどうかという時、事情を知った訪問医が「僕が書きます」と言ってくれて事なきをえたようです。
一連の出来事はK病院の医師が最初にきちんと診療してくれていたら、母も私も、そんなに苦労しなかったと思います。
これは介護保険制度に問題があるというような問題でもないと思います。
医師の言葉、指示というのはとても権威があり、医療のシロウトの家族である私の言葉や思いよりはるかに重んじられるのです。
客観的にみて医師の指示がどれほどおかしくても、です。
Nケアマネが動かなかったこと、躊躇いの理由はそこにあったと思います。
当時の私は新しい職場に就職したばかりで、仕事は覚えねばならず、シフトの都合上、そうそう休むこともできず、一時は私は勤め先を辞めることも考えていました。
ただ当時の就職状況はとても厳しく、一度退職してしまうと再就職は難しかったと思います。
でも、介護がうまく回り始めると特に仕事を辞める必要もなくなりました。
K病院の医師が母の診療を実質的に拒否していた理由は、色々と推測は可能ですが、不明というしかありません。
野戦病院のような治療をうけられたんですね、
お母様そのお歳になって、本当にお気の毒です。
幸いうちの父の耳鼻科の主治医は、
父の付き添いの老人ホームのケアマネさんや看護師さんが
父の様子を説明するとそれに対して薬を変えて下さったりしますし
弟夫婦もすでに2回面会するなど、対応はしっかりしているようです。
ただ、医師が看護師を下に置いているように、
そのまた下に介護士さん、って感じは否めません。
ただ、そういうことが患者の安寧に悪影響を及ぼすのは本末転倒。
どうしてこういう対応?と疑問に思うことがあったら
口に出して聞いてみよう、と思いました。
また学ばさせていただきました、ありがとうございました。
姑の場合 先生方、スタッフ ケアーマネ 不満は
ありませんでした
連携も しっかりしていました
どちらかと言えば こちらの家族が 迷惑をかけていたくらいです
お母さまの症状も大変だったんですね
病院としては 自信が なかったんでしょうね
治療より先に 問題が 起きた時の安全に終始していたのでしょう
大きな病院に縁がありません
みどりさんのケースのような事態になったら 勇気を持って
疑問をぶつけて行かねば なりませんね
わたしも現実を学ばせて頂いて感謝です
長年、公的機関でお仕事をされた経験によるもの
かしら…
医師やスタッフと、病院側とは必ずしも、
同じ考えとは言い難いのです。
それにしても高齢で痛みに耐えている患者さんを
みても痛みを感じない医師に怒りがわきます。
これから介護を受けるであろう我が身には、
やりきれない思いです。
でも、参考になりました。有難う。
Nケアマネは元看護師さんで、医師の指示に逆らう発想はなかったと思います。
あの時はゴールデンウイークに入ってしまったり、私の仕事の都合で付き添いを兄に任せざるをえなかったり、色々な不運が重なってしまいました。
悪いことは重なるのかもしれません。
普通の医師にかかる限り役に立つ話ではないです。
ただ、こんなこともあるのだという程度です。
K病院は癌治療の拠点病院に指定されていて、母のような患者を受け入れると成績が下がると思われたのかもしれません。だとすると本末転倒ですが。
Nケアマネには、その時を除いて良くしてもらっていました。
医師というのは特別な存在なのかもしれませんね。
どんな医師だって良心的とまではいわなくても常識的に治療くらいはするでしょうから。
患者の痛みに寄り添えない医師というのはこわいです。
お互い、そういう医師とは巡り合いたくないですね。
考えてみるとここ十年の間に、これは悪徳医師だと思える人に1度出会い、尊敬していた医師が長い年月の間に豹変したケースが二回ありました。
考えるに夫婦のトラブルや病・・・です。
やはり医師も人の子としみじみ思いました。
医師も人の子、その通りですね。
個人病院なら別の病院に行くこともできますが、総合病院で変な医師に当たるとやっかいです。
今は紹介状がないと別の総合病院に行くのは不可能ではないにしろ難しいですし、医師同士はかばいあうし・・・。
下手すればこちらがクレイマー扱いされます。
病気はどんどん悪くなるし、患者とその家族は追い詰められます。
母の場合は助かりましたが、そのまま亡くなる人もいるでしょう。
レアケースとはいえ、これが日本の医療の隠れた現実なのかもしれません。
それだけに、ケアマネも医師の方を信頼し、患者や家族が追い詰められてしまうことになったのだと思います。
運が悪かったとしか言いようがありません。