CubとSRと

ただの日記

「誰が賢くて誰が賢くないのか」その②(世の中の役に立つ)

2020年02月29日 | 心の持ち様
2011.02/27 (Sun)

 またまた宮沢賢治の童話。
 「虔十(けんじゅう)公園林」という短い話があります。

 頭が悪くて、字も満足に書けない。だから学校にも行けない。でも性格は良くって、おとうさん、おっかさんの言うことをよく聞き、ただの一度も口ごたえをしたことがない。言われた仕事を、もう良いと言うまで、いつまでもやっている。
 風が吹けばうれしくなり、陽が射せば楽しくなって笑ってしまう。でも、それは変だと思われるから一所懸命、我慢している。
 それでも口元が緩んでしまい、空を見上げてあくびをしているような振りをして口を開け笑ってしまうのをごまかしている。周りの子供はそれを馬鹿にする。
 おとうさんもおっかさんも、兄さんもそんな虔十が不憫で、だからよけいにかわいい。

 そんな虔十が野良仕事に出ている時、畑のはずれの日当たりの良くない土地に、杉の苗を植えたいと言い出した。これまで何一つねだることをしなかった虔十が、初めてそんなことを言った。
 兄さんは驚いたし、うれしかったけれど、
 「あの土地は、日当たりは良くないし、土だって粘土だから苗は育たない。他の土地にしたらどうだ」
 と言うと、虔十はすっかりしょげ返ってしまった。
 おとうさんが
 「今まで一度も言わなかったことを言うんだから、買ってやれ」
 と言う。買ってきた苗を植えてみると、杉の苗木は、縦横にきちんと隊列を組んだ兵隊みたいです。
 お兄さんの言ったとおり苗は途中まではすくすくと伸びたけれども、粘土に当たったらしく急に生長が止まってしまった。
 数年後。普通なら五、六メートルにもなるところ、まだ半分くらいしか伸びてない。
 村人は、「やっぱり無理だな」と笑い合うが、中に枝打ちはしないのかと、からかう者がいた。虔十はそれを聞いて、今度はすっかり枝打ちをしてしまった。
 枝打ちをしないと、良い木に育たない。でも、こんな土地の杉の木がうまく育つわけもない。
 上の方、数本の枝だけ残して枝打ちされた杉の木の列は情けないくらいすっきりとして、でも、がらんとして何だか寂しそうになった。虔十も泣きそうになっていたけれど、兄さんから良かった良かった、と言われ、やっと安心する。

 翌日、林の方からにぎやかな声がするので行ってみると、学校帰りの子供らが何十人も集まって、碁盤の目のようになった杉林の間を、通りに見立てて、行進ごっこをしている。それは、毎日繰り返されるようになり、杉林はすっかり子供の遊び場になったのです。
 隣の意地の悪い百姓が、お前の杉のせいで畑に陽が当たらない。切ってしまえ、と言いに来た時も、嫌だと言い、殴られても決して切るとは言わなかった。
 杉の木は相変わらず育たない。
 そうこうするうちに、数年が経ち、隣の百姓は流行り病で死んでしまった。
 虔十も同じ病気で、十日ほど後に死んでしまった。

 十数年の後、すっかり年老いた両親が、虔十の植えた杉林を見ると、縦横、きちんと植えられた木々の間は、それぞれ道のようになって、そこへ小学校から相変わらず子供が遊びにやって来て、「~通り」と名前までつけて、いかにも楽しそうに行進ごっこをやっている。

 或る年のこと、この小学校を卒業して今は偉い博士になった人が、講演のためにやって来た。講演の後、外に出てみるとあの杉林で、子供らが相変わらず行進ごっこをやっている。
 「あの杉林はここの学校のものですか」
 と聞くと、校長先生は
 「いいえ、あそこの農家のものですが子供のすきにさせてくれているのです」
 と答える。
 「私も子供の頃、あそこで行進ごっこをしていたのだ。あそこには頭の弱い人がいて、いつもはあはあ笑っていた。ああ、全く誰が賢くてたれが賢くないのか分からない」とつぶやいた。

 お話ですよ。ただの作り話ですよ。私利私欲でなく、ただ空き地に木を植えたかった。何も考えてはいなかった。他の人と同じように枝打ちをした。思っていた以上に寂しくなった。杉林はやっぱり育たなくって、三メートル余りしか伸びなかった。
 本当に決して賢いとは思えない話です。そして偶然に子供の遊び場になってしまった。策も何もない、良かれと思ってしたわけでもない。子供が行進ごっこをしているだけの杉林。ただ、それだけです。
 けれど、博士は間違いなく「自分は人の思いやりの中で、育ってきたんだな」と感じていたんでしょうね。本当に賢い(世の中のためになる)ということは、もしや、虔十みたいな生き方なのではないだろうか、と。

 全く別の外国の話。
 公園で、素足で走り回る子供らの中で、老人がしきりに何かを拾ってポケットの中に入れている。不審に思った警官が「一体さっきから何を拾っているのか、見せなさい」と問うと、「これですか」と出して見せたのは小石だった。「そんな筈はない。小石なんかでごまかさず、全部見せなさい。」
 結局小石しか入ってない。

 理由を聞くと、子供が怪我をするといけないから、と。
 「あなたの孫でもいるのか」 と再び問うと、「いや、子供は無心に遊ぶのが仕事だ。怪我をさせないようにするのは大人の仕事ですよ」
 この老人が有名な教育学者、ペスタロッチだった、という話。
 虔十と、何かしら重なって見えます。
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「誰が賢くて誰が賢くないのか」その①(見る目)

2020年02月29日 | 心の持ち様
2011.02/27 (Sun)

 「北守将軍と三人兄弟の医者」という宮沢賢治の童話があります。
 北方で戦い続けて来た将軍が引退する時のこと。
 あんまり長い間、馬上で寝食も忘れて戦って来たものだから、鞍に身体がくっついてしまって馬から降りられなくなってしまった。それどころか鞍は馬にもくっついてしまっている。鎧も脱げない。身体は砂漠での戦いが長く、砂塵のせいで全く灰色になっている。
 三人の医者の一人ずつが、それぞれの得意な医術で、馬から鞍をはずし、鞍から将軍をはずし、将軍から砂塵をはがす。そうして、すっかり問題を解決する、という、まあ、他愛もない話です。
 結局、やっと自由な身体になった北守将軍、いつしか何も食べなくなって、みんなの前から姿を消してしまう、という、他愛もない話のわりに、何だか考えさせられる終わり方。
 北守将軍ソンバーユーは一体誰のために戦い、その末路はどうであったのか。
 人々は雲を食べて生きたと、仙人になったように噂したけれど、
 「雲だけを食べて栄養は摂れない。将軍の骨はどこかにあるはずだ」
 と、医者の一人は語り、人々も、それはそうだ、と思う。

 この話のヒントは、支那の故事(いや、寓話でしょうか)からのようです。
 三人の医者。
 兄弟なんですが、末弟の三男は外科の天才。矢傷であろうが刀傷であろうが、骨折であろうが、治せぬものはない。「天下一の名外科医」。
 次男は内科医。内臓の病気の治療でできないことはない。的確な投薬で、みんな治してしまう。「天下一の内科医」。
 ところが、次男の名内科医、三男の名外科医の二人が、口を揃えて「我々の兄こそ、天下一の名医だ」と言う。
 しかし、その天下一の名医であるという長男は、投薬をするでもなく、外科手術をするでもない。それどころか、診断さえしない。
 でも、二人の医者は名医だ、と言い切る。「我々は、病や怪我を治療するが、兄は未然に防ぐ」、と。そう言われてみれば、時々預言めいたことを言う。
 「水を一日に~くらい飲んだがいいよ」とか「一日に~時間は寝ないと」とか、「肉を食べる量がちょっと多いみたいだ」とか。

 言われた人が、気になって医者に行くと、その通りの処方をされる。「病気になってもいないのに、よく分かったね」と驚かれながら。
 診立ての段階で、発病する前に直してしまう。だから、天下一の名医は兄だと、次、三男は言う。
 医者だからこそ、また、次男三男共に天下の名医だからこそ、分かったこと。   市井の真人(仙人)の類ですね、この長男は。
 長男の偉さを誰も讃えない。そして次男、三男だけが長男の名医であることを知っていた。
 普通の人には分からない。名医で、そしておそらくは兄弟だったからこそ表も裏も分かり、文句なしに天下一の名医と認め、尊敬していた、という話です。

 転じて、誰が賢くて誰が賢くないのか。
 卑近な例の「岡目八目」。以前に書いた指揮者や評論家の洞察力。そして、本当なら政治家の手腕よりも、政治家の「生き方を見続けて来た」政治評論家。
 こういう人の、その分野での賢さ、というのは並大抵ではないんでしょうね。
 我々は「立派な生き方をしようとしている政治評論家」の言、なら、文句なし、信用して良いのかもしれません。
 我々が望むものは、理想の社会であり、それを見詰める目は、賢い人から習おうとしなければ、手に入らないものですから。
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どうして日の丸?

2020年02月29日 | 心の持ち様
2010.01/25 (Mon)

 幕末、日本国惣船印(総船印)として、「日の丸」が採用されたことは有名ですが、あの長方形の「日章旗」になったのは、もちろん、この時から。
 この時が「国旗」のはじまり、と言っていいでしょう。
 「日の丸」そのものは随分古くからあって、あの有名な源平の合戦の中、屋島の合戦で、那須与一が射落とした扇の的の話。あの扇は金の地に日の丸だったと思います。戦国期、鎧武者が背中に立てていた旗指物には白地に赤以外の日の丸もあったようです。

 時代が前後しますが、日明貿易の時、勘合船は日の丸を掲げていたということです。言うまでもなく現在の日章旗とは形が違っていたことでしょう。 
 ところで、何故、惣船印(国旗として扱われる)が「日の丸」なのか。もし、もう少し後の時代(つまり明治時代に入ってから)なら、菊花紋章になったかも、と思ったりもするのですが、まあ、それはあり得ないことでしょう。
 十六弁にせよ、十六八重(三十二弁)にせよ、皇室の紋章を国旗とするなど、畏れ多いことだから、当時の人はまず、思いもしなかったのではないか。
 鳥羽伏見の戦いで、薩長連合軍に錦旗が打ちたてられたのを見た途端、幕府軍は戦意を喪ったと言います。却って幕府軍の方に尊皇、勤皇の志が強くあったと思われます。脱線しました。「何故、日の丸?」でした。

 幕末のことです。対外的に日本国の国旗をはっきりさせねばならなくなった。しかし、徳川家の家紋であるところの三つ葉の葵紋を共通の船印に、となると列強国ならぬ列強藩から不満が出る。徳川家だって理屈の上では一大名でしかありません。
 しかし、徳川家の船印ではなく「日本国惣船印」となると、菊花紋は畏れ多いし藤原氏の桐紋は複雑です。
 古くから日の丸はあったけれど、なぜ、この時、島津斉彬によって提案され、採用されたか。今となっては「謎」です。けれど、それこそ遺伝子に組み込まれていると言っても良いくらい、みんなを納得させるくらい、身近にあったのが日の丸だった、それは間違いないでしょう。
 
 まあ、ごちゃごちゃ言わなくたって、ちょっと考えれば日の丸が出てきたのではないでしょうか。能天気過ぎますかねえ?
 夕陽の美しさに感嘆するのが日本人。朝日の神々しさに感動するのも日本人。 
 普段もまた、神と見て、「お天道さま」と敬称を二つもつけて言い表わすのも、やっぱり、日本人。皇室の祖神である天照大神(天照皇大神)は太陽神(厳密に言えば、太陽ではありませんが)。
 ここまで揃えば、日の丸が出てこないほうがおかしい。(強引だな)
 詩人高村光太郎は、花巻で雪の正月、山小屋のようなアトリエの入口に、絵の具で日の丸を描いた紙の旗をたてて新年を一人祝ったと言います。
 それなのに法律で日章旗が国旗と定められたのは何と1999年。まだ十年しか経っていません。定めなくともみんなが国旗と思っていたのです。

 昨年夏、二枚の国旗を切って縫い合わせ、それを党旗として壁面に掲げて演説会を行った政党があったこと、あれは忘れられない事件でした。
 党旗がなかったのではありません。あったのです。
 前日「よく似ているから、やってみたら面白いだろう」という悪い冗談を言っていたのが、本当に作ってきたのだそうです。
 この悪ふざけを実行した者だって許せるものではないけれど、問題はそれを見て、会場の準備をした者が「これは面白い」と、注意するどころか張り出してしまったこと。
 更にこれが党のホームページに載せられ、麻生総理に苦言を呈されたら、大急ぎで削除する。終いには「神聖な党旗をそんなことをして作るとは」と、党旗は神聖で国旗はそうではない、というような返答。
 大問題になるか、と思いきや、その党が300議席以上を獲って、やりたい放題。

 「日の丸のもとで、中国、韓国、朝鮮の人々が罪なくして殺された。血塗られた、こんな旗は要らない!」「日の丸は軍国主義の日本を思い出させる。」「軍国主義反対!日の丸廃止!」 確かに学校ではこう教えられた。
 
 半裸の「女神」と思しき女性が、三色旗、民衆と共に突き進むフランス革命の絵があります。女神の足元には戦いに倒れたたくさんの人が描かれています。三色旗こそ、血塗られた旗です。でも、あの皮肉屋のフランス人が、「あの旗を捨てよう」と言いますか? 血を流してまで勝ち取った自由です。旗はその象徴です。だから、彼等には「誇り」です。
 日の丸は、日本人が一番大事に思い、感謝の気持を持つ「陽」の象徴です。勝ち取るのでなく、ただただ与えられる恩恵です。この想いは、誇りではなく「感謝」です。感謝の心で我々は日の丸を見ています。
 そんな旗のもとで人殺し、殺戮が展開された? 日の丸は軍国主義?思い出す?貴方はいくつですか? 体験したのですか? スパルタのような国を軍国主義というのです。国民皆兵。盗むより盗まれる方が悪い。年寄は邪魔者。足手まといになるばかり。子供は国の物、みんな次代の兵士だから。それが軍国主義。
 日本の、どこがそうですか?

 以前は、祝祭日、多くの家には国旗が掲げられていました。何とも言えない清新さが辺りに広がっていました。何となく嬉しいんだけれども、ドキドキするのではない、わくわく、というのでもない。敢えて言うなら「朗らか」でしょうか。
 今又、国旗を掲げようという人がすこしずつ増えてきているようです。
 「国旗を掲げる」と言ったら「要らんことをするな!」と叱られた人も当然、居るでしょう。でも、当てつけでなく、「日の丸」を「旭日に感謝する気持ち」で掲げれば、きっと上記のような教育を受けた人にだって何か伝わる。

 玄関の脇で風にそよぐ日の丸を見れば何かを感じる。
 これ見よがしではない、ごく当たり前に祝祭日には国旗を揚げる。
 掲揚柱に、祝祭日、翩翻とひるがえる日の丸を見ると、勇気も湧いてきます。
 肩肘張って「これを見よ!」というのでなく、ごく自然に「やっぱり日の丸っていいな」と感じる人が増えてほしい。 


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台湾人って?

2020年02月29日 | 重箱の隅
2010.01/23 (Sat)

最近帰化された金美齢さん。初めてテレビで見た時は、
「何と高飛車な、決めつけた様な物言いをする人だなあ。日本語はえらく上手だが、名前からすると韓国人か。テレビも最近韓国人だらけだなあ。でも、韓国人にしては歯切れの良い日本語だな」
なんて思ってました。
 が、何度かテレビで見るうち、韓国人とやり合う場面があって、「あれ?仲間同士で。同士討ちか?それにしても、この人、いつも単刀直入で、筋道も立ってるし。」
 まだ気が付いてない。

 やっと、「台湾」人だ、と頭の整理ができたのは、ほんの2年ほど前。
 テレビで「韓国人ではない」と知ってから、「台湾」人と認識するまでの数年間、一体、じゃ、どこの国の人と思ってたかというと、「中華民国の人、中国人」と思っていた。
 ひどいもんです。甚だ以上に失礼な奴です。「台湾は日本の生命線!」というブログを見るようになって、色々なことが分かるようになってきました。

 北京の日本大使館が、デモをかけられ大変だったことを、そして、彼の国の警察は、大使館に卵やペンキを投げつける連中をとめることもしなかったことを覚えていますか。その時、「我々は日本を支持する」というような横断幕をつくってデモをしている人々の様子がテレビで流されたことは覚えていますか。
 あの人たちは言ってました。「私達は台湾人です」、と。「中華民国だ」とは言わなかった。勿論、中華人民共和国だ、なんていう筈もない。

 蒋介石の国民党軍は、大きな力を以って大陸を統一しようとしていた。共産党軍は、「共匪(共産主義の匪賊)」と呼ばれ、国民党軍との対決を避けて、逃げ回っていた。
 
 しかし、満州奪取(奪還ではない)のために両軍は抗日統一戦線をつくる。軍編成は第一から第八に至る「路軍」とし、第八路軍を共産党軍とした(8分の1が共産党軍ということになります。また、後に四路軍が分裂して、共産党の新四軍もできました)。
 日本軍との泥沼のような戦いの末、「棚からぼた餅」で「勝ったことになってしまった」抗日統一戦線は、早速、対立。国共内戦へ。敗れた国民党軍は「台湾省」に落延びる。そして、この地に臨時政府を置き、「中華民国」を続けて名乗る。大陸を支配することに成功した共産党軍は「中華人民共和国」を名乗る。

 元々の住民に対して、「台湾省」の外から来た人、ということで、彼等を「外省人」と言います。国民党軍とその縁者だから、彼等は中国人(シナ人)です。漢人が大半です。元々の住民は元々のという意味から「本省人」と言いますが、実際は山地に住む純粋な先住民、何度かにわたって戦乱から逃げ、流入して来た中国人(漢人だけではない)、を指します。
 「外省人」は全体の一割強。対する本省人も、純粋の先住民は少数民族ですから、結局はほとんどの「台湾人」はシナ人、ということになります。なのに対立はすごい。
 実に分かり易い理由なのに、小林よしのり氏の「台湾論」が注目されるまで、分かったようで分からない説明が続いていました。
 国民党軍は、日本が敗戦の結果、所有を放棄させられた「真空地帯」ともいうべき台湾に上陸、「元々は中国の領土である」と占領、支配してしまったのです。これは完全に違法行為です。
 当然のように抵抗運動が起こり、これまた当然のように武力制圧、虐殺が行われます。以後、戒厳令が数十年続きます。

 高温多湿、平地が極端に少なく、水利も期待できず、文字を持たない少数民族が十近くあって、言葉も違うからそれぞれの交流は無きに等しい。平地に住むシナ人も、決して豊かではない上に、多発する伝染病に悩まされている。シナ、オランダ等が植民地として開発しようとしたものの、余りのひどさに手を引いてしまったような「暗黒島」です。
 日本人はここを領土として手に入れた後、ダムを造り、水道を敷設、衛生面の改善に努め、学校をつくります。共通の言語を持たない、文字さえも持たなかった住民の共通言語は、自然、日本語になります。

 韓国は日本になりました。「日韓併合」だから、名目上は同等です。
 台湾は日本に移譲されました。「植民地」です。
 韓国は日本が敗れた時、一方的に独立を宣言、「戦勝国」である、と主張しました。
 台湾は日本が敗れた時、「我々は日本に捨てられた」、と嘆き、恨んだと言います。
 国としての誇りを持っていた韓国と、未開の島だった台湾の違いだ、というべきなのでしょうか。

 今、大陸では、日本から数編成(一編成だったでしょうか)購入して、ほぼ全面コピーをしたと言われる新幹線が走っています。でも、「日本の新幹線をコピーしました」とは、決して言いません。
 同じく、台湾でも日本から購入した新幹線が走っています。台湾の人は言います。
 「これ、日本の新幹線なんだよ!」
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痛みの大小なんて関係ない。

2020年02月29日 | 日々の暮らし
2011.11/15 (Tue)

 やっと予定が立って、三月から八ヶ月振りに神戸に戻る。
 前回は神戸から田舎に戻って来る時、滅多にない突然の降雪で、道半ばで足止めを食らった。急遽泊まることになった宿で、夕食を摂っている時に、地震の事を知った。3月11日。
 あれから、八ヶ月も経っている。それなのに・・・・。そのことは今日は書くまい。

 先週、奥歯の詰め物が取れてしまったようで、慌てて歯科医院へ行った。詰め物が取れたのではなく、虫歯が欠けたらしい。そこも併せて、ということで、これまでの詰め物を外し、新たに型を取って二年ほど前に治療したのをもっと大規模に詰め直すみたいだ。
 やっぱり、恐れていたことを受け入れなければならない。恐れていたこと。それは歯石を取ること。歯石を取るのは嫌だ。歯石がもったいないからじゃない。歯石は歯の根元にある。これを削る時に、神経に近いところを刺激するためか、何かの拍子にびりっとする。なのに、口が人質に取られているから呻き声も文句も言えない。
 大体が「先生、痛いです」、と言おうとしたら「「へんへぇ~、ひひゃいへふぅ~」にしかならないだろうなと思う。それではあんまり間抜けだから、組んだ指に力が入るくらいは辛抱して口を開けたまま黙っている。

 しばらく来れないから急いでもらえないか、と言ったこの日が水曜日で、何とか型が取れ、週明けの今日、治療が終わった。接着剤でくっつけるわけだが、余った接着剤が歯にくっついている。
 それを、おそらくは回転するやすりに研磨剤でもつけて落とすのだろう、と思ったら、まずはあの先の曲がった、ピンセットの片割れみたいなので、ガリガリゴリゴリと無理やり削ぎ落とす。歯石を落とすのはこの、回転やすりみたいなのになって、随分ましになったと思ったのに、接着剤落としに歯石落としの技が継承されているらしい。
 ガリガリとやられる力に頭をグラグラ揺さぶられながら、
 「こんな小さな部分のために、歯科技工士から、歯医者から、何人もかかってやってるわけだよなあ。たったこれだけのことなのに。普段、何とも思わずに、当たり前のこととして生活しているんだなあ」
 なんて思っていた。

 昔読んだ「赤頭巾ちゃん気をつけて」で、主人公の「薫クン」が足の爪をはがしてしまい、治療はしてもらったものの何だか、指に心臓があるみたいで、鼓動のようにズキンズキンと痛みが波のように押し寄せて来る、みたいなことが書かれてあった。
 小さな女の子があやまってその足を踏んでしまい、うっと息が詰まったところに、心配そうな顔で覗き込まれ、「だいじょうぶ?」と言われて・・・・・。
 男の子だから必死に笑顔を浮かべ「大丈夫だよ」と言うんだけれど、本当はちっとも大丈夫じゃない。

 去年の胆石なんかは大変なことだったけれど、麻酔で眠っていて、知らぬ間に片付けてもらっていた。それに比べたら、歯の端が欠けたことなんてどうってことはない。けど、その、「どうってことはない」のが、本人にとっては大変なことなんだ。
 私にとって、歯の欠けたことの重大さ、不都合、というのは、日本にとって失業者が増えて、国が不景気のどん底であえぐ、ようなものなんだろうか。
 それは日本にとっては大変なことなんだけれど、世界はきっとこう思うのだろう。
 「日本なんて小さい国じゃないか。何だ、それくらいのこと」って。
 TPPの件では、「農家は一時、大変だけれども、いきなりということじゃない。十年間のうちに、なんだから」なんて言ってる。十年かかって慣れるのか?それを強要するのか?自分は農家じゃないのに??
 農家の現役世代は六十代。「七十まで頑張って、農業の仕組みを変えろ。会社組織にして効率を上げろ」って?
 三陸の鉄道の件では「新しい計画ができるまでは、復旧工事ができない。計画ができるまでに十年はかかるだろう」。それまでのそれぞれの通勤、通学の足は?
 十年後、鉄道が出来た時、旧来の町は、「足がない」故に、大半は消えてしまっている。
 「大鉈を振るうんだ。大きな問題から解決していくんだ」
 問題の大小を決めるのは為政者だと思われているけれど、為政者の仕事は問題の解決。もっと言えば解決策の立案と決定。大小なんて関係ない。行うのは手足たる役人。そして住民。
 当事者にとって問題は問題。大小なんか関係ない。もっと言えば、当事者にとって問題は常に、そして全て、「大」しかない。



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