CubとSRと

ただの日記

現状 大学は出たけれど

2024年08月31日 | 重箱の隅
   
 チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その3)  
  「大学卒業」=「失業」という意味だった
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 北京でも上海でも、夜の人出がめっきり減ったが、逆に増えたのが屋台ビジネスへの新規参入という皮肉な現象。
 その屋台も新卒が乗用車に機材を積んでくる即席ショップである。ゴミ拾い、空き缶集めも競争状態となった。アリババの配達員はつねに人員不足だが中国全土に1000万人!
 正社員でもアルバイトでもない。随時契約で長時間労働、一件につき150円。20件配達できても(集中高率地区はベテランが抑えている)日銭3000円あるか、ないか。

 農村への赴任は募集しても応募者は少なく、都会の生活になれてしまった若者は人生設計に田舎暮らしなど感覚的に追いつかないのだ。日本はまったく逆で都会から田舎へ引っ越し機能する若者が目立つようになった。

 一方、公務員を募集すると定員の30倍以上が常識の狭き門。女子学生にも募集がかかるが、家政婦のなり手はない。昔、あった美人達のパパカツもゼロに近い。
 つまり「ゼロコロナ」から「ゼロ雇用」となった。

 8月26日、IBMは上海のR&Dセンターを縮小し、1000名を削減すると発表し、業界にショックを与えた。
 IBMが中国から去る嚆矢となるのか。ほかの米国企業などはインドに移行しているから遅きに失した観もあるが、中国の若者で理工系の優秀な人材も、行き場がなくなっている。
 
 それでも余裕のある若者がいないわけではない。ひとつの証左は新ビデオゲーム「悟空」が発売三日間で1000万コピィも売れたことだ。
 テンセント系ゲームサイエンスが製作、中国では38ドル、米国では60ドル。三日間で4億5000万ドルを稼ぎ出した(『サウスチャイナ・モーニングポスト』、2024年8月27日)。 
 大失業時代にゲームをやっている暇人が、単純計算で1000万人もまだ居ることになる。


 ▼新生大学は雨後の竹の子のように

 それにしてもどうしてこんなことになったのか?
 第一に大學を創りすぎたことだ。90年代まで中国で「大學」と聞けば、エリートだった。2000年に中国全土に1100校、インスタントな駅弁大學ができた。それなりに「教授」も揃った。
 かねてから、即席大學の校舎建築、敷地確保なども問題だが、そうやって最新技術、再診の国際的レベルを知った上での知識を教える人材が、地面から湧いてくるように輩出したのか、不思議だった。

 まさに中国に於いて新設大学は雨後の竹の子のように、2024年には2800もの大學が出来て、ことしの新卒が1179万人。はじめから『大学は出たけれど、どうなるか』は分かっていた。
 「大学卒業」=「失業」という意味だった。

 公式発表による中国の若者の失業率は21・3%(おそらく真相は50%を超えている)。ちなみに日本の若者の失業は4・2%で、大概がニート、引きこもりである。アメリカは7・5%。フランスは昔から労組が強く、若者への職配分がすくなく、16・3%だ。

 貧窮生活の苦況と絶望を描いた中国映画「逆行生活」は中年のプログラマーが失業し家族を養うためにフード配達をするストーリ-。すでに500万人が見た。他人事ではないからだ。
 正面玄関から配達しようとすると警備員から「通用門に廻れ」といわれ、エリート意識が瞬間的に奪われたことを実感する悲哀さ、中国人の感性もかわってきた。

 しかしその一方で元気なのが中国の老人たち(前期高齢者)。
 上海の夜のカフェ。65歳以上のカップルがあつまった「新しい恋愛を語る『トワイライト・ラブ』が発展中だ」とニューヨークタイムズ(8月27日)が写真入りで報じた。
    ☆◎☆◎ミ○☆◎☆◎ヤ◎☆◎○☆ザ◎☆○☆◎キ◎◎○☆□


 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)8月28日(水曜日)
     通巻第8386号より


 (追 感想)

 民俗学と同じく、市井の人々の様子から本然の姿が透けて見えるということで久し振りに「重箱の隅」に分類してみました。
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一週間

2024年08月27日 | 重箱の隅
 8月15日(木)

 南海トラフに関係する大地震のおそれがあるので一週間厳戒態勢で、新幹線も特急、急行も運休。飛行機の発着も自粛(?)。ただし海外に出るのは問題ないからと、こちらは大盛況。

 ちょうど盆休みと重なって、「(国内)旅行も気をつけなきゃ」と何んと盆前から今日送り盆の夕方まですべて自粛態勢。
 当然、盆の帰省や夏休み中の家族旅行もすべてストップ。
 そんなに一週間以内に再び大地震が来るとは思えないが、良識ある日本人は皆「公共機関が悪意の煽動などする筈がない」と不安・不審を抑え込もうと努力する。
 実際何も起こらなかったわけだけど、だからと言って「公共機関、国はオオカミ少年だ!」と言って騒ぎ立てることはしない。「何もなくてよかった。用心するに越したことはない」で、だんだん静かになって来て「まだ、用心は続けた方が良い」というメディアの情報を聞き流しながら、今度は台風情報に気持ちが。

 「つくづくおめでたい人たちだ。情弱だ」という言葉も結構耳にする。それでも日本人は騒ぎ立てない。
 やっぱり百田尚樹氏の小説「カエルの楽園」の住人そのものになっている?

 
 結局、タイムリミット、「約束の」今日夕方5時まで特にどうと言ったこともなかったので、対策本部は解散した。
 盆休みの一週間、ほぼ外出禁止に近いことをやったのは、コロナ禍を除けば初めてだ。
 政府や各公共機関の対応を厳しく非難すべきだろうか。
 それとも何事もなかったかのように相変わらずの日常を展開すべきだろうか。

 「厳しい非難」の先にあるのは正しい解答(正しい方策)ではなく、国民同士の分断とか不信等になるのは目に見えている。あの耳に胼胝ができるほど聞かされた「疑惑はますます深まった」という文言。解決の糸口すらつかめないその主張は「役職を辞めろ」「議員辞職しろ!」という展開にしかならず、「辞職したら我々が『正しい政府』「『正しい社会』を作って見せる!」で完結する。
 そうして国民の半数以上の期待を背にして民主党政権が始まる。
 結果、どうなったかを国民はどれだけ覚えているのだろうか。
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原点回帰!

2024年07月29日 | 重箱の隅
 7月14日(日)

 今日は一日雨。従って散歩なし。腰、相変わらず痛い。
 
 ここ数年ほぼ治まっていたのに、先月辺りからどうも調子が悪い。
 座っている時は何ともないのだが、何度も書いてきた通り、椅子から立ち上がると座っていた時間に比例して立ち仕事(歩くことも含む)時に右腰から右脚全体に掛けて電気の走り続けるような痛みが続く。
 立ち仕事を続けていると、痛みを辛抱していた筈が不意に痛みがなくなっていることに気づく。
 その代わりに今度は、椅子に座って足を組もうとすると痛くてたまらない。手を使って助けてやらねば足が組めない。そのくせ、脚を組んで十数秒でその痛みも消える。

 正座をした後に痺れが切れたその足を悪戯で突っつかれる。
「ぎゃあ~止めろ~っ」と言いながら痛くてたまらないのと、それで転げ回りたいくらい痛がっている自分の姿が(きっと)おかしいのとで、もう笑うしかない状態。
 あの状態から「笑うしかない」を取り去ったら、今の「右腰から右脚の痛み」になる。つまり楽しさは欠片もない。面白くない。

 PCの向きを変えたのが理由か、とも思ったがそれなら痛みが出るまで間が空き過ぎている。
 もしかして、あの「仙骨体操」?それとも「相撲体操」?でなければスクワット?

 ということで、一度、初期のストレッチだけに戻してみるか。このままではスクワットも再開できないから筋力は落ちる一方だし。
 それと、できるだけ椅子に座らないようにしよう。

 ・・・・・・と、椅子に座ってこれを書き込んでいる・・・。
 嗚呼!!
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(これも再掲) 「子供の日」

2024年05月05日 | 重箱の隅
(2019年05月05日)

 「子供」の日を「子どもの日」と書こうが「こどもの日」と書こうが、本質は「子共の日」であることに変わりはない。
 「子」の複数形。
 自分のことや仲間のことを謙譲して「身共」「我々共」と言ったり、「俺共」が訛って「おいどん」。
 それから見れば「子供」は自分で言うんじゃなくて大人が言うわけだから、当然謙譲語ではない。逆に見下した言い方になる。
 だから、「こども」という言い方は良くない、と言う。
 で、学校や教育委員会にねじ込んで、「『子ども』にしろ」とか「いや『こども』、とひらがなの方がいい」とか。
 しかし、そういう考え方は、あまりにも表面だけを捉えた物の見方だと思う。
 生まれながらに「人間」、なのではない。育てられて人間となる。
 いつまでも「子共」ではないのだから、敢えて「子共」と呼び、当の「こども」も大人も一緒になって、大人になるよう育てる(促す)。
 そのためには「こどもは小さな大人」、なんて、初めから完成されているような、成長することに目を向けない下らない捉え方はすべきではない。
 「今は『子共』だけど、これから一人前の大人、人間になる」
 成長途上の存在であることを指す言葉なのだ、と、大人、子供、双方の意識付けのために、この言葉を使わねば。
 立派な大人に成長するように、という意識付けの一つが「子供の日」で、昔、武士の家では虫干しも兼ねて鎧櫃から鎧兜を出し、吹き流しや旗指物(幟・のぼり)を掲げて子供に見せた。(吹き流しは母衣・ほろが初めと思われる)
 子供はそれを見て、家に誇りを持ち、立派な武士にならねば、と幼心に思う。
 町家で、それを真似て、でも流石に鎧兜はないから、と、
 「幟(のぼり)だけでもあげようじゃないか。『のぼり』と言えば鯉の滝登り。いっそのこと吹き流しを鯉の形にしたらどうだ」
 「幟(のぼり)」と「昇り(のぼり)」の洒落。それで、鯉の瀧昇りと掛けてみた。
 「喜ぶ」⇒「よろ昆布」、「賞(め)でたい」⇒「鯛」なんかに比べりゃ、なかなかハイレベルに洒落のめしている。
 段々に豪華になり、気がついたら吹き流しを一番上にして五色の鯉がまるでめざしのように並び、泳ぎ、もつれている。
 親の思いと家の現実がないまぜになって、まあ、なんとも賑やかな・・・。あ、悪口大会になってしまった。

 というわけで(?)、独り暮らしの爺さんには立派な大人になることを期待すべき子孫もいないけど、大きく見れば靖國神社参拝と同じ、国の宝である全ての子供が立派に育ちますように、と願って、今日も国旗を掲げます。

 (でも、この辺、鯉のぼり揚げてる家ってないんだよね~。勿論、旗指物なんて掲げる家なんてある筈もなく。)



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ついでということで

2023年07月18日 | 重箱の隅
 「海の日」があるんだから「山の日」も。
 再掲します。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 2017.08/11 (Fri)

 国旗は揚げませんけどね。

 「『海の日』があるんなら、『山の日』があったっていいじゃないか」
 ということらしいんですけど。

 Wikiを見ると、
《国民の祝日として「山の日」を制定することを求める日本山岳会をはじめとする全国「山の日」協議会加盟諸団体や既に「山の日」を制定していた地方自治体、その他山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、2013年4月、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」(会長:衛藤征士郎、幹事長:丸川珠代、事務局長:務台俊介、副会長は7党派から。最高顧問:谷垣禎一)が設立された》
 、とあります。

 初めは8月12日にして、盆休みと連動させよう、と考えられたらしいけど、引き続きWikiにはこう書いてある。

《しかし8月12日は、1985年の日本航空123便墜落事故と同日であり、しかもJAL123便が墜落した場所も御巣鷹の尾根、つまり「山」という事から、群馬県選出の小渕優子衆議院議員らが「JAL123便事故が起きた日をお祝いするのは違和感を覚える。これでは山の日ではなく『御巣鷹山の日』になってしまう」と懸念を示し、大澤正明群馬県知事がJAL123便事故を理由に日付の見直しを求めたことを受け、議員連盟は11月22日の総会で最終的に8月11日を山の日とすることを決定した》。

 「これでは山の日ではなく『御巣鷹山の日』になってしまう」
 追悼の日が祝日、なんて確かにとんでもないことです。
 超党派議連の提案だったわけだから、いつものように「自民党が悪い」とは言えないし、中心メンバーが自民党議員であったにしても、異論を唱えたのも同じく自民党議員。

 要は「祝日」の定義は、これでいいのかということなんですけど。
 いや、「祝日とは」って定義自体、敗戦後は曖昧にされてきました。まるで考えること自体が悪いこと、みたいに。

 今上天皇を諡(し)号で呼ぶ。
 「その方が分かり易いだろ?いや、違うことは分かってるよ。分かってるけど、細かいこと言ってると本質を見失うから」、とか何とか。
 何でもかんでも「御」をつける。
 「その方が分かり易いだろ?いや、違うことは分かってるよ。分かってるけど、細かいこと言ってると本質を見失うから」。

 ホントにそうですかね。分かり易くなったのか?却って本質、はずしてませんかね?
 というより、初めから取り違えてませんか。「情けは人のためならず」を「情けをかけるのはその人を甘やかすことにしかならない」、なんて思ってる人、結構いますからね。

 「そんな分かり易い間違い、ないだろう?」と思ってたって、「来るべき」を「きたるべき」と読まないで「くるべき」と読んでいる人、いっぱいいますよ。
 「来(き)たる」を「来(く)る」と読んだら、「やがて来るであろう~」の意味が「来なければならない」になっちゃうんですけど・・・。

 いくら気を付けても間違うのが言葉の使い方です。だからこそ、更に気を付けなければならない。
 でなければ、「分かってるけど、細かいこと言ってると本質を見失うから」って。



 気が付いたら「岩盤規制」ができてしまって、頑固(偏屈)おやじの出来上がり。
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