2016.04/17 (Sun)
先月、田舎に三週間近く居て、一週間前にこちらに戻って来たんだから、そろそろ一ヶ月。
この間、ツーリング(と言っても車ですが)、思ったこと、感じたことなど、結構書いておきたいことがありました。
が、何となくぐだぐだと日を過ごしているうちに今回の群発の、それも巨大地震です。とてもじゃないけどいつものかなり能天気な日記など書けるような雰囲気じゃない。
でも、だからと言って、東北の地震の時と同じく、じゃいつまで黙ってるんだ、「しばらく」の基準ってのは一体何なんだ、との思いもあります。
それで、いつも「ほとぼりが冷めたら」と曖昧なことを言って、こういう場合を何となく過ごしてきたことについてを振り返ってみることにしました。
結果。
人はともかく、自分のような引退者は個々人として動くことしかできない。
こういうものは、やっぱり「自分にできることは何か」と考えることが第一で、結局は「今を迷惑にならないように生きる」、「日常にできることをきちんとする」、といった平凡なことに力を注ぐことしかない、といういつもの考えに到達しました。
私自身、二十年前、神戸に居て地震には遭遇しても、直接の大損害は被らなかった、ということも根っこにあるのでしょう。
だから、敢えて能天気に「日記を書く」ことの方が私には大事なんだ、と思うことにしました。
「能天気」。「脳」が「天気」、じゃ意味が通らない。「天気」が「能(よ)い」。
「天気」は「観天望気」のことだから、「能天気」。
「世界の様子が能い」、つまり、「世界が見えてる(つもり)」「おめでたい奴だな、太平楽言って」という意味になります。
最近、能天気のことを、「脳内お花畑」「お花畑脳」、ということがありますが、より平易な言い回しだな、と感心していました。
先月、田舎に三週間近く居て、一週間前にこちらに戻って来たんだから、そろそろ一ヶ月。
この間、ツーリング(と言っても車ですが)、思ったこと、感じたことなど、結構書いておきたいことがありました。
が、何となくぐだぐだと日を過ごしているうちに今回の群発の、それも巨大地震です。とてもじゃないけどいつものかなり能天気な日記など書けるような雰囲気じゃない。
でも、だからと言って、東北の地震の時と同じく、じゃいつまで黙ってるんだ、「しばらく」の基準ってのは一体何なんだ、との思いもあります。
それで、いつも「ほとぼりが冷めたら」と曖昧なことを言って、こういう場合を何となく過ごしてきたことについてを振り返ってみることにしました。
結果。
人はともかく、自分のような引退者は個々人として動くことしかできない。
こういうものは、やっぱり「自分にできることは何か」と考えることが第一で、結局は「今を迷惑にならないように生きる」、「日常にできることをきちんとする」、といった平凡なことに力を注ぐことしかない、といういつもの考えに到達しました。
私自身、二十年前、神戸に居て地震には遭遇しても、直接の大損害は被らなかった、ということも根っこにあるのでしょう。
だから、敢えて能天気に「日記を書く」ことの方が私には大事なんだ、と思うことにしました。
「能天気」。「脳」が「天気」、じゃ意味が通らない。「天気」が「能(よ)い」。
「天気」は「観天望気」のことだから、「能天気」。
「世界の様子が能い」、つまり、「世界が見えてる(つもり)」「おめでたい奴だな、太平楽言って」という意味になります。
最近、能天気のことを、「脳内お花畑」「お花畑脳」、ということがありますが、より平易な言い回しだな、と感心していました。
そしたら、この頃は「腸内フローラ」という言葉が聞かれるようになり、「フローラ」はフラワー、お花畑だということで、「乳酸菌等の腸内菌によりつくられた腸内環境」の重要性に光が当てられてきました。
「能天気」が本当に能天気な支離滅裂な話になっていきそうですが、「お気楽」「太平楽」「おめでたい」話つながりで。
何でも善玉菌が二割、悪玉菌が一割で、残りの七割は「日和見菌」、というのが良いんだそうですね。
それが悪玉菌が二割以上だったら良くないのは言うまでもないんだけど、悪玉菌でなく、善玉菌が三割、四割なんてのも良くない。更には悪玉菌が一割以下だったり、全くなかったりする、というのも大問題なんだそうです。妙な話だけど、善玉菌も悪玉菌もなくてはならないものなんだ、と。
そして一番肝腎なのは、日和見菌が七割、というところ。
それで思い出したのは「水、清ければ、魚棲まず」「白河の清きに魚のすみかねて元の濁りの田沼恋しき」。
だから「世の中には悪も必要だ」「必要悪、というものはある」と言われて来たりした。
だけど、何か引っ掛かってました。
「悪」とか「必要悪」だとか、言う方は気楽だけど、そういわれる方の役回りの者にとっては堪りませんよ。「唾棄すべき存在」、と極めつけられて「でも、いなきゃ困る。絶対認めないけど」。
「能天気」が本当に能天気な支離滅裂な話になっていきそうですが、「お気楽」「太平楽」「おめでたい」話つながりで。
何でも善玉菌が二割、悪玉菌が一割で、残りの七割は「日和見菌」、というのが良いんだそうですね。
それが悪玉菌が二割以上だったら良くないのは言うまでもないんだけど、悪玉菌でなく、善玉菌が三割、四割なんてのも良くない。更には悪玉菌が一割以下だったり、全くなかったりする、というのも大問題なんだそうです。妙な話だけど、善玉菌も悪玉菌もなくてはならないものなんだ、と。
そして一番肝腎なのは、日和見菌が七割、というところ。
それで思い出したのは「水、清ければ、魚棲まず」「白河の清きに魚のすみかねて元の濁りの田沼恋しき」。
だから「世の中には悪も必要だ」「必要悪、というものはある」と言われて来たりした。
だけど、何か引っ掛かってました。
「悪」とか「必要悪」だとか、言う方は気楽だけど、そういわれる方の役回りの者にとっては堪りませんよ。「唾棄すべき存在」、と極めつけられて「でも、いなきゃ困る。絶対認めないけど」。
これ、ヘイトスピーチよりもっと酷い。早い話が呼ばわりです。徹底差別しておいて、「でも居なきゃ困る」、なんて身勝手も甚だしい。
で、思ったんですが、「それ、本当に悪、なんだろうか」「必要、ってことは悪ではないんじゃないか」、と。
大体、善と悪、なんて物差し、ありそうで、でも能く考えてみると曖昧です。「善」の中にだって「悪」もあり、「悪」の中にだって微細かもしれないけれど「善」はある。
それで、「こんなに曖昧なんだぞ」というのが「日和見」、という奴なんじゃないでしょうか。これには善も悪もふんだんに(ほぼ善悪半分ずつくらい)あるんだと思います。
勿論「日和見」、というのもあんまり感じのいい言葉ではありません。
でも、「日和」をちゃんと「見」て行動しなければ船も簡単には出港できません。「待てば海路の日和あり」はその事でしょう。
いい加減のように見えても、そのいい加減に見える者どもが自然に歩き出せば、どんな指導者(善玉)も、どんな工作員(悪玉)もその行動を規制することは出来ない。指導者も工作員も必死になって、命懸けでやっているにもかかわらず、です。
指導者は必死になってホンのわずかな方向を、或いは未来を照らす。それが指導者であって、日和見菌たる大衆・国民は、それにほんのわずかの賛意を示す。それだけで環境は劇的に変わる。
でも、悪玉菌を見つけ次第抹殺する、という方法を採ると、結局は体力を低下させ、・・・・ですね。
この「悪玉菌」と目されるものを日和見菌に変えることは、本当にできないんでしょうか?
いやいや、その前に、日和見菌を「ほんの少し善玉菌の要素を増加させる」ことは出来ないんでしょうか。
それができていたから、大災害の度に世界は日本人の行動に驚嘆してきたんじゃないんでしょうか。
で、思ったんですが、「それ、本当に悪、なんだろうか」「必要、ってことは悪ではないんじゃないか」、と。
大体、善と悪、なんて物差し、ありそうで、でも能く考えてみると曖昧です。「善」の中にだって「悪」もあり、「悪」の中にだって微細かもしれないけれど「善」はある。
それで、「こんなに曖昧なんだぞ」というのが「日和見」、という奴なんじゃないでしょうか。これには善も悪もふんだんに(ほぼ善悪半分ずつくらい)あるんだと思います。
勿論「日和見」、というのもあんまり感じのいい言葉ではありません。
でも、「日和」をちゃんと「見」て行動しなければ船も簡単には出港できません。「待てば海路の日和あり」はその事でしょう。
いい加減のように見えても、そのいい加減に見える者どもが自然に歩き出せば、どんな指導者(善玉)も、どんな工作員(悪玉)もその行動を規制することは出来ない。指導者も工作員も必死になって、命懸けでやっているにもかかわらず、です。
指導者は必死になってホンのわずかな方向を、或いは未来を照らす。それが指導者であって、日和見菌たる大衆・国民は、それにほんのわずかの賛意を示す。それだけで環境は劇的に変わる。
でも、悪玉菌を見つけ次第抹殺する、という方法を採ると、結局は体力を低下させ、・・・・ですね。
この「悪玉菌」と目されるものを日和見菌に変えることは、本当にできないんでしょうか?
いやいや、その前に、日和見菌を「ほんの少し善玉菌の要素を増加させる」ことは出来ないんでしょうか。
それができていたから、大災害の度に世界は日本人の行動に驚嘆してきたんじゃないんでしょうか。