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CubとSRと

ただの日記

能天気

2020年03月31日 | 重箱の隅
2016.04/17 (Sun)

 先月、田舎に三週間近く居て、一週間前にこちらに戻って来たんだから、そろそろ一ヶ月。
 この間、ツーリング(と言っても車ですが)、思ったこと、感じたことなど、結構書いておきたいことがありました。
 が、何となくぐだぐだと日を過ごしているうちに今回の群発の、それも巨大地震です。とてもじゃないけどいつものかなり能天気な日記など書けるような雰囲気じゃない。

 でも、だからと言って、東北の地震の時と同じく、じゃいつまで黙ってるんだ、「しばらく」の基準ってのは一体何なんだ、との思いもあります。
 それで、いつも「ほとぼりが冷めたら」と曖昧なことを言って、こういう場合を何となく過ごしてきたことについてを振り返ってみることにしました。

 結果。
 人はともかく、自分のような引退者は個々人として動くことしかできない。
 こういうものは、やっぱり「自分にできることは何か」と考えることが第一で、結局は「今を迷惑にならないように生きる」、「日常にできることをきちんとする」、といった平凡なことに力を注ぐことしかない、といういつもの考えに到達しました。
 私自身、二十年前、神戸に居て地震には遭遇しても、直接の大損害は被らなかった、ということも根っこにあるのでしょう。
 だから、敢えて能天気に「日記を書く」ことの方が私には大事なんだ、と思うことにしました。

 「能天気」。「脳」が「天気」、じゃ意味が通らない。「天気」が「能(よ)い」。
 「天気」は「観天望気」のことだから、「能天気」。
 「世界の様子が能い」、つまり、「世界が見えてる(つもり)」「おめでたい奴だな、太平楽言って」という意味になります。
 最近、能天気のことを、「脳内お花畑」「お花畑脳」、ということがありますが、より平易な言い回しだな、と感心していました。

 そしたら、この頃は「腸内フローラ」という言葉が聞かれるようになり、「フローラ」はフラワー、お花畑だということで、「乳酸菌等の腸内菌によりつくられた腸内環境」の重要性に光が当てられてきました。
 「能天気」が本当に能天気な支離滅裂な話になっていきそうですが、「お気楽」「太平楽」「おめでたい」話つながりで。

 何でも善玉菌が二割、悪玉菌が一割で、残りの七割は「日和見菌」、というのが良いんだそうですね。
 それが悪玉菌が二割以上だったら良くないのは言うまでもないんだけど、悪玉菌でなく、善玉菌が三割、四割なんてのも良くない。更には悪玉菌が一割以下だったり、全くなかったりする、というのも大問題なんだそうです。妙な話だけど、善玉菌も悪玉菌もなくてはならないものなんだ、と。
 そして一番肝腎なのは、日和見菌が七割、というところ。
 それで思い出したのは「水、清ければ、魚棲まず」「白河の清きに魚のすみかねて元の濁りの田沼恋しき」。
 だから「世の中には悪も必要だ」「必要悪、というものはある」と言われて来たりした。

 だけど、何か引っ掛かってました。
 「悪」とか「必要悪」だとか、言う方は気楽だけど、そういわれる方の役回りの者にとっては堪りませんよ。「唾棄すべき存在」、と極めつけられて「でも、いなきゃ困る。絶対認めないけど」。
 これ、ヘイトスピーチよりもっと酷い。早い話が呼ばわりです。徹底差別しておいて、「でも居なきゃ困る」、なんて身勝手も甚だしい。
 で、思ったんですが、「それ、本当に悪、なんだろうか」「必要、ってことは悪ではないんじゃないか」、と。
 大体、善と悪、なんて物差し、ありそうで、でも能く考えてみると曖昧です。「善」の中にだって「悪」もあり、「悪」の中にだって微細かもしれないけれど「善」はある。
 それで、「こんなに曖昧なんだぞ」というのが「日和見」、という奴なんじゃないでしょうか。これには善も悪もふんだんに(ほぼ善悪半分ずつくらい)あるんだと思います。
 勿論「日和見」、というのもあんまり感じのいい言葉ではありません。
 でも、「日和」をちゃんと「見」て行動しなければ船も簡単には出港できません。「待てば海路の日和あり」はその事でしょう。

 いい加減のように見えても、そのいい加減に見える者どもが自然に歩き出せば、どんな指導者(善玉)も、どんな工作員(悪玉)もその行動を規制することは出来ない。指導者も工作員も必死になって、命懸けでやっているにもかかわらず、です。
 指導者は必死になってホンのわずかな方向を、或いは未来を照らす。それが指導者であって、日和見菌たる大衆・国民は、それにほんのわずかの賛意を示す。それだけで環境は劇的に変わる。
 でも、悪玉菌を見つけ次第抹殺する、という方法を採ると、結局は体力を低下させ、・・・・ですね。

 この「悪玉菌」と目されるものを日和見菌に変えることは、本当にできないんでしょうか?
 いやいや、その前に、日和見菌を「ほんの少し善玉菌の要素を増加させる」ことは出来ないんでしょうか。
 それができていたから、大災害の度に世界は日本人の行動に驚嘆してきたんじゃないんでしょうか。

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稽古照今

2020年03月31日 | 重箱の隅
2015.05/21 (Thu)

 ファシズムについての記事の続きを転載します。
 日本をファシズム国家だと決めつけようとしているけど、日本は決してファシズム国家ではない。大体がファシズムの定義というのはとても難しくて、それよりもまず、「そうでないもの」を説明する事の方が容易い。(つまり、浮き彫りにする方が良い、ということでしょうね。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 昨日の続きです。

 《一緒に論じられない独と伊》

 日本がはみ出ても、独伊両国は似てゐます。でも政治学者オーガンスキーによると、独伊は近代化の発展段階が違ふのです(『政治発展の諸段階』福村出版)。
 彼曰(いは)く、ナチス・ドイツはファシスト国家に非ず、独伊は「経済の発展段階が異なる」から一緒に論じられないのだ、ドイツは工業先進国だが、イタリアは農業比率の高い中進国だと。

 工業化する農業国は、農業から工業化資金を引き出します。農業勢力が強いと工業化にもたつき、経済が停滞します。そこへ第一次大戦後の動揺があり、反共愛国でまとまる独裁が生まれたといふのです。

 ファシスト独裁(ムソリーニのイタリアのほかに、フランコのスペインやサラザールのポルトガルなど)は、両派の膠着(こうちゃく)状態の下で登場しますから、やれることは限られます。この独裁は農工両派の均衡の上に成り立つ共同統治であり、両頭政治なのです。
 ナチスは違ふ。戦争で疲弊した経済(特に超インフレ)と莫大(ばくだい)な賠償を抱へる「もたつく工業先進国」なのだと。

 この議論では、ナチス・ドイツはファシスト国家に非ず、従つて対独戦勝を「ファシスト打倒」といふのは間違ひだといふことになります。
《政敵に浴びせる「悪罵の語」》

 反共政権をやたら「ファシスト国家」と呼ぶのは、共産国の論法です。逆にナチス・ドイツとスターリンのソ連を重工業国に成立する「全体主義独裁」と捉へて、同一視したのが哲学者ハンナ・アーレントでした。イタリアなど中進国(半農国)には全体主義は成立しないと(『全体主義の起原3』みすず書房)。

 つまり、独裁者・一党独裁・全体主義支配ではナチス・ドイツと共産ロシアは共通するのです。
 では中国は? 毛沢東時代の中国は思想統制が行き届いた全体主義独裁国でした。思想統制は毛沢東没後、崩れるものの、今の習主席は統制強化中です。この点では、ソ連、毛沢東時代の中国、ナチス・ドイツは全体主義で一括できます。わが国の思想統制はこれら3国より緩やかで、マルクス主義者が戦争中も生き延びました。

 わが国は、軍国主義国家ではあったもののファシスト国家でも独裁国でもありませんから、対日戦勝記念日に「ファシスト」や「ファシズム」を使ふのは間違ひです。それを敢(あ)へて使ふのは、「政敵に浴びせかける悪罵(あくば)の語」(ラカー、上掲書)に過ぎません。つまり、ファシズムとは、極めて政治的な罵(ののし)りの言葉なのです。
 あの戦争を連合国が“悪漢国”を倒した「正義の戦争」と言ひたいがため、日独を悪者にして罵倒語「ファシスト」を使ふのです。

 でも露中は当時も今も、自由民主国家でも法治国家でもない。明治以来、議会政治も法治も実現したわが国が、彼らからファシスト呼ばはりされる謂(いは)れは全然ありません。(いはら きちのすけ)

                                               (転載了)
http://www.sankei.com/politics/news/150508/plt1505080006-n1.html

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 結論。
>つまり、ファシズムとは、極めて政治的な罵(ののし)りの言葉なのです。
>あの戦争を連合国が“悪漢国”を倒した「正義の戦争」と言ひたいがため、日独を悪者にして罵倒語「ファシスト」を使ふのです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 歴史の流れを見れば、ドイツは《莫大な賠償を抱へる「もたつく工業先進国」》であったからこそ、それを解決すべくナチズムが生まれたのであって、あれは決してファシズムではない。
 イタリアは元々がギリシャに倣った都市国家の発展・集合国家であって、都市毎に独自の文化を持つ独立国家の色合いがある。にもかかわらず、「団結(結束)しなければ『国(イタリア全体)』が滅びる」と「初めての一致協力」を実現化させたものが「ファシスト」なのだから、米中露のいうファシズムとは大きく違う。
 日本はどうか。もう言うまでもないことです。

 何かを「認める」。感謝し、時に恩義に感じる。これが「忝い」だと思います。
 「謙虚さ」だけならまだまだ曖昧な形ですが、「謙虚さ」から「思い遣り」が発動することで、対等の立場で物事を見る、真正面から受けとめるという形になってきた。「忝い」。有難く思っているけど卑屈にはならない。

 日本は決してファシズムではない。
 しかし、そんなことさえ、ちょっとでも考えてみれば容易に実感できることでさえ、考えもしなかったのは何故か。
 それはやはり、真正面から受けとめようとしなかったからではないのか。ただ批判的に見ることの方が正しい見方だと思い込んできたからではないのか。

 そんなことはない、と思われる人もあるかもしれません。でも、今回の大阪の住民投票の件で、色んな記事の中で「ファシズムになぞらえて橋下氏のやり方をハシズムと~」、みたいな表現を何度か目にしました。
 喩えたのは記者か議員でしょう。ということは記者か議員はそのレベルだということです。じゃあ、有権者はその人々よりレベルが上?下?

 批判することは必要でしょう。批判的に対し、学習すべき部分は接取する。それも必要でしょう。でも、そこにどんな意識で臨んでいるか。謙虚さと思い遣り。更に進んで「忝い」、なんて意識はあるのか。

 蛇足ながら、住民投票の件について。
 初めは地域主権、と言ってたでしょう?何度か故三宅久之氏などに叱られて地域分権、と言うようになりましたよね。
 日本に都は一つですよね?天皇陛下がおわすところです。そうでなければ「都」以外の言葉を創作すれば良い。
 道州制は与野党関係なく賛成の人がいますけど、それぞれの思う道州制は全く正反対のものだったでしょう?
 だったら、大阪都構想「賛成!」だって、「反対!」だって、正反対の意見で共闘してたっておかしくはない。
 現に社民から民主に鞍替えした辻○議員が言ってる「反対!」と、大阪自民党議連の「反対!」が同じ理由からだ、なんて誰も思わないじゃないですか。なのに「共闘している。筋が通らない」と批判する。「政治は結果が全て」、と言いませんでしたか。

 「夕刻の備忘録」氏は徹頭徹尾、橋下氏の考え方、やり方を否定していたことを思い出しておくことも必要かと思います。
 もう一つ、「文楽」に対して、橋下氏がどんなことを言ったか。あれを読めば、氏の考え方が鮮明に見えてくるんじゃないでしょうか。
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「忝(かたじけな)い」と思う

2020年03月31日 | 重箱の隅
2015.05/20 (Wed)

 前回、生まれてきて「社会の中で生きている」ということは、「社会に参加している」ということだから、「分からないから」「知らないから」と黙っているのは誠意がないのだ、真正面から受けとめ、自分の思いを口にすべきなのだ、と書きました。
 そのための知識がないならないで良い。けど、自分なりに真正面から受けとめて、たとえ稚拙な考えであっても自分なりに考えなきゃならない、他人の言を自分が考えたかのように無責任に口にしてはならない、とも。

 ということで結局は、「(生きているからには)とにかく何とか考えてみようとする」こと自体が大事なんであって、そのためには言葉についてちゃんと考えておくことが必要なんじゃないか。(いろんな言葉の、自分なりの把握、です)
 ・・・・みたいなことをあっちこっちよろめきながら書きました。
 早い話がいつも言ってることで、言葉の意味を自分なりにしっかり把握しておかなければまともに考えることはできない。いきなり他人の解釈を鵜呑みにして、それを復唱してるだけなのに自分の意見だと思ってしまったら良い事なんか一つもない。

 実は言いたかったのは5月8日付の産経、「正論」の欄にあった「ファッショ」についての見事な説明についてのことなんです。あまりにも見事で、こんなに分かり易い説明を見たことがなかった、と感心し、でも、何でこれまでこんな説明に出会えなかったんだろうと随分考えたことについてでした。
 そしてやっと気が付いたのは、謙虚な姿勢(真正面から受けとめる)が、学ぶ方の私にあったのだろうか、ということでした。同時に説く方にもその物事を真正面から把握しようとする姿勢があったのかどうか。

 「ファッショ」が「ファシズム」という「全体主義」になり、「ナチ」が「ナチズム」という「国家社会主義」になる。
 「いずれも個々の人権を後回しにした非人間的な考え方だ」
 というようなことを教わった覚えがあるのだけれど、では何故それではいけないのかというと
 「個々の人権をないがしろにするからだ。その証拠にユダヤ人の大量虐殺があったではないか」、と説明される。

 その時は、そういうものなのか、と思ったんです。
 「自明の理、だよ。簡単なことじゃないか」みたいに、笑顔で説かれると、それが理解できない(というより実感できない)自分はなんてアホなんだろうと恥ずかしくなるばかりで、黙るしかなかった。
 そして数年後、ソ連やシナの方がよっぽど非人道的な大虐殺をやっていたと知ると、もう頭の中は大パニック。

 結局は「あんな奴の言ってることは大したことじゃない」とか「神棚に祀り上げるんじゃなくて、何でも白日の下に晒さなければ何も分からんよ」とか「一国のリーダーだとか何とか言ったって、所詮同じちっぽけな一人の人間じゃないか」とかいったような
物の見方からは、
 「真正面で、より大きな存在として受け止める」姿勢、なんて生まれるべくもない。
 まともに向き合わねばそこから学び取れるものはほとんどないでしょう。
 「批判的に接取する」という姿勢の愚かさを、私は全く知らなかった。

 「ファッショ(=束)」を、「(誰かが)束ねる」、とみるか、逆に「(個々人が自らの意志で)束になる」、と見るか。
 前者なら国民は衆愚でしかないけれど、後者なら意志を以て束になる=民主主義そのもの。
 本当に、取り組む(見方)姿勢一つ、のことです。

 また長くなりました。好い加減に転載をしなければ。
 これです。
   ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【正論】
 ファシズム国家は日本か中露か 
               帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助

 5月9日にモスクワで開く対独戦勝70年の記念式典に、プーチン露大統領が習近平中国国家主席らを招いて、「対ファシスト戦争勝利」を祝ふ由です。

 ファシズムの定義は厄介です。「ファシズムとは何か」を問ふより、「何がファシズムでないか」を明示する方が遙(はる)かに容易だと言はれたりします(ワルター・ラカー『ファシズム 昨日・今日・明日』刀水書房)。

 プーチン大統領の招きに応ずる習主席は、日本も「ファシスト国家」に入れて9月の抗日戦争の勝利に結び付けたいやうですが、日本はファシズムではない。さうだといふのなら、根拠を示して戴(いただ)きたいものです。

 《定義が適合しない日本》

 ファシズムといふ語はイタリア語に由来します。束ねる、結束といふ意味のファッショを使ひ、ロシア革命後の暴力的な共産勢力の秩序破壊工作に対抗するため、暴力を辞さぬ反共愛国運動を展開します。また、「万国の労働者を団結」させる共産主義の国際主義に対抗して、国家中心の愛国主義を唱へます。
 ファシズムは、一指導者、一党独裁、大衆運動、民族主義、反共が特徴です。この規定なら、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアは共通にくくれますが、わが国は前の3つが合ひません。前3つでは、寧(むし)ろ共産国がファシスト国家と共通します。

 歴史家エルンスト・ノルテは、ファシズムの特徴を6つ挙げます(『ファシズムの時代(上下)』福村出版)。

(1)ロシア革命後に危機に晒(さら)された資本主義体制を守るため出現した。(2)戦争から生まれ軍隊組織をまねた。(3)工業家・地主・労働者の一部が提携した。(4)急進社会主義者やサンディカリスト(労組直接行動派)が中核を成す。(5)領土拡張を狙ふ帝国主義的民族主義である。(6)イデオロギーは反共・反ユダヤ・反カトリシズムである。

 これはイタリアを念頭に置いた定義ですから当然、日本には合ひません。

         (以下次回)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「何がファシズムではないか」を明示する。そんな考え方、したことがなかった。いつも「~とは何か」という捉え方をしてきましたから。
 でも、「~ではないもの(ファシズムではないもの)」という捉え方をするためには、「~とは何か」という捉え方を普段にしておかなければならないでしょう。
 この場合は、ファシズムを否定~批判する立場の者をまずは捉えようとしてみる。「共産主義とは何か」「具体的に彼ら(共産主義者)はファシズムの何を批判~否定するのか」。
 もしかしたら玉ねぎの皮むきみたいなことになるのではないか。

 
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真正面から受け止める

2020年03月31日 | 心の持ち様
2015.05/18 (Mon)

 大体がこれまで知ったかぶりで色々なことを言い散らかしてきました。
 とは言え、ネットの世界にはどんなことに関しても桁外れの情報量があるわけで、知ったかぶりで、と言ってもあんまり変なことは言えない。

 でも「変なことは言えない」、とあんまり気にしてたら、今度は何もしゃべれなくなる。程度の差こそあれ、「それなりに責任もって喋る」、それが結局当たり前の姿勢、というか「良識ある態度」、ってことになりますか。

 だからそのつもりでは、いるんですよ。
 「あんまり変なことは書けない。書かない」。けど、知ったかぶりで言い散らかし、は、する。
 そうなると、物事によってはあんまり大きな話過ぎてどこから手を付けて良いか分からず、途方に暮れるしかない、なんてことも起きてくる。
 
 「だったら、無視すれば良い」?そうはいかない。
 全ては現実社会の問題であって、自分はその現実社会の中で生きている。生きてる、ってことは現実社会に参加し、支えている、ってことですからね、黙ってちゃいけない。たとえ聞く耳がない、じゃなかった、聞こえないほどのちいさな声であっても、喋ることはしなきゃいけない。
 そうなると知識不足であろうが何であろうが、とにかくその場に参加しなきゃいけない。
 「参加するためには知識がなければ。勉強しなきゃ!」となるけれど、そんなの泥縄、です。そんな急に情報収集は無理。急な情報収集自体が無理なんだから、即、それを用いて考えて喋って、なんてのはあり得ない。

 それでもいきなり「~さんは、どう思う?」って言われること、ありますよね。たまにじゃない、いつだってそうなんじゃないでしょうか。すると、それなりに応じるしかない。「誠意を以て」、ですよ?それしか方法がない。いつも「能く分かりませんから・・・」、と考えを口にしないのは、「誠意を以て対している」とは言えない。

 「誠意を以て対する」とはどういうことか。
 それは質問を真正面から受け止めることでしょう。「自分なりに」真剣に一所懸命に考えて、たとえ結果としてはピントの外れた返答になったとしても、応えようと努める。
 知識人、コメンテーターなどのやっているような、プロデューサーの指示通りのコメントをいかにも自分の考えのように微妙に論点をずらして発する、なんてせこい姑息なことしちゃ一人の人間として恥ずかしい。
 社会に「参加してる」んだから。他人の指示通り、自分の考えのような振りして無責任に喋り散らかす。そんなのどこに誠意があるのか。

 「誠意を以て対する」。そのために必要なのは「知識」、じゃないでしょう。
 必要なのは日頃から「言葉遣いをおろそかにしない」ということじゃないんでしょうか。
 言葉は知っていても、その意味を考えたことがあるのか。考えて「きっとこういう意味なんだろう」とか「意味が分からない」とかの、それなりの結論を出しているのか。他人の説明したのを好い加減に聞き流しておいて、最初から考えたその結果の自分の考え、なんて思ってないか。

 最初に書いたような「知ったかぶり」ならまだいいんじゃないか、と思うんです。少なくとも当人はその気で「誠意を以て対している」わけですから。
 真正面から受けとめて自分が考えたのなら、その把握に誤りがある、と指摘された時はとにかく恥ずかしい。だから「過ちを改むるに憚ることなかれ」なんて念を押されなくったって、慌てて改めようとする。
 当然、間違いなく進歩・向上に直結していく。

 けど、端(はな)からプロデューサーの言いなり、なんてのは、「間違ってる」と指摘されたって「考えた」と思い込むことすらなしに数多の知識を蓄え、それを並べ直しただけで、考えたような気になってるわけだから「真正面から受けとめよう」なんて気はさらさらないわけで。
 だからこそ「間違ってる」と指摘されたり抗議の声が挙がったりしても直接会って話そうとはせず、そのくせ支持者の前では焦点をずらして自らの非は決して認めず「私は戦います!」、と・・・・あれ?
いつの間にか元A新聞のU村記者の話になってしまいました。


 というわけで(?)、「ちゃんと考えること」、「考えるためにはまず言葉の意味を(ネットや辞典で調べるのではなく)自分で考えてみる(=措定)こと」等をしなきゃならないだろう、ということについては次回に。
 と言っても転載が主、ですけれど。

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「悲劇的」と受け止める人間、「悲惨な」と切って捨てる人間

2020年03月31日 | 重箱の隅
2015.05/12 (Tue)

 先日、転載させていただいた産経新聞の連載「鈍機翁のため息」に、また頷かされる記事がありましたので、敢えて順番を逆にして転載を。

 先ずは標題にした
 《「悲劇的」と受け止める人間、「悲惨な」と切って捨てる人間》
 なんですが、これ、「悲劇的と悲惨な」の対比だけではなく、「受け止めるか、切り捨てるか」ということ自体も大事なことと思います。
 何かがあった。真正面から受け止める。言い方を変えれば「真正面から課題を見詰める」。
 対して、
 何かがあった。ぶつかってくるのをろくに見もしないで、「無駄、無駄、無駄ァ~ッ」と体をかわし、さっと足払い。

 相手の心根を認めようとするか、相手をゴミ屑のように扱うか。
 受け止めるか、切り捨てるか。
 そうすれば「悲劇的」と思い遣るか、「悲惨な」と批判的・否定的になるか、のどちらか。

 筆者はこんな風に書かれています。
 《世の中には2種類の人間がいると私は考えます。不幸な出来事を「悲劇的」と受け止める人間と、「悲惨な」と切って捨てる人間です。歴史の大波に翻弄され不幸に巻き込まれた当事者に対する共感や敬意があれば「悲劇的」と受け止め、そうでなければ「悲惨な」と切って捨てる。》

 「当事者に対して《共感や敬意》を持つか、持たないか」
 共感ってのはできそうでできない。当事者と第三者の感情は相当にずれがあるでしょうし、感情はそれぞれの「情」なんだから、共有は難しい。
 けれど、「敬意」ということなら、これは日本人は得意中の得意でしょう。何しろ「謙虚」が我が国の文化の基であり、そこから「思い遣り」が生まれていくのですから。
 敬意はいつも「在る」。それで「もてなし」が偉そうにならないし、「おもてなし」が卑屈にならない。
 ・・・・なんですけどね。今回の文章を読むと「それが『広辞苑』引いても能くわからんのだが」、という質問に対する回答になっている。

 とは言え、質問した人もちょっと意地が悪いというか、「分かってて揚げ足取ってるのか?」という感じもする。それで筆者もカチンと来て・・・。あ、余計なことを。謙虚と思い遣り、ですね。勘ぐるのはやめましょう。

 では長くなりましたが、転載です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

   【鈍機翁のため息】
             (281)間奏 IV 「悲劇的」と「悲惨な」

 5月6日付「バンドンと言えば…」について、おひまな読者から問い合わせが来た。《「悲劇的」と「悲惨な」の違いを貴殿なりにもう少し分かりやすく説明してもらえませんか。手元の広辞苑で「悲劇」を引くと「悲惨な、また不幸な出来事」という説明があり、これを見る限り両者は同じ意味合いでは》というのである。なるほど。

 まず「広辞苑=国語の権威」という幻想は捨ててください。最新版がどうなっているかは知りませんが、手元の第5版で「従軍慰安婦」を引くと、「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性」とあるような辞典なのですから。

 本題に戻ります。世の中には2種類の人間がいると私は考えます。不幸な出来事を「悲劇的」と受け止める人間と、「悲惨な」と切って捨てる人間です。歴史の大波に翻弄され不幸に巻き込まれた当事者に対する共感や敬意があれば「悲劇的」と受け止め、そうでなければ「悲惨な」と切って捨てる。そういうことだと思います。

 どちらの人間が本当に大東亜戦争から学べるか、言うまでもなく「悲劇的」と受け止めることのできる人間だと思うのですが、いかがでしょうか。戦後の日本では、大東亜戦争を「悲惨な」と切って捨てる人間が、自分こそ善良な平和主義者と思い込む奇妙な現象が生じています。何とかは死ななきゃ直らない…。(桑原聡)

 http://www.sankei.com/column/news/150511/clm1505110006-n1.html
                                          (転載了)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 「あんなものはダメだ」、と端っから否定されること、って能くあります。
 仕事のことでそれを言われるとへこんでしまいます。仕事だけじゃない。趣味のことだって、そうです。自分なりに色々工夫して、それでもなかなか思い通りにいかない。で、悩んでいる。そこに向けて「あんなものは~」と全否定される。
 「何々~だから、駄目なんだ」と説明をして、ということなら、「真正面から意見してくれてるんだな」と考えもするけれど、まともに見ることもせず、自身は埒外にありながら、初めっからそんなことを言われると、これはもうお手上げです。「百回謝ったってそれでいいということにはならない」と言われるのと同じです。

 この質問者、本当に真正面から説明を求めているのか。

 ・・・ということで、質問の元になった回の文を、転載します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【鈍機翁のため息】
             (280)間奏 III バンドンと言えば…

 アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議が終わった。

 バンドン…。この地名を聞いてすぐに思い浮かぶのは、《言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを》で始まる大木惇夫(あつお)の詩「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて」である。

 歌人の執行草舟さんは詩歌論『友よ』(名著である)の冒頭で取り上げ、《この詩は、命がけで戦った、我々の父祖たちの戦友愛を謳(うた)っている。命がけのところに本当の魂が生まれ出づる。我々は今、平和を享受しているが、真の友情や愛情を、こういう詩から感じなければならない》と記す。

 大東亜戦争を「愚かな戦争」「悲惨な戦争」、戦死は「犬死に」と信じて疑わない者は、この詩を「戦争の悲惨さ」を伝えるものとしてしか受け止めることができないのではないか。断じて言う。大東亜戦争は「悲劇的な戦争」であり、けっして「悲惨な戦争」ではない。「悲劇的」と「悲惨な」の間には、この地球において2万キロの距離がある。歴史から学ぶ-と人は簡単に言うが、あの戦争を「悲惨」と捉える者は、学んだとしても打算的に上っ面をなでるだけで終わるだろう。「悲劇」と感じてはじめて、魂で真実をつかみ取ることができると思う。
 《満月を盃(はい)にくだきて、暫(しば)し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、わが征(ゆ)くはバタビヤの街、君はよくバンドンを突け、この夕べ相(あい)離(さか)るとも、かがやかし南十字を、いつの夜か、また共に見ん》

 涙が出そうだ。(桑原聡)

 http://www.sankei.com/column/news/150506/clm1505060006-n1.html

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「お前は何にも知らないんだな」と馬鹿にする。「馬鹿の考え休むに似たり、だ」と蔑み笑う。蔑む者は、それなりの何らかの取り組みをして、なかなかうまくいかず思い悩んだという経験をしたことはあるのでしょうか。経験があれば、「何も知らない者」に対して「勉強不足!」と憤ることはあっても、蔑むことは出来ない筈です。

 そして、批判的に摂取する(学び取れる)者と、謙虚に学び取る者の進む道は果たして同じなのでしょうか。
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