2012.07/18 (Wed)
先日の「そこまで言って委員会」に山本太郎氏が出ていた。
「あれ(反原発デモ)が偽らざる市民の声だ」
と氏が言うのに対し、確か、東京新聞の編集長(長谷川幸洋氏?)だったか、が、
「そうじゃない。後ろで糸を引いている者がいるんだ。そういう連中は表には出て来ない。連中は日本の破壊を目指してるんだから」
みたいなことを言うと、山本氏、失笑して
「一体いつの時代の話、してるんですか」。
あまりにも傲慢というか、年長者に対して無礼千万な態度ではあったが、彼なりの本気、は見えた。
で、やっぱり大半の人は、そう思っているんだろうか。「いつの時代の話、してるんですか?」って。
「陰謀論か?都市伝説だってもっと気の利いたことを言うぞ」、なんて思っているんでしょうか、国民の大方は。
今日、先日の反原発のデモ、集会の写真をネットで見掛けた。
「政治色なんかない。生粋の市民のデモで、団体での参加などなかった。場所によっては日の丸が振られ、『美しい山河を守れ』と書かれた旗も」
などとテレビでは言っていたけど、ネットでは、日教組の幟や動労(動力車労働組合)の旗、三里塚闘争の旗等も見られ「民青同」と書かれた旗もあった。日教組や動労や民青の旗があって、政治色がない??
「美しい山河を守れ」、って日教組の組合歌じゃなかったのか?
「一体、いつの時代の話、してるんですか?」
そう言いたくなるのはこっちだ。
何故、市民の、自然参加のデモだというのに、そんな旗があるのだ。
「初めは数十人だったのが、賛同者が増えて20万人になったのだ。みんな自然参加だ」
確かにそうだろう。けれど、じゃあ初めの数十人は何者なのだ。自然参加でこの旗か?
それよりも「市民が自然に参加した」ということの異常性を考えることはないのか。子供が「行く」と主張するのは、親の教育の成果ではないのか。幼児を連れて行くのは親のエゴではないのか。
「いい?よく見ておくのよ。今日から社会が変わるのを!」なんて言い聞かせたら、それは最高の革命思想教育ではないか。
民青(民青同)がどういう活動をしてきたのか、本来はどういう組織なのかテレビや新聞で、採り上げ、解説してきただろうか。(註)
「民青とは~な活動をする団体です。思想色は全くありません」って?
現政権を擁護する気は欠片もない。勿論定例になっているデモに賛同する気も全くない。「原発大っ嫌い」と書かれたプラカードを見ただけで、程度が知れる。
賛同する気が全くないのは、山本氏の言に象徴される考え方を「?」と思うからだ。
「一体いつの時代の話、してるんですか(?)」
この一言だ。
教育体制、思想形態は、70年安保闘争の頃と、全くと言っていいほど変わっていないのに。「そんな大昔のこと、今まで続いているわけないでしょう?アタマ、大丈夫?」と能天気にも思い込んでいる。自分の意志で参加しているのだと、少しも疑うことなく、太鼓叩いて踊っている。
まさかと思われるだろうけれど、水力発電や、治水を目的とするダム建設について、どれだけ多くの人が反対したか。そして、その反対意見をまとめたのは誰だったか。調べてみれば、、今の反原発と同じ仕組みだったことが見えてくる。
坂本龍一や大江健三郎、瀬戸内寂聴などの有名人が中心になっているんだ、なんて本気で思っている人はいないと思うけど。 まさか、ですよね?
註)
最前線で戦う兵士の背後には、必ず、予備軍がいます。更に、その背後には、絶大な力を持つ後方支援が必要です。
(中略)
注目されるのは、最前線の兵士であり、幕内力士であるわけですが、実は、全体で一つのものを形成している。暗黙の了解があって、誰も口にしないけど、そういうことです。
70年安保の時だって、全共闘ばかりが目立つけれど、運動は分化し、先鋭化して、日常的に「自己批判」が「強制」されるようになり、(これ、おかしな物言いでしょう?)終いには、グループ内で、「粛清」まで、行なわれた。字面では、そうは見えませんが、実際には「処刑」、です。
しかし、実は、学生運動に自然に参加させようという活動を行なうグループもあった。「民青(民主青年同盟)」がそうです。
その民青のやり方、フォークダンスをやってみたり、みんなでハイキングに行ってみたり、という、正攻法でなく搦め手からの参加者勧誘という方法は、真剣に真正面から社会について考えようとする各グループから見れば、とんでもない軟弱者、日和見にしか見えない。
けれど、このノンポリ(ノンポリシー。はっきりした思想を持たない)をも、巻き込んでしまい、学生運動にシンパシーを感じるように仕向けていく、このやり方こそ、コミンテルン世界大会の決定方針に一番近いものでした。
「人民戦線」、の考え方、「革命は外側(暴力、武力)からでなく、内側から」、です。
「良い子の70年安保」その①
先日の「そこまで言って委員会」に山本太郎氏が出ていた。
「あれ(反原発デモ)が偽らざる市民の声だ」
と氏が言うのに対し、確か、東京新聞の編集長(長谷川幸洋氏?)だったか、が、
「そうじゃない。後ろで糸を引いている者がいるんだ。そういう連中は表には出て来ない。連中は日本の破壊を目指してるんだから」
みたいなことを言うと、山本氏、失笑して
「一体いつの時代の話、してるんですか」。
あまりにも傲慢というか、年長者に対して無礼千万な態度ではあったが、彼なりの本気、は見えた。
で、やっぱり大半の人は、そう思っているんだろうか。「いつの時代の話、してるんですか?」って。
「陰謀論か?都市伝説だってもっと気の利いたことを言うぞ」、なんて思っているんでしょうか、国民の大方は。
今日、先日の反原発のデモ、集会の写真をネットで見掛けた。
「政治色なんかない。生粋の市民のデモで、団体での参加などなかった。場所によっては日の丸が振られ、『美しい山河を守れ』と書かれた旗も」
などとテレビでは言っていたけど、ネットでは、日教組の幟や動労(動力車労働組合)の旗、三里塚闘争の旗等も見られ「民青同」と書かれた旗もあった。日教組や動労や民青の旗があって、政治色がない??
「美しい山河を守れ」、って日教組の組合歌じゃなかったのか?
「一体、いつの時代の話、してるんですか?」
そう言いたくなるのはこっちだ。
何故、市民の、自然参加のデモだというのに、そんな旗があるのだ。
「初めは数十人だったのが、賛同者が増えて20万人になったのだ。みんな自然参加だ」
確かにそうだろう。けれど、じゃあ初めの数十人は何者なのだ。自然参加でこの旗か?
それよりも「市民が自然に参加した」ということの異常性を考えることはないのか。子供が「行く」と主張するのは、親の教育の成果ではないのか。幼児を連れて行くのは親のエゴではないのか。
「いい?よく見ておくのよ。今日から社会が変わるのを!」なんて言い聞かせたら、それは最高の革命思想教育ではないか。
民青(民青同)がどういう活動をしてきたのか、本来はどういう組織なのかテレビや新聞で、採り上げ、解説してきただろうか。(註)
「民青とは~な活動をする団体です。思想色は全くありません」って?
現政権を擁護する気は欠片もない。勿論定例になっているデモに賛同する気も全くない。「原発大っ嫌い」と書かれたプラカードを見ただけで、程度が知れる。
賛同する気が全くないのは、山本氏の言に象徴される考え方を「?」と思うからだ。
「一体いつの時代の話、してるんですか(?)」
この一言だ。
教育体制、思想形態は、70年安保闘争の頃と、全くと言っていいほど変わっていないのに。「そんな大昔のこと、今まで続いているわけないでしょう?アタマ、大丈夫?」と能天気にも思い込んでいる。自分の意志で参加しているのだと、少しも疑うことなく、太鼓叩いて踊っている。
まさかと思われるだろうけれど、水力発電や、治水を目的とするダム建設について、どれだけ多くの人が反対したか。そして、その反対意見をまとめたのは誰だったか。調べてみれば、、今の反原発と同じ仕組みだったことが見えてくる。
坂本龍一や大江健三郎、瀬戸内寂聴などの有名人が中心になっているんだ、なんて本気で思っている人はいないと思うけど。 まさか、ですよね?
註)
最前線で戦う兵士の背後には、必ず、予備軍がいます。更に、その背後には、絶大な力を持つ後方支援が必要です。
(中略)
注目されるのは、最前線の兵士であり、幕内力士であるわけですが、実は、全体で一つのものを形成している。暗黙の了解があって、誰も口にしないけど、そういうことです。
70年安保の時だって、全共闘ばかりが目立つけれど、運動は分化し、先鋭化して、日常的に「自己批判」が「強制」されるようになり、(これ、おかしな物言いでしょう?)終いには、グループ内で、「粛清」まで、行なわれた。字面では、そうは見えませんが、実際には「処刑」、です。
しかし、実は、学生運動に自然に参加させようという活動を行なうグループもあった。「民青(民主青年同盟)」がそうです。
その民青のやり方、フォークダンスをやってみたり、みんなでハイキングに行ってみたり、という、正攻法でなく搦め手からの参加者勧誘という方法は、真剣に真正面から社会について考えようとする各グループから見れば、とんでもない軟弱者、日和見にしか見えない。
けれど、このノンポリ(ノンポリシー。はっきりした思想を持たない)をも、巻き込んでしまい、学生運動にシンパシーを感じるように仕向けていく、このやり方こそ、コミンテルン世界大会の決定方針に一番近いものでした。
「人民戦線」、の考え方、「革命は外側(暴力、武力)からでなく、内側から」、です。
「良い子の70年安保」その①