CubとSRと

ただの日記

清朝の官吏を「マンダリン」という。

2021年05月31日 | 重箱の隅
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)5月29日(土曜日)
通巻第6927号   <前日発行>

書評 

反中言辞を吐くとつるし上げ、糾弾集会、抗議デモ。反動教員だと喚かれる。
日本人教授が辞職に追い込まれた。早稲田大学に2500名の中国人留学生がいる。

  ♪
桜井よしこ 楊逸 楊海英『中国の暴虐』(ワック)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 楊逸さんは外国人ではじめて日本語で書いた小説で芥川賞受賞の作家である。
 楊海英・静岡教授は中国を告発し続ける夥しい著作活動で知られる。モンゴルの悲劇を描いた『墓標なき草原』(岩波現代文胡)などの翻訳でも知られる。
 まずはこの二人の日本留学までの過程と葛藤。精神の来歴と、それまでに如何に中国国内で虐待されたかを赤裸々に語る。司会進行は桜井よしこ女史で、話の進め方、切り口は鮮やかである。
 楊逸女史は家族が迫害され、しかも下放された。死ぬ寸前にまで追い込まれた文革時代の迫害の原体験者ゆえに、その凄まじさを聞くと身の毛がよだつ。友人で行方不明になった者もいるという。
 中国共産党の弾圧のおぞましさ、人間とは思えない残酷さが、ひしひしと語られる。
 ウィグル問題が国際世論で集中砲火を浴びているが、嘗ては南モンゴル、チベット、そして昨今の香港における自由の弾圧と植民地化。根は同じである。その侵略の牙の脅威がつぎは台湾と尖閣諸島に迫る。
 未曽有の危機が目の前にあるというのに、日本はのほほんとして、まるで他人事である。バイデンが尖閣は日米安保条約第五条が適用されると発言したら、それだけで安心しているほどに、戦後の日本人から武士道精神どころか、肝要な自律性も失われた。
 そればかりではない。楊逸女史も楊海英氏も、おふたりとも日本の大学で教鞭を執るが、大学キャンパスで中国人留学生がどれほど謀略的であるか。大使館命令に従って、講義中の教授が、反中言辞でもちょっと吐こうなら、集団でつるし上げ、糾弾集会、抗議デモまで展開される。反動教員だと喚かれる。
 現実に何人かの日本人教授が辞職に追い込まれた。
 日本の大学なのに、まるで中国のキャンパスではないか。立命館もすごいが、早稲田大学には2500名もの中国人留学生がいる。その組織力。その暴走が日本国内でおきているにもかかわらず、日本には対抗できる手段もなければ、日本の若者はまるで無関心で、全体主義と闘おうとしないお花畑にいる。
 「若者の怯懦は国を滅ぼす」と言ったチャーチルの箴言を思い出すのだ。 

 さて、言葉の統一の問題で、楊海英教授は次の発言をしている。
 「北京語は本来、漢民族の言葉ではありません。あれは『ピジン語』なんです。ピジン語というのは、現地語を話す現地人と、現地語を話せない外国人などとの間で意思の疎通をはかるために互換性のある単語で構成された言葉です。共通言語を持たない集団同士がコミュニケーションをするための便利な手段です。
 つまり北京語は、満州人が三百年間、中国を支配している間に、満州人が、被支配者の漢民族と話すために造った言葉。漢民族にもいろんな地域の人がいて、北京人だけでなく、広東人、上海人たちともしゃべるときには、共通語が必要です。これが北京語で、いわゆる『官話』なんです」(61p)
 ということはマンダリンは「満大人」(マンターレン)の意味だ。当時は満州人が偉く、清王朝の三百年でゆるりと合成されて「官話」になったのである。
 そして中国語のなかに民主、議会、自由など日本からの輸入語彙も多いが、日本語になり語彙で豊富なのは罵倒語である。乱暴な言葉は「相手を打倒してさらに踏みつけろ」「相手を臭くなるまで批判しろ」(名誉が地に落ちることを臭くなると中国語は言う)などが『毛沢東語録』にもあるという。
 楊逸さんは「中国語には他言語になり毒々しさ」が多数にあって「世界一多い。中国人のおばさんたちが、町のど真ん中で口げんかを始めると、永遠に停まりません。速射砲のように汚い言葉が出てきた、怖いぐらいです」(147p)

 「中華民族」なる新造語がまったくのフィクションであることに言を俟たないが、楊逸女史はこう言う。
 「中華民族」だの「中華帝国」だのと言うが、「外国から入ってきた共産主義と伝統的な中国の王民思想がひとつに混ざって、『怪物化』してしまっています。(中略)誰が銃を手にするかなんですね。技術開発にしろワクチンにしろ、悪人が手にすると、人類全体が脅かされる。いまはその分岐点に差し掛かっている。それほどの危機感を覚えたのは、わたしの人生で初めての体験です」(76p)
 かつて中国の自由、民主、法治、人権を主張して立ち上がった「中国の春」の王丙章博士は、ベトナムから広西チワン自治区へ潜入したところで逮捕され、無期懲役。現在も獄中にあって欧米では釈放運動が起きているが、日本は関心さえない。
 自らを吊すロープを敵に売っている日本の実態はこうだ。
 室蘭工業大学副学長は福建省出身の中国人で顔認証の専門家、ここに漢族の博士課程が複数、全員が監視カメラ製造企業に就職した。
 静岡大学工学部は80%以上が中国人で、毎月20万円前後が日本政府の奨学金。スパイ養成を日本政府が金を出している。日本人の苦学生にはこの特権はない。中国人留学生には要注意である。
 それにしてもスパイ天国ニッポン、中国工作員の暗躍をいつまで放置するのか
       ○○○○○○○○○○○○○○○ 

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 「マンダリン」ってそういうことだったのか。書評とまったく関係のないことですが、今さらながら、です。
 今でこそ、その気になればネットなどで僅か数十秒で意味や由来がわかりますが、ほんの二十年ほど前は相当の時間がかかったため、それなりの探求心と調べ続ける意志の強さが必要でした。勿論、そこには大きなメリットもありましたが(調べる過程で探求心も意志の強さも向上しますから)。

 繰り返しますが、今はすぐにわかる。
 けれど、「すぐにわかる」から、大半の人は「マンダリン。なになに?清朝の官吏のことをそう言うのか。なるほどね」でストップします。「何故、『マンダリン』って言うんだ?」と一歩踏み込むことはしない。「満『大人』」となれば官吏以外の側面も見えてくるだろうに・・・。
 「孔子学院は中共の出先機関。だが、語学教育をするだけで政治活動やスパイ活動をしているわけではない。調べたら確かにそうだった」。ワイドショーなどではそう結論付けます。
 けれど、儒学の研究を全くしないのに「孔子学院」と名乗ることからして、その説明には無理があります。そこには踏み込まない。

 註
 文中に「ピジン語」とあるのは「北京語」のことでしょうが、「北京語」と書くと、「北京で一般的に遣われている言葉(=北京方言)」と捉えられる惧れがあるため、敢えて「特殊言語」であることを意識するようカタカナで書かれたものと思われます。御存じの通り、日本では正確を期すために「北京官話」という言葉が使われてきました。「満州人の支配する清帝国で遣われた言葉」。必要に迫られて作られた共通語。言ってみれば吉原の花魁言葉でしょうか。けど、今は「北京官話」なんて言いません。「北京語」ならましな方で、今は「標準語」、ですか。清帝国三百年の歴史が見えてこない。 
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「昭和史の声」著者の思い(下)

2021年05月30日 | 心の持ち様
 社報「靖國」に掲載された早坂隆 著「昭和史の声」について。
 著者自身による紹介文、今回はその転載の続き、最終回(3回目)です。

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 イスラエルでは「満州国でユダヤ難民へのビザ発給に尽力」した陸軍中将・樋口季一郎について取材した。杉原千畝の「命のビザ」に隠れた「もう一つのユダヤ難民救出劇」を主導した樋口について、戦時中、大連で暮らし、「ヒグチ・ビザ」で救出された多くの難民の姿を目撃したクララ・シュバルツベルグさんはこう語ってくれた。
 「ヒグチは偉大な人物です。私たちは心から感謝しています。彼の存在を決して忘れません。日本人はヒグチのことをあまり知らないのですか?それは本当ですか?日本人は学校で何を習っているのですか?」

 モンゴルのウランバートル郊外には、シベリア抑留の影に隠れてなかなか語られることのない「モンゴル抑留」の慰霊碑が建立されている。その管理人であるバーダイ・ネルグィさんはこんな話を今に伝える。
 「(抑留者用の)病院で亡くなった日本人の遺体は、長くこの地に埋葬されたままになっていましたが、一九九四年から一九九七年にかけて、土を掘り起こして遺骨を収集し、日本へ還す事業が行われました。土を掘ると、次から次へと骨が出てきました。少しの骨も残さないように、作業は丁寧に行われました。目の細かな篩(ふるい)につちをかけて、少しの欠片も見逃さないようにやるのです。一体が揃ったらその奥、というように順々に掘り進めました。一人でも帰れない方がいたら可哀想だという思いでした」


 今では取材でお世話になった元兵士の方々の多くが鬼籍に入っている。時には一緒に食事をしたり、お酒を飲みながら、様々な「昭和史」について教えていただいた経験は、私にとっては忘れがたい思い出であり、何よりの財産でもある。
 終戦から七十五年以上が経ち、あの戦争に関する記憶の風化は免れることができない。戦争体験者の方々への取材は、今や最後の機会の時期を迎えている。
 現状、コロナ禍で取材が制限されるという逆境にも見舞われているが、一つでも多くの「生の声」を活字にして残しておきたいと切に思っている。
 「昭和史の声」を今を生きる人々に正確に届けられるよう、微力ながら今後も尽くしていきたい。

 (転載了)

 社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より 

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 社報の紙面には早坂氏の写真も載っていて、「立派な仕事をされているなあ。どこかの詐話師やら実地に取材にも行かないで嘘を書きまくったノーベル賞作家や、名誉を傷つけられたと騒いでいた〇日新聞記者とは大違い」なんて思いながら見ていたら、下にプロフィールも載っていた。
 この実直な大人の顔つきの持ち主が何とまだ四十半ば過ぎ!
 我が顔の軽薄さを恥ずかしく思う。二十歳も年上なんだけど・・・。

 気を取り直して。
 あの戦争を我々の世代は「第二次世界大戦」と習った。そうでなければ「太平洋戦争」。
 しかし、日本は特殊な例を除きヨーロッパまで攻めて行ったわけではない。戦いはアジア諸国を植民地としていた国々の駐留軍(又は本国からの援軍)とのものであるから、「第二次世界大戦」と一括りにされるのは大雑把に過ぎる。中国(支那)との戦いだって、別に攻め入ったわけではない。だから、「日中戦争」というのだって無理がある。
 それじゃあ「太平洋戦争」は?ということになるが、じゃ、逆に聞くけど、なんで「日米戦争」と言わないのか。米国以外の太平洋上の島々を植民地にしていた国々は太平洋上で(日本と)戦ったのか?

 ということで日本では「大東亜戦争」と称した。植民地支配からの解放を目指したのだから、間違ってはいない。
 けど、それは「八紘一宇。日本が世界征服を目論んだ名称だ」と。「大東亜戦争」と言えば、右翼だ、ヤクザだ、暴力団と同じだと決めつけられそうな勢いだった。

 平成になって現上皇陛下が「先の大戦」と言われるようになった。
 気が付いたらマスメディアも揃って「先の大戦」と言うようになり、「第二次大戦」なんて、ましてや「太平洋戦争」なんて言葉は滅多に聞けなくなった。
 
 それでもまだ「大東亜戦争」は、右翼だ、ヤクザだ、暴力団だという認識のままなのだろうか。
 それとも「大東亜戦争?何それ」、となってしまったのだろうか。
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「昭和史の声」著者の思い(中)

2021年05月29日 | 心の持ち様
 早坂隆 著「昭和史の声」について、著者自身による紹介文が社報「靖國」に掲載されました。今回もその転載の続き、2回目です。

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 ベニヤ製の小型モーターボートに二百五十キロ爆弾を搭載した水上特攻兵器「震洋」の搭乗員だった村上孝道さんは、特攻を志願した時の心情を次のように表現した。
 「戦況が非常に悪いということは上官からも聞いていましたし、私も正直に言えば日本が勝てるとは思っていませんでした。しかし、少しでも戦況を挽回し、条件の良い講和ができるようにと考えていました。そのために、その新兵器で戦おうと。とにかく、家族を護りたいという一心でしたね」

 特殊な潜水服に身を包んで海中に潜み、敵の船艇の船底を「棒機雷」で下から突き上げる人間機雷「伏龍隊」の隊員だった片山惣次郎さんは、こんな心情を吐露してくれた。
 「今から思えば『子供だまし』のような作戦ですがね。しかし、やっていた本人たちは、ただただ一途。本当に一途でしたね。今の人たちには笑われてしまうかもしれませんが」
 片山さんは当時の心境について、ゆっくりと言葉を選びながらこう話した。
 「必死なもの。高潔なもの。隊員たちの心中には、そんなものもあったでしょうか。戦争そのものは悪い。当然のことです。しかし、あの潜水服を着て、実際に海に潜った人たちは皆『利他行』でやっていたんですよ」
 「利他行」とは、大乗仏教の言葉で「他人に対する善きはからい」「己の救済よりも、他者を助ける行い」といった意味を表す。

 取材は海外にも及んだ。パラオ本島在住のマリア・アサヌマさんは、日本統治時代の記憶を次のように振り返ってくれた。
 「当時は日本人がいっぱいいてね。豊かだったよ。コロールにはお店がいっぱいあって。商店街ね。ずっと屋根があったから、雨が降っても傘がいらない。スコールがきても大丈夫。大きな公園があったり、噴水があったり。よく遊んだよ。日本人はよくやってくれたから、栄えていましたね。学校は別でも町では日本人と一緒。日本人の友達、いっぱいいたよ。日本時代は良い思い出ですよ。本当に」

 神風特別攻撃隊の発祥の地であるフィリピンのマバラカット飛行場の跡地に慰霊碑を建立したダニエル・H・ディソンさんは、日本兵との思い出をこう回想した。
 「初めは日本軍と言えば恐怖の対象でした。と言うのも、この街にいた中国人が『日本軍は残虐だ』という話を繰り返し吹聴していたからです。しかし、実際にやってきた日本兵たちは、立派な戦士たちでした。そんな日本兵たちが戦争末期、『体当たり攻撃』を断行していたことを、私は戦後になってから知りました。そして、深い畏敬の念を覚えたのです」

 (続く)


 社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より

 
  
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「昭和史の声」著者の思い(上)

2021年05月28日 | 心の持ち様
 ずいぶん遅くなりましたが、社報「靖國」5月号に載せられていた早坂隆氏の文を三度に分けて転載させていただこうと思います。
 南京事件、ペリリュー島、神風特別攻撃隊、ユダヤ難民へのビザ発給、モンゴル抑留・・・。

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 戦争体験者の方々への取材を始めて、はや二十年近くになる。多くの方々から託された貴重な証言を『昭和史の声』という一冊にまとめることができたのは、これまで取材に応じてくれたすべての方々のおかげであるとしか言いようがない。

 昭和十二(一九三七)年十二月の南京戦に参加した経験を持つ元中支那派遣軍野戦電信第一中隊・島田親男さんは、南京市内の様子をこう語ってくれた。
 「城内(市内)には人の姿もなく、静まり返っていて、非常に不気味な様子でした。『がらん』とした感じです。結局、銀行だった建物の中に第六師団の司令部が設置されたのですが、私はそこで通信業務を行うことになりました。南京に入って一週間くらいは、私も気が立っていたというか、興奮していたのでしょうね。夜もなかなか寝付けなかったのを覚えています。しかし、南京の市民は皆、安全地帯にとっくに逃げていますしね。城内では後に言われるような死体の山など、私は見たことがありません」
 島田さんは涙ながらにこう訴えかけた。
 「戦闘で亡くなった支那兵が多くいたのは事実です。それは本当に悲惨なことでした。それに関しましては、私も犠牲者の方々への鎮魂の思いをずっと抱き続けております。しかし、後に言われるような市民への三十万人だのという大虐殺なんて、私はしてもいないし、見てもいません。三十万人と言えば広島と長崎の原爆被害者の数よりも多い。当時の私たちにそんな攻撃力があったとは到底思えません。事実は事実として、正確に語り継いでほしい。なぜ戦後の日本人は中国人の言うことばかり信じて、私たちの言葉には耳を傾けてくれないのでしょうか」

 昭和十九(一九四四)年九月十五日から始まったパラオ・ペリリュー島の激戦を戦い抜いた陸軍歩兵第二連隊・永井敬司さんは、戦場の光景を次のように言い表した。
 「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました」
 永井さんに「戦いの動機」について尋ねると、老紳士は淡々とこう話してくれた。
 「日本を護るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を護るため。それ以外にある筈がないじゃないですか。私たちは『太平洋の防波堤』となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」

 (続く)

 
 


社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より
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再掲 「波上宮(なみのうえぐう)と沖縄  (中)」

2021年05月27日 | 神社
 2015.11/16 (Mon)

 社報「靖國」11月号からの部分転載、後半です。
 「左翼的な県民性だ、と思っていたがそうではなかった。それどころか敬神の念に篤く、剛毅・純朴な人々だった」
  こんな人々が、あれだけ猛烈な基地反対運動などするだろうか、と私の疑念を書いたのは、先祖祀りと、社会批判・革命運動とはつながらないからです。
 革命はこれまでのすべてを否定する。先祖を祀ることさえ否定する。当然でしょう、これまでの社会を支えてきた人々なのですから。社会を否定する、ということは支えるという行動をも否定するということです。ということはその社会の人々の先祖もみんな否定することになる。先祖否定=先祖祀りの否定です。
 先祖は否定するのに、先祖祀りはする、というのは変でしょう。社会を否定するということは、先祖祀りも肯定「してはならない」。
 だから孔子の墓だって暴かれたんだし、そんなことをされたらたまらん、ということで周恩来は墓を作らせなかった。
 脱線しました。


 「基地反対運動は革命ではない。大和と琉球は国が違うのだから当然のことだ」
 という人もいるかもしれない。でも、それはまやかしだ、基地反対運動は革命(独立)運動のために利用されているし、沖縄県は間違いなく日本だということを、今回、改めて思わされました。

 明治の「琉球処分」を批判する人があるけれど、先述した通り、「処分」に冷たい意味はありません。
 江戸時代、沖縄は「琉球国」と名乗って島津藩の支配下にありました。日本>島津藩>琉球国です。
 それが新しい国家体制を作るために、明治政府は琉球も同じく一つの県、とした。鹿児島に支配されていたのに、鹿児島と同列に置いた。だから明治天皇を恨んではいない。恨んでいないからこそその明治期の琉球処分を思い、敗戦後の一日も早い本土復帰を願うために明治天皇の顕彰を、と銅像を建立した。そう思うのが妥当ではないでしょうか。

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 「沖縄のこころ」
 ~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~

 <天照大御神を祀る浮島神社>
 さて、昔の那覇は、海に面し、国場川・安里川・久茂地川と三方を川に囲まれた謂わば浮島のようなものであった。そこで、明国の冊封使が那覇の港に到着し、首里に向かうまでには、どうしても、川を渡る必要があった。
 時に琉球国第一王朝・金福王の時代、那覇に石の橋、堤を築いて冊封使をお通しするようにとの王命が国相の懐機に下った。
 川底は深く、両岸は離れており、どのようにして石堤を築けばよいかと、懐機は途方にくれた。そこで、彼は、福州の人であったが、大和で最も尊い「天照大御神」を祀り、二夜三昼の間、祈り続けた。
 すると、徐々に潮がひき始め、七日の間、再び満ちてくる事が無かったという。懐機は多くの部下を使い石堤を造り上げた。
 それが、のちに琉球八景の一つに称えられる長虹堤である。懐機は、この石堤築造の大工事が無事完了したのは天照大御神の御蔭であるとし、自らの邸宅をこの神に捧げ、そこに「長寿宮」(ウイシノミヤ=御伊勢の宮)を建てた。
 一昨年、伊勢神宮の御遷宮が行われた事は記憶に新しいが、まさに、琉球王朝の最盛期に、伊勢の皇祖神・天照大御神がこの地に祀られた事は特筆大書すべきであろう。
 (大和であればごく自然のことであろうが、当時は「琉球国」だったのである。)

 現在、このお宮は土地問題の為に波上宮の境内に「浮島神社」として祀られているが、今も那覇市松山一丁目五番地には、その石碑が残っている。浮島神社には土地問題、経済的問題もあるが、早く元のお姿に御復興申し上げる事が私共の悲願である。

 <琉球の王様は日本人>
 さて、一四五二年、今の那覇市松山から崇元寺迄の石堤「長虹堤」が完成し、大和の皇祖神・天照大御神が祀られた。しかもそれを祀ったのは、国相・懐機である。当然、王家の許しなくそのような事はできないし、必ずや王家の理解あっての事であろう。
 そこで、尚王家に就いては、「尚」という姓から、中国大陸系統か朝鮮半島系統かと思われがちだが尚姓は明国から第一尚王家の祖「尚巴志」が戴いた外交上の姓である。
 そして元を辿れば「尚巴志」の祖父は鮫川大主、その親は屋蔵大主であって、日本人なのである。 

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