CubとSRと

ただの日記

やらねばならぬ

2020年09月30日 | 日々の暮らし
 9月25日(金)

 今日は10時半、歯医者、ということで、10時過ぎに家を出る。
 しばらく歩いて、診察券を持って出なかったことに気付く。
 慌てて家に戻り、改めて家を出たのが10時20分。これは間違いなく遅刻する。走る体力はないし、何より雨が降っている。それも吹き降りだ。
 
 急ぎ足と小走り(気分だけ)で病院に着いたのは10時29分。
 家から十分足らずで来たことになる。ホントか?と思うけれど、とにかく予約時間に間に合ってよかった。
 歯の根の処置は今日で終わり、来週初めには被せ物をするらしい。

 本当は10時ちょうどに出るつもりだった。
 家を出る時、用足しに行ったら、またトイレが逆流しそうな雰囲気になる。
 それで、少し遅れた。
 ここで反省。
 前に詰まった時、「半年に一度、点検(目視)した方が良い」と言われた。
 そのくらいで見つかる不都合は、特に道具も必要ということはないので、素人でも何とかなる。しかし、一年、二年と経って拗れてしまうと、専用の道具が必要になるから、無駄に高い金を払うことになる、と。庭木の手入れと一緒だ。
 
 この二年ほど、6月と12月の点検をしていなかった。「夏前に見ておけば良かったな」と思いつつも、これだけ雨が降れば排水槽に雨水が流れ込んで、トイレの排水が阻まれることも覚えていたから、
 「とにかく雨が止んでから、でなければ」
 と、先送りすることにした。まずは歯医者。
 明日、雨が上がったらまずは周辺の草刈りと、伸び放題の植え込みを刈って通路を作ろう。排水問題はそれから、だ。

 そう思って、帰ってから水を流してみた。やっぱり。
 雨水が流れ込んでいたのだろう、今度はうまく流れた。
 だからと言って安心はできない。
 「排水管、排水槽の近くに植え込みがあれば、5年に一度くらいは詰まるもの、と考えておいた方が良い」。
 これも前回に聞いたこと。
 だから、「半年に一回の目視点検」なんだ、と。
 安心をしていてはいけない。明日は、まず草刈りだ。
 

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色々考える

2020年09月29日 | 日々の暮らし
 9月23日(水)

 二日ほど前から、今日は雨という予報だった。
 それが昨日は時間ごとの予報表のほとんどが曇りマークに変わっていて、今日になると雨マークはほんの一、二か所。
 まあ、今日は庭木(楠)の処理の見積もりに来てくれることになっているから、雨が降らないに越したことはない。
 今日の用事はこれだけだ。3時半ということだったが、一日家にいる方が良かろう。
 
 3時前に電話がかかってきて、近くまで来ているので今から行っても良いか、と言う。こちらも遅くなるよりは早い方が助かる。

 庭木の剪定、一本で一万円からということだったので、どれだけかかるんだろう、と不安だった。何しろ意外に大きな樹だから5万円以上かかるかもしれない。そうなると、ふところが大変だ。でも大変、ったって自分では処理できないんだからお金は用意しなけりゃならない。

 木は隣家との境界に、塀代わりに植えてある庭木のすぐそばにある。
 なので、枝の何本かは必ず隣家の庭の領空侵犯をすることになる。
 数年前にバッサリと切ってもらって、ほぼ幹だけになっていたのだが、生長が早く、田舎に戻っていた数年の間に、大変なことになっていた。
 困ったことにここ二、三年腰が痛くて何もできなかったものだから、余計に気になりながらも、手をこまねいている状態。

 昨秋から、腰痛が少しずつおさまってきて、今夏、何とか木に登ってそれなりに枝を処理したのだが、領空侵犯している枝は手の出しようがない。切ると必ず隣家の庭に落ちる。そこにはきれいに剪定された低木が並んでいる。それらの庭木は、間違いなくミサイルが直撃したような被害を受ける。
 もう一つ。最上部の四本ほど残っている枝は大きな脚立を使わなければ手の出しようがない。大きな脚立など、ない。

 体格のいい女の人が一人でやってきた。
 費用を聞いてびっくり。幹の太さからすると、切ってしまうなら十万以上。枝を払って、幹の丈を揃えるとしても七万くらい。(それ、一ヶ月の生活費くらいなんだけど。)
 それしか方法がないんならやってもらうしかない。いや、危険なことも、素人には手の出しようがないことも承知、なんだけど、十万以上、ってのはないよなぁ~~。
 よし、とにかく枝を払ってもらって、後は「逆だるま落とし」で上から順番に輪切りにしてやろう。

 夕方、見積もりの連絡が入った。枝を払うだけなら、五万弱。丈を揃えるまでなら七万弱。勿論、五万弱でやってもらうつもりだ。
 溜息の一つでもつくべきかと思うが、一つでは収まらないからね。それに、溜息ついたって枝の生長が止まるわけでなし。

 正直なところ、面白がっている自分がいる。
 朝、起き掛けのストレッチを入念にやれば、腰痛は、まず出てこない。
 「元気があれば何でもできる」
 とは思わないけど、
 「腰痛が無ければ大概のことは出来る」。

 なに?「年寄りの冷や水」って? 
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中華じゃないよね。ましてや中国、だなんてとんでもない。

2020年09月28日 | 心の持ち様
 「わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
  頂門の一針 5547号
       2020(令和2年)年 9月28日(月)」
 からです。

 
 【変見自在】傲慢な田舎者
 ━━━━━━━━━━━━━

    高山 正之 

 まだ支那の公安警察が今ほどでないころ、南京とその辺りを旅した。
 同行の一人に獨協大学名誉教授の故中村粲(アキラ)氏がいた。
 元気のいい人で「支那人と本多勝一が言う南京大虐殺が本当にあったかどうか、現地で日支シンポジウムをやろう」と北京に申し入れた。日取りも南京陥落の日に決めていた。
 そんなことをやられたら南京大虐殺がもろ作りものだとばれてしまう。
 支那のお先棒を担ぐ朝日新聞も困るけど、日本にODAをたかっている最中の支那はもっと困る。
 で、江沢民は出かける間際の教授に入国禁止を通告してきた。ひどい話だ。
 旅券番号は記録されている。それが終わるまで観光でも支那には入れない。

 そして10年。やっと旅券を更新して、今回のお忍びの旅となった。
 ただ北京が要注意人物の顔認証システムを入れていたら即捕縛という事態も予想される。出入国や移動時には「後ろについて見張っていて」と頼まれた。
 で、南京に飛んだ。入国は問題なく。まずは南京大虐殺館を覗いた。土井たか子に村山富市、本多勝一の日奸トリオの写真が飾られていたが、本物はそれだけ。
 あとはみな紛(まが)い物。闇の中に荘重な音楽と映像が流れる入口の作りはエルサレムのホロコースト記念館のエントランスとそっくり同じだ。
 息絶えた我が子を抱く母の像はワルシャワ・ゲットー記念館のネイサン・ラポポートの像に酷似し、中庭にある犠牲者の名を刻んだ「壁」は「遠目に見たワシントンDCのベトナム戦争慰霊碑」と言われる。
 南京大虐殺には一片の真実もない。ゼロからでっち上げれば、どうしてもこういう風になる。

 中華門の南、雨花台も行った。毎日新聞記者、浅海一男の「百人斬り」の与太話を唯一の証拠にして向井敏明、野田毅両少尉がここで銃殺された。
 浅海は「日本軍は残虐」を証明した功績で戦後、北京に豪邸が与えられ、娘は北京大に入れてもらった。
 シンポが開かれていたら彼女も呼ばれ、父の不実を語っていただろう。

 梅花山も登った。頂きには日本と組んだ南京政府の汪兆銘の墓地跡がある。
 墓は暴かれないよう5トンの鋼入りコンクリートで覆われていたが、重慶から戻った蒋介石により爆破され、棺は引きずり出され辱められた。
 墓地跡には縛られた汪の像が置かれ、人々は石を投げ、唾を吐きかけた。
 訪れたとき、像は撤去されていたが、墓を暴いて辱める倣いはいまだに息づいている。あの周恩来や鄧小平ですらそれを恐れて墓を作らず散骨した。
 そうやって歩いた南京の印象は人情も含めていがらっぽく黄色に霞んでいた。
 かつて杜牧はそんな南京の景色を七言絶句に詠んだ。
 「千里鶯啼いて緑紅に映ず/水村山郭酒旗の風/南朝四百八十寺/多少の楼台煙雨の中」と。
 支那人はそのころから黄色を瑞々(みずみず)しい緑と言い習わしてきたのだろう。

 旅には通訳の元締めを装った公安がつき、こちらの話に耳を欹(そばだ)てて「支那と言うな」「言って何が悪い」と悶着になったのを除けば旅程は滞りなく消化できた。

 北京空港で教授が無事出国手続きを終えるのを後ろから確認した。
 ほっとしたところでこちらが別室に呼ばれた。
 いやいや引っ張るなら前の中村粲か前の前の宮崎正弘だろがと言い逃れようとしたが無駄だった。周庭の気持ちがよく分かった。
 やることが一々汚い。それで振る舞いは尊大とくる。

 先日そんな一人、外相の王毅がEU諸国を回って米国に同調するなと脅した。
 ノルウェーには「香港にノーベル平和賞を出すな」と脅した。10年前、劉暁波に出したときは支那は鮭缶の輸入を断ち、ノルウェーは随分泣かされた。
 しかし今度はEUが応援した。プラハ市長は王毅を「無礼で野卑で傲慢な田舎者」と言った。

 友好より彼らの本質を研究して、今度こそ国際世論の潮流に棹さそう。

 出典:『週刊新潮』 令和2年(2020)10月1日号

    【変見自在】傲慢な田舎者

松本市 久保田 康文さん採録 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 全然関係のない話だけれど。
 「智に働けば角が立つ 情に棹させば流される~」ってのがありましたね、夏目漱石の「草枕」の冒頭。
 以前にも書いたんだけど、「情に棹差す」ってのは「情に流されぬように抗う」という意味だと思ってました。でも、全くの反対でした、本当は。
 情に同調(或いは同情)するのは仕方がないけれど、そこで敢えて流れに乗ろうとして棹を使うと、流れに乗るどころか流されてしまって、取り返しのつかないようなことになる。

 独裁国家との友好より、今やらねばならないのは世界の潮流に乗ること。
 そして、流されるのではなく、先頭切って走ることだ、と。
 

 
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「真ん中層を変えたのですよ」

2020年09月27日 | 重箱の隅
 また、
 「わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針( 5546号)」
 からです。
 櫻井よしこ氏が『週刊新潮』 2020年9月24日号に以下の文を載せられていたということです。少し長いけれど、全文転載します。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 「菅新首相に望む、安倍氏の歴史観継続」 

 櫻井よしこ

 9月11日の「言論テレビ」で安倍晋三首相と次期首相の菅義偉官房長官について語る内、安倍首相の最大の功績に話題が及んだ。政治ジャーナリストの石橋文登氏が「日本を死の淵から救ったことだ」と語った。

 2012年以降も民主党政権が続いていたら、尖閣は今頃中国に奪われている。野田佳彦首相(当時)はよくぞ半年前倒しで解散してくれた。民主党政権下で経済はどん底、国際社会ではどの国からも相手にされず、日本は沈みかけていた。解散・総選挙で安倍氏率いる自民党が大勝利し、日本は蘇ったと、石橋氏は力を込めて語った。

 安倍首相の真の功績は日本人の歴史観を正したことだと、私は思う。戦後70年談話で「子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と語り、歴史を公正に見詰めることの大切さを国民に説いた。
 反省すべきは反省するが、父母・祖父母の世代の日本人が歩んだ道も十分に認めようというものだ。歴史に正対して評価する姿勢は未来永劫謝罪し続ける偏った道を拒否するもので、歴史観の矯正こそ安倍首相の最大の功績だ。会話がそんな形で深まったとき、石橋氏が言った。

「真ん中層を変えたのですよ。右と左は元々いた。僕が新聞記者になった30年前、君が代を歌う奴は右翼だと言われた。いま、君が代を歌わない奴は左翼だって言われる。
 この部分をいじったのが安倍晋三ですよ。総理になる前から歴史教科書の問題に取り組んでいた。それが原因で左傾メディアともぶつかった。
 しかし社会の中間層は普通の国民として、君が代を歌うのが正しいのか、歌わないのが正しいのか、ようやく気付いた。歌うのは右翼だというのと、歌わないのは特定の少数派だというのは非常に大きな違い。真ん中にいた人たちの認識を変えたのが安倍晋三の最大の功績ですよ」
 そのとおりであろう。

 独立国ではない状況
 菅氏は安倍氏の路線を引き継ぐと語る。個々の政策ひとつひとつを引き継ぐという意味ではないだろう。安倍政権は選挙の度に国民の圧倒的支持を得て勝ち続けた。国民が支える安倍氏の価値観を引き継ぐという意味だろう。
 日本を本来の日本たらしめる、そのための改革を推進するということであろう。それは究極的には歴史観の問題に行き着く。

 安倍首相は誰よりも、日本は独立国だという意識を持っている。日本が独立国だなんて当然のことだと思ってはならない。
 憲法、安全保障を見ればそうではないのであるから。わが国は実質的に独立国ではない状況に浸りきり、そのことに国民も慣れきっている。石橋氏の指摘した君が代を歌うのは右翼だという感じ方がその背景にあった。日本の過去はおよそ全て間違いで、悪いことばかりだと「反省」し続けるべしという歴史観だ。

 菅氏が引き継ぐ安倍路線の一番大事な要素がこの歴史観であることは、繰り返し指摘したい。そして強調したい。歴史観の引き継ぎは理念にとどまっていては不十分だ。眼前にある具体的問題で筋を通すことだ。
 一例が韓国を貿易上のホワイト国から外して通常の国と同じ扱いにしたことに関する事案だ。この点で菅氏の一歩も譲らない構えを評価する。もうひとつ、「産業遺産情報センター」問題もある。同センターは今年3月、東京・新宿区に開設され、前内閣官房参与の加藤康子氏がセンター長を務めている。

 加藤氏は、鎖国の眠りから醒めた日本が如何にダイナミックに産業革命を進めて明治維新を成功させ、近代国家へと変身したか、先人たちの努力と叡智、その足跡を丁寧にまとめている。それはまさに心を揺さぶる感動の物語である。
 一人一人の国民の位置づけ、行政機構、法律、哲学、文学などあらゆる面で日本は猛然と学んだ。鉄鋼、造船、石炭など重工業分野でも飛躍した。日本がほぼゼロの状態から産業革命を成し遂げられたのは、優れた人々の集団が日本に存在したからだ。その中核は紛れもなく誠実で真面目で高い労働倫理を身につけていた一般国民だった。

 たとえば日本のエネルギーを賄う石炭採掘において長崎県端島の鉱山があった。軍艦島と呼ばれたこの小さな島では日本人と朝鮮人が心を合わせて働いた。三菱は当時世界最先端を行く近代的鉱山とそこで働く人々のためにこれまた近代的住宅街を造り、日本人と朝鮮人を平等に扱う社の倫理規程を実施した。
 だが韓国はこの軍艦島を「強制連行」「奴隷労働」「虐待の限りを尽くした地獄島」と貶め、ユネスコの世界文化遺産登録に大反対の大キャンペーンを展開した。

 強力な反対意見
 加藤氏は元島民70人以上に会い、一人当たり数時間から数十時間にわたって証言を聞いた。端島で働き、家族と共に島で暮らした人々の証言は、日本人のそれも朝鮮人のそれも拷問、虐待、差別、奴隷労働、強制連行、地獄島などの全てを否定するものだった。
 直接の当事者に話を聞くのは、歴史研究の第一歩だ。それを真面目に成し遂げた加藤氏がいま、激しい抗議に晒されている。情報センターに韓国メディアが押し寄せ、在京大使館からも見学者が来る。
 それ自体は結構なことだが、彼らはいずれも前述した軍艦島を貶めるような証言が展示されていないことに抗議するのだそうだ。だが、歴史の事実ではないことを展示できるはずはない。

 問題は韓国側の理不尽な動きに「朝日新聞」や「共同通信」が連動していると考えられることだ。「月刊Hanada」9月号及び10月号に詳細は譲るが、朝日の清水大輔記者と共同通信の西野秀記者が、「朝鮮人強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動」事務局長の矢野秀喜氏と共に来館したときの応答は実に興味深い。明らかなのは矢野氏らが多くの間違った情報に依拠して日本非難を繰り返している点だ。

 さて、ここからがもっと重要な部分だ。加藤氏に抗議する勢力は韓国や朝日や共同だけではないのだ。
 実は彼女が日本の産業革命の足跡を、そこで働く人々の実態も含めて調べ、資料収集していたとき、強力な反対意見が日本の官僚、とりわけ外務省や官邸中枢に陣取る幾人かの有力者たちから表明されたという点だ。

 加藤氏の資料・証言収集と情報センター開設は、安倍首相の強い後押しがあって初めて可能だった。それなしには、到底、不可能だった。
 加藤氏の手掛けるこの「産業遺産情報センター」がこれからも無事に存続できるように担保し、拡大発展して日本の歩みに光りを当て続けられるように守り、配慮することが、菅氏が安倍政治の継承という約束を果たすことだと思う。

『週刊新潮』 2020年9月24日号

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 ところで「挺対協(挺身隊問題対策協議会)」が「正義連(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯 )」に名前を変えましたね。
 「あれ?いつ変えたんだっけ?気が付いたら変わってたような気がするけど」、と思って検索してみたら、2018年7月、だそうです。
 二年ちょっと前です。「ていたいきょう」と打ち込んでみても漢字が出てこないから、一文字ずつ打ったらやっと出てきました。
 何で名前を変えたか。新しい名前を見たらその意図するところは一目瞭然なんだけど、何故今になって急に変えたのか。
 言うまでもない。「挺身隊」という言葉の意味を誤認した(誤解、或いは知ろうとしない)まま遣い続けてきたからです。そして、それこそ安倍政権になった前後から、急激にそれを指摘(嘲笑、冷笑という形で)されるようになったから。
 「年長者というものは分別があるもの、大人である筈」と考えるよう、教育がなされてきたからと言って、年長者がみんな「分別のある大人」とは限らない。
 だからこそ韓国は日本に対し、未だに「正しい歴史認識を!」と要求してくる。
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職を辞するにあたって

2020年09月26日 | 心の持ち様
 阿比留瑠比氏が書かれたものを
 「わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 5545号」
 で拝見しました。

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【阿比留瑠比の極言御免】 令和2年9月24日


7年9カ月続いた安部晋三内閣が16日に総辞職して23日でまだ1週間しかたっていないのに、政界やマスコミの話題は菅義偉首相とその内閣の一挙手一投足に集中している。当たり前のことではあるが、人心や社会の移ろいゆくさまには、いつもはっとさせられる。

 政治部の記者として、いくつもの内閣の誕生と終焉(しゅうえん)を見てきたが、それぞれ個性がにじみ、感慨深い。そこで10年ほどの歴代首相の辞任表明時を振り返ってみたい。

 今回、安倍前首相は8月28日の記者会見で「残された課題も多々あるが、同時に達成できたこと、実現できたこともある」と述べたうえで、こう強調した。
 「全ては国政選挙のたびに力強い信任を与えてくれた、背中を押して頂いた国民のおかげだ。本当にありがとうございました」
 安倍氏はこの日だけでなく、談話などで繰り返し国民への感謝を表明した。国民の側も、辞任表明後の世論調査で安倍内閣に高い支持率を与えた。心残りはあれど、幸福な幕の閉じ方だったといえる。

 一方、最後の記者会見が物議を醸すこともある。平成20年9月1日の福田康夫首相の辞任表明会見では、記者に「会見が国民には人ごとのように聞こえる」と問われた福田氏が、かちんときて言い放った。
 「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」
 短気な福田氏らしいが、「あなたとは違う」とのセリフは話題を呼んだ。

 21年9月16日の麻生太郎首相の辞任記者会見は、民主党への政権交代に伴うものだったが、麻生氏らしくそんな時でも前向きな言葉が印象的である。
 「私は日本と日本人の底力に一点の疑問も抱いたことはない。日本の未来は明るい。未来への希望を申し上げて国民へのメッセージとさせてもらいたい」
 
 麻生氏の後を襲った民主党の鳩山由紀夫首相は、会見はしなかったが22年6月の党両院議員総会で辞任を表明する演説を行った。
 「私たち政権与党のしっかりとした仕事が、必ずしも国民の心に映っていない。国民が徐々に聞く耳を持たなくなった」
 自分たちはよくやっているのに、頑固で素直でない国民側に、話を聞く気がないのが悪いと言わんばかりである。立つ鳥が跡を濁した後味の悪さが残った。

 23年8月26日の菅(かん)直人首相の辞任記者会見は、自信家のこの人らしく最後まで自慢話のように聞こえた。
 「政治家の家に生まれたわけでもなく、市民運動からスタートした私が首相と言う重責を担い、やるべきことをはやったと思えるところまでくることができた」
 「私の在任中の活動を歴史がどう評価するかは後世の人々の判断に委ねたい」
 だがむしろ、菅氏はやるべきでないことばかりをやった結果、すでに歴史の評価は定まっていると思う。

 辞任記者会見を開かない場合もある。安倍氏が総裁として率いた自民党に衆院選で惨敗し、24年12月26日に退任した野田佳彦首相は、辞任記者会見は開かなかった。民主党内からも「なぜ衆院を解散したのか」と強い突き上げを食う中で、「敗軍の将は兵を語らず」の心境だったかもしれない。

 新政権を発足させたばかりの菅(すが)首相が、政権の締めくくりの言葉を発するのはできるだけ遠い日の方がよい。首相がいう「国民のために働く内閣」であるためには、まずは長く続く内閣でなければなるまい。


(産経新聞論説委員兼政治部編集委員)

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松本市 久保田 康文 転載 
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