CubとSRと

ただの日記

右の耳から左の耳へ抜ける (最後)

2022年03月31日 | 心の持ち様
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022)3月27日(日曜日)
        通巻第7275号

樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2345回】               
 ──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習11)

  △
 王クンは先生の傍らに立って、昨日のことを包み隠さず正直に話し始めた。すると級友の間から、王クンに対する相反する意見が上がる。

「自分の利己心ではない。妹のことを思えばこそ。だから王クンは悪くない」との意見が聞かれる一方で、「違うよ。妹を説得すべきだった。みんなのものである『公共財産』を私的に取っちゃあダメだよ」と王クンを責める声も上がった。

 最後に先生が「妹のためと言いますが、やはり王クンには公共財産を守るという自覚が欠け、妹を教え諭す努力を怠りました。こういった点はよくありません」と、王クンの過ちを指摘した上で、「ですが王クンには素晴しい点があります。それは自分の間違いを正直に話し、それを認め、自分から改めようとすることです。これこそリッパな心掛けです。王クンが自分の犯した過ちを認めたことは正しくありませんか」と続け、王クンの正直さ──「革命的正義」とでも言うのだろうか──を褒め称える。

 するとみんなは口々に「そうだ、そうだ」と声を上げた。予定調和を促す先生の手法は、なにやら「歴史爺さん」の手法に似たり寄ったり。

 出来すぎ気味の他愛のない話であり、頑是無い子どもが「公共財産」に関して議論するなどと言った筋書きはウソ臭過ぎる。だが子どもを「小さな大人」に鍛え上げようとする共産党からすれば、やはり幼い心に「公共財産」という考えをシッカリと植え付け、行動にタガを嵌めておくことは必要不可欠な教育課程となるのだろう。

 ここでもハーメルンの笛が吹かれたが、「戒めの笛の音」は子どもたち(=未来の大人たち)の右の耳から入ったが記憶されることなく、そのまま左の耳から抜けてしまった。

 じつは毛沢東から現在の習近平まで、歴代政権は例外なく不正・汚職の摘発・根絶キャンペーンを強力に繰り返してきた。だが一向に成果があがりそうにない。まさにモグラ叩き状況が続くばかり。ことに経済規模が拡大するほどに不正の金額は天文学的に跳ね上がりこそすれ、不正・汚職が終息化に向かう気配は全く見られない。手を変え品を変え教え、諫め、脅し上げ、厳罰に処そうが、中央から地方末端までの幹部には一向に効き目がない。記憶に留めるわけがない。馬の耳に念仏であり馬耳東風で、糠に釘は一向に変わらない。

 ここで改めて林語堂の指摘を思い出したくもなる。
彼は1935年にニューヨークで出版した『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』(邦訳は『中国=文化と思想』 講談社学術文庫 1999年)で、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と記した。

 林語堂の指摘から考えるに、妹にせがまれクラスの仲間と育てた杏をもぎ取った王クンの行為は、たしかに「公財私用」に当たる。
だが王クンは、子どもながらも「中国語文法における最も一般的な動詞活用」である「賄賂を取る」を実践しただけだろうに。
 
やはり教育の効なく、「公共財産」なる教えは子ども心にも響かなかった。いや、より実態的に即するなら最初から「公共財産」などと言う考えが聞き入れられることはなく、「公財私用(=公の財産を私する)」という悪癖は直りそうにない。「公財私用」を否とする考えが中国社会に根付くことを期待するのは、まるで「百年河清を俟つ」に近い徒労と言うものだろう。かくして「中国語文法における最も一般的な動詞活用」は永遠に不滅のようだ。

 はたして習近平政権が掲げる「中華民族の偉大な復興」が達成された暁には、「中国語文法における最も一般的な動詞活用」は消え去るとでも・・・まさか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 共産主義社会であろうと民主主義社会であろうと「公共財産はみんなのもの」という捉え方自体に間違いはない。
 安倍公房が「赤い繭」で「公園はみんなのものであってあなた(だけ)のものではない」と書いた「社会からの疎外感」というのは、論理的には納得すべきところだけれど感情的には受け入れらない、というのが一般的な人間の心情だ。
 しかし社会はみんなで作っている(=建前、或いは論理そのもの)。だから、そこに感情を強引に割り込ませることは出来ない。『疎外感』なんて発想自体が「かまってちゃん」だということだ。

 共産主義社会も民主主義社会もそれぞれの論理(=建前)で成り立つ。
 ということは論理能力を、まだ育て切って(育ち切って)いない子供にはまるで理解なんかできないということでもある。そんな子供に対して共産主義思想教育(或いは民主主義思想教育)が可能だろうか。論理で成立する「社会」を「理解」できるだろうか。
 辛うじてできるのは「理解」ではなく「感得」くらいで、それはあの「七情」に全面的に頼るしかないのではないか。
 「王クン」の真摯な「自己批判」は「杏はみんなのものであってあなた(だけ)のものではない」という論理。
 「みんなの物はみんなのもの」、「あなたの物はあなたのもの」は感情的に並立できる(分かる)。しかし「みんなの物はあなた(だけ)のものではない」となると( )内は未だ理解できない「社会」の論理だから、王クンも級友もこの論理は「右の耳から左の耳へ抜け」ていく。

 そしてやっぱり感情のレベル(建前でなく本音)でしかない「公財私用」、目の前のことを丸く収めることで事足れりとする「(みんな)賄賂を取る」生活を繰り返すことになる。
 何しろ子供だけじゃない、大人になっても「社会とは一つの論理(建前)である」ということを理解できない大人が社会を作っているのだから。
 
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 右の耳から左の耳へ 続き

2022年03月30日 | 心の持ち様
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022) 3月25日(金曜日)
       通巻第7271号 

樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2344回】  
 ──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習10)


 同じ55年に少年児童出版社から出版された『五個杏子』(寇徳璋・呂肖君)は、内容からして、『怎樣學習歴史』の読者より数歳幼い小学校低学年を対象にしていたと思われる。

 ある夏の夕暮時、半袖の開襟シャツに半ズボンの王徳生クンが、淡い水色のワンピースに真っ白な前掛けをした妹の手を引っ張って学校に向かって息を切らせて走っている。王クンの頭は坊ちゃん刈りで妹の頭には長く延びた2本のおさげ。
2人共、こざっぱりしたソックスにスニーカー。つつましやかな家庭で、規則正しく伸び伸びと育てられている風だ。

 学校から帰り近所の友達と遊んでいた時、王クンは宿題を思い出した。そこで慌てて家に引き返し宿題をはじめようとしたが、筆箱がないことに気づいた。「しまった、学校に忘れたんだ」。兄が家を飛び出すと、そこに妹が。

学校に行くのは口実で、おやつでも買いに行くんだろうと信用しない妹は、兄についてきた。校門が閉まる前に学校に着かねばと焦る兄は妹の手を強く引く。懸命に走ったから、妹は喉が渇いた。そこに「酸っぱくて甘い杏だよ」と物売りの声が聞こえてくる。妹は「兄ちゃん、杏の菓子を買ってよ」とねだる。

 妹思いの王クンはポケットに手を突っ込むが、「しまった、おカネは鞄の中だ」。しゃがみ込んで駄々をこねる妹を、「家に帰ったら買ってやるから」となだめて一目散に学校へ。
 教室に飛び込み真っ直ぐに自分の机へ。あった、筆箱があった。筆箱を手に校庭に飛び出すと妹がいない。妹は校庭の隅の杏の木の下に佇み、「兄ちゃん、あれ取って。わたし喉が渇いちゃったの。食べたい、食べたい」と、物欲しげにせがむ。

 それは生徒全員で育てている杏の木だった。みんなのもの、つまり公共財産となる。「妹のためとはいえ、それを取ることは公財私用の罪を犯すことになる。ボクは地主や資本家のように利己主義者にはなれない」と王クンは悩むが、幸いなことに誰も見ていない。
そこで5個の杏を取って妹に渡した。やや大袈裟だが、喜ぶ妹を前に王クンの悩みは深い。

 翌日の休み時間。校庭でみんなでサッカーだ。王クンはゴールキーパー。杏の木の下に置かれたゴールを守りながら、杏の実が気になって仕方がない。友達が「おい、王クン。何かあったの。杏の木ばっかり眺めているけど」「別に・・・」

 教室の戻ると先生が、「みんなが水をやったり、害虫を駆除したりして一生懸命に育てたから、今年は豊作で240個も杏を収穫することができました。このクラスの生徒は40人ですから、1人何個になりますか」。すかさず「240÷40=6だから、1人6個」の声が上がる。先生が生徒1人に6個ずつを渡そうとすると、王クンが急に席を立った。

 (後半次回に続く)
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右の耳から左の耳へ抜ける

2022年03月29日 | 心の持ち様
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022) 3月25日(金曜日)
       通巻第7271号 


樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2344回】  
 ──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習10)


  △
 「歴史爺さん」は「だからワシは共産主義を実現させるために、誰と戦い、どういうふうに勝利を納めるのかを、これから教えてやろうじゃないか。どうじゃ、ワシはみんなのいい友達じゃろうて。みんなのようなステキな友達から、ワシは一日だって離れやしないぞ」と、まるでハーメルンの笛吹き男のように、巧みな話術で子どもを籠絡する。


 毛沢東は「真っ白な紙には、どんな絵でも描ける」と言い放ったが、まさに疑うことを知らない子どもたちの脳ミソを真っ白な紙に見立て、「歴史爺さん」は共産主義と民族主義を巧みにブレンドさせた共産党歴史観を描き続けるのであった。


 どうやら子どもには本来的に攻撃性・暴力性・残虐性が備わっていることを熟知するゆえに、「歴史爺さん」は「共産主義を実現させるために、誰と戦い、どういうふうに勝利を納めるのか」を子どもにミッチリと教え、より攻撃的で暴力的で残虐な「小さな大人」を鍛造することを狙ったのでないか。このように過激に偏向した教育に浸った世代が10年ほど後に文革に遭遇したわけだから、文革が残酷で理不尽で激烈な闘争に突き進んでいったのも当然だったかもしれない。


 (後半次回に続く)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 母親の体内から生まれ出る。外気の冷たさに驚き、身を縮める。いつまでもそうしているわけにはいかないから力を緩める。途端に冷たい外気が肺にも攻撃を加える。再びびっくりして力を入れる。吐き出される空気は初めての発声、泣き声となる。
 この辺りを「驚該」と言う言葉で表すけれど、これが感情の芽生えであることは間違いない。全ての哺乳類は体験しているのだろう。 
 しかし、この「感情の芽生え」は「人間」の場合は社会の中で分化し発展して(分化させられ発展させられて)いく。
 驚該は「不快」の感情を産み、不快の感情に外界が優しく接することで「快」の感情が生まれ、そこ(快不快)から「喜怒哀楽」の四情が分化、更に愛、悪(憎)、欲を加えた七情が生まれる。そこから先は外界次第で感情は細分化され、それぞれに発展していったり絡み合ったりしながら生長を続ける。 


 この「感情の芽生え」は「人間」の場合は社会の中で分化し発展して(分化させられ発展させられて)いくわけだから、まだ発展途上(緒に就いたばかり)の子供に
「共産主義を実現させるために、誰と戦い、どういうふうに勝利を納めるのかを、これから教えてやろう」
と行われる教育はどんなものになるか。
 共産主義が分かるわけはないから、「誰と戦い、どういうふうに勝利を納めるのか」だけを学ぶことになるのは言うまでもないだろう。
 (子供の頃に「反日思想」を学べば、思想抜きの「反日という感情」だけを学ぶのが教育の成果、とも言えるか)
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考え方を創ろうとする

2022年03月28日 | 心の持ち様
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022) 3月23日(水曜日)
       通巻第7268号 

 
樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2343回】            
 ──習近平少年の読書遍歴・・「あの世代」を育てた書籍(習9)

   (略)
 
 共産党は「共産党にとっての良い子」を創りあげようと目指したと思われる『怎樣學習歴史』では、先ず「だいたい四千年前後」を生きたと自称する「歴史爺さん」が登場し、
「『歴』とは経歴のことで、ワシの気の遠くなるような経歴を指し、『史』とは記載することを意味する。だから『歴史』とは、ワシが経験してきたすべてを記録することなんじゃよ」
と歴史の意味を説いた後、「よい子たち」に向かって「祖国の栄光の歴史」を語りだす。

「昔々のその昔、ワシが生まれて間もない頃で誰もが農業ということを知らない時代じゃったが、いまの河南省の黄河一帯に住んでいたモノたちは魚を獲り、猟をし、牛や羊を飼い苦しい生活を送っていたんじゃ」。
「誰もが労働を重ね日々智慧をつけ、やがて黄河や長江の流域から辺境まで荒地を拓いたんじゃ」。
だから
「中国は広大だが、僅かな広さの土地たりとも祖先の汗が流されていない土地はないんだヨ」
と原始共産社会の姿を説く。

 やがて人々の営々たる努力で生産が消費を上回るようになると
「奴隷主、大地主、大資本家のような労働をしない不埒なヤツラが生まれてな」、「汗を流そうとせずに、頭を使って土地や工場を力で押さえ労働の果実を奪い取ったんじゃ」。
 そこで
「陳渉、張角、王薄、黄巣、李自成などが次々に決起して、人民の血を吸うヤツラに対し必死の覚悟で立ち向かっていったんだ」
と、「人民の血を吸うヤツラ」への憎悪を駆り立てる。

 中国の広大な土地の上には
「どこにだって革命烈士の尊い血が流れている」。
この豊かな祖国に多くの外敵が侵入してきたが、
「我われの祖先は一致団結し命を盾に祖国の独立を護りぬいた」。「現代では八路軍、新四軍、中国人民解放軍、中国人民志願軍などが生まれた。彼らは祖国の優秀な子どもたちなんじゃ。中国の広大な領土は隅から隅まで祖国を護ろうとした英雄の鮮血で染められているということを考えてごらん」
と、語り口はヤケに熱い。

 「歴史爺さん」は、
「将来の人民は共産主義の生活を送る。誰がなんといおうと、これは絶対に間違いない。共産主義社会の生活というのは楽しいもんじゃよ」
と子どもたちを煽った後、共産主義社会実現のための方法を教え込む。
 かくて思想教育が始まる。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 『怎樣學習歴史』の「怎樣」は「どのようにするか」とか「仕方・方法」くらいの意味だから、『怎樣學習歴史』は『歴史をいかに学ぶか』『歴史の学び方』くらいの意味だろう。と思ってネットで見たら、「どのように~」だと説明されていた。

 ということで、まだ学校としては十分ではない中で、子供向けに「歴史」という名の爺さんが支那四千年の歴史を語って聞かせるという体裁の歴史教科書。
 事実を淡々と書き連ねるのではなく、そこから読み取れる考え方を学ぶのが国語(読本)であり、歴史。
 ということは、「語って聞かせる」という体裁は、考え方を身に付けさせる上では最良の方法と言うことになる。
 ただ、一人の人物が語って聞かせる、という形になると一つの考え方しか身に付けられないわけで。
 勿論、共産党を肯定する立場で書かれているわけだから、共産主義国家としてはその方が都合が良い。

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ジュンテンドーは いずこ~!

2022年03月27日 | 日々の暮らし
 3月12日(土)

 金曜日は夕方になって急に思いつき、SRで給油に向かう。
 洗車で月一回程度行っているガソリンスタンドは、1リットル172円になっている。
 先日「流石にもう値上げをしているだろうな」と思いながら、この辺では一番安いスタンドの前を通った。そちらはその時1リットル159円だった。
 今、SRで向かっているのは言うまでもないけどそちらの方。

 「いくら何でももう値上げをしているだろう、165円、いや167円くらいになっているかも」、と思いながら到着してみると、やっぱり上がっていた。
 162円となっている。それでも1リットルで10円違う。
 まあ、SRのタンクだ、その差が百円にもなることなんてないから、浮いたお金で缶ジュースを一本、なんてことは出来ないんだけど。

 不思議なものだ。クルマではそこまでしないのに、バイクとなると1円か2円の差で当たり前のように遠くまで給油に行ってしまう。
 昔「隣町のスーパー、キャベツの安売りしてる!」とバスで買い物に行く主婦を笑う記事を見たが、以前にも書いたけど、小さな変化、小さな旅、ショートツーリングをしてそれなりの変化を楽しむ(新鮮な驚き)のが、口にしない本当の理由だろう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その日記。↓
 2019年12月08日 | 日々の暮らし
 昔、
 「野菜が十円安いから」、「ティッシュの大安売りが」
 とか言って、わざわざ遠くのスーパーまでバスに乗って行く主婦連のことを
 「バス代分、余分に遣うし、他の物も買うから同じでは?」、「却って高くつくんだろ?」
 、と笑うような話があって、
 「確かにそうだ」
 という多数の意見を聞きながら、
 「何だかそれ、ギスギスしてるよなあ」
 と思ったことを覚えている。
 一円の金を惜しむ主婦に対して、なのか、それとも合理性ばかり追求する世間の風潮に対して、だったのか。
 先日来、カブに乗っている時、度々この話を思い出していた。
 乗っている時は考えるまでもない。答えはその時には出ている。
 けど、降りてしまうとそんなことを考えていたこと自体忘れてしまっている。
 ボケてるから?そうかもしれないけど、あまりにも当然すぎる答えが既に出ているからだ。
 いつもの答え。
 「安いから」「セールだから」というのは、ただの口実。日常に変化を求めているだけの話。
 「劇的な変化」、じゃない。ちょっとした変化。
 自分の日常が覆るのではなく、色合いがちょっと変わって見える、程度の変化。
 そのための、「出歩く口実」が欲しいだけのこと。
 
 何故「変化を求める」のか。何故「出歩きたい」のか。
 そんなの言うまでもない。ただ、それが「楽しい」から。
 主婦じゃないけど。元通勤ライダーなんだけど、買い物について。
 わざわざ余分なガソリン使って遠くの方まで行く。クルマに煽られながら。
 夏はわざわざ大汗かきながら、でも走り始めの十数秒の涼しさを追って。
 冬は寒い中、いっぱい着込んでダルマみたいになって。
 そうやって安い野菜を買いに行く。
 時には金にもならない「ああ、いい景色だな」の一言を発するためにツーリングに行く。
 主婦も、数十メートル先のいつものスーパーに行く時と同じ格好、というわけにゃいかないだろう。
 
 「十円安い野菜を買いに」、って。なかなかロマンチックじゃないか。
 なんてのはごり押しかな、やっぱり。
 
 そういうわけで、今日は野菜を買いにカブで20キロほど離れたところの道の駅に。
 ラップで包まれた直径30センチ余りの円形に広がったターサイ(搨菜)、100円の大根、先日から出回り始めた菜の花(こいつと豚肉を炒めて酒の肴に)。それに鷹の爪。
 等々、リュックに詰め込み、前のカゴには白菜やピーマンを放り込み、帰って来た。
 ヨコハマならぬ「神戸買い出し紀行」。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 給油から帰って、今度はコペンに乗り換えて行く。
 なんでそんなに両方とも?
 明日、ジュンテンドーを探しに行く。出る寸前までどちらにしようかと迷うかもしれない。そんな時のための贅沢な準備。

 で、結局見つけられないで帰ってきた。確か加古川にも一店舗ある筈だから、明日はそっちに行ってみようか。
 
 なんでそんなにジュンテンドーに拘る?台所のゴミ箱にセットするゴミ袋が、ぴったり合うのがジュンテンドーにしかないから。
 それだけの理由。
 別にぴったり合わなくたっていいんだから、「あっちのスーパーが10円安いからバスで行く」と似たようなもの。

 つまり、「ただ楽しいから」。

 



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