CubとSRと

ただの日記

明日はタイヤ交換(してもらう)

2019年02月28日 | バイク 車 ツーリング
 先日、カブのタイヤを点検した。
 前輪の山は十分にあるが、接地面の両側にタイヤを一周するひびが入っている。
 すぐにパンクする、ということはないと思うが、何しろ買ってから二十年余り、一度も換えてないんだから、劣化していないという方がおかしい(実際劣化してるからひびが入ってるわけだ)。
 パンクの確率は低いとはいえ、フロントタイヤだって同じ「タイヤ」だ。ほっときゃパンクする。そしてパンクした時はリアよりはるかに危険なことになる。
 リアタイヤの方は先日から気になっていた。スリップサインが出始めている。
 「出始めている」程度だから、「今日明日が危険」と言うほどではない。
 
 パンクの可能性というのは前輪より後輪の方が圧倒的に高いらしい。釘なんかも滅多に前輪には刺さらない(らしい)。
 大体、パンクと言うのは前輪が踏んづけた何かが弾き上がったところに、後輪が来て改めて踏んづける、というのがほとんど(らしい)。
 確かに、考えてみれば釘なんかは、本来、路上に自立しているわけじゃない。寝そべっている。
 なんで道に寝そべっている物がこんなに見事に刺さるんだろうと思っていたのだが、偶然テレビでその実験をやっていて、前輪に轢かれたものは、轢かれた瞬間、これ以上ないと思うくらい見事に思いがけない形で「立ち上がっ」た。
 悪意の塊りのようになった「それ」に、後輪が魅入られたように吸い寄せられていく。
 釘でなくとも轢かれたら弾き上がる。その時、笑ってしまうくらい立ち上がっている。
 昔、出先で用を終え、走り始めてしばらくしたら急に不安定な感じになった。
 ゾクッとして、速度を落とし、道端にバイクを止める。一体どうしたんだ、と思って車体を見る。リアタイヤがやや潰れているように見える。
 鉄板を打ち抜いて作った鎹(かすがい。「子はかすがい」という、あの「鎹」)が半分折れたのがリアタイヤに深々と刺さっている。
 何で半分だけ?と思ったけれど、何かの拍子で折れ飛んだのが路上に落ちていたんだろう、それを踏みつけてしまった。前輪で踏んだから、後輪に刺さった。
 チューブレスタイヤだったけど、釘と違って数センチ切ったような穴だったからタイヤは交換するしかない。
 まだ新しいタイヤだったし、XJR1300のタイヤはえらく高いし、どこにも文句を言えないし、で口惜しい思いをした。
 パンクする時はパンクする。XJRの時のようなパンクはどうしようもない。
 けど、そのパンクも努力で確率を減らすことはできる。
 「劣化したら交換する」「スリップサインが出たら交換する」「空気圧に気を付ける」「路肩を走らないようにする」「路面状況、段差に気を付ける」
 金はかかるけど、それを惜しんで取り返しのつかないことになるよりは良い。

 というわけで、明日は前後ともタイヤ交換をしてもらうことにした。
 今回は後ろだけでなく、前後共にミシュラン。金色のスポークホイールにミシュランを履いた、レッグシールドのない緑色のcub90。
 パッと見た目にはどうと言うこともないけれど、実は、とっても自慢。
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「運転の下手な人≠運転に向いてない人」

2019年02月27日 | バイク 車 ツーリング
 昔、有料だった道路に入ると、すぐRX-7らしいのが後ろにぴったりつけて来た。ちょっと前に脇道で流入のチャンスを待ってたやつだろう。「危ない!」と思った。こんな走り方をする車にあったのは久しぶりだ。
 追い越しをさせられるような場所ではないし、よける場所もない。小さな(百度くらいの)カーブを抜けたところで、取り敢えずは加速して引き離し、それからよけるか。
 その小さなカーブの内側、狭いゼブラゾーンにかかりながら姿勢を立て直そうとした時、RX-7は加速し、追い越しを掛けてきた。
 「えっ?」と思った。こんなところで抜くか!?
 思う間もなく今度はすぐ前を走る白い車にぴったりとつけた。前の車も危険を感じたらしく加速したが、ぴったりと食らいついたままだ。
 トンネルを抜けた分岐のところで、前の車は右に進む。左に進んで前方を遮るもののなくなったRX-7は、一気に加速して、すぐ視界から消えてしまった。
 何なんだろう、と思った。何でこの、車間距離も十分にはとれない混んだ道であんなマネをするんだろう。 先日、ネットの相談に
 「車の運転がちっとも上手にならない。家族からも『危なっかしくって同乗したくない』と言われるんだけれど」
 といった内容のものがあった。
 よくある悩みだ、同感だ、と思って回答を見て驚いた。
 「運転に向いていない人というのは、います。あなたはその一人みたいだから、運転はやめた方が良い」
 、みたいな回答がいくつも出ている。というより大半はそれだった。
 自動車学校で教えられた「運転に向いてない人」というのは、それとは違っていた。少なくとも「運転の下手な人=運転に向いていない人」、ではなかった。
 「運転に向いていない人」というのは確かにいる。けど、それは「運転がぎこちない」とか「動作が緩慢だ」とかいうのではなく、「浅慮」「お調子者」「早とちり」等、どちらかと言えば、一般に「運転が上手」なのではなく「上手に見える」「上手だと思っている」人、のことなのだ。
 歩いていて人にぶつかることがある。けど、それは運動神経が鈍いから、ということは滅多にない。
 大方は「不注意」「油断」「考え事をしていた」「他のことに気を取られていた」のであって、
 「お前は歩くのに向いてないから、歩かない方がいい」
 、なんて言ったら、言った方が「人でなし!」と非難の目で見られるのは想像に難くない。
 たかだか10キロほどの速度で移動する人間だって、そんなことが原因でぶつかることがある。
 車はハンドルやブレーキ、アクセルペダルという介在物がある上に、自分の体ではない数百キロから一トン以上の物体が時速数十キロ以上で動くわけだ。当たると間違いなく大きなダメージを受ける。少々のハンドルさばきやペダルの踏み具合の上手下手より、まずは
 「危険な運転をしないこと」
 であり、そのためには
 「適切な車間距離を保つ」
 という理性による慎重さが求められるだけだ。
 「運転がいつまでたっても下手」なのは、それなりにでも「運転できるようになりたい」という気持ちがない、だから、「練習をしない」、という実に簡単な理由からだ。
 それで(つまり、練習もしないで)「上手くなった」としたら誰だって何の問題もないわけだが、現実は全てが約束事で成り立っている社会だ。車社会だって例外ではない。練習をして、社会の約束事を身に着けるしかない。決して「向き不向き」なんぞといういい加減なことで判断するようなものではない。
 
 ということになると、「運転に向いてない人」というのは、「運転できるようになりたい」なんて思わない、「練習をしよう」とも思わない人か、先に書いた「浅慮」「お調子者」「早とちり」の「運転が上手」なのではなく「上手に見える」「上手だと思っている」人、のことなのだ。
 早い話が、あのRX-7、前を走る車にピタリとつけたわけだが、もし、その車が加速しないで、それどころか急ブレーキをかけていたとしたら、どうなっていたろう。間違いなく追突事故を起こしている。
 「煽ったって、急ブレーキなんか掛けるはずがない」
 と思うからこそ、ぴったりとつけることができたわけで、そこには「運動神経」「運転が上手い」だけではどうにもできない危険が内在している。
 他人の善意を全面的に信頼しているからこその我儘だ、と言い換えることもできよう。(「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して~」、かな?)
 バイクにしか乗ったことがなくって、どんな場合でも車にぶつかれば「必ず負ける」ということを、或る種、諦めに似た感じで身に着けているからだろうか、「下手なら乗るな。迷惑だ」という発想が、どうもピンと来ない。
 何とも傲慢で、傍若無人だ、と思う。そのくせ、そんなことを言う人は、バスやダンプを煽るか、というと、それはしない。
 何だか卑しいな、と思う。軍事力の増強に力を注ぎ、領土の拡大に励むどこかの国みたいだ。どんどん尊大になってくる。
 「謙虚」の先にある「思い遣り」というのは、卑屈な「観察」ではない。自らが努力をして力をつけ、相手を認め、余裕をもって受け入れることだ。
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「だってバカだもの」

2019年02月26日 | バイク 車 ツーリング
 大真面目に取り組む。他人が笑っていようと、そんなの関係ない。
 オープンカーだって、好きで乗ってるんだ、他人が
 「似合わない」「ダサい」「いい歳してみっともない」「二人乗りに一人で乗っている定期」「ホント、バッカじゃねえの」
 なんてからかってきたって、そんなの知ったこっちゃない。
 だってホントに「好きだから乗ってる」だけのバカなんだもの。自分で金出して乗ってるんだ、一銭の援助もしてない奴からとやかく言われるこたぁねえや。好きでやってんだ。
 その点から言えばバイクもオープンカーと同じだ。バカだから乗ってる。
 「楽」を絶対基準にするならば、バイクもオープンカーも乗りゃあしない。
 見られていることを十分に意識しているからこそ、おもねらない。自分の美意識と安全に対する考えから、服装や荷物等、自分なりの大真面目を通そうとする。
 ・・・・・・・・・・・・・・
 芝居を見に行く。貧乏人の役の人は、それが主役であっても、当然のことながらみんな粗末な、或いはボロボロの、いかにもそれらしい衣装を身にまとい、演じている。
 でも、その大方はちっとも貧乏には見えない。
 言うまでもない。それらの衣装は舞台衣装で、手垢ひとつついてないからだ。見た目だけ継ぎはぎにしていたり、とんでもなく違う色合いのあて布をしたりしている「それらしいだけのもの」でしかないからだ。
 と言うわけで、「民芸」だったか、の衣装はわざわざ農家に古着を買いに行って揃えていたのだそうだ。洗うと意味がないから、垢と汗の染み付いた野良着をそのまま使った、のだとか。リアルさを追求したのだろうか。
 まあ、舞台というもの自体が虚構(何かの断面だけを見せるという)なわけだが、リアルさというのも何だかなあ、と思いはする。
 しかし、「見て来たような嘘をつき」じゃない、「まことしやかに嘘をつく」のは芝居の一つの形。
 面白おかしい、又はサービス精神一杯の娯楽演劇は人の心を和ませ、活力を湧かせるきっかけになるが、同じように「まことしやかに嘘をつく」演劇はその嘘の世界に、いつしか心地よく騙され、すっかり入り込んでしまい、気がついた時(演劇が終わった時)、大きな感動の波に呑みこまれてしまっている。
 「心を和ませ、活力を湧かせる」のは、感情の発動、つまり感動なわけだが、この、「まことしやかに嘘を」つかれた時も感動しているわけだ。
 だから、それもやはり(生きる)活力を生んでいることになる。
 「リアルさを追求して、か、垢と汗の染み付いた野良着を~」と書いたけれど、実はそこまでして貧乏人の体裁をつくっても、舞台は虚構の世界なんだからそれは貧乏人ではない。
 というより、いくら名演技であってもそれは貧乏人には見えない。そこに貧乏人特有の惨めったらしさがないからだ。
 「ぼろは着てても心の錦」なわけだ。みんな役者だもの。
 貧乏人の役だからと言って貧乏人のみじめったらしさまで醸し出したら、(そんな名演技)客は感情移入しても、そこから感動することを拒否する。
 何がしかの、まあ、普通は数千円以上の入場料、指定席料などを払って、感動しようと思って見に来るわけだ。感情移入して感動することがあっても、活力が湧いて来ない、みじめったらしい、後味の悪さしか残らないような演劇、もう一度、足を運ぼうとはならない。
 ツーリングの話なのに、貧乏人が主人公の演劇の話なんて我ながら無茶振りが過ぎると思わないでもないが、あえて書いてみた。
 ツーリングと言えば、荷物で雰囲気が全く変わる。
 夜逃げをしたのかと思うくらいの大荷物を括り付けて走っている者もいれば、雨具と僅かな荷物で、通勤時とほとんど変わらない格好の者もいる。
 でも、これは通勤じゃないんだろうな、ということくらいはすぐ分かる。そんな人(ツーリングライダー)に限って服装が物々しい。
 大概はツーリングともなれば夏場でも長袖のジャケット(!)を着ているし、足元も、スニーカーなんてことはまずない。
 ボロボロの衣装を着ていても、役者が惨めに見えないのは、演劇に夢中だ、という純粋さが伝わって来るからだろう。
 ツーリングは役者がどうこうじゃないけれど、この不便なバイクという乗り物が好きで乗っているという純粋さは、ある。
 だから、ツーリングの時「そこまでしなくても」と乗らない人が思うような格好を、敢えてする。
 夏の、ただでさえ汗が流れるような暑さの中で、わざわざ風通しの悪いブーツを履き、日焼けをして疲れるよりは、と、これまた暑苦しい長袖ジャケットを着る。
 「世間は大袈裟だというだろうなあ」
 なんて、これっぽっちも思わないで、この格好。
 本人の思いには全く関係なく、見た目はほぼ「コスプレ」。
 そして、大荷物を大工夫して括り付ける。
 「バッカじゃなかろか」
 でも本人は真剣そのもの。大真面目にそれをやっている。そしてそれがうれしくて仕方がない。
 荷物もそうだ。使い込んで薄汚れてしまったリアバッグだっていい加減には括らない。左右一センチの狂いもないように均等に括ろうとしたりする。
 そんな、周囲の人から見れば、ほとんど思い込みでしかないような服装、荷物。
 それが少しも芝居がかっては、見えない。
 薄汚れているだろうに、疲れて背中が丸くなっているだろうに、倦怠の風はない。逆に何だか余裕のような、充足感みたいなものさえ見える。

 あてのないツーリングというものもあるけれど、ほとんどのバイク乗りは目的地を設定して、準備をし、出発する。目標を決めて前進する。
 その時の顔つき。
 心を如実にあらわす荷物の積み方。
 車では、こうは行かないでしょ?

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不便を買う

2019年02月25日 | バイク 車 ツーリング
 五年ほど前、入院した時、
 「新しいことを始めたら?車に乗るのもいいかも」
 と、SNSで提案をいただきながら、一年間、ほったらかしにしていた。
 勿論、主因はこれ→。「金がないから」、だ。
 それが或る時の事。
 父に付き添って大きな病院に行った。
 思った以上に時間がかかり、その日の受診者の最後になってしまった父が、診察を終えて病院を出たのは午後五時をだいぶ回っていた。
 駅に着くと列車がない。特急なら六時過ぎにある。懐は厳しいけれど、それに乗るしかない。
 ローカル線も真っ青の本線だから、それを外したら家に帰れなくなってしまう。
 ところがここで新たな問題。帰ったとしてもタクシーがない。その時間にはタクシーの営業所は既に営業所を閉めている。流石に90歳にもなると健脚だった父も駅から歩いて帰ることは厳しい。
 この時は途中の駅で降りて、駄目でもともと、で駅前のタクシー会社に行ったら、何時でも電話してください、と言ってくれて家まで頼むことができた。しかし、「もはやこれまで」、と思った。
 「免許だけは持ってるんだから、中古車を買って乗るか」
 
 車の免許は二十年近く前に取った。ただし、教習所を出てからは車のハンドルに触れたことは一度もない。
 この先は既に日記に書いているので、繰り返さないけれど、気が付いたら三年半。
 中古車のスズキツインでそこら中を走り回った。
 と言っても、家を空けることはできないから、神戸までの往復が最長だけれど。それでも片道四百数十キロ。
 四、五回は繰り返しただろうか。
 段々慣れてきて、でもそれと並行するように「手元不如意」は重なってきて、持っていたバイクは一台、また一台、と手放さざるを得なくなってきた。
 XJR1300、BMW1100RS。同じくR80。結局残ったのは通勤バイクのSR400。そしてcub90dx 。
 これはもう手放すわけにはいかない。手放したって、家計の役に立つまでのものにはなりそうにもない。
 さて、面白がってツインに乗っていたのだけれど、何か変だ。
 とにかくおもちゃみたいなツインが珍しいのだろう、通りがかった女子中高生が「きゃ~!かわい~い!」、なんて言ってくれると、還暦過ぎたじいさんだって、悪い気はしない。
 反対に「なに!?あれ~ぇ!?」と言う声が聞こえてきても、腹立ち半分、可笑しさ半分で聞き流せる。
 「おもちゃだ」「ちょろQだ」「ぜんまい仕掛けだ」などと自虐ネタにもなる。
 従姉から「野菜をあげようと思っても、大根三本しか入らんねぇ~」、なんて言われたって、「そんなことはない。五本は入る」と返すことも楽しみだった。
 けど、何かが変だ。乗っていて楽だし、楽しいんだけれど、30分も経つと飽きてくる。段々慣れるにつれて時間も伸びていったけれど、一時間も乗っていればやはり飽きてきた自分が居る。
 何故なんだろう。
 で、やっと気が付いたのは、「屋根があるから」、ということだった。便利だから、だった。
 何しろ、雨具が要らない。しかし、この便利のせいで、風に表情がなくなる。
 気が付いたらグローブと長袖シャツの間だけ、薄黒く日焼けをしていた、なんてことは、金輪際起こらない。
ヘルメットのシールドを叩きつける雨のせいで、夕方から夜の走行は恐怖そのもの、なんてこともない。
 便利の御蔭で、快適さのおかげで、それらを「辛い」と思う以上に、走っていて「楽しい」と感じる気持ちが埋もれてしまい、薄れてしまって、一時間ほどでそういうことを、全く何とも思わない無感動な自分になっている。だから楽しくないんじゃないか。
 必要に迫られて買った車だけれど、また、必要をはるかに超える便利さを与えてくれたけれど、その「便利」さと引き換えた「不便さ」には、辛さと一緒に「楽しさ」もあったのだろう。
 「オープンカーに乗ろう」
 新車が来て三週間。間違いなく不便さを買ったものだ、と思う。
 屋根がないと日焼けをする。帽子が飛ばされそうになる。荷物が積めない。
 だから昔、バイクに乗り始めた頃ほどではないけれど、還暦過ぎた爺さんは今、にやにやしながら車に乗っている。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ↑4年前に書いた日記を転載しました

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「風を切る」ということ

2019年02月24日 | バイク 車 ツーリング
 バイクに関しての文章で能く見られる「風を切る」という表現について、以前に書いた日記です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 「風を切る」。「風を切って走る」。
 こう言えば、何だか猛スピードで走っているみたいですが、そういうことばかりじゃないんです。
 先日、スズカ8耐での、チーム紳助の奮闘振りをやっていましたが、以前に島田紳助が連続して出場していた時、「風になる」という言葉が流行していました。「バイクに乗って風になる」。
 残念ながら、私は「風になる」ような速さでは走れません。
 そして「ツーリング」では、そんな速さでは走らないのが普通です。
 やはり、「風になる」のではなく、「風を切る」。
 それなりに荷物を積んでいるので、普通にバンクさせる(バイクを大きく傾けて走る)こともままならない。これまた私のように大きくバンクさせられない者は問題ないんですが、「普段はバリバリの走り屋」だったら、これはストレスでしょう。
 けれど、ここで「風を切る」が出て来ます。
 例えばスポーツカーなら、直線であろうがカーブであろうが、風の切り方は基本的に同じです。
 けれど、バイクは傾けてコーナーを抜ける。
 「同じ風」のようでも、頭の位置が上下数センチ違うと、また、真っ直ぐに向かうのと、身体が傾いた状態で風に向かうのとでは、明らかに感触が違うんです。
 「風を切る」と一言で言っても、その「風の違い」を常に身体で感じていられる。
 延々と続けられるキャッチボールが、見ている方には何とも退屈なものであっても、やっている者にとっては
 「毎回受けるボールの感触が違う。だから飽きない」
 でしょう?あれと似た感じじゃないかと思います。
 バンクさせてコーナーを抜ける時に感じる風。あきることのないキャッチボールと同じく、その都度、違う風を切りながら(風にあたりながら)進む。
 全力ではないけれど、一瞬たりとも気は緩められない。
・好きで大荷物括り付けて、出来る限りの準備をして、いつも修学旅行の前日の気持ちでいる。
・常にその千変万化する風を感じて走る。風の中にいて、自分から風の中に飛び込んで行く。風と共に視界が開け、めまぐるしく変わる世界は車のフロントガラス越しに見るのとは全然違う。
 風は常に現実を感じさせているのに、その風さえもが非現実的な世界の中に自分を連れて行ってくれる。
 だから、停まった時には、本当に現実の世界なんだ、と感じるのだけれど、風が止んだことで現実か非現実か分からなくなってしまう。
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