CubとSRと

ただの日記

もう大丈夫かな?

2019年06月30日 | バイク 車 ツーリング
 二ヶ月余り前。
 カブのエンジンが暖まってくると、ニュートラル時のアイドリングが狂奔し始める。そして一速に入れた瞬間、カブが飛び出そうとする。
 90ccとは言え、それなりにガクン!と来るから危なくてニュートラルにできない。
 何度かアクセルを煽ると収まるんだけど、収まらないこともある。
 そういう時は「ガクン」と来ることを覚悟するしかない。
 何とかしなけりゃと思って、「一度見て欲しい」とバイク店に言ってはいたが、なかなかエンジンが暖まった状態で店の前を通る機会がない。
 けれど、やっとのことで条件が揃い、店の前でカブを停める。
 店長、長いドライバーを持って来て、アイドリング調整ネジをちょっと触った後、今度は「そんな窮屈な角度で?」と思うような所についているネジを弄り出した。すぐにアイドリングの調子が安定した。
 「アイドリングスクリューとエアスクリューの二つのネジをバランスよく締める(或いは緩める)こと」
 、というのを、三十年以上バイクに乗っていて初めて知り、
 「これは自分でやらねば」
 と思った。
 大方のバイクは、アイドリングは道具なしでできるようになっている。
 が、カブはマイナスドライバーが必要になる。
 更にエアスクリューの方は、というと普段は弄らないものだから、というか弄らない方が良いから、妙な角度のところに、それも普通のドライバーではできないような奥の方に付いている。
 新しい形になるとネジの頭まで妙な形にしてある。言ってみれば素人が触ることを拒否しているネジ。
 何だか岡本太郎の「座ることを拒否する椅子」、みたいだけど。
 (その割に決心して座ったら意外と座り心地が良いそうで。岡本太郎もそれを狙ってのネーミングだったとか。そんなところも妙に似ている)
 だから、これ以降「思いついたら気軽にできるアイドリング調整」だけ、は、結構やっていた。

 一か月前。
 買い物に行くため、カブを引き出した。
 湿度が高かったせいだろう、何だか調子がおかしい。
 それなら、とエアスクリューを少し弄った。
 エンジンが掛からない。また弄って掛けようとする。
 掛かりそうな音がするのにかからない。
 こうなりゃ意地だ。
 段々掛かりそうな雰囲気の音すらしなくなった。
 薄暗くなって遂に諦め、当然買い物に行くことも諦めた。
 翌日の雨を挟んで、再度弄り始める。
 今度は呆気なく掛かった。

 以降、カブで出るときはその都度、長いドライバーを持って出た。
 気がつけばそれからもう一ヶ月。
 もう持って行かなくてもいいかな、と思い始めて数日。
 でも天災は忘れた頃にやって来る。
 用心に越したことは無い・・・・だろうか。
 それとも杞憂となるか。
 まあ、一点を見詰めていれば、必ず他で不都合が生じるものだから。
 大本である、乗る奴の体調を整えることの方が大事だろう。



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うれしい!

2019年06月29日 | 日々の暮らし
 台風一過。
 「やっぱり何があるか分からないし、それなりの覚悟を」
 ・・・と思っているうちに過ぎて行った。
 今回は特に問題はなかった。雨樋が吹っ飛んだり、棟瓦が一枚脱落しそうになっていたり、なんてことは今回はなかった。
 で、もしかしたら、まだ降るかもという予報を横目に三宮までパンを買いに。
 「もしかしたら」が心配で急いで帰るが、段々安心そうな空模様になっていく。
 次は健康保険の支払い。それから胡椒を買って、オイルサーディンの瓶詰(ラトビア リガ製。こいつが美味い。くせになる)を買って。
 来月分の生活費を年金から引き出したので、金持ちになった気分で、つい贅沢をしてしまう。
 贅沢とは関係なく、小説の「スーパーカブ5」が7月1日発売とのことだったので、物は試し、と書店に行ってみた。
 まだ早いけど、数日前に刊行されるのが最近多いから。
 一冊だけ、あった。
 何だかそれだけでうれしくなる。
 六十代半ばの爺さんが、女子高生が主人公のライトノベルを嬉々として読んでるんだから、世も末、だな。
 いいや、そんなことはない。「からかい上手の高木さん」まで買って読んでいるんだから、ライトノベル買ったって、どうってことはないよ。




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避諱(ひき)

2019年06月28日 | 重箱の隅
 我々からすれば、単なるウソ。もしくは大嘘。時には大法螺、なんて言ったりすることが、シナ人にとってはもはやDNAとなっている、「避諱」という名の徳目。
 
 日本人なら
 「それは徳は徳でも、『悪徳』ってやつじゃないか!」
 としかならない。
 でも、彼らにとっては紛うことない「徳」。「徳」の中でもおそらくは最高の。
 孔子が推奨してるんだもの。
 あの話、みんな学校で習ったでしょう?
 以前に書いた日記から、一部、転載します。
 ~~~~
 あの「論語」に出てくる正直者の話です。
 「親が盗みをしたのを子が正直に届け出た。それを聞いた孔子が、『正直とは父が子を庇い、子が父を庇う事を言う』と言った」
 一度は聞かれた話ではありませんか?
 これが元になった徳目が、「避諱」なんだそうです。
 そうやって「(事実を)隠す」ことで守るのだから、「嘘」は「悪行」どころか「善行」ということになる。
 何だかとんでもない話ですね。
 でも、ここで気が付いたんですが、この、「避諱」という考え方、自身のためには使わないんですね。飽く迄も、他のために、それも、敬する者のためにウソを吐く。結果、自身がどうなるか、なんて考えない。
 「国のため(国益のため)にウソを吐く。会社のために、上司のために嘘をつく。その際、自らのことは省みない」
 大中華がこれだったら、小中華は形式だけは徹底させるから、例えば「嘘のために命を捨てる」こともする。
 大中華としては「お前、それはやり過ぎだよ」という事になるんだけれど、小中華には、それが苦言ではなく褒め言葉にしか聞こえない。
 ~~~~
 (自分の思う)大義のために嘘をつく。
 ただ、日本ではその後「嘘を吐いたのだから」と責任を取って腹を切る。
 大小の中華の国では「正義を行うための便法なんだから、徹底的に突き通すことこそ正しい。自殺するなんて以ての外」
 孔子の教えに由来するんだけれど、日本と彼の国々とは全く反対の考え方だから、当然結論も正反対。
 それでは転載。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 「日本人と中国人では『嘘』も桁違いに違う」
 宮脇
 中国人はとても頭が良くて政治が上手でお互いに抗争して、本当に一生かけて生き残るために謀略する人たちだけれども、それに頭を使いすぎて、国としても民族としてもぜんぜん成功の人生じゃない。
 宮崎
 要するに、嘘つきは肝心なことが見えないでしょう。
 本来嘘っていうのは、頭のいい人しかつけない。記憶力が抜群でないと自分がどういう嘘を言ったかわからなくなって辻褄が合わなくなる。
 それを中国人は生まれてから死ぬまで、起きてから寝るまでずっと嘘をついている。そうだとすると頭がいいんですよ。
 宮脇
 でも、彼らは整合性を気にしないから辻褄が合わなくたって平気なんです。
 結局その場しのぎにすぎなくて嘘に嘘を重ねる。
 宮崎
 日本人は「あの人は嘘つき」と言われたら人格が劣るような、そういう恥の意識があるけれども、中国人には羞恥心がない。ロシア人にはそれがある。
 宮脇
 だいたい永遠の嘘は無理ですからね。
 
 宮崎
 嘘がばれても「じゃあ、その話はおいといて」って次へ行くんだ(笑)。
 宮脇
 日本人は、嘘をつくとまた真面目に辻褄を合わせようとして、新しくどんどん嘘をついて、ついに止められなくなって破綻する。
 宮崎
 アメリカ人だって嘘をつくんだけど、彼らは自分の弱みをみせないために、自己を守るためにそうする。
 たとえば風邪をひいてても「私は病気で寝る、休む」とは言わないでしょう。
 必ず”I,m fine.(なんともない)”って言うんですよ。要するに競争に乗り遅れたら困るという意識から生じる嘘ですが、中国人の場合は日常がもう嘘で塗り固められているから、どれが本当でどれが嘘かという区別さえつかない。
 だから粉ミルクに石灰入れたり、肉まんに段ボール入れたりってことが平気でできるんですよ。
 あれも日ごろの嘘の延長で、日常のパターンに出るんだよね。仕方がない。(笑)
 宮脇
 自分がたべなきゃいいと思っているわけです。よその人のことは知らないっていう。
 全員がそうだから他人を信用しない。誰も信用できないから、さっき言ったように全部自分で考えないといけない。
 全部自分で考えて決断しないといけない人生だから、日本人より一見頭がよさそうに見えるわけですよ。嘘を吐く瞬間は、やっぱり頭を使ってます。
 日本人はとにかくポヤーっとした人がいっぱいいるから。
 けれども全員が誰も信用しないと、ものすごく効率の悪い社会になるわけです。
 
 ~「虚構国家中国の真実」(宮崎正弘 宮脇淳子)より~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 親を守るためにつく嘘が、儒学の「儒」学たる所以である「忠恕」に拡大されると、当然、師匠とか、恩人は言うまでもなく、目上の人、会社の上司までも嘘によって守らなければならなくなる。百万歩譲ったとしても、ここまでならわかる。
 けど、己のための嘘だってひいては「人のため」「国のため」とこじつけたら?
 そうなると言うまでもない、「何でもかんでも嘘だらけ」になってしまう。
 「水は低きに流れ、人は易きに流れる」
 日本ではこの「己のための嘘」を「言い訳」「弁解」として受け入れないけど。
 でも、考えさせられますよね。
 頭が良くて謀略の限りを尽くして生き残るのと、ポヤーっとしてるけど互いに信用し合っていて目標を達成していくのと。
 どっちがいいかは決められないけど、「どっちが周囲に迷惑か」ならすぐ分かる。
 尤も、「有難迷惑」なんて言葉もあるから。

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降り込められている

2019年06月27日 | 重箱の隅
 昨日、「中国・四国・近畿が、ここ数十年で最も遅い梅雨入り」と発表された。
 (とは言っても、一日だけらしいけど)
 で、今日は思いっきり降り込められている。
 今年第一号の台風が発生するかも、というおまけつきだったが、まだ台風にはなってないらしい。 
 「台風になりました!」と発表されたからって、突然強大になるわけじゃない。
 現在、梅雨前線が刺激されて雨風共に強くなって、どうも日付が変わるころまで暴れまわる雰囲気。
 
 というわけで、閉じ込められている。
 勿論、日記を書こうなんて気にはならない。
 でも、「毎日、日記を挙げる」と口にした以上、やらなきゃ沽券に関わる(?)。
 まあ、ここ十日ほどは転載ばっかりだったから、いい加減なもんだけど。

 でも、今日は特に、特別やる気が起きない。だから本の転載ではなく、同じ宮崎氏のメルマガから氏の書評を転載するだけにしよう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 令和元年(2019)6月13日(木曜日)
       通巻第6108号 より
 「中華民族の偉大なる復興」は、内外に不協和音をもたらした
 中華文明・文化には、魅力あるソフトパワーが皆無だ
  ♪
 黄文雄『中国韓国はなぜ息するように嘘をつくのか』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
 なにしろ羞恥心ということを知らないのが中国人(附録が小中華の朝鮮人)。
 恥という概念があるかもしれないが彼らにはとても理解できない。
 だから恥じることなく偽り、偉そうに約束を破るのは常習、日本人からみれば異常だが、かれらからみれば嘘つきでないと生きていけない社会であり、騙されたほうが莫迦という体質の染みこんだ人々の集まりだから、むしろ日本人のような潔癖、清潔、誠実などという価値観はどこにもない。
 アーサー・スミスは中国で伝導した体験から中国人の特性は不誠実、知性混沌、言辞婉曲、面従腹背など二十六項目を挙げた『中国人的性格』(1890年)をあらわし、そのなかで、こう述べた。
 「経験し、観察した限りにおいては、中国にはどこにも誠実さは探しあてられなかった」(石井宗浩、岩崎菜子訳、中央公論新社)。
 マックス・ウェーバーは「中国人は世界で随一の不誠実な民族だ」(『儒教と道教』、木全徳雄訳、創文社)と書き残した。
 習近平の掲げる「中華民族の偉大なる復興」というのは、内外に不協和音をもたらしているが、このあたり、とくに黄文雄節が光る。
 「中国の夢は人類の夢などではなく、しかも人類の歩みに逆行している」。
 「人類共有の『普遍的価値』とは激しく対立する」ものであり、いったい中華の何を復興するのか曖昧である。(238p)
 というより、中華復興は必ず悲劇をともなう。なぜなら「中華文明・文化には、魅力あるソフトパワーが皆無だからである」とずばり言い切っている。
 そのうえ、続きがあるのだ。
 「中華民族の偉大なる復興とは、未来よりもすでに過去の世界に存在したものを求めるものである。儒教や共産主義の理想もおなじく『過去』の『復興』『復活』しかない。これは想像力の貧困や限界を如実に物語るものであり、『夢』というよりも、『昔への回帰』である」(245p)
 こんな国を相手にする日本はどうすればよいか、諄々と説かれる。

 ・・・・・・・・・・・
 「シナ人のウソ」について、これまでに教えられたことを何度か日記書いてきた。
  (『嘘』は、「避諱」という徳行の実践のために身に着けていなければならない「能力」)
 が、もう一度見直してみたい。
 、ということで、次回もあの本を転載予定。


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毛沢東と共犯、日本の東洋史

2019年06月26日 | 重箱の隅
 宮脇
 だから共産党は真似したというか、太平天国をすごく持ち上げたわけです。
 でも日本の東洋史はその話をそのまま、毛沢東が政治的に改竄したとおりの中国近代史を書いて教科書にしてるんです。
 宮崎
 あのころ岩波書店から出ていた本は、すべて毛沢東を持ち上げていました。
 エドガー・スノー(北京大学に墓がある)やアグネス・スメドレー(のちにコミンテルン工作員と判明)などみな「一流」のジャーナリストとして扱われたじゃない。
 宮脇
 歴史学者の佐藤公彦氏が書いた『中国の反外国主義とナショナリズム』(2015年、集広舎)によると、戦後日本の中国史のアカデミック世界では、左翼知識人が論壇を壟断したために、「階級史観」「プロレタリアート独裁史観」でまったく的外れな解釈を展開してきたと指摘しています。
 つまり、日本の中国史は出鱈目な後知恵改竄であるという。
 したがって、左翼教条主義が去ったいまも、日本の現代中国史家の頭のなかは中国を善とする勧善懲悪的な二元論が支配していて、
 「歴史を道徳とか倫理でその正統性を弁証し、評価裁断しようとする癖は『史記』以来の歴史意識だからである」
 と佐藤氏は書いていますが、日本の東洋史学者も同様なのでしょう。
 宮崎  
 つまり、左翼の間では神様だったスターリンが死んだときに、なぜか日本の株式市場がスターリン暴落になる。
 同じパターンで、マッカーサーが去るときには「マッカーサー出ていかないで」って、日本人が提灯行列までやらかしてしまった(笑)。あれと同じだ。
 ~「虚構国家中国の真実」(宮崎正弘 宮脇淳子)より~

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  【戦後日本の中国史のアカデミック世界では、左翼知識人が論壇を壟断したために、「階級史観」「プロレタリアート独裁史観」でまったく的外れな解釈を展開してきた】
 これ、冒頭の「戦後日本の中国史」の部分は色々に置き換えができそうです。
 「国史」から「日本史」。いきなり「日本史」は抵抗が強そうだから「日本『の』歴史」とされたけど、ここだって【左翼知識人が論壇を壟断したために、「階級史観」「プロレタリアート独裁史観」でまったく的外れな解釈を展開してきた】
 結果、人物の顔の見えない歴史の展開が為されたわけだが、それは間違いなく「階級史観」「プロレタリアート独裁史観」で行われた。
 今でも思い出す。反戦フォークの旗手、高石ともやは
 「橋を作ったのはこの俺だ 道路を作ったのもこの俺だ
 強いこの腕とこの体で この国を作ったのは俺達だ」
 と歌った。
 今、調べてみたら、もともとはアメリカの歌だそうだが、彼が歌った時点で、歌われた場所で、この歌は階級史観、プロレタリアート独裁史観に染まる。


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