CubとSRと

ただの日記

怒涛の一週間

2020年11月30日 | 日々の暮らし
 ・・・・なんちゃって。
 世間ではなんてこともないだろう一週間なんだけど。
 それも実質は一週間じゃなくて、月曜から木曜の午前中まで。
 他人と言葉を交わさずに済む毎日を過ごしていると、もしかしたら一言二言でも言葉を交わす可能性のある場に身を置かなければならない、ってのは結構重荷、いや違うな、気がかりなものだ。
 何よりも、その時まで何となく落ち着かない時間を過ごすことになる。その時間が「重荷」、だ。

 で、「怒涛の一週間」って何だ、というと・・・。
 月曜日 ゴミ当番。午後、義兄宅訪問。
 火曜日 腎臓病予防の講習会。コロナウィルス感染症についての付録付き。
 水曜日 歯の治療。午前中。
 木曜日 再びゴミ当番。
 以上。

 「これのどこが怒涛の一週間なんだ?」と笑われそうだが、繰り返す。
 他人と言葉を交わさずに済む毎日を過ごしていると、もしかしたら一言二言でも言葉を交わす可能性のある場に身を置かなければならない、ってのは結構重荷、いや違うな、気がかりなものだ。
 何よりも、その時まで何となく落ち着かない時間を過ごすことになる。その時間が「重荷」、だ。
 一日おきならまだしも、連日となると、ストレスになる。三歩歩くと忘れるというカラス(鶏だったかな?)の頭みたいなのが本当は生きていく上では理想的なのかもしれない。

 だから、用がなければ引き籠る。
 「それがいけない」、と世間は言うけど、用がなくとも出歩いていると、その世間から後ろ指を指される。
 「それが嫌だ」と引き籠る。
 そして、引き籠りからの孤独死となる。・・・ってNHKスペシャルでやっていた。
 たまには「怒涛の一週間」があった方がいい、のかな?
 
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はるかに及ばぬ 一(一人の)日本人

2020年11月29日 | 心の持ち様
 2014.07/30 (Wed)
 
 日本のことを、まるで外国人が言うように「この国」という。
 この表現の仕方自体はいつ頃からあったのかは知らないが、世間に広がったのには、司馬遼太郎の発言が大きく係わっていると思って間違いないだろう。
 温度、体温?親密度、だろうか、「我が国」と言わず、敢えて「この国」ということによって、何だか距離を取っているように見える。
 こういうことによって冷静・客観的に見ているような感じだけれど、見下す、とまではいかずとも、あまり温かみは感じない。

 政治家に必要なのは冷たい血だ、と言うけれど、小説家に必要なものであるとは言えまい。
 政治家は理想の社会をつくるために働くのだが、芸術家は理想の社会を描くために働くのだ。
 しかし、理を現実のものとするためには冷たい血が必要ながら、その基となる絵を描くには熱い血が必要だ。
 そうなると、やはり政治家も、「この国」ではなく「我が国」、だろう。

 ここ数年耳障りになって来ている政治家の「この国」、という表現が、違和感なく聞けるのは、平沼赳夫議員くらいのものだろうか。
 あとは上滑りにしか見えない。言葉の「馬子にも衣装」だ。

 ついでながら、司馬遼太郎の名前は当然本名ではない。
 元々が兵庫県の三木の出身で「三木」と言うらしい。
 三木城の合戦で鳥取のカツ江さんと同じく秀吉の兵糧攻めに遭い大阪に逃げ延びた敗残者の子孫なのだそうだ。
 これまた当然みたいなことなのだが、三木は別所氏で、だから三木に「三木」さんはいない。
 だから司馬もずっとそう思い込んでいたけれど、余りにも迂闊だったと、恥ずかしがっている。(戸籍上は福田、らしい)

 「司馬遼太郎」の「司馬」は「司馬遷」の司馬。「遼」は「遼(はる)か」、「太郎」は日本人の一般的な名前。
 「司馬遷」に「遼」かに及ばぬ「一日本人」と言う意味なのだという。
 勿論、司馬の謙遜だろう。その謙虚さで歴史を見たいということなのだろう、とは思う。
 しかし、それに重ねて「この国」という言葉を多用されると、氏の歴史の見方は日本人でありながら、日本を数十センチ乃至は数十メートル上から見下しているような温かみのないものかもしれない、と思ってしまう。


 今回西村眞悟氏は日記でこんなことを書かれている。
  ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                   (略) 
 
 番組の冒頭、あの司馬さんが語った。
「終戦の日、なんという馬鹿なことをしたのだろうかと思った」
 この「衝撃」が、
 小説家司馬遼太郎の「原点」であると彼は語り、NHKの番組も、この「原点」に基づいて流れていった。

 大東亜戦争ーなんという馬鹿なことーをしたのだろうか、というのが司馬遼太郎の小説の「原点」ならば、彼は、我々が現在、そこから脱却しなければ我が国家の存続を確保できないと思い定めている「戦後という時代」の代表的作家である。即ち、「国民的作家」だ。

 学生寮に住んでいた二十歳代の頃、司馬遼太郎の「龍馬が行く」や「坂の上の雲」また「国盗り物語」などをよく読んだ。
 三十歳代の後半に入った頃、馴染みになったキタ(大阪の繁華街)のスナックのカウンターに座っていると、顔見知りの初老の紳士が、司馬遼太郎の、言うてること、だんだん鼻についてきたなあ」と言った。
 その人は、司馬遼太郎と同じ世代の方だった。私は、世代は違うが、「鼻についてきた」というその方の表現が実に適切だと思った。
 司馬さんと同じ世代は、陸軍士官学校でいえば、五十六、五十七および五十八期であろう。
 私の知っている陸士のこの期の人々は、岳父も含めて戦争のことは語らなかった。そして、司馬さんもNHKの番組で、戦争のことは語らなかったと言われていた。
 しかし、司馬さんは、実に、実に、よく語ったではないか。
 何しろ、「なんと馬鹿なことをした」=「敗戦の衝撃」が、小説家司馬さんの「原点」なんだから、必然的に彼の小説は、如何に「馬鹿なことをした」かを、繰り返し繰り返し、バッハの曲のように奏でることになる。
 それは、つまり、司馬さんと同世代の従軍兵士や戦死者が「馬鹿なことをしたなかで死んでいった」と繰り返すことに他ならない。
 スナックのカウンターで、司馬さんの同世代から、「鼻についてきた」と聞いたときから、自然に司馬さんの講演や評論に触れなくなった。そのうちに、我らはこの「国民的作家」を失った。

 とはいえ、司馬遼太郎は、私の二十歳代によく読んだ懐かしい小説家である。
 特に、三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した翌日の毎日新聞朝刊に掲載されていた司馬遼太郎の評論の鋭さには舌を巻いた。抜群の力量であった。
 それで、NHKの放送があった翌日、本棚に司馬さんの随筆「ある運命について」があったので取り出して少し読んだ。
 冒頭の広瀬武夫を描いた司馬遼太郎独特の表現が「鼻につく」という表現を思い返させてくれて懐かしかった。
「広瀬は単に存在したのではなく、濃厚に江戸期を背負っていた・・・それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸留されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であると思うと、彼の精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生されることはない。」
 
 次に、「旅順と日本の近代の愚かさ」という表題の随想。
「日露戦争における旅順要塞の攻撃というのは、日本が西洋の思想と、知識でもってではなく肉体でもって激突した最初の体験といっていい。」というこれまた独特の表現で始まる。
 そして、続く。
「軍人というものが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんなばかな戦争指導をしたのか、いま考えても薄気味悪いほどの無能さというほかない。」
 これ以降は、読むのを止めた。読まなくとも分かる。

 なお、戦車隊の士官となった司馬遼太郎さんは、陸軍戦車学校に学んだ。その時の教官は、池田末男大佐だった。
 池田大佐は、司馬さんが「なんと馬鹿なことをした」と慨嘆した終戦時、千島最北端の占守島にいた。そして、池田大佐と彼が率いる六十四両の戦車を擁する戦車第十一聯隊には、司馬さんのように「慨嘆」に浸る暇はなかった。翌々日の八月十七日、ソビエト軍が約一万の兵力で占守島に武力侵攻してきたからである。
 池田末男大佐は、聯隊を率いて勇戦奮闘して戦死する。
 龍馬を描き、日露戦争における秋山好古を描いた作家である司馬遼太郎は、何故、終戦後に北の果ての孤島で敢闘した勇者、戦車学校の教官であり戦車第十一聯隊長池田末男大佐を描かなかったのか。
 これを司馬さんに聞いてみたい。

 これから、司馬遼太郎さんに関しては、「台湾紀行」をはじめとする「街道をゆく」シリーズだけを読み返してみようと思う。

                  (以下略)

        「ここ数日に感じ、また語ったこと」
                    
                  ~眞悟の時事通信より~

 http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page...

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここからは私の日記の再掲です。
     ↓
 大阪外語大蒙古語学科を出た三木青年は、「史記」を書いた司馬遷に、「遼(はるか)に及ばぬ日本の男子(太郎)」、という意味から、司馬遼太郎と名告って、小説を書く。「日本は、どこから、道を間違えたのか」、と。

 そして、日清戦争の時は、洋々たる希望を胸に生きていたけれど、日露戦争の辺りから、怪しくなったのではないか、と思い始める。

 軍神と讃えられた乃木将軍に、凡庸の将という評価を定着させたのは司馬遼太郎の力、と言っても良いかもしれない。

 かれは、いつも、人間の目より高いところから、人を見る。数十メートル高いところから、人の展開する歴史を見る。
 「我が国のかたち」ではなく、「この国のかたち」を見る。「この国のかたち」として、日本の過去、現在、未来を、そして、人間の関わり合いを掴もうとする。
 「岡目八目」、だ。確かに見える。だが、切実さは、ない。離れている分、体温の温もりが伝わらず、分かりにくい。
 「悲惨な戦争」を見て、感情的に反戦主義者になった風ではない。

 けれど、日本から一歩離れて(少しの高みから)見ることが、歴史を掴むことを可能にはしたものの、「さて、それでは、これからどうする」といった「熱情」は、生まれるべくもない。

 
 「この国」という言い方は、そういうことなのだ。冷静に、客観的に見ている雰囲気がある。
 「自国に対して劣等感を抱いてきた」、或いは「他国に対して申しわけないことを先祖がやって来た」、という意識を抱いてきた者は、無意識のうちに自国を客観視することをよしとする。「思い遣っている」わけだ。
 ただし、深層の話だ。当人は気がついてない。

 今、急激に「この国」、という評論家的姿勢の人が増えている。
 幾多の売国法案に危機を感じるのは、底流に「この国」と見る人の増大があるからだ。

 追 「鳥取のカツ江さん」
 全国でゆるキャラが流行った時、「鳥取でもゆるキャラを」ということでキャラクターを公募したことがある。それに対して兵糧攻めにあってがりがりにやせ細り、魚の骨を手にした何とも悲惨なキャラクターデザインが応募作として出された。注目はされたもののキャラクターとしてはふさわしくないとされ、落選。それに対して「一定数の支持があるのに、落選させていいのか」と問題になった。
 「カツ江さん」の名は「兵糧攻めに遭って飢えている(飢える=かつえる)」から付けられた。
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或る一日

2020年11月28日 | 日々の暮らし
 「或る日の大石内蔵助」、という小説があったなあ。確か芥川龍之介の作だったと思うけど。

 それとは全く関係ないけど、小説よりは正直な話。何てこともない日常をメモする(書く)わけだから。
 小説の方はちゃんとしたひとまとまりの話。こっちの書くのは、ただのメモ。

 昨日(11月21日。土)の件。
 昼前にバイク店に行く。SRのリアタイヤを交換してもらうためだ。
 夕方に、という約束でヘルメットとグローブを預かってもらい、歩いて家に帰る。帰ってすぐに着替え、クルマで隣市に向かう。

 行き掛けにホームセンターに寄り、靴用の防水スプレーを買おうとしたら、入口のところでマスクを売っていた。「マスクがない!」と大騒ぎしていたのはいつのことだ、と思い出すのに手間がかかるくらい、いつの間にかどこでもマスクが手に入るようになった。
 ここで売っているマスクは、一枚ずつ密封されている手作りのマスクで、いろんなプリントがされた生地は見ているだけでも楽しい。愛想のない無地の、それも不織布のマスクは、どうも使う気になれない。無地のマスクは厚生省から届けられた通称「アベノマスク」以外に使う気はない。
 この、タイ製のマスクを二枚買った。

 夕食用に蓮根のきんぴらと千切り大根の煮物を作る。
 子供の頃は蓮根の糸が気持ち悪くて食べるのを嫌っていた。千切り大根は、あの独特な匂いと何とも言えない甘みが気持ち悪くてこれまた食べるのが嫌だった。
 いつの頃からか、蓮根のきんぴらを作るようになり、千切り大根の煮物も作るようになり、すっかり好物になってしまって、二~三人前作っても、大概、一度に食べきってしまう。

 夜になって雨になった。今後一週間の週間天気予報で、「雨」の予報は出てなかったけど、早速降っている。どういうこと?

 マスクも食べ物も天気予報も、引っ掛かって考えてみれば何かおかしい。
 けど、そんな事、特に気にしないで毎日を過ごしている。淡々とした日常の筈なんだが。

 鄧小平は「尖閣のことは我々の後生に任せましょう」と言っていたのに、王毅は「~日本漁船が釣魚島(魚釣島の中国名)周辺の敏感な水域に入る事態が発生している。~中国側としてはやむを得ず必要的な反応をしなければならない(武力行使も辞さない)」と脅しをかけてきた。
 でも、テレビも新聞もほとんど言わない。 

 
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再び出石へ

2020年11月27日 | バイク 車 ツーリング
 ・・・と書くと、一週間ぶりに行ったみたいだけど、実は一日置いた翌々日、11月19日(木)に行った。
 後になったらその辺の事情をすっかり忘れてしまって、「何もそんなに慌てて行かずとも」と思いそうだからメモしておくと、週明けの11月23日(月)は言わずと知れた「新嘗祭」。世間はそんなこと関係なしに「3連休、最終日だ~!」と悲嘆に暮れている筈だ。悲嘆にくれつつ意外に道路は渋滞しているかも。だから基本、連休はバイクも車も乗らない。で、24日は腎臓病予防の講習があって、25日は歯の治療。
 そうなるとそれ以降、県下全域が晴天、なんてことは期待する方が野暮だ。それに連休前の金曜日から空模様が怪しくなるらしい。
 そういうわけで、仕方なし、ちょっときつめだけど、まあ、好きでやることだから、雨さえ降らなきゃOK、ということで、ギリギリの19日に、とした。

 11月20日

 昨日(19日)は、6時半に起きる。
 朝食を食べずに出るつもりだったので、これでも時間は十分にある、と思っていたのだが、ストレッチをし、着替えをすると、やっぱりそれなりに時間がかかる。
 走り始めたのは7時20分。3時間あれば充分。間にいつも通り給油し、腹が減るようなら、道すがらコンビニでサンドイッチでも買って、と思って走り続ける。
 十月の半ばくらいの気温、という予報で、確かに十一月半ば過ぎにしては温かで、グローブも3シーズン用で全く問題はなかった。

 それなのに、いつもの快適さを感じなかったのは、齢のせいか?
 いや、齢のせいなら、出発する気自体、起きなかったろう。その辺の言い訳は得意になってるから。
 快適さを感じなかったのは、天気予報に違って、これから晴れ渡る時が来るとはとても思えない空模様だったからだ。
 この時期、瀬戸内のこちらでこんな空なのに、豊岡の方は晴れている、なんてあり得ない。まだ十一月だから、さすがに雪が降ってるなんてことはないだろうけど、雨が降っていてもおかしくはない。
 「絶対、大丈夫!」みたいな予報だったから、思い切って雨具も持たずに出てきてしまったが、暖かい分、不安もある。

 それが生野峠を越える辺りから、北の方、雲の切れ間から青い空が見え始めた。
 予報では南から天気が崩れるということだったが、相当に強い風が吹いていたのに全く気付かなかったのは、同じ進行方向となる南風だったからだろう。
 結果として無風状態、暖かい空気の中、前方の空が段々に青空に変わっていく、というのは何とも気持ちのいいものだ。
 体全部がバイクと共に紅葉の真っ只中を走っている。

 10時過ぎには出石に着いた。駐車料金250円を払って、ほとんど路肩みたいなところに申し訳なさそうにSRを停める。クルマの駐車場所の余白みたいなところ。ワゴンを後ろ向きに停めるようになっているから、もしかしたらぶつけられるかも。
 「縦列駐車の一区画を四つに区切ったらバイク四台停められるのにな。そしたら車二台分儲かるだろうに」と、いつも思う。
 
 四十年くらい前から何度も来ているのに、蕎麦食べて帰るだけで一度も出石神社に参ったことがなかった。それで今回は、と思っていた。
 出石神社には稲荷社も併設されてあって、参道となる階段に朱塗りの鳥居が連なっている。が、稲荷社を過ぎても鳥居が続いている。「?」と思っていたら、その先に出石神社がある。よく分からない建て方だ。
 朝鮮から渡ってきた王子である天の日矛(天の日槍)が御祭神という渡来神を祀る神社だから少し様子が違うのかも。

 そうそう。晴れてきて気分良く走っていたら、いきなり道路が水浸しになっていた。まずい。濡れる。けど引き返すこともできない。
 どうしたことか、水はますます多くなって、緩い上りの傾斜した路面を流れ始める。
 一体何が起こったんだと思ったら、どうも今冬の路面凍結防止用の散水試験が行われているところに遭遇してしまったらしい。道の両側から水鉄砲の水平射撃を受けている格好だ。
 関係課の職員らしい、作業服の人が何人も並んで散水状況を真剣に見詰めているのが、何とも腹立たしいというか、恨めしいというか・・・・。
 幸か不幸か、路面の土埃がすっかり洗い流されてしまった後だったようで、人もバイクも濡れはしたものの、汚れが残ることはなかったみたいだ。

 今回は3時半に帰宅できた。一時間出るのが早かったから帰って来るのも一時間早かった、のではなく、神社参拝や土産物を見て回る時間が入っていてこれ、だから、結構効率の良い走り方をしていたのではないかな、と思う。

 当然、前回と違って「何か物足りない」という気持ちは起きなかった。
 いや、やっぱりこれは全身で風を受け、空気を感じていたからなんだろうか。


 

 

 
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わざとやってない?

2020年11月26日 | 心の持ち様
2013.11/27 (Wed)

 「特定秘密保護法案の特定秘密事項って、なんです?」
 「それが秘密です」

 「そんなんじゃ困りますよ。説明してもらわなきゃ納得できるわけないですよねぇ」

 こんな説明の仕方のニュースやワイドショーって一体何なんだ、と思いますよ。単なるうけ狙い、笑いを取ろうと思ってるんじゃないか、とつい思ってしまいます。

 秘密事項は「これこれのこと」、と説明をしたら、秘密でないこととの境界が鮮やかになるわけでしょう?
 そんなことしたらいくら隠したって
 「あ、ここが秘密なんだな。という事は前後や周囲の状況を考えると、この秘密というのはおそらく『~』、だな。」
 ってなるの、自明の理、でしょう?
 そんなこと考えなくたって分かることでしょうに。


 これ(下に書いたこと)、とても分かり易いというか、得心できる、というか。
 
 何で、ニュースはこんな簡単な一言、言ってくれないのですかね。

 「反日勢力を斬る イザ!」ブログ、
 「秘密保護法案 衆院を通過」というエントリー(http://ponko.iza.ne.jp/blog/entry/3224674/)から、西村幸祐氏のこの一言。

 「結局、特定秘密保護法案に反対するための『知る権利』とは、国民とメデイアを人質に取る詐術に過ぎない。この法案は昭和60年に朝日新聞と共産党、社会党の反対で廃案になったスパイ防止法案とほぼ同じものだということが、考えるヒントとなる」

 「この法案は昭和60年に朝日新聞と共産党、社会党の反対で廃案になったスパイ防止法案とほぼ同じものだ」
 この一言、です。

 この簡単な一言、言ってくれりゃ、分かりそうなものなんですけどね。スパイ防止法、要りません?不要??

 「国民には『知る権利』があるのだから、『特定秘密とは何か』明らかにされるべき」、っていうけれど、それは同時に「その時国内にいる敵対国・敵性国家の国民」も『特定秘密を知る』ってことです。
 「知る権利がある!」と声高に主張する割に「報道しない自由」を存分に行使しているメディアは自身の言ってること、矛盾してると思わないんでしょうか。
 「スパイ天国日本」と言われ続けて半世紀以上ですよ。
 情報の洩れること、笊で水を掬うような国、日本です。情報の共有なんて誰が持ち掛けますか。同盟国のアメリカだって正直、「怖くて 共有なんかできない」、と多くのことを隠している筈、と思わない方がどうかしている。
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