CubとSRと

ただの日記

異常

2023年04月30日 | バイク 車 ツーリング
 4月22日(土)

 10時半頃、SRで西脇市に向かう。串焼きの出店は見当たらなかった。
 次に多可町の道の駅に向かう。おにぎりが一個だけ売れ残っていた。
 それを買う。
 鯖寿司と巻きずしが半分ずつを占める弁当を夕食用に買う。
 出掛けに小さい林檎一個しか食べてない。

 弁当はSRのサイドバッグに入れ、おにぎり一個を持って外のテーブルに座る。
 店の人がお茶を淹れて持ってきてくれる。
 目の前の車用の駐車スペースに停めたSRを見ながらおにぎりを食べる。
 「風が強いから中で食べたら」と言われたけれど、やっぱりこうやってバイクを見ながらの方がいい。カブで行ったとしても、そうするだろう。コペンで行っていたなら・・・・難しい。
 
 物足りない(当然だ)ので、多可町のもう一つの道の駅「杉原紙の里」に向かい、北上を続ける。そこでコロッケ一つ買って食べる。

 
 この日は初めて経験した、何とも体調の悪い一日だった。
 バイクに乗っていて、こんなに楽しくなかったのは初めてだ。
 三十五年近く乗っている中で、のことだから、貴重(?)な体験か? 
 いや「貴重」、はないな。良くて「希少」だろう。二度と経験したくない。

 右目と左目の遠近感が狂って、焦点が定まらない。
 さらに景色が上下に二重になる。
 日頃の乱視が左右に景色がずれるのに対して、疲れている時や眠気で頭がぼんやりしている時は上下にずれる。藤子不二雄の漫画に出てくるキャラクターが目を回している場面。側から見たらそんな顔をしていたのかもしれない。

 家にいる時は、すぐさま横になればいい。3分も経たず眠ってしまう。
 目が覚めた時は異常はすっかり収まっている。
 けど、外ではそうはいかない。
 車の中なら精一杯シートを倒して目をつぶれば、眠ることもできるのだけれど。
 目に力を入れて前方を見ようとすれば、景色のずれがじわ~っと重なって来て一つになろうとする。気を緩めると、またズレる。

 帰りに東条の道の駅に寄って少し休めばマシになると思い、東条まで戻ってきたのだが、今度はそのあたりから左の手のひらや足の裏が何かの拍子に攣りそうになる。
 「ガタが来る」というのはこういうことか。それとも腎臓の疲労からなのか。

 とにかく慌ててもどうにもならない。焦点が合わなくなるのも、攣りそうになるのも危険であることに変わりはない。
 今は何よりもまず、焦らず家に帰りつくこと。

 「風呂にゆっくり浸かれば」と思いつき、帰ってさっそく実行。
 異常は嘘のように消えてしまった。

 

 

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昭和の日

2023年04月29日 | 心の持ち様
 今日は「昭和の日」だから、ケーキを買ってお祝い。
 ・・・・と、一昨日思っていた。
 「前日に買って用意をしておかなきゃ」、と。
 けど、昨日はパンを買ったらリュックもカブの前かごも一杯になり、一旦帰るしかないな、となって寄り道をしたら、もう買いに行ける時間ではない。

 そういうわけで、当日である今日、午前中に何とかケーキを手に入れる。
 何しろ午後からはいつ雨になるか分からない。最悪の場合を考えて車で出る。

 ケーキを買い、ホームセンターに行って障子紙を買い、帰ってブログを見ようとしたら、猛烈な眠気が襲ってきて、気が付いたら2時だった。
 窓ガラスに相当大きな雨粒が当たっている。
 「良かった。セーフだ」

 今日二つ目の再掲分を用意しようとして、PCに向かう。その時になって国旗を掲げるのをすっかり忘れていたことに気づく。
 「雨になったけど国旗を濡らすことなく終始した!」わけだ。
 怪我の功名(?)。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2017.05/04 (Thu)

 もう~、「この上ない」、というか何というか。
 とにかくワクワクして、じっとしていられないほどの上天気。
 ちょっと風が強いのが重箱の隅、かもしれないけど、きっと同じように思って、早く外に出ようとそわそわしている人が一杯いるんでしょうね。
 あ、そんな人は既に出ているのか。

 十時前になって、やっと国旗を掲げました。
 白雲のたなびく澄んだ青空の下、少し強めな風の中で日の丸がはためいています。

 昭和天皇の、植樹祭への多くの行幸にちなんで「みどりの日」という名の祝日が制定されたのは、平成になってからのことです。
 「何でそんなことをいまさら書くんだ?」
 と言われる方もあるかもしれません。
 でも、うそみたいですけど、平成も29年ですからね、平成になって生まれた子供が、もうすぐ三十歳になるんですよ?

 三十年も経てば、由来、いわれを聞かなきゃ分からないことっていっぱいあるでしょう?
 何しろ日本とアメリカが戦争したことや、どちらが勝ったか知らない、って学生が多くいる、というのが話題になったのだって、もう十年も前のことですよ。
 それどころじゃない。日本では十年前の話なんだけど、戦争相手国のアメリカの学生は、さらに十年前(二十年前だったかな?)、それもアメリカでは名門中の名門の学生が、同じことを言ってたらしいんですから。

 本当は「昭和の日」にしたかったんだけど、国会では猛反発を食らうから、
 「昭和天皇と言えば植樹祭。焼け野原になった日本の山野をはじめとする緑の復活、そして保全に思いを致された昭和天皇の御誕生日を、御遺徳を偲ぶ日として祝日にしようではありませんか」
 と提案して、祝日に制定した。
 「昭和天皇には戦争責任が~」と言ってる政党、ばかりでしょう?自民党の中にだってそう考えている者がいるんですから。

 それが制定されてから何年か経つと、「みどりの日」は国民にとって
 「何でそう名付けられたのか分からないけど、とにかく休日」
 という存在になってきた。
 それと共に、昭和天皇のことを知らない平成生まれの子供も増えてくる。
 そうなると、「昭和天皇の誕生日を祝日にしたい、って?別に。いいんじゃない?」、「みどりの日は残るの?じゃ休日が増えるんだ。やった~!」という、特別深い考えを持たない人々も増えてくる。

 でも、以前にも書きましたけど、
 「『みどりの日』と『昭和の日』。昭和天皇のことを思い出す日(祝日)が二回もある。これはもしかしたら素晴らしいことなんじゃないか」
 、なんてことを思う人もあるんじゃないかな、と想像しています。 


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「みどりの日」から「昭和の日」に

2023年04月29日 | 心の持ち様
 再掲 (2017,4月の日記です)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ~~昨年までは「みどりの日」なんか、国旗、揚げないぞと思ってたんですが、今年は考え方が違います。
 と言うより、今年の方が一歩進んだというか、ほんのちょっと考えが深まったというか、そんな感じです。
 勿論、名前からはっきりとさせて、変更点も明示するに越したことはないですよね、何事も。みんなが名実ともに納得し、協力して事に当たる。それが一番です。全会一致が一番。
 でも、現実にはそううまくはいかない。必ず誰かが反対する。いやいや、頑なに話すら聞こうともしない。
 聞こうともしないで
 「聞こえなかった(ホントは耳、塞いでたんだけど)。でも、大きな声だったら聞こえてた!だから大きな声で伝えようとしなかったお前にも、ちょっと以上の責任がある。そうじゃないか!?」
 なんてことを言われると、こっちとしては呆れ返るけれど、呆れながらも
 「そりゃ、100%お前が悪いとは言い切れない。こっちだって100%正しいとは言えないかも。もうちょっと努力すれば良かったという気も、少しはある」
 なんて反省したりする。本当に気が好いですよ、日本人は。
 こんなことがないように屁理屈かとも思えるような演説をしてましたね、安倍総理。「痛切な反省」、だなんて。
 「反省」ですからね、「省み」てるだけなんだから、お詫びなんかしてない。悔いたり、悔やんだり、の「後悔」なんかしてない。
 「痛切」とは「くっそ~、しまったな!」ということ。相手の痛みを思い遣って、ではなく、痛みを感じるのは専ら自分。それが痛切。
 「反省」は「省みる」。
 だから、「痛切な反省」は、「しまった、もっとうまくやるんだった」という気持ちで以て過去を点検してみるということ。
 繰り返すけど、そこに「悔いる」なんて私情は禁物です。そんなもの挟んでいたら冷静な点検などできない。
 ましてや本当にあったかどうかも分からない、もっと言えば捏造の可能性大であるようなことに関してなんかは、「謝罪」「賠償」なんて「カモが葱背負って~」、ですからね。
 そうやって少しずつ物事を進めていかなければ「1000年恨みを忘れない」「百回謝ったってそれで良いということにはならない」なんて言う相手は当然の事、自身だって自縄自縛になってしまって身動きは全く取れなくなる。
 なのにそれでも前進しようとして、実際に焼け野原から復興するだけでなく、高度成長を遂げたわけだから、日本ってのはつくづく「恐るべき国」なのかもしれません。
 あれ?また絶好調で脱線してしまいました。
 「みどりの日」は緊急措置として、そんな命名をしたんでしたね、「昭和の日」では反対されるから。
 勿論、民主、社民、共産の各党が反対するからでした。
 これ、気をつけなきゃならないのは、それらの党が反対できるのは、それらの党を支持する国民が相当数いるから、ということです。「同じ日本人」っていう括り方は安易過ぎる。
 じゃあ、天皇の諡号を出さなければ良いんだな?と言うことで、もっと「軽く」、「みどりの日」として、とにもかくにも昭和天皇の誕生日を祝日として残した。 
 そこにはきっと水面下での相当な政治活動があったんでしょう。
 「『昭和の日』が嫌なら『みどりの日』はどうだぃ?ゴールデンウィーク、一日減るとさびしいぜ~?どうするぅ~?」
 なんてことを言って、搦め手から行ったんでしょうね、自民党のことだから。
 そして遂に四月二十九日は「昭和の日」となった。

 先人は、大変な苦労をして、一旦は消された「紀元節」を名前を変えてでも、とにかく復活させた。
 「昭和の日」だって同じです。本当なら平日になるわけです。それをとにかく休日として置き、遂に「昭和の日」に、した。
 だから「みどりの日」はお役御免、です。
 でも、昭和天皇が国の復興のために、と積極的に植樹祭に行幸されたという事実は、我々はそれこそ1000年だって覚えておかなければ、と思うようになりました。
 「昭和天皇の御遺徳を思う日が二日もある」
 今はそんな風に思っています。

 「11月3日は明治節」なのに。
 憲法発布の日を被せ、だから「文化の日」だと。
 5月3日は東京裁判開廷の日だから。
 憲法施行の日を被せ、「憲法記念日」だと。
 「新嘗祭」を「勤労感謝の日」としたことも併せ、旧に復することも思い続けるべきでしょう。 
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現実の政治とは、

2023年04月28日 | 日々の暮らし
 ●読者之声
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ♪
(読者の声1)貴通巻第7724号、(読者の声2 Stratocaster様投稿)の内容に同感しました。
 特に(引用)「30年間ゼロ成長という偉業(?)をいつまで続けるのか、もはや財務官僚やそのOB、その太鼓持ち学者やマスコミどもは失敗の責任としてその口を全てふさぎ、駄目モトでも新しい政策をやるべきだろう。」(引用終り)
には、激しく同感!
 自公連立が続く限りは、政権交代の望めないなか、どうして「成果の出ない政策にいつまでも固執するのか!?」、それは余りにも国民をないがしろにしたやり方ではないでしょうか。「政策転換」やるべきです。
 ダメなら、また「修正」すれば良い。それが政治というものであるべきと思います。
(KI生、尼崎市)


(宮崎正弘のコメント)
 政治の本質はゲバルトです。大化改新も明治維新もゲバルトで勝利した方が権力を握った。
 しかし、民主主義の下ではクーデターは否定されており、つまり大胆な改革などは出来るはずがなく、となれば現実の政治とは、理想と現実の距離を一歩一歩埋めていくこと。安倍元首相の詞を借りれば「匍匐前進」です。つまりは「間断なき微調整」ということでしょう。
 理想と現実との間隔があまりに大きいので政治家に立腹する人たちが夥しいのも宜なるかな、です。



 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023) 4月26日(水曜日)弐
         通巻第7726号より

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 >民主主義の下では~~大胆な改革などは出来るはずがな(い)。
 >となれば現実の政治とは、理想と現実の距離を一歩一歩埋めていくこと。
 >「匍匐前進」、「間断なき微調整」で、気が付けば「大胆な改革」が行われていた(実現できた)というやり方しか、民主主義社会にはないんだ、と。

 「現実」から、「実現されるべき理想」までの距離はあまりにも遠い。
 けれど、国民から見れば目と鼻の先にしか見えない。
 「何をもたもたしている!サッサとやれよ!それをするのが選良、政治家だろう!?」ということになる。

 けれど、けれどです。
 >民主主義の下では~~大胆な改革などは出来るはずがな(い)。
 >となれば現実の政治とは、理想と現実の距離を一歩一歩埋めていくこと。
 >「匍匐前進」、「間断なき微調整」で、《気が付けば「大胆な改革」が行われていた(実現できた)というやり方しか、民主主義社会にはないんだ、と。


 政治家とは人々に理想の世界を語って聞かせ、それが実現できるよう役人に依頼する人、だったんじゃないでしょうか。

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気が付けば二十数年  (後半)

2023年04月27日 | 日々の暮らし
  ( 続き )
 茫然としてたって解決しない。今度は更に慎重に、もう一つ残っているプラスチックのグロー球をそーっと触った。

 回そうとした瞬間、またもや粉微塵になった・・・・・。
 どうするんだ一体。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一瞬、茫然としてしまった。このまま元に戻すしかないのか?
 しかし、スーパーカブのシリンダーヘッドのボルトを捩じ切った話に比べたらどうってことはない。掴めなければ中の電極の部分を掴み、捩じり抜けばよい。
 電極の部分も捩じるうちに千切れたとしたら、その時はネジになっている基部の端っこでもラジオペンチで掴み、無理やり少しずつ回し、抜けばよい。
 ともかく5つ使われている中の二箇所だ、最悪でも蛍光灯三本は点く状態に戻せる筈だ。

 芯に当たる部分、ガラスで覆われたこの部分を指でつまみ、回そうとする。
 プラスチックの外側と違って、こちらは簡単に切れるどころか相当強くねじっても切れる気配がない。
 それどころか思ったよりもあっさりとネジになっている口金の部分が回り出した。これも又意外なことだった。

 もう一つは?と同じようにやってみる。
 こちらも同じく、すぐ緩む気配がした。
 あと3本はガラス管だったから、全く苦労することはなかった。
 本当に「案ずるより産むが易し」、だ。


 そういうわけで、今日の予定ができた。
 まず、散歩。
 帰って来て紙縒りづくり。
 習字。朝食。
 カブでホームセンターに行き、グロー球5個、買ってくる。
 日のあるうちに取り付ける。

 そして昼過ぎ、予定終了。
 
 ここの家に引っ越してきて二十数年。
 「別に大した問題でもないから」、とほったらかしにしてきた最初からの懸案事項の一つがいきなり片付いた。
 
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