CubとSRと

ただの日記

誘われて

2024年10月31日 | 日々の暮らし
 10月27日(日)

 何故か散歩をサボる。

 この日は秋空。
 やや多めの鱗雲に空の大半は覆われているが、背景となる青空は人を誘う。
 
 11時前になってSRで出掛けた。
 還暦になったら着るつもりで、50代半ばに買った赤いライダースジャケット。
 本格的なツ-リング用のものだが、いざ還暦になった時、予定通り着てみようとした。
 だが、何だか浮きまくっているようで、どうにも収まりが悪い。
 収まりが悪いったって、還暦の赤頭巾や赤い袖なし羽織も同じようなものだろう。
 周囲はどう思っているかは別にして、赤頭巾を被せられ袖なし羽織を着せられている当人はおそらく十人が十人、何とも恥ずかしいというか、でも善意でそうしてくれている周囲に悪いから、と自分の気持ちは抑え、周囲に合わせているんだと思う。
 それが証拠に、その赤頭巾・袖なし赤羽織を翌日から普段着にしているなんて人は、まずいない。

 赤いライダースジャケットを購入したのは、言うまでもない、自分の考えからだった。半分は悪ふざけ。半分は自分で自分を祝う気持ちから。
 残念なのは50代半ばでは、さすがに還暦になった時の心積もりまでは読めなかったということ。

 浮いてはいるけど、近いうちに着ようと思っているうちに月日は流れ、気が付いたら70になっていた。
 ここまでくるともう服装なんて気にならなくなって来て、「じゃあ、一つ明日はこれを着てやるか」と引っ張り出す。長らく使ってなかった赤いヘルメットのシールドを洗い、赤いヘルメットに赤いライダースジャケット、黒のレザーパンツというコーディネート。準備万端、いざ。

 ・・・・ジャケットがきつい。両サイドのストラップベルト、一番緩くしているから着られないことはないが、下にTシャツと薄手のスウェットシャツを着ているだけなのに暑い。

 「太った」、のではない!
 「暑いから『今日は』やめといてやろう」といつもの3シーズン用のジャケットに着替える。

 衝原湖に向かう。さすがに日曜日だ。えらい人出だ。車、バイクで一杯だ。
 飲み物の自販機以外何もない(トイレすらない)ただの駐車場に、よくもまあこんなに人が集まるものだ。
 あ、しょっちゅう来ている自分が他人のことは言えない、か。
 
 
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読み物として読む能力しか持たないけれど、読むべきだと思いました。Ⅱ

2024年10月30日 | 心の持ち様
 『紅色遊渦』(余良、明鏡出版社、2006年)も冷酷非情な中国共産党を激罵する。

 著者は中華人民共和国建国の2年前に広東省の片田舎で生まれた。養母と2人の貧しくも心豊かな日々は、1958年の大躍進で終わりを告げる。
 毛沢東による現実無視の苛政が原因で生活は困窮するばかり。義母は泣く泣く著者をプノンペンに住む両親の許に送った。

 異境で必ずしも安穏とはいえない日々を必死に生きる両親からすれば、食い扶持が1人増えるだけでも家計は逼迫する。
 そのうえ、毛沢東思想で育った息子は万事につけ親に反抗的だ。家庭の温もりは虚しくも消え果てる。
 後に戦乱の渦中で知るのだが、伯母さんと呼んでいた南ヴェトナム在住の華人女性こそが実母だった。著者は中国、カンボジア、南ヴェトナムの3カ国に跨る複雑な家庭環境に生きる。これも一所不住を常とする華人の宿命だろうが、その上にイデオロギーの桎梏が絡まっているわけだから厄介このうえない。

 殺伐とした家庭に嫌気がさしたことから、自活の道を求めて13歳で家を飛び出す。工場勤務の傍ら、「華運」の活動にのめり込んで行った。著者に拠れば、華運とは「華人を組織し現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し、祖国の社会主義革命と建設を支援する」ことを目的に、中国共産党がカンボジアからヴェトナムに連なる華人社会に張り巡らせた革命地下組織とのことだ。

 親米反共のロン・ノル政権時代の1970年代前半、著者は華運同志と共に反米救国・民族解放の闘争に身も心も捧げ尽くす。辛い農作業に積極的に参加したのも、身につけていた漢方医療技術で貧しい人々の命を懸命に救ったのも、全て「現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し、祖国の社会主義革命と建設を支援する」ためであった。

 毛沢東思想を宣伝しインドシナに根付かせることは、「毛沢東の良い子」が担う光栄ある大義。毛沢東からすれば、インドシナも我が版図だったに違いない。
 ロン・ノル政権崩壊後にポル・ポト政権が登場するや、カンボジアには民族浄化の血腥い暴風が吹き荒れ、国土はキリング・フィールドへと激変し、華運の命運も尽きることになる。

 矯激な民族主義を掲げるポル・ポト政権は中国共産党から物心両面の強力な支援を受けながらも、華人はカンボジア農民を搾取し続けたと断罪し仇敵視する。
 中国共産党の影響下にある革命地下組織だが、華運も華人組織であればこそ、ポル・ポト政権は容赦しない。華運同志の多くは死地に送り込まれ、飢餓の果てに憤死・窮死、あるいは惨死。
 ポル・ポト政権からの「華人の中国送還」との申し出を、毛沢東は「カンボジア革命に使ってくれ」と断った。その時、「カンボジア華人の将来は絶たれた」と、著者は苦々しげに綴る。

 自らの過酷な運命に絶望した彼らにとって、進撃してきたヴェトナム軍によるポル・ポト政権打倒の戦争は、なによりの福音となったのである。
 
      ☆◎□◎ひ□▽◎◎い□◎▽◎ず□◎□▽み◎□◇△

 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)10月28日(月曜日)
        通巻第8478号 より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここまで読むとつい思ってしまう。
 「結局一番悪いのは誰だ?毛沢東か?周恩来か?それとも鄧小平なのか?」
 、と。
 そうなると、この歪な「階級史観」を生み出し実行させたのは誰だ、スターリンか、レーニンか。いや、やっぱり総元締めはマルクスじゃないか。
 となりそうだ。
 そうなると、「いや、マルクスは批判的にせよヘーゲルから学んだのだから一番悪いのはワイワイガヤガヤ・・・・。
 でも、それを言って「一番!」が決まったからと言って何になる。要は同じ過ちを繰り返さないこと。
 同じ過ち。それは他者を「人間扱いしない」「他者を認めない」「他者を虫けら扱いする」ことだ。
 「構成分子」という言葉は虫けら扱いをしているようには見えないけど、少なくとも「血も涙もある人間」扱いではない。
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読み物として読む能力しか持たないけれど、読むべきだと思いました。

2024年10月29日 | 心の持ち様
 ★樋泉克夫のコラム★
 ~~~~~~~~~~~~~
  ♪
【知道中国 2760回】     
 「もう一つの中国」への旅(旅12)

   (前部 略)
 次は『我与中共和柬共』(周徳高 田園書屋 2007年)である。
 著者は1932年にカンボジア西部バッタンバンの農村に生まれた。父親は広東省掲陽県で農民だったが、カンボジアに渡り鉄道作業員となる。
 家庭が貧しく、著者は12歳から職人奉公に出た。自らが置かれた劣悪な環境ゆえに共産主義思想に強く魅かれ、中国共産党がカンボジア華人社会に設けた地下組織に加わる。
 やがてプノンペンで華字紙『棉華日報』に職を得て記者として12年間働くが、この間、中国大使館にスカウトされ、特殊工作を担当する北京の「中調部」に属する秘密工作員となり、「危ない橋」を渡る人生を歩みはじめる。
 なお「柬共」はカンボジア共産党、「棉」はクメールの漢字略称。

 1963年にはカンボジア訪問の劉少奇夫妻爆殺を狙った国民党の謀略を事前に摘発するなど、忠実で優秀な情報工作員として働く。
 だがポル・ポト政権成立前後から、中国共産党の方針に疑問を抱きはじめた。
 中国共産党のカンボジア国内工作のための手駒であった華人地下組織の幹部に対し中国大使館はカンボジア共産党の支配する「解放区」に入りカンボジア共産党の党勢拡大に努め、最終的にはカンボジア共産党を支配下に置くべしとの指令を下す。

 じつはカンボジア共産党の指導権を確保したポル・ポト派は、中国共産党の階級分析を忠実に学んでいた。
 だから彼らにとって、カンボジア人民の血を吸うブルジョワ階級である華人はカンボジア人民の敵でしかなかった。加えるに、中国共産党は現地の客観情勢を無視し、身勝手・強引にも華人地下組織をカンボジア共産党に編入させてしまう。

 かくて著者ら「忠実な革命戦士」の運命は、ポル・ポト派の思うがまま。堪り兼ねた著者等は地下組織全員の中国への引き上げを懇願するが、中国共産党から「以後、我々と諸君とは一切関係なし」と、たったの一言で無慈悲にも斬り捨てられてしまう。
 やがて著者も、阿鼻叫喚の地獄絵図と化したカンボジアを逃げ惑うこととなる。

 1978年夏、カンボジア東部からヴェトナム軍が進攻を開始する。
 9月、救援を求めて訪中したポル・ポトに向かって、「ヴェトナムは裏切り、恩知らず」と痛罵した鄧小平ではあるが、返す刀で「カンボジアの苦境はポル・ポト極左路線が自ら招いてしまったものだ。国民的支持を集めているシハヌークと統一戦線を結成し、ヴェトナムに対抗せよ。だが、中国は反ヴェトナム支援軍を派遣できない」と熱弁を振るった。
 この時、ポル・ポトは薄ら笑いを浮かべるだけ。ポル・ポトは腹の中で鄧小平を、さぞかし「反革命の修正主義ヤローめ」と思っていたに違いない。

 鄧小平はシハヌークに向って「殿下の愛国の熱情を汲み取らないばかりか、中国に対してすら反抗的であったポル・ポト派とはきっぱりと手を切ります」と確約したと、著者は綴る。
 これに続いて著者が鄧小平に投げつけることばは、まさに呪詛に近い。

 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)10月25日(金曜日)弐
        通巻第8477号 より
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 続き
【知道中国 2761回】     
 「もう一つの中国」への旅(旅13)
   
 著者は、中国近代化の「総設計師」と讃えられた鄧小平を「空しくジャングルに死んでいったカンボジアの数百万の人々、数十万の華人に対して侘びのことばすらない。共産党は口を開けば『人民』を持ち上げるが、実態は王侯貴族でしかない」と、鉄槌を下す。

 また死の直前の病床を見舞ったポル・ポト派最高幹部に対し、極左路線の文革が中国人民にもたらした災禍を例に引きながら「心の底から忠告したい。我われが犯した極左の道を歩んではならない」と教え諭したとされる周恩来であっても、著者は容赦しなかった。
「敢えて周恩来に問い質したい。中国共産党が錯誤の道を盲進している時、周恩来よ、いったいアンタは、なにをしていたんだ」と糾弾し、激しい恨み叩きつける。

 1979年夏、広州に逃れていた著者に対し、党中央はポル・ポト政権崩壊後のカンボジアに戻り情報収集すべしと命ずる。だが著者は断固として拒絶し、中国共産党との繋がりを断ち切り、生きる道をアメリカに求めた。

 
 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)10月28日(月曜日)
        通巻第8478号 より

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真っ直ぐに見る

2024年10月28日 | 心の持ち様
書評 BOOKREVIEW 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 巣鴨で刑場の露と消えた英霊の遺言、辞世はこころを震わせる
  日本人であるなら彼らの文章や和歌、漢詩は大和心を直撃するだろう

  ♪
 巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書 愛しき人へ』(ハート出版)
 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
 
 戦争裁判で斃れた人々の遺言を編纂したものの復刻本だ。
 日本人の琴線を震わせる、落涙がつづき、うめくような感動がある。戦後日本を覆い尽くす欺瞞と偽善の歴史観を覆す霊力がある。
 刑場の露と消えた戦争指導者らは、自分の死より肉親を思い、国家のゆく末を憂い、平和の再建を願った遺書をのこした。
 ページをめくりながら、評者(宮崎)は英霊の鬼哭を聞いた気になった。
 そして思い浮かべたのだ。神功皇后の決意を。

 神功皇后は新羅征伐の出陣を前に、かく宣言された(『日本書紀』、岩波版第二巻)

 「夫れ師(いくさ)を興し衆(もろもろ)を動かすは国の大事なり。安さも危うさも成り敗れむこと、必に斯に在り。今征伐つ所有り。事を以て群臣(まえつきみ)に付(さづ)く。若し事成らずば、罪群臣に在らむ。是、甚だ傷(いた)きことなり。吾婦女(たおやめ)にして、加以(また)不肖(おさな)し。然れども暫く男の貌(すがた)を仮りて、強(あながち)に雄しき略(はかりごと)を起こさむ。上は神祇(あまつかみくにつかみ)の霊(みたまのふゆ)を蒙り、下は群臣の助に籍(よ)りて、兵(つわもの)甲を振して険(たか)き浪を度(わた)り、船を整えて財土を求む。若し事成らば、群臣、共に功有り。事就らずば、吾独(ひとり)罪有れ」

 なんとも勇ましき兵隊への鼓舞であろうか。
「戦争は国の大事であり、失敗したら自分一人が責任を負う」と宣言しているのである。この天皇(神功皇后は明治時代まで第十五代天皇として皇統譜に明記されていた)の揺るぎなき信念は昭和天皇の終戦の詔にきちんと受け継がれた。昭和天皇はGHQにマッカーサーを訪ね「此の身はどうなろうと国民を救って欲しい」と訴えた。

 マッカーサーは驚き、たじろいた。てっきり亡命希望だろうと高をくくっていたら天皇は捨て身になっても国をすくう決意に燃えていたからである。外国にこのような指導者はいなかった。

 本書の中でとりわけ感動的なのは東条英機の遺言である。これは家族が差し入れた書籍の余白に書かれていた。
 東条英機は書き残した。
「開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内の自らの責任は死を持って購えるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈した」(45p)
 
 松井石根は漢詩による辞世と詠歌を残した。
「大きくも変わり行く世を夢にして 牢屋にいる我は老いはつるかも
      いけにえに尽くる命は惜しかれど 国捧げて残りし身なれば」

 武藤章の辞世
  「現し身の折ふし妻子恋ふといえど
     ますらたけおは死におくれせじ」

 板垣征四郎の遺言
 「遺がいは渡されないと思うが葬式は要らぬ。墓も造るな。
自分だけの考えで戒名をつくってみたが家だけで祀るのなら祀ってもよいが、
これも強いるわけではない。
     ただ『無』又は『空』」(52p)

 このような清冽なほどの潔さ、古代から連綿とつづく日本武士道の、兵士の心魂を代弁している。
 解説を担当したジェイソン・モーガン教授が指摘する
 「一方、日本人が学校などで習ったいわゆる『歴史』の多くが、真っ赤な嘘だと気づいた日本国民が急増している気がする。その覚醒の中でもう一つ、過去の日本について嘘プロパガンダがあまりも多い理由が見える。それは私の生まれた国アメリカ合衆国を乗っ取っていて、政界、学界、メディアなどを牛耳っているウソつきことグローバリストが日本人に対して非常に悪質な工作、いわば心理戦を行ってきた、いまも行っているということなのだ。  
そう、日本人の美徳を悪用して日本の本当の歴史を隠蔽しようとしているのが私の国から来る連中なのだ」(373p)
☆○◎☆み◎☆◎○や○☆◎○ざ☆○◎☆き☆◎○☆ 


 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)10月25日(金曜日)弐
        通巻第8477号 より
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健康診断 (後)

2024年10月27日 | 日々の暮らし
 続き。

 書類の確認、必要事項記入、検尿用の容器渡し等を四人の係員が行う。
 「004」と書かれたレシートみたいな紙札を貰っているから、四人目の係員のところに坐り、確認を受ける。

 検尿の容器を渡され、例年通り尿採取にトイレへ。
 すっかりトイレが近くなって、それが悩みの種のうちの大きな一つになっている老人だけれど、こういう時に限って小便が出ない・・・のだが、幸いなことに何とかなった。

 次は腹周り。
 何だか大阪府下のどこかの保健師が、腹囲と健康の関係を問題視したところから話がどんどん大きくなって、今は腹囲85センチ以上は痩せるように指導するのが当たり前になった。
 実は血液型占いと近い信憑性しかないんだということを聞いたような気もするが。
 仕事に就いている頃は腹囲測定なんてやった記憶がない。いや?仕事を辞める数年前は、していたかな?

 腹囲、今年は79,3。去年より少し太ったらしい。
 帰って来て、今、冷蔵庫に貼っている去年のを見ると、去年は78,5だった。ただ、一昨年は79,5。
 驚いたことに身長は数ミリ伸びていた。
 70過ぎて背が伸びる筈もないだろうから、これはストレッチのおかげで姿勢が良くなったのだろう。

 尿検査はすべてマイナス。問題なし。
 血圧は薬飲んでんだから。問題があるわけがない。
 ただ、ふと思った。
 血管が硬くなるというけど、硬くなるのは老化であって、老化を避けて通ることは出来ない。血管が硬くなるのはどうすることもできないから、せめて流れる血液は滞ったり詰まったりしないよう対応しなければならない。
 それは分かる。で、気になるのは血管と血液以外は何もしないでいいのかということ。血管と血液以外も老化する筈だけど、それはどうしたらいいんだろう。食餌療法?ストレッチ?散歩?水中ウォーキング?鍼?灸?

 10時前には、最後の検査(レントゲン車での胸部撮影)から戻って二階の喫茶店で朝食。
 ふと外を見るといつの間にか大雨になっている。
 食事を終え、ビル内の改札を抜けて駅ホームを見下ろす。小雨になっている。
 電車は出たばかりで、次は15分後。
 10分間、傘をステッキ代わりに突いてマネキンのように立っていた。

 帰りのバスを降りても雨はなし。結局傘は使わずじまい。
 でも、靴・上着・ズボン・等にしっかり防水スプレーをかけ、傘も持って行ったからこその空振りなのかもしれない。

 流石、大吉日。
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