CubとSRと

ただの日記

マスク外交から、戦狼外交、そしてワクチン外交へ

2020年10月31日 | 心の持ち様
 歳を取ると(というより、物忘れが激しくなってくると)、つい安易にテレビのニュースだけ見て大方のことを結論付けてしまう。
 実際には「結論付ける」、なんて本人が思っているほど主体性を持った立派な物じゃなくて、テレビのニュースの語調、論調に簡単に乗せられてしまっている。

 何しろじっくり考えるという根気がなくなる。
 それに加えて小さな文字で書かれたものが、老眼の進行につれ見えにくくなり、目を凝らすうちに併せて頭痛まで発症してしまう。
 それらを克服しようと(思ってるかどうか知らないけど)ワイドショーや最終のニュースショーなどを見て少しでも正確に理解を、なんてことを考えると、それこそ沼に嵌って動けなくなる。そこでは戦前の「学術研究会議」と敗戦後の「日本学術会議」が全く似て非なるものである、ということなど決して説明しようとはしないんだから。
 
 そうしてみると、そんな無駄な時間を確保するより、せめて最低でも物事を時系列で見ようと意識し続けることの方が、年寄りにはもっと大事なんじゃないかと思う。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月29日(木曜日)

 
五全中会は何を決めるのか。習近平の終身独裁皇帝を追認するだけ?
  「マスク外交」から「戦狼外交」、そして次は「ワクチン外交」を展開
****************************************

 必死の形相で王毅外相は欧州を駆け回ったが、対中感情の悪化を修正できず、慌てて楊潔ち国務委員もスペインなど南欧を巡回した。さっぱり効果なしと分かったのが八月下旬だった。根底にあるのは中国が派手に転回したマスク外交への不信である。

 とくにスウェーデンやノルウェイ、チェコ、ポーランドなどがはっきりと反中国を示すようになり、いまでは親中路線の欧州の国といえば、ハンガリーくらい?
 チェコは国会議長らが集団で台湾へ赴いた。中国は歯ぎしりして、制裁を口にした。

 オランダもスペインも、その他の欧州各国で中国が供与したマスク、とくに医療用マスクならびに人工呼吸器が不良品、大量に突き返し、「中国はまるで火事場泥棒」という評価が欧州ばかりか世界中で固まった。

 それでも欧米並びに主要な工業国家で、自国製マスクを製造していないことが分かり、米国では自製への試行錯誤がつづいた。日本ではシャープなどかなり成功したものの、ドラッグストアやスーパーで売られているマスクは殆どが中国製、「道の駅」へいくと地元の主婦らが編んだマスクも並んでいる程度で、依然として中国依存である。

 鳴り物入りの米国進出だったホンハイ(鴻海精密工業)のウィスコンシン州工場は、半導体ではなくマスクを生産することに切り替えて対応したが、それはともかく「マスク外交」は中国の評判を落とした。

 そこで中国は飴と鞭の「戦狼外交」に切り替えた。脅しと金のばらまきで票を買うという中国の強権発動に、民主主義国家は反発した。

欧米では逆に人権、民主の声を高めたのだが、中東やアフリカ諸国では、中国と似た専制政治が多いため、一定の効果を挙げた。
 日本では嫌中論が拡大しているにも拘わらず、政官界、財界並びにメディアにはパンダハガーがうようよと遊弋し、世論を誘導している。日本政府は決定的な対中態度を示せないでもたついている。


 ▼もし米国政治に空白期間が生まれたら、台湾侵攻もありうるだろう

 11月3日、アメリカの大統領選挙投票日。おそらく開票に手間取り、ひょっとして一月の新大統領就任式まで、トランプのレイムダック化があるとすれば、習近平は国内をまとめるために台湾侵攻に打って出る可能性がある。
 台湾本島ではなく、台湾軍の常駐している東沙への侵攻というシナリオが、もっとも蓋然性が高いと軍事専門家の間では囁かれている。

 両天秤をかけながらも中国は、「戦狼」路線を「修正」し、こんどは「ワクチン外交」に転ずる気配である。
 中国製ワクチンなど、聞いただけでも眉唾と思いきや、なにしろ米国の薬剤、とくに抗生物質は90%を中国に依存している。したがって中国がワクチンを欧米や日本に先駈けて売り出す可能性が高いのだ。

 まして外交武器として廉価で供給するとなると、中国に飛びつく国々が山のようにある。一帯一路で借金の山を前にして呻吟するスリランカやパキスタンなどでも、またもや中国のワクチンほしさに外交の基本を切り替えることを躊躇わないだろう。
 中国は、北京依存から脱却を試みる国々をつなぎ止めるためにもワクチン外交を有効活用しかねない。

 トランプ外交は中国を孤立化させることにあるものの、欧州では英仏くらいが同調しているのみ。それも英国は旧植民地の利権、フランスはいまもニューカレドニア、タヒチなど植民地をかかえているので、日米豪印のインド太平洋戦略に関与せざるを得ない。ドイツは曖昧な態度を示してきたが、フランスと並んで、ふたたび都市封鎖に踏み切り、中国への不信感が急拡大している。
 西側のアキレス腱は医療現場の困惑、中国はスペイン、伊太利亜などに目標を定め、着々とワクチン外交を準備中というわけだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

買ったのに?

2020年10月30日 | 重箱の隅
「納車しました!」

 「けっして~ない」という言い回しを「けして~ない」と書く人がある。
 「ふんいき」を「ふいんき」、と、つい言ってしまう人がいる。
 時にはアナウンサーが「じょおう」のことを「じょうおう」と言っているようにしか聞こえないアナウンスをすることがある。

 漢字で書いてみれば、それらが間違いであることはすぐ分かる。
 「けっして~ない」は「決(けっ)して~ない」、だし、「ふんいき」は「雰(ふん)囲気」だ。「じょおう」は当然「女王」だろう。「女」は「じょう」とは読まない。「王が『わう→ぅおぅ→おう』であることとイントネーションの関係で、つい「じょぉ」と伸ばしてしまうのだ。

 このように「読み癖」というのは、間違えた読み方が定着した場合もあるけれど、大概はその方が言い易いから起こる。だからそれ自体は仕方のないことだとも言える。
 けれどいつの間にか「言い易いから」、と主客が転倒してしまって、その間違った方を「正しいのだ」と言い張られると些か面倒くさい。ウリナラ起源説や大中華思想と同じだ。
 言い張る際に間違った或いはごくごく限られた特殊な例を凡例として挙げて「実際、こうじゃないか」と強弁されると、その実例は「一人、二人、みんなみたいなものだよ」というところから説明しなければならない。
 そう考えると、説明より先に絶望的な疲労感に襲われてしまう。

 「弥栄(いやさか)」が元々は「いやさかえ」であったことなど、ちょっと考えたら分かりそうなものだが、
 「麻生総理は字を知らんから『いやさかえ』と間違えて読んだのだ。また間違えたんだ!」
 と、散々に囃し立てる。
 「『いやさかえ』でも良い。良いというより、本来はいやさかえと読むんだ」
 という意見が出ると、実際に「いやさか」と読む例を挙げて、
 「『いやさか』が主流なのであって、『いやさかえ』はごく特殊な言い方だ」
 とゴリ押し。そして
 「実際、麻生総理だって以前の演説で『いやさか』と言っていた」
 として、結局、やっぱり字を知らないんだ、アホなんである、と決めつける。

 恥ずかしながらボーイスカウトが「いやさか」という言葉を使う、ということを最近になって知り、youtubeで見て唖然とした。
 手振りがついて、「いやっさか!いやっさか!」とやっているものや、「いや~さかっ!いや~さかっ!」とやっているものがある。
 確かにこれでは本来は「いやさかえ」であったなどと言ってもピンと来る筈はないな、と思った。
 「弥栄三唱」は「万歳三唱」と同じく、ゆっくり伸ばしてやるものだから、本来は「いや~さかぁ~」或いは「いやさかぁ~」。
 口に出して伸ばす時は「あ~」というのがおさまりが良い、と感覚的に納得できる。いやさかえだから「え~」ではないかと思ったら、口に出してみれば良い、「え~」は間合いを取るために使うか、攻撃するときの「え~いっ」くらいで、個々の攻めの意識がある。

 元々が神前で祝詞のような形で書かれた奉告文中の言葉なのだから、「まず文字があった」のであって、まず、言葉、ではない。
 「立ち止まってみる」というのは、そういうことだ。だからそんなに時間のかかることではない。

 そういうものの一つで、最近、久しぶりに違和感を持った言葉。
 「待ちに待った車。今日、やっと納車しました!」
 というやつだ。
 「昨日、納車に行ってきた。想像以上にソフトな乗り心地だ」
 「明日は納車してから、初めてのツーリング!」
 言ってて、書いてておかしいと思わないのだろうか。
 だって「納車」というのは「車を(購入者に)納める」という意味で、これは売り手(ディーラー)の使う言葉なんだから。 
 「車が手に入った、だから~」と言いたいのなら「(ディーラーから)納車されたから」と言うべきだろう。

 「待ちに待った車。今日、やっと納車されました」(だから、「自分のところに届けられた」、ということですよ)
 自分が売り手のところに出向いたのなら
 「昨日、『納車される』ということだったので受け取りに行ってきた」。
 「明日は納車されてから初めてのツーリング」。

 何も難しいことじゃない。字を見たら分かりそうなものだ。

 こういうことを、ちょっと立ち止まって見詰めれば、
 「『個別的自衛権は良いけれど集団的自衛権は許せない。戦争への道につながる』、と言いながら日米安保条約は否定しない、というのは、変、だろう。安保条約は万が一の時(戦争)に備えてのものなんだろう?自国は守るけれど条約締結国には守ってもらわなくていいし、守りにもいかない、ってことなら、何のための条約なんだ?」
 となりそうなものだが。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「万歳」も少し

2020年10月29日 | 重箱の隅
 「正しい万歳(?)」ってのがある、と十年ほど前、ネットで話題になりました。「万歳三唱令」という法令が制定されたことがあるという話です。
 二、三年前にも、久し振りにまた話題になりましたが、その時はさほど話題になることもなく、消えました。偽物だということが確定してましたからね。
 勿論、手の向きがどうとか「足を踏み出すのは左右どちら?」、とかいう「正しい万歳」「間違った万歳」、なんてのはない。
 前回の日記に書いた通り、国民みんなが、上下関係なく音頭取りの下で一斉に「万歳!」と言うようになったのは、おそらく日本が初めてで、シナも朝鮮もそれをまねしたに過ぎないのでしょう。
 大体社会主義国の指導者を「~主席万歳!(~主席(の御代)が千年も万年も続きますように!)」なんて、どう考えたって変でしょう?それを言うなら「~人民共和国万歳」「革命達成万歳!」って言うべきだ。間違っても指導者個人の写真や銅像を推し立てたりすべきではない。
 脱線しました。

 けど、「万歳三唱」自体、そんなに古いものではなく、明治になってからが始まりと思われます。当然、手の向きがどうとか、足はどっちを踏み出すか、なんて細かい作法は、本来なかった。
 以前書いた日記です↓
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 一時期、「正しい万歳の作法」という事が、話題になっていました。
 「右足を半歩前に踏み出し、同時に両手の平を向い合せになるように高く掲げる」
 とあって、実際に軍人がそのようにして万歳をするフィルムがあり、まあ、そこまでは良いのだけれど、
 「手のひらを前に向けたら『お手上げ』という意味だから、これは万歳とは似ても似つかない『降参』の形であって、それは工作員がウソを教えて、日本文化を解体しようとしているものなのであ~る」
 みたいな話がまことしやかに語られていて。

 何しろ、有名ブログに採り上げられた話ですから、それは間違いだ、となるまでに随分時間がかかったようです。

 でも、実際に「万歳三唱」がされるようになったのは明治の二十二年、なんだそうですね。
 ところが「万歳三唱令」というのが発布されたというのが何と「明治十二年四月一日」。
 「え~?四月一日~?」という事で、今の人は眉唾?となるんでしょうが、
 「何しろ昔のことだから四月一日、はエイプリルフールだなんて考えなかったろう」
 などと、妙なところで簡単に騙されてしまう。
 どうも昭和になってからの偽造みたいです。勿論、これは犯罪ですよ。
 でも、書かれた様な「万歳」をみんなでやると、揃っていてきれいでしょう?
 だから、まあ、喧しく犯人探しはしなかったようです。

 手のひらを前に向けるのは大相撲の幕内力士の土俵入り、或いは横綱の土俵入りの際、拍手をして手を挙げる所作で分かる通り、「何も持ってません(隠し事はない)」という赤心の表明からです。
 諸外国の敗者が降参の意味で手を挙げるのも、本来の意味(何ももってませ~ん)では同じことですが、積極的に手を挙げるのと、仕方なしに手を挙げるのと、で印象が正反対になっているだけのことです。ラジオ体操じゃあるまいし、「手のひらを向かい合わせにする」なんてのはもう噴飯もの。
 「右足を半歩進めて」というのもおかしな話です。
 仮に半歩進めるとしたら、日本では踏み出す足は左から、というのが決まりです。体育の授業で習った「休め」の姿勢は左足が半歩前。行進も左足から、「一、二、一、二」じゃなかったですか?「左が陽、右は陰」、という考え方からです。
 「陽を先に」ということから、神社参拝時、手水は陽の手である左から掛ける。陰流系統の剣術は右足が前、というのも関係がありそうです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

違和感 「万歳!」

2020年10月28日 | 重箱の隅
 「万歳!」

 これを、何かを讃える時に使うようになったのは、比較的新しい。
 というより、これ、明治以降のことに間違いはないようです。
 文字通り「万歳(万年)も栄え続けますように」という意味で、本来は「千歳も万歳も」というように慣用句に近いものだった。
 めでたい(賞でたい)時に使う。正確には「めでる(賞でる)」時に使う。

 江戸時代、「三河万歳」というのが生まれました。
 これは伝統芸能として今も伝える人があり、寿ぎ(ことほぎ)のための掛け合いの会話に鼓が入り、身振り手振りをつけて衆人を楽しませる「万歳」という祝福芸です。三河で起こったから「三河万歳」。
 お気づきのように、この掛け合いの部分を磨き上げていったのが「漫才」であり、「マンザイ」となっていきました。

 考えてみれば、この「千歳も万歳も」という言葉は、国歌「君が代」の「千代に八千代に」、と同じわけですから、「バンザーイ!」と言わず、「やちよ~!」とか「ちよ~~!」でも良いようなものなんですが、これを「やちよ~!」と言わず
「バンザーイ!」と言う。
 面白おかしくやっちゃいけない。三河万歳と同じなのに?

 で、今度はこの「万歳」という言葉はどこから来たのか、ということなんですが。

 唐、高麗辺りから伝わったとされる「雅楽」というのがあります。
 「楽」は「楽曲」という意味ですから、唐からの楽曲は「唐楽(とうがく)」、高麗からのものは「高麗楽(こまがく)」と言います。
 「雅楽」、「雅(みやび)な音楽」。宮中(或いは神社)で奏でられる高級な音楽。

 そんな雅楽の中に「万歳楽(まんざいらく)」というのがあります。正に「千代に八千代に続きますように」という意味の曲名です。
 大相撲の最終日、最後の、横綱の取り組みの際、行司が「これにて千秋楽(にござります)~」と言い、ひときわ大きな拍手が起こりますが、この「千秋楽」というのも実は雅楽の曲名で、大体、最後に奏されます。
 「千秋」は、「千=ずっと」、「秋=年」。万歳と同じように「ずっと栄え続きますように」、ということです。

 「千秋楽」「万歳楽」。それぞれが雅楽の曲名としてつけられたのは「寿ぎ」の意味で、ということに間違いは無いでしょう。
 で、「千秋楽~ぅ」は興行相撲で既に使われている。
 「では、『万歳!』でいこう!」となった・・・・・。真偽のほどは定かではありませんが。
 しかし、「バンザーイ!」が万歳楽から来たことに間違いは無いでしょう。

 さて、ここからは眉に唾つけて読んで下さいね。

 隣の大国では「ワンソイ!」と言います。「ワンソ~イ」か、「ワンソイ(!)~」です。
 簡体字で書いてあるので見逃してしまいそうですが、ちゃんと漢字で書くと「万歳!」です。これ、本当です。
 そして、同じく隣の半島国ではご存知「マンセ~!」です。
 朝鮮文字で書かれていますから、これまた何となく読み飛ばしてしまいますが、漢字で書くと、やっぱり「万歳」です。
 朝鮮語では、江戸っ子の喋り方と同じく(実は紆余曲折があって、江戸弁の中に朝鮮風の発音が入っています)「タイ」「ダイ」のような「ai」の発音が「e」に変わります。「大根」が「でぇーこん」になるでしょう?「南大門」が朝鮮語では「ナンデムン」。
 だから「万歳!」が「マンセ~」になる。

 日本が「バンザイ!」と言い始めたから、両国が真似をしたんでしょうか。
 朝鮮はともかく、支那は違うでしょう。尤も、両国共に絶対認めないでしょうけどね。
 まあ、普通に考えたら支那をまねて朝鮮が、また日本がそれぞれ「マンセ~」「バンザ~イ」と言うようになったとなります。

 でも、何かを讃えるために一斉に声を挙げる、ということは、実はありそうで、あまりないことなんですよ。
 身分制、階級制がある中です。一斉に同じ声を挙げる、というのは、宮中の役人か、軍隊か、です。平民がそれをやることは全世界の社会の形からしてあり得ない。身分が違うものが一堂にあって、同じ言葉を叫ぶ。変でしょう?

 なのに「バンザイ!」だけはそんなこと関係なしに一斉にやる。
 となると、歴史的にみて古い筈がない。四民平等になった国でこそ、起こる、起こせる現象です。つまり、「日本が明治時代に始めた!!」他の国はそれを真似した!

 それを「我が国では昔からやってるアル!」と支那が「マオジューシー、ワンソ~イ!(毛主席、万歳!)」とやった。
 日本の「バンザイ」を学んだ朝鮮も、同じく朝鮮語で「マンセ~!」と言い始めた。

 ・・・・・・眉唾ここまで。

 さて、「違和感がある」。
 何で「万歳」なんだ?何で雅楽の曲名から採るんだ?

 大学の卒業式の後、謝恩会の席上で最長老の教授が
 「万歳というのは大和言葉ではありませんので、我々は大和言葉で祝いましょう。では。〇〇大学!いやさか~あ!」

 「万歳三唱」ではなく「いやさか三唱」。
 「弥栄に栄えませ(いやさかえにさかえませ)」を短くすると、「弥栄ぇ」。
 だから「いやさか」。
 弥栄(やさか)村とか、八坂神社があるから「いやさか!」は使わなかったのかな?


 付記

 あ、もしかして「いやさか」はボーイスカウトだけのものと思ってませんでした?
 りんけんバンドの曲の中に、合いの手で「い~や~さ~か~」って入っていたような気がするんですが。もしあったとしたら、あれ、沖縄方言が平安~室町期の、古語の訛ったものだという実例になりますね。
 「うみんちゅ」は「海人」ではなく「海(の)衆」→「うみんしゅう」から「うみんちゅ」。「ちゅら」は「清ら(きよら→ちゅら)」で、「美しい、きれい」の意味に使う。「はいふに」は「早舟」。丸木を刳り抜いて作った舟だから、「丸木舟」というのはただ実物の名前。みんな日本語の古語です。
 (又、沖縄では「あいうえお」の母音が訛って「あいういう」または「あいうえう」になる地域が多くあります)

 もう一つ。
 今Wikiで見たら、明治22年2月11日、初めて万歳三唱が青山練兵場でなされたのだそうです。
 「あの」万歳三唱令は明治12年4月1日と成っているそうですから、完璧に偽物ですね。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

違和感 「天皇制」もう少し

2020年10月27日 | 重箱の隅
 「皇国」、「皇室」。そして「天皇」。
 「皇」という言葉の示す意味を、我々日本人は、漢字を作った国であるシナとは違った意味で把握してきたと思います。
 「皇」の訓読みは「すめらぎ」或いは「すめら」、です。「すめらぎ」も「すめら」も「すめる」「すめらぐ」という動詞の連用形、つまり名詞です。
 そして「すめる」はおそらく本来は「すべる(統べる)」。「すめらぐ」もほぼ同等の意味でしょう。

 「日本は皇国である」というのは、「日本は天皇の知らす国(統べる国)」ということで、直接、間接を問わず「天皇が中心となって成り立つ(決して纏め上げる、ではない)国」という意味です。
 「皇室」は「天皇のおわす室(場所)」という意味であって、「家」という意味ではありません。「家」なら、「一家」ということになり、「姓」が付きます。天皇には姓がない。だから「家」は成り立たない。天皇がそのまま国体なのですから、その住まいは「室」というしかない。天皇の室。「皇室」、です。子孫は宮「家」となり、やがて「宮」がとれて一般の「家」になる。
 だから皇帝を倒して新たに皇帝が、という「易姓革命(姓が変わる=一家が変わる)」は日本ではできる筈もない。皇室を一旦廃絶させれば、それでおしまいです。一度、姓を持った者が、皇室復興のために姓を捨てる、というのはできぬ相談。

 (西欧の)「君主」は「人民」を支配し、搾取を行うことで、人民と対峙している、とする形を「君主制」と言います。
 社会主義者は、
「人民がその君主を打倒することで、理想社会が建設される」
 、と説きます。
 「支配者を敵と捉え、打倒する。それによって理想が現実のものとなる」。
 この考えを日本に当てはめようとして、天皇を「支配者」と捉え、打倒すべきもの、ということで作られたのが「天皇制」、という言葉です。出自からして、そういう考えを含んだものなんだということです。
 「成り立ちなんかどうだっていいんだよ。今が大事なんだろ!」
 という人が主流になってきて、
 「言葉は生きているのだから~」
 なんて詩的に説明しようとする人がいますけど、もっと大事なのは「思い(意)」、ですからね。その言葉の成り立ち、出自をしっかり見ることをせず、安易にjk用語やネットの流行語のように使い始めると思わぬ方角に徒花が咲き誇ることになります。
 「情に棹差せば流される」。その時々の「情」に沿えば、取り返しのつかないことになってしまう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする