もう一つ再掲の続きです。
「沖縄の県民は日本に捨てられたと悲観し、~」
2020年01月20日 | 重箱の隅
前回の転載日記、「狼魔人日記」氏のことをご存じでない方もあるか、と。
前後してしまいましたが、別な日記を挙げておきます。
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2013.04/15
同じことが、同じ事実が、採り上げ方一つで正反対のことになってしまう。
「狼魔人日記」氏は他人の言うことに耳を貸さない頑なな「愛国者」、なのか。
それとも、外交官から防衛大学校教授にもなった、「外交のプロ」と言われる孫崎享(まごさきうける)氏の分析が、時宜を無視した自画自賛のものなのか。
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発狂新聞を筆頭に極悪複合体の面々が声高に叫ぶ「4・28屈辱の日」(講和発効の日)を、当時10歳の美少年?だった筆者はリアルタイムで体験した。
当時の筆者は、学校で壁新聞を作る係りだったため毎日の新聞には目を通していたおませな子どもだった。
講和発効の意味はおぼろげながら「祖国日本が一人前の独立国として世界の仲間入りできる日」程度の理解はしていた。
学校の先生方は授業でも「沖縄を返せ」などの労働歌を教えたくらいで、「祖国復帰が沖縄の悲願」ということは胸に叩き込まれていた。
結果として「講和発効は祖国復帰の第一歩」といったような壁新聞を書いたような記憶がある。
当時の沖縄タイムス、琉球新報を見ても「講和発効を祝賀する」といった論調なので、おそらくその影響を受けたのだろう。
幼いながらも「4・28講和発効の日」を実体験し当時の沖縄紙の論調を知る筆者にとって、全沖縄で祝賀した「4・28講和発効の日」を突然降って湧いたように「屈辱の日」などと叫ぶのは理解できない。
ましてや県知事までもが、天皇皇后両陛下が参加される式典への招待を政治的理由で出席拒否するなどとんでもない話である。
沖縄2紙は例の通り一部の識者談話などを利用し、講和発効の日を「屈辱の日」と捉え、県民の総意などと騒ぎ立てているが、これも「一犬虚に吠え万犬これに和す」の類である。
虚に吠える犬を尻目に「不都合な真実」を伝える八重山日報のコラムはまさに寸鉄人を刺すのたとえ通りである。
(ここまで狼魔人日記)
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■八重山日報 2013年4月14日
「1952年4月28日は…」
1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効し、太平洋戦争敗戦国だった日本が独立を回復した「主権回復記念日」。一方、沖縄は本土から切り離され、米軍統治下のまま置かれたため、県民にとって「屈辱の日」とされた
◆しかし復帰後40年を経て、今なおこの日を「屈辱の日」と呼び、政府の式典に反対する声があることに、多くの県民が戸惑いを感じている。なぜなら、ほかならぬ沖縄で「屈辱の日」という言葉そのものがすでに風化しているからだ
◆日本が独立を回復した「4・28」は、まぎれもなく20年後に沖縄が日本に復帰した「5・15」へのスタートラインになった。復帰が達成された時点で、「屈辱の日」という言葉の風化は始まっている。現在、この言葉が持ち出されるときには、当時の県民の思いとは違った、別の意図がある。それは、4・28式典の反対運動と基地問題をリンクさせようとする政治的思惑だ
◆「屈辱の日」の歴史的事実は当然語り継がなくてはならないし、県民の複雑な思いを訴えることも必要だ。だが現在、本土の人たちに向かって「屈辱の日」だと声高に訴えることが果たして妥当なのか。屈辱感は他人に強要するようなものではない。県民の1人として、もっと慎ましさを求めたいと思うのだが。
(ここまで八重山日報)
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(《 》内は孫崎氏の文。以降は狼魔人氏による要約文)
《 天皇メッセージ
私は著書『戦後史の正体』で「マッカーサー元帥のための覚書1947年9月20日)を紹介した。
これは1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から驚くべき文書を発掘し、雑誌『世界』で発表したものだ。
宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問代理ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えている。
「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。
(略)
さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」 》
孫崎氏は天皇メッセージに加えて、江戸時代の薩摩の琉球侵攻、さらに明治政府の琉球処分に言及し、沖縄と中国の関係強化による「経済自立」を説いて、今後沖縄独立論はますます盛んになると言うのだ。
(以下略)
「昭和天皇を糾弾!沖縄タイムスと孫崎氏が」
~狼魔人日記~より
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/d375028a837c6fc7b9e...
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天皇と吉田茂はマッカーサーに全幅の信頼を置いていた。
それが、突然のマッカーサー更迭に直面することになった。
「健康の秘訣は人を食うこと」、などと、人を食った発言をしていたさすがの吉田茂も、大きなショックを受けた。
代わりに来たダレス国務長官は
「司令官が代わってもGHQの政策に何ら変更もない」
と吉田を説得しようとした。
しかし、吉田はすっかり投げやりになって、開催地の希望場所を問われても答えもせず、
「誰が全権か、分からん。自分がなるかどうかもわからない」
と全く気のない返事をする。
これに対するダレスの言葉。
「講和条約に関する日本政府の立場を君(吉田)は誤解している。この件は米国政府が義務からではなく、行為と善意をもって進めているので、日本政府は相談を受けるだけの資格しかないのだ」
これ、
「米国は飽く迄も善意でやっているのであって、本来は全く日本に発言の権利などないのだ!」
と言ってるわけです。
こんな状態での「講和会議」です。
これが会議の開かれる、僅か五か月前のことです。
という事は、マッカーサーに11回も会って、沖縄を
「日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだ」
と、天皇が要請したって、
「日本政府は相談を受けるだけの資格しかない」
わけですから、アメリカは本来、GHQの計画通り、沖縄、小笠原を軍事占領後は信託統治領として、半永久的に独立させず、支配し続けることもできたわけです。元々はそういう計画でした。
それを「潜在主権」という形を採ることで、つまり、日本の方から
「『占領』を続けて下さい」
と積極的に言う事で、却って、主権の存在を明らかにし、米国に永久支配をさせない、という仕掛けを作った。
それは天皇とマッカーサーの会談でしか成立し得ないことだった、ということを、どう見るか。
日本の独立のための「質草」か。それとも(意見を言う)資格のない日本が沖縄を奪還するための奇跡の一手だったのか。
これを考えれば、敗戦の翌年、昭和21年の「日本国憲法制定」が、「国会で承認された」から、「天皇の御名、御璽がある」から、「民主主義に基づいて樹てられた正当なもの」である、なんて言われたって
「えっ?どこの国の民主主義?日本じゃないよね。アメリカの、でしょ?」
ってなりますよ。