CubとSRと

ただの日記

日露戦争のミカタ(前)

2021年10月31日 | 心の持ち様
 「やっぱり朝日の社説は奥が深い」

 アルゼンチンの観戦武官ドメク・ガルシアは装甲巡洋艦「日進」の艦橋からロシア艦隊が日本海に没していくのを目撃している。
 彼の観戦記には戦いを前に甲板を洗い、自身も沐浴し、清潔な着衣に改める日本人将兵の戦争マナーが驚嘆の言葉で綴られている。
 彼の祖国の海軍も、日本艦隊と間もなくまみえるロシア艦隊も、戦いではどうせ汚れるのだからと汚い服に着換えたものだ。
 それで被弾負傷すれば確かに要らざる感染菌にまみれることになる。

 冷静に戦に備える日本人を見ていて「ふと祖国の海軍にいた先住民水夫を思い出した」という件(くだり)がある。
 過去形なのは19世紀末にロッカ将軍が国家近代化を唱え、国中の先住民を皆殺しにしてしまったからだ。
 昨日まで一緒だった水夫も含め、黄色い連中を駆除することが近代国家の体裁だと信じていた。
 「白いアルゼンチン」を実現したロッカはその功績で大統領に就任した。
 隣邦もそれに倣った。ウルグアイは白人度100パーセントにまでもっていった。

 この7月、南米を訪れたアルゼンチン出身のフランシスコ法王は15世紀以降にスペイン人が行った先住民虐殺に触れて「謙虚に謝罪したい」と言った。
 それがつい100年前までの法王の祖国で再現されていたことは黙っている。
 同じ100年前、米国のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで第7騎兵隊が女子供を含む最後のスー族400人を皆殺しにした。
 これで2世紀に及ぶインディアン殺しはほぼ終わり、第7騎兵隊は連邦議会からインディアン駆除の功で勲章を受けた。

 カナダでは軍だけでなくキリスト協会も先住民淘汰を主導した。
 ハーバー首相の謝罪演説によるとカナダでは19世紀中ごろからイヌイットなど先住民の子供が協会の寄宿舎に強制隔離され、教育の名の下に虐待され、緩慢な人種と文化の淘汰が進められた。それが最近まで続いていた。
 子供たちはキリスト教と英語を強制され、先住民の「汚い言葉」を使うと凄まじいリンチを受けた。隔離総数は15万人。うち5万人が寄宿舎内で殺されたという記録がある。

 (続く)


  高山正之著 
  変見自在
 「朝日は今日も腹黒い」より
  新潮文庫 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何だか途中から「日露戦争のミカタ、って?」みたいになってますが、これ、私が勝手につけた題名ですので。
 勿論、本来の題名は「やっぱり朝日の社説は奥が深い」、です。
 「ん?それも意味が分からん。第一、『朝日』がまだ出てこない」

 
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「一事が万事=神は細部に宿る」

2021年10月30日 | 心の持ち様
 転載をもう一つ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 朝鮮というのは「儒教の国」、でしたね。「儒学が盛ん」、ということではなく。

 儒学は、両班(と言っても厳密には文班だけ、でしょうけど)は学び、また研究したんでしょうが、残り九割の庶民はそんなことをすることは許されなかっただろうし、する気も、その能力もなかった。無学文盲なわけですから。

 でも、儒教の「礼法」は朝鮮の風土、国情に合わせて変容させられながらも、文化として伝えられ続けてきた。だから「朝鮮は儒教の国」、です。

 つまり「何だか分からないけど昔からそうなってるんだよ」で、ずっと伝えてきた。
 ちょっと考えれば分かることでも考えることをせず、「それが当然」、で、でも伝えるだけは伝えてきた。
 皮肉っぽく言えば「旧来の陋習」というように批判的に見る意識もなかった。ただただ、とにかく伝え続けて来た。何しろえらい「孔子さま」の教えですからね。
 そんなだから一般的に言う「形骸」となってしまっていただろうことは、想像に難くない。
 脱線しますけど、この捉え方と「孔子朝鮮人説」は同根、でしょうね。理解能力の範囲からすれば。

 儒教では、目上の人の前で一緒に食事を摂ることは、基本的に「ない(できない)」のだけれど、盃を賜ることはある。
 しかし、その時、目上の人と同等に飲むところを見せるのは失礼だ、という事で、飲む口元を隠すのが礼儀だとされた。
 日本だって、明治になっても主人と使用人は一緒に食事、なんてなかったし、「盃を賜る」ことも、まず、なかった。たとえあってもその場ではなく、使用人へは別の場で与えられた。
 
 だからここまでは、日本も朝鮮も同じです。しかし、ここからが違う。
 日本では「大口を開けて物を食べるのは卑しいこと」とされていましたが、目上の人がその場に居る居ないにかかわらず、「口元を隠して食べろ」なんてことは言われなかった。
 日本の方が野蛮なんでしょうか?

 そんなことはない。それどころか日朝間ではその飲食時の心の持ち様に天と地ほどの開きがあります。
 日本で「大口開けて食べるのは卑しい、下品なことだ、失礼だ」とされるのは、目上の人に対してではありません。目上の人の有無は関係ない。
 あれは「食物に対して失礼だ」、ということでした。
 他の命をいただいて自分の命とする。だから、「いただきます」、と言う。仏教も神道もそこは同じです。
 「命をいただくのに、だから『いただきます』と言うのに、そんな下品な、卑しい食べ方は失礼だ」、と。

 けれど朝鮮の「口元を隠して飲む」というのは、目上の人に対して失礼だ、というだけなんですから。
 本当に失礼だと思うんなら、有り難く受けても口をつける振りだけするか、いただいても別の間に下がって飲むかするものです。
 しかし、朝鮮の「儒教」では、礼法として口元を隠して飲む形を作り上げた。
 略式の礼法なんでしょうが、それで足れりとする考え方からは、「仁」の教えは全く見えてきません。

 「礼楽(礼法と奏楽)」という、「形の学び」の中から、その品位、気位、境地、更には豊かな感情等といった、「形のない、見ることのできないもの」を知り、己がものにするのが儒教の筈です。
 しかし朝鮮では、その形を略して(おろそかにして)学び、「そういうもの」、としてただの慣習にしてきた、ということになりましょうか。

 その朝鮮式礼法を民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せた。
 これは小泉進次郎議員が行く先々で、開口一番、その土地の方言で話し掛ける、そうやって土地の人の心をわしづかみにすることと似ています。
 実際、そっくりでしょう?
 でも、これ、根本からして、全く違いますよね?

 進次郎議員は秋田に行けば秋田の、鹿児島に行けば鹿児島の方言で話し掛ける。決して秋田で鹿児島弁を喋ったり、鹿児島で秋田弁を、という事ではない。
 当然「その場に合わせ、文化に合わせて使う」ことで衆人の心をつかむこと、それが目的です。

 つまり、「民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せ」ること自体は何も問題ではない。却って代議士なら褒められるべきことです。
 何故って衆人の代表として発言するわけですから人心を収攬する術を心得ている方が良いに決まっている。あまり好きな言葉ではないのですが、「人たらし」のテクニックがある、というのは絶対に有利なんですから。


 ここまでは、だから、良い。
 けれど、民団の会合ではなく、「国会で朝鮮式の水の飲み方をする」、というのは一体何を意図してのことか。目上の人ばかりだから?そんなことはない。
 第一、代議士、「士」、として演台を前にしてるんです。日本の国会、日本の代議士として日本の在り方で堂々と飲めばよい。
 「衆人の前で失礼だ」、と思うんなら飲まなければ良い。盃を賜ったわけではない、飲むのまないは自由でしょう。

 ということは「一体、何を意図してのことか」、なんて愚問で、実は「何も考えてない。ごく自然にやってしまった飲み方だった」と断じてもよいのではないでしょうか。
 ●「朝鮮ではそうやって飲むのだ、と教えられ、やって見せたら褒められた。それで気を良くしてやっていたら、クセになった」
 ●「そういう家庭環境の中で、或いはそういう社会環境の中で生まれ育った」

 繰り返しますが、良いんですよ、別に。何の問題もない。
 けれど、国会でそれをやったとしたら、それは既に代議士として不適格だ、と告白しているようなものです。
 「場を弁えよ」、なんかじゃありません。もっと重大なことです。
 国政について論議する場で、無意識にそういうことをする。無意識であるからこそ「一事が万事」、何気ない挙動に本心は表れる。

 真剣に国政について論議するべく選出された「選良」が、衆人の歓心を買うがためにやったことを、何の気もなく国政の場でも、やってしまう。こんなこと一つ気配りができない、つまり、詰めて考えられないで、一体どれだけの論議ができるのか、ということです。
 汚職、女性問題などで醜聞を流しているけれども、優れた意見を述べる議員。
 何も問題を詰めて考えられない議員。どちらが国にとって有用か、です。


 2013.02/17 (Sun)
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ポリエステルのシャツを着るな(「一事が万事」に関連して)

2021年10月29日 | 心の持ち様
 以前に書いた日記です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 鎌倉シャツという会社があるそうですね。
 「カンブリア宮殿」にも出たことのある貞末良雄という人の会社です。
 (見てないんですが。)
 高速道路の照明灯の設計をしていたのが、VANに転職、という相当面白い人みたいで、それが今度は夫婦二人でシャツの製造を始め、今や年間30万着を販売しているとか。

 昨日偶然、氏のコラムを目にすることができ、ちょっと読んだだけなんですが、でも、こんな人こそ理想の日本人というべきなのかもしれないなと思わされました。
 

 ・・・とまあ、こんな風に書き出したんですが、氏のことについて思ったことはまた後ほど、ということで、今回は氏のコラムに寄稿されている出石尚三氏の文の一部を転載します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~煎じつめて言うなら、どのような気持で会社に行くのか。どのような気持で仕事に相対するのか。

仕事の品質とシャツの品質とは、大いに関係がある。まさにシャツは「男の心意気を示す」ための重要な部分であるのだ。

シャツの品質。シャツの品格。シャツの雄弁性。

しかしそれは難しいことではなくて、とりあえずコットン100%のシャツに袖を通してみることからはじまる。まずはそれからだ。
わずかシャツ1枚のことではあるけれど、人は皆誰でも、ポリエステルのシャツを着ている時と、コットンのシャツを着ている時とでは気分が違う。これはもう論より証拠、一度実際に着てみると、すぐにその違いに気づく。

ポリエステルのシャツに甘んじることは、自分自身に妥協する結果となる。「どうせオレはどこにでもいるフツーの男さ」と考えはじめないとも限らない。これは大いに危険なことであろう。
一方コットンのシャツを着ると、自らを大切に思う心が生まれる。誇りと言って良いかも知れない。誇りを持って働く男と、そうでない男とでは、どちらが仕事の品位、品質、品格を保てるか。これはもう考えるまでもないだろう。

「どうせオレは...」と考えることは、自分自身に対して失礼であり、仕事に対して、会社に対して失礼である。それこそ礼儀を欠くことになる。
そのような諸々の礼儀を欠かないために、「ポリエステルのシャツを着るな」と言いたいのだ。おしゃれ云々としての発言ではない、とお断りした理由はここにある。
いや、おしゃれ以前の、もっと根源的な、礼儀作法と連なることであるからこそ、山口瞳同様、白い目で見られるであろうことを覚悟してまで、申し上げているのである。


  出石尚三のファッション論考
 「人生の品質を高めるために -ポリエステルのシャツを着るな-」よりー

   http://www.shirt.co.jp/clm2/clm2/06.php

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 何とまあ大袈裟な、と思われましたか?

 「ポリエステルのシャツに甘んじることは、自分自身に妥協する結果となる。」
 それは自分の可能性を否定し始めることにつながるかも知れず
 そして
 「これは大いに危険なことであろう。」

 つまり、
 「ポリエステルのシャツで十分と思っていると、大いに危険である。何故なら、ポリエステルのシャツは人間(この場合はサラリーマン、又は勤め人)を駄目にするからである」
 と言っているようなもの。
 いや、そこまで極端なことを言われているわけじゃないんですけどね。ポリエステルが悪いんじゃなくて、「ま、いいか」といういい加減な心持が問題なんだと言われているわけなんですが。

 でも、大袈裟ですか?やっぱり?
 けれど、私は氏の言われる通り、本当にそうだ、その通り!と思います。

 「自分自身に妥協する」
 というのは
 「いくらやったってオレの力はこれがマックス。ないものねだりはしないでくれ」
 ということです。限界を自分で設定している。

 言い方を換えれば、
 「人間の努力なんて高が知れてる。努力したって結果に大した違いはない。各々に天分、才能があって、それを持って生まれていないものは何をやってもダメなんだ」
 と言ってる様なもの。
 そして更に「努力したってしょうがない。才能、ないんだから」
 なんてことにも。

 でも、「自分なりに」、でなく、本当に何か必死になってやったんですかね。
 「才能、なかったんだから」と断言できるほどに。

 「どうせオレは...」と考えることは、
 ①自分自身に対して失礼であり、
 ②仕事に対して失礼であり、
 ③会社に対して失礼である。
 それこそ礼儀を欠くことになる。

 これ、反対の順番で見ると、まずは 
 「オレみたいな者を雇ってる会社なんか」(大したものじゃない)」という考え方は会社に失礼だ。
 「オレみたいな者がやる仕事なんか(大したものじゃない)」という考え方は仕事に失礼だ。
 「オレみたいに能力のない者なんか(大したものじゃない)」という考え方は自分に失礼だ。何故なら本気でやりもしないで自分を評価するという最低なことをしているのだから。
 小(自分)から大(会社)の順で見たらいい加減に見てしまえるけど、会社を先に見るといい加減に見られないでしょう?これは日本人の誇れるところ(蛇足ですけど)。

 会社をバカにし、仕事をバカにし、自分をバカにする。そこから、何が生まれてくるだろうか。
 会社を大事だと思えば、社名に泥を塗るようなことはしない。
 仕事を大事だと思えば、いい加減な取り組みはしない。
 自身の一生は自分だけが、それも一度だけ歩むもの、と思えば、いい加減には過ごせない。
 
 「ポリエステルのシャツを着るな」というのはその心意気の有無を問うているわけです。つまり、「一事が万事」なんだと。

 「礼儀」を欠いてはならない。会社にも仕事にも自分にも。
 ということは、外に対してもそうでなければならない。

 「相手を認める」ということはそういうことです。
 闇雲に受け入れることでもなければ、言いなりになることでもない。
 ましてや服従することなんてあってはならない。
 けど、だから全面否定、ということではない。


 どうも我々は、自らを一顧だにせず、コットン100%のシャツを着ている、と思い込み、その実、ポリエステルのシャツを着て、気づかず毎日を過ごしているような気がする。

 2012.04/17 (Tue)
 
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やっぱり「一事が万事」 (後)

2021年10月28日 | 日々の暮らし
 昨日の「戦場にかける橋」の続きです。

 「連合国軍はインド兵らに戦わせておいて、彼らが負けると自分らはすぐに降伏した。そして「キリスト教では労働は罰」と言って、ただ捕虜生活を優雅に過ごそうと思っていた。」

 「本当かね?」、と思ってしまうのは私が日本人だからでしょうか。
 実際のところ、捕虜にすると食わさなきゃならないから、敢えてそうせず、見殺しにしたり皆殺しにしたり、というのが世界の常識だったような気がするんですが・・・。
 だから7万人もの捕虜を養うなんて大変なことだし、「労働は罰」なんて太平楽なことを言ってたら、いつ「病気のため」とか「事故のため」に死亡、なんてことにされない(ならない)とも限らないと考えるのが普通じゃないでしょうか。
 「戦場にかける橋」は大ヒットして、「猿の惑星」は日本人はまさかそんなこととは思いもせず、喜んでみていた。
 けれど、「パール・ハーバー」では明らかにおかしいという意見が出てくるようになった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (「パール・ハーバー」の興行収入は大したものにはならなかった。)

 それでも欧州市場を考えれば侮日ものはほしい。
 ハリウッドが次に目を付けたのがローラ・ヒレンブランドの小説「Unbroken(アンブロークン)」だった。
 捕虜になった元米国五輪選手が金属のバックルで殴られて失神するとか丸一日収容所仲間に殴られ続けるとか際限ない苛めを受ける。
 そして終戦。帰国する旅の途次、列車の窓から焼け野原の広島を見て「心からの清涼感」を感じる。

 しかし日本兵のズボンは紐でとめる。下士官でやっとズックのバンドがつくがバンド止めはアルミ製でバックルなどない。
 いやそれが嘘かどうかは米国人にはどうでもいい。ただ彼らは日本人が残忍であればいい。小説はニューヨーク・タイムズで14週もベストセラーを続けたし、原爆も正当化できる。

 映画化が望まれ、なんとアンジェリーナ・ジョリーがメガフォンを取ることが決まった。「猿の惑星」並みのヒットが予感された。
 撮影は快調だった。南太平洋をゴムボートで漂流する主人公を鮫が襲い、さらに零戦が繰り返し機銃掃射を加える。

 日本人はプリンス・オブ・ウェールズの乗員を助ける僚艦を攻撃しなかった。駆逐艦「雷(いかずち)」はスラバヤ沖海戦で沈めた英駆逐艦乗員422人を救助した。
 恩を仇で返す描写だが、零戦はゴムボートに穴すらあけられず消えていく。
 馬鹿な描写は捕虜収容所でも続く。収容所長は佐官級なのに軍曹が所長を務める。この軍曹がさんざん酷いことをしながら戦犯にもならない。牛蒡(ごぼう)を食わせたとかで死刑を宣告された者もいるというのに。

 日本人への偏見と嘘で固めた彼女の映画は昨年、米国などで封切られたが、日本では前評判付き映画としては史上初の上映なしで終わった。
 朝日新聞が「来年、反日専門館で公開」と嬉しそうに伝えたが、日本人も少しは他人の悪意に気がつくようになったようだ。

 ブルース・ウィルスも支那製の反日映画に出る。夢は見ない方がいい。

 (2015年11月5日号に掲載)

  高山正之著 

  変見自在
 「朝日は今日も腹黒い」より
 
  新潮文庫  

 


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やっぱり「一事が万事」 (前)

2021年10月27日 | 日々の暮らし
 ハリウッドが作る「侮日映画」のあさましさ

 もはや戦後ではない昭和30年代初め、「戦場にかける橋」が封切られた。
 頭のいい英国人捕虜アレック・ギネスが頭の悪い日本軍にクワイ川に架ける橋の作り方を教えてやるといったストーリーだ。
 実際はタイとビルマ間約400キロの鉄路建設は1万5000人の鉄道部隊が設計施工した。橋はクワイ川のほか600もあった。
 
 この工事のお手伝いをしたのが約7万の連合国軍捕虜だった。開戦直後、自分たちの盾にしたインド兵らがやられるとすぐ降伏し、収容所でただ飯を食ってきた連中だ。
 お礼奉公と思えばいいのに「キリスト教では労働は罰」とか言い、日本人にやらされたのを今でも恨んでいる。

 早川雪洲以下の日本人はひたすら愚鈍で残忍に描かれたが、映画はなぜか日本で当たった。街には随分長い間クワイ河マーチが流れたものだ。
 同じころ封切られたユル・ブリンナーの「王様と私」が王家を侮辱しているとタイで上映禁止になり、ジョディー・フォスターのリメイク版も含め、いまだに禁が解かれていないのと好対照を見せる。

 日本でのヒットは米国の10州分の興収に相当するからハリウッドも喜んだ。
 おまけに侮日ものは欧州でも喜ばれる。欧州諸国はあの戦争で植民地を失い、昔の貧乏国に逆戻りさせられた。英国はわずかなカネを貰うために王室も総出で習近平を大歓迎する屈辱にも耐えている。
 
 で、ハリウッドは「戦場にかける橋」を書いたピエール・ブールに続編を頼んだ。それが猿、つまり日本人がゴリラ(黒人)を部下に白人を奴隷にするという「猿の惑星」だった。
 日本人は他人が悪意を持つなどとは考えもしない。無邪気にこの映画を楽しみ、11州分もの興収を上げた。

 その流れが「パール・ハーバー」で少し変わったと言われる。映画はいつも通り「野蛮な日本軍機」が病院を爆撃したり逃げる民間人を殺したり。
 しかし日本軍機は逃げる民間人を撃たない。逃げる石原慎太郎少年に機銃掃射したのは米軍操縦士だったではないかと。ネットにこの映画のスレッドが立ち、興収は米国の1州分にも達しなかった。

 (続きは明日)



  高山正之著 

  変見自在
 「朝日は今日も腹黒い」より
 
  新潮文庫  

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「ティファニーで朝食を」、だって「ふざけるな!」と思ったけど、こういうことなんですよね、何かにつけて。
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