CubとSRと

ただの日記

治療

2022年07月31日 | 日々の暮らし
 7月20日(水)

 2時まであと10分、となって慌てて寝る。
 しばらくして用足しに起きる。随分寝たような気がするが時計を見ると2時40分。1時間も寝てない。

 次は4時前。もう起きていようか、とも思ったが治療予約の時間は9時半。
 あと5時間半。無理やりでも寝たら十分に睡眠が取れて、病院へ向かえるだろう。5時間半も寝るとなると、まず寝過ごしの心配はない。

 で、改めて寝て目が覚めたのは6時過ぎ。起きたのは7時で、この時間なら予約時間には十分間に合う。
 「8時に起きれば良いか」と思っているうちに、「バナナ2本を食べて歯を磨いて~」という予定が実行できなくなり、9時。

 家を出たのが9時15分過ぎ。到着したのは20分前後。予約の時間は9時40分。
 ゆっくり週刊誌を、と王林のグラビア記事を見ていたら、治療開始となった。

 麻酔を打たれ(塗布?)、効いているとも思わないが、とにかく口の中が酷く苦くなる。そのうち、また注射を「ちょっとちくっとします」と言いながら打たれた。

 ・・・・筈なのだが注射を打たれた痛みが全くない。かと言って口の中が痺れていて感覚がない、というわけでもない。なのに躊躇なく歯の被せ物を引き剝がすようにガリガリ取ってしまう。

 その頃になると、時折り神経に触るようなピリッとする痛みで顔をしかめることになるのだが、痺れているという感覚は、相変わらず、ない。
 感覚がマヒしているという感覚(?)がないから、ピリッとだろうがビリっとだろうが辛抱はできたのだけれど、例によって仰向けになって頭が低いから、唾液が逆流して息ができず、溺れたようになって、これは苦しい。鼻で呼吸していれば大丈夫なのだろうが、食道と気管の境目が妙に気になる。ほんの一瞬でも間違えたら、気管に入る(ような気がする)ので、溜まった唾液をとにかく無理やり飲み込もうとする。
 エジプトやメソポタミアの神殿のように盗賊から財宝を守るために色々な仕掛けがしてあって、そいつをかいくぐりながら宝物を手にしようとするインディ・ジョーンズの気分。

 やはり奥歯の被せ物の下端辺りが虫歯になっていたということで、頭が揺れるくらい相当に削られた(らしい)。舌で触ってみたら大きな穴が空いたようになっている。
 それでも、昨年一年と今年に入ってからでも定期的に通っているから、神経まで取ることになる前に治療ができて良かった、と言われる。

 とは言え、今月中にもう一度、さらに八月の半ばに終われば順調、ということらしい。

 生きていれば必ず不具合が出てくる。道具や機械だって使っていれば必ず不具合が出てくる。大事に上手に使っていても不具合は出てくる。人間も道具も機械もメンテナンスフリーなんてことはあり得ない。

 そこで「不具合が出た時どうするか」、だ。
 専門家に直してもらうことが一番だけれど、まずは「気にする」ことなんじゃないかなと思う。「気にする」から次は「気を付ける」ことになる。気を付けてもどうにもならないと「気が付く」。そこに至って専門家に頼む。
 ・・・・で、「時、既に遅し」、というのが一番怖い。

 でも、不具合が出てきても気にしない。気にしないから何も気を付けようとしない。何も気を付けようとしないから、不具合の塊になってしまったものを専門家に丸投げする。
 ・・・・で、「時、既に遅し」、というのは、もっと怖い、な。


 

 

 
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「南京事件」はもう効果が薄れてきた(使えなくなった)から、次の一手を

2022年07月30日 | 心の持ち様
読者の声 どくしゃのこえ

(読者の声2)シナ事変の常識
1.事変の原因について
 いまだに盧溝橋事件が発端という日本人が多い。しかし新しい歴史情報がある上、ソ連の自滅と今回のロシアの侵略行為により戦後の歴史観の縛りがなくなったから、合理的に歴史の真実に迫りたい。盧溝橋事件を調べるには、事件そのものよりも、当時の蔣介石と日本側の状況を知ることが第一だろう。

2.蔣介石の対日戦争準備
 蔣介石は事件直前の1937年6月時点で、すでに対日戦用の軍備として兵士百万、軍馬十万頭の半年分の食糧を準備していたと記している。
 当時支那にいた日本軍は義和団事件の国際PKO部隊であり、日本の他に米英仏伊軍も北京地域に駐屯していた。それなのに何故か日本軍だけが狙われたのである。
 また蔣介石は上海租界の北方地域には巨大なトーチカ陣地を構築していた。ここに据え付けられた無数の水冷式重機関銃はソ連製だった。そして西北の蘭州には、ソ連がウルムチとウランバートル経由で対日戦争用の大量の戦闘機、爆撃機、兵器、弾薬、赤軍軍事顧問団を集結させていたのだ。

3.日本人の誤った歴史観
 戦後、蔣介石の右腕と言われた陳立夫が、日本の歴史作家達に「シナ事変を演出したのは、ソ連だ」と述べた。日本人は、シナ事変を日本の軍閥が起こした戦争と思い込んでいたので、意味が分からなかったという。まさに戦後の社会党訪中団が毛沢東からシナ事変のお礼を言われて戸惑ったのと同じである。
 毛沢東の好きな格言は、「馬鹿は大石を持ち上げて自分の足の上に落とす」だったというから、内心嘲笑していたのだろう。日本人は進歩がない。

4.支那事変の正体
 支那事変とはスターリンがナチスドイツの攻撃に備えて、東西挟撃を防ぐために、東部国境の反共勢力であった蔣介石と日本を戦争させ無力化を図ったものである。
 そのためにスターリンは1935年秋毛沢東に伝書使を送った。指示を受けた毛沢東は張学良を使って1936年12月に西安事件を起こし、蔣介石を捕らえて降伏させ国共内戦の停止と対日戦に同意させたのである。
 そして蔣介石は半年かけて対日戦争の準備を完了し、小競り合いを始めたのである。それが盧溝橋事件である。
 これはその後の廊坊事件、広安門事件、通州事件、大山大尉遭難事件と続き、8.13の蔣介石の上海租界奇襲となるのである。これを見ると全部計画されていたとみるべきであろう。

5.日本の対応
 こうした7月の支那の急変をみて、異常を感じた陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長は、1937年7月19日、杉山陸相に面会し、在支日本軍と邦人の全面南部引き揚げを提案した。石原大佐は以前支那全土を見て廻り、秦嶺山脈を踏破したというシナ通であったから、日本が広大な大陸に入りこめば国が破滅すると恐れたのである。
 しかし杉山陸相は梅津次官等が蔣介石を軽視し、シナの権益を守ろうとして反対したので、石原の案は採用されなかった。そして日本は蔣介石の挑発に乗り、亡国に至るスターリンのワナに落ちていったのである(詳しくは拙著『中共の正体』<ハート出版>をご参照ください)。

 支那事変は古い戦争だが、日本は被害者なので、因果関係をよく知っておく必要がある。戦記物を扱う古書店にダンボール箱があったが、その送り先は上海だった。中共は、南京事件には手垢がついて日本人が相手にしないので、別の事件をでっち上げる用意をしているのではないか。支那事変は終っていない。
  (落合道夫)




「宮崎正弘の国際情勢解題」 
      令和四年(2022)7月29日(金曜日)弐
          通巻第7418号 より
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雨上がり

2022年07月29日 | 日々の暮らし
 7月19日(火)

 昨晩からの荒れは、結局、今日午前中まで残る。
 風は収まったように思ったので、7時頃には居間も二階も雨戸を開けた。
 何しろガルバリウム鋼板というやつで作られているのだろうか、薄いがいかにも丈夫そうな雨戸は欠点もある。強い風が吹くとうるさくてたまらない。
 吹き殴りの雨だったりすると、スネアドラムを遠くで叩き続けているような音がして、これも又うるさくて堪らない。

 吹くのを忘れたかのように収まった風であったが、やっぱり時折思い出したように強く吹く。
 それでも家が揺れるんじゃないかと思うほどの連続した強風は、深夜、日付が変わってからの1~2時間だけだった。
 その数時間は雨戸から室内のドアや襖は全て閉め切って小さな空間を作ることで空気の振動を抑え、大雨と大風が通り過ぎるのを待つしかなかったため、湿度と気温の高さには閉口した。
 とにかく喧しいのと蒸し暑いのとで寝るに寝られない。

 2時頃やっと寝て、今朝は6時過ぎに起きる。
 風は収まったが山の尾根。例によって雲の中。辺りは全く見えない。これで次第に好天になるのか、それともこれから大荒れになるのか素人には分からない。
 そして何より、窓を時折り強い雨が叩く。昼前後が特に激しかったのかもしれない。
 
 夕方になって、この日初めて瀬戸内海が少し見えた。妙にうれしくなった。
 
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四回目その後

2022年07月28日 | 日々の暮らし
 接種翌日。
 
 予想通り、左肩の注射をした箇所を中心に直径十センチくらい、筋肉痛のような痛みがあった。少しだが頭痛もある。
 頭痛にワクチン注射との因果関係があるか否かは分からない。冤罪の可能性が高い。
 時期が時期だけに暑苦しくてなかなか寝られず、そのために寝不足から頭痛が、ということは十分に考えられるし、いや、その方が可能性は断然高い。

 とにかく前日から変わったことと言えばこれくらいのもので、あとは別段体調に不具合はない。
 いや、「倦怠感」があるかな。やっておこうということが(この日記も含めて)いくつかあったんだけれど、物憂くてなかなか取り掛かれなかった。
 「それはいつものことやろ。何、言うとんねや」
 、と自分で突っ込んでおく。

 
 とにかく、翌々日。
 左肩の筋肉痛のような痛みはなくなった。
 ・・・と言いたいところだが、本当にまるで筋肉痛で、何かの拍子に腕を動かすと、特定の方向に動かしたときだけ僅かに筋を引っ張られるような痛みがある。痛みがあるというより昨日の痛みが残っている、というべきかもしれない。一方向だけ、だ。

 というわけで、今回も二日間で副作用というやつは消え去った。
 ここで安心してないで「今度は夏風邪注意」。暑いからな~。
 以前(20年余り前)みたいに38度前後の発熱が一週間近く続いたりしたら、年相応に相当に衰弱してしまうだろうから。

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特攻隊への畏怖と敬意は、~

2022年07月27日 | 日々の暮らし
(読者の声1)
 貴誌前号の書評。『世界が語る神風特別攻撃隊』「特攻隊への畏怖と敬意、世界の著名人は精神を貶める真似はしなかった。日本の偽知識人が戦争史観を歪ませ、特攻隊精神を踏みにじった」。
 
 このことは60年近く前に、南米のアルゼンチン・サルタ州のエンバルカション市の郊外で大規模蔬菜栽培のトマトを主に栽培して、首都ブエノスに出荷していた農場支配人時代に、農場は電気、水道、テレビも無い時代でしたが、町でその頃は白黒テレビで、町の社交場のカフェー兼バー、レストランも併せて機能している所に寄ると、そこの主人が第2次大戦のドキュメンタリー記録映画で、『神風特別攻撃隊』の番組があると教えてくれ、見に行きました。

 当日、テレビの近くに陣取り、ビールでも飲みながら始まるのを待っていましたが、カードをする者、玉突きをプレーする者、雑談に夢中の者、食事をしている者、多様の現地人が居ましたが、テレビがドキュメンタリー記録映画を始めると、最初に度肝を抜く様な、特攻機の攻撃の連続で、5分程度画面が連続で轟音とアメリカ海軍の弾幕を潜り、雷撃機が海面すれすれに特攻して、突っ込む画面など、空母に特攻機が炎を引きながら飛行甲板に突撃する画面には、私もショックと、画面の壮絶さに身体が震えてショック状態でした。

 一連の特攻機の攻撃場面が過ぎて、周りを見渡すと、町の現地人たちが、テレビの周りに全員棒立ちで、シーン!と静まり返り、見ていました。
 神風特攻隊員が若い18歳や20歳の若者達であると説明して、彼等の遺書の一節をスペイン語で読んでいた時に、前に座って居た現地人が何人も涙を流して見ているのを知りました。

 祖国を憂い、家族や恋人を守ろうと志願して特攻で散った若者達の英霊が地球の裏側のボリビア国境に近い、辺鄙な街のアルゼンチン人の心と魂を揺さぶって居ると感じていました。私も老いて先も僅かになりましたが、この光景は心に刻まれて、生涯忘れる事が出来ません。その番組の後に、町の住民の日本人に対する印象と対応が違いました。

 私は声を大にして言い残しておきます。
 『特攻隊への畏怖と敬意は、地球の裏側でも、多くの人達が精神を貶める真似はしなかった。』

  (桑港老亀)




「宮崎正弘の国際情勢解題」 
      令和四年(2022)7月26日(火曜日)
          通巻第7414号 
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